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紅の声明

作者:一瀬詞貴
「――――あんた、死ぬよ」
 夢見が悪いのは嫌だからと、紫苑(しおん)は余計な事だと分かっているのに口にした。
「いきなりなんだァ? あぁ!?」
 忠告の返答は容赦のない一撃だった。あっと思った時には胸ぐらを掴みあげられ、紫苑の華奢な身体は軽々と吹っ飛んでいた。男は、地に崩れた彼を、これでもかと続けざまに激しく蹴り上げる。
 天は人の営みなど知らぬ存ぜぬの風にからりと晴れ上がり、嵯峨野の東、太秦には爽やかな春風が吹き抜ける。西北には美しき愛宕山がそびえ、目前には上つ方々の舟遊びの盛んな大井川がゆったりと流れる。その上にかかる法輪橋を往来する人々の歩みも穏やかで、時にちらちらと紫苑らの方に目をやる者もあったが、基本的には見て見ぬ振りだった。
 紫苑はなんとか身体を丸めて腹部を庇い、痛みに堪えた。またやってしまった、一七にもなるのに何故こうも学習能力が低いのだろうと、自身にうんざりする。
 と、不意に拳と蹴りの応酬が止まった。
 顔を上げれば、男の腕を背後からむんずと掴んでいる者がある。
「――――ンだよ、お前……っ」
 苛立たしげに振り返った男だったが、その人物の身なりを目にするなり、ぶつくさ文句を口にしつつも逃げるように去っていった。
「……ったく。女子(おなご)に拳を振るうとは、正気の沙汰とは思えんな。大丈夫か、お前」
 そう言って、手を差し伸べて来たのは、精悍な顔立ちの男だった。活き活きとした瞳は少年を思わせる輝きを湛え、その一挙手一投足からは優しさが滲む。立烏帽子にくつろいだ風の直衣姿は、彼の高い身分を示していた。
「俺は男だ! くそ! 離せよッ」
 紫苑が忌々しげに手を振り払い圭頭(なええぼし)を拾って立ち上がれば、一瞬目を瞠った彼は勢いよく手を顔の前で合わせるなり頭を下げた。
「……すまなかった!」
「は?」
「余りに綺麗な顔をしていたから女子と誤ってしまったのだ。悪かった」
 紫苑はまじまじと男を見つめた。身分の差など一目瞭然、小汚い麻の直垂姿の自分に、詫びなど不要だと一見して分かるだろうに。
「…………あんた、頭、大丈夫?」
「ん?」
「頭下げるとか、正気の沙汰じゃない」
 紫苑の指摘に、彼は首を傾げる角度を大きくして腕を組むとうん、と唸った。
「礼を失した。だから頭を下げた。何か間違っていたか」
 なるほど、と紫苑は頬を引き攣らせる。
「…………出世できねぇだろ、あんた」
 思わず口走った事に、あっと口を押さえるも時すでに遅し。男は目をぱちくりさせて紫苑を見ていた。雰囲気に流され、つるっと本音を言ってしまったが、今のは不敬罪で斬り捨てられても文句は言えない。とりあえず謝ろうと口を開けば、男は紫苑の手から圭頭を取り上げ、頭にそれを乗せてくれると笑った。
「その通りだ。三四にもなるのに嫁もおらんしな。お前、なかなか目敏いなァ」
 子供扱いする男の手を、鬱陶しげにを叩き落とし、紫苑はさっと背を向ける。
 行く方向が同じなのか、男が並んで歩いてきた。無視を徹底して先を急げば、
「ところでお前、何故殴られた?」
 唐突に投げかけられた問いに、一瞬、紫苑は息を引き攣らせた。呼吸を整えると、彼は動揺を悟られぬよう、努めて冷静に答える。
「……さっきの男に死ぬって教えてやったんだよ。なのに殴ってきやがった」
「死ぬ……?」
 男が訝しげにする。紫苑はざわりとささくれる心に蓋をして、目線は外したまま、探るように男の気配に意識を傾けつつ、告げた。
「そ。そこの法輪橋、もうすぐ落ちるんだ。で、大勢怪我するんだけど、さっきの男は運悪くね、死ぬ」
「何故、そんな事を……」
「俺には見えるからさ」
 紫苑は待ってましたとばかりに答えた。
「未来……っつーか、人の死期? みたいなのが、俺にはこう目前にね、見える。しかも今まで一度たりとも外れた事は、な――」
 どうせ信じてもらえるはずもない。なのに口にしてしまう弱さ、そして相手が信じない事に傷つかぬよういくつも防壁を張る自身の小物ぶりに、紫苑は内心自嘲した。と、
「それは大変だッ!!」
「へ……?」
 突然弾けた大声に、驚き顔をあげれば、隣にはすでに男の姿はなかった。
「……どん引いた、って事、だよな?」
 振り返れば、走る男の背が遠ざかる。紫苑は嘆息と供に目線を剥がすように前へと戻すと歩みを再開し……俄に橋の方で上がったざわめきに立ち止まった。訝しげに目をやれば、橋の真ん中で両手を拡げて仁王立ちする――
「――――――あ、あいつ……!!」
「通るな!!」
 なんと法輪橋の中央で声を張り上げたのは先ほど紫苑を助けてくれた男だった。彼は橋をぐるりと取り囲む、迷惑そうな様子の老若男女を、肩を怒らせ牽制していた。
「この橋は落ちる! ……っと、こら、坊主! 渡るなと言っているのが――――」
 その彼の脇を子供が走り去る。慌ててその首根っこを男が掴んだ時、その身体が傾いだ。
「うお……ッ」
 轟音と共に橋が崩れた。響き渡る甲高い女の悲鳴、川面に立つ水柱……紫苑は知れず橋に駆け寄っていた。落ちた橋から飛び退って距離を取った民衆らが束の間の静寂の後、そろそろと川を覗き込む。紫苑もそれに倣えば、
「な、言っただろう。落ちると」
 震え上がる少年を脇に抱えて、男は大笑した。器用な事に右手は木材の残骸にすがりつつ、きちんと烏帽子を頭上で支えている……
 ――これが、紫苑と弓月(ゆづき)直親(なおちか)との出会いだった。そして、紫苑が自身の運命に膝を屈した瞬間でもあった。

* * *

 直親と出会ってから一つ季節を過ぎた長月の昼過ぎ。紫苑は聖徳太子建立七大寺の一、蜂岡寺にいた。桜門から左奥に参道を進み、奥院八角堂が見えると、彼は歩みを止める。
 右手の一角に小さな森林が広がり、そこにはひっそりと一つの社があった。手入れが行き届き、燦々と爽やかな日に照らされる寺の境内とは違い、社は鬱蒼としており、石段などは苔むしている。けれどいつもより念入りに磨かれ、加えて清めの水のまかれた跡などが見えるのは、明日行われる祭のためだろう。
 明日の夜、京にはびこる悪い気を祓うため祭が催される。それは鬼に扮した役者を、僧や見物人が寄ってたかって痛めつけ、追い払うと言うものだ。……その鬼役に選ばれた紫苑は、自分の走るだろう参道をなぞり歩いていた。社から奥院までは目と鼻の距離だった。
「『嘘だったとしても……』」
 紫苑はそうぼやくと目を閉じた。
『私が嘘つきとなじられてしまいだ。だが、命は戻ってはこまい』――耳に清々しい声が蘇る。それは、水から引き上げられた直親に、何故、あのような事をしたのかと問うた時の答えだった。紫苑はそんな彼の態度に酷く苛立ったものの、それ以上の呆れと好意に飲み込まれ、気がつけば彼に懐いていた。
 紫苑は社から奥院までの距離を測りながらじっくりと歩く。院の背後に辿りつく前に、民衆の投げる石で打ち殺されるか。それとも。
「ここにいたのか、紫苑」
 声に驚き振り返れば、直親がいた。
「最近、お前がこないせいで母上の機嫌が悪くてたまらん。私の不機嫌そうな面がいかん、私の顔が怖くて出て行ったのだと詰られる」
 そう言って態とらしく大げさに肩を竦めた彼は、ゆったりとした歩みで紫苑の隣に並ぶと、暫くの沈黙の後、口を開いた。
「……職を見つけたのか」
 その心配げな様子に紫苑は苦笑を漏らす。
「もといた場所(てら)に戻ったんだよ」
 七歳の頃より稚児だった紫苑は今度の祭で「鬼」になるのが嫌で逃げだし、直親の好意に甘え、彼の家に転がり込んでいたのだ。
 当てもなく境内を歩みつつ、紫苑は気まずく黙りこくった直親に話題を変えた。
「そういや、あんた……今度の祭りで奥院後戸(うしろど)の警備を請け負ったんだって?」
 軽い調子で言ってから、紫苑は一歩直親より前に進み出ると、くるりと振り返った。それから先ほどよりも低い声音で、告げる。
「どーせ押しつけられたんだろ? やめとけよ。他の奴らが逃げるには理由があって――」
「お前が、鬼として出ると聞いたからだ」
 忠告は途中で遮られた。
「は?……それがどう関係あるの」
「お前を逃がす」
 話の着地点が見えず、ぽかんとした紫苑の左腕を、直親は取った。
「今回は三十年に一度の、後戸の神のご開帳だからな。鬼の役者がただでは済まないことは知っている」
 あーそんな事、と笑い飛ばそうとした紫苑は、自身の腕を掴む力が予想以上に強くて、痛みに顔を顰めた。不意に、二人の間を、夏の香を色濃く遺した、熱く湿った風が吹き抜けた。木々がざわざわと音を立てる……
「私は三十年前、鬼役の少年がどうなったのか、この目で見た。私は……お前をあんな目に遭わせたくないのだ」
「あんた、俺の代りに鬼をやるつもり?――――自分が近い内に死ぬから」
 紫苑の問いに直親の咽が鳴った。やがて彼は眉を寄せると、長く細い溜息を零す。
「……そうか。お前は私の未来も見たのか」
 当然、紫苑は直親に出会った初日にはすでに数ある未来の内、彼の死に顔を見ていた。
 直親は「その通りだ」と忌々しげに肯き、紫苑から手を離すと自身の胸を指さした。
「此処にやっかいなものが憑いているらしい。陰陽師に長くはないと言われた」
 紫苑には彼の過去は知れなかったが、予想は容易についた。誰かのためだとか、そんな理由で巻き込まれたに違いない。
「この身は近い内に滅びる。だったら、お前の代りに……」
「あんたは死なないよ。早まるなっての」
 紫苑は直親の言を遮るとニッと笑んだ。
「京の悪い気を一身に背負い、鬼役は根の国(あの世)へと続く後戸へ飛び込む。そして多くの人の病は癒え……あんたも、助かる。それが、俺が見た未来だ。絶対にその通りになる」
「し、しかし、私は」
「俺は、あんたを救いたいんだよ。……あんただけなんだ。俺のこの力信じて、なおかつそれでも一緒にいてくれたの」
 紫苑は、凪いだ心に耳を澄ませるように目を閉じる。直親に出会う前の、ささくれ立った思いは今では不思議と霧散していた。
「人の未来が見える、死期を知れる人間がいるだなんて誰も信じない。信じたとしてもそんな奴を側に置くような奇特な奴はいない」
 唯一信じてくれた母親は、そんな彼を気味悪がって棄てた。
「俺は、何度も見たよ……不特定多数の人間を救うために自分が死ぬ未来。納得できなかった。どうして俺が、どうでも良い他人のために死ななきゃならない?……俺は寺を逃げだした。こんな運命認めたくなかった。でも」
 ゆっくりと瞼を持ち上げると、紫苑は真っ直ぐ直親を見た。
「あんたに会った。あんたは俺みたいな身元も分からない人間の言葉を無条件で信じてくれた。何度も痛い目に遭ってるっぽいのに」
 照れくささに鼻の頭を指先でかき、目線を逸らしつつ紫苑は続ける。自分が救われたように直親の真っ直ぐさを必要とする人は必ずいる。そんな確信を舌に乗せる。
「あんたは俺に温もりをくれた……感謝してるんだ。あんたを生かすために死ぬんだ、って思ったら、すげぇ、心が軽くなった」
 絶対に死なねばならないのだとしたら、せめて、自分の大切に想う人のためにこの命を捧げたい。そう思った時、確かに辛かった昔が救われるような気持ちを彼は感じていた。
「…………お前は、自分ばかりが貰った気になっているんだな」
 困り切ったような、吐息が耳をつく。顔を上げた紫苑の頭頂に手をおくと、直親は「それは間違いだぞ」と首を振った。
「私だって、お前に感謝しているのだ」
 告げられた思わぬ言葉に、紫苑は目を瞬かせる。直親はそんな彼の両肩を掴むと続けた。
「私は、今までずっと頭が固い、愚図だまぬけだと言われてきた。そんな私を、お前だけは変われ直せと言わなかった。私は、自分の信念に従って生きてきたが、しかし内心ではやはり……誰かに、認めて貰いたかったのだ。そして、お前はそのままでいて良いと言ってくれた。私はお前のおかげで生きるのが前よりも楽になった。……ありがとう」
「……え、っと」
 唖然とした紫苑は、やがて真っ赤になると俯いた。無意味に唇を開閉させる。どの言葉も意味を成さず、唇を出る前に弾けて消えた。初めて向けられた謝辞に、戸惑いを隠せない。
 紫苑があたふたしていれば、直親がふん、と鼻で息を吐き、次いで思い切り自身の両頬を手の平で叩いた。
「……な、直親?」
「随分、気弱になっていた」
 苦笑を漏らした彼は、口の端を持ち上げる。
「二人で生き残る術を考えるぞ。お前が予言した――法輪橋で死ぬはずだった男は生き延びたではないか。不可能ではないはずだ」
「あ……だ、だけど」
「運命ならば、私たちの力で打ち破れば良い」
「……一体どうやって」
「それを今から考えるのだ」
「今から」
 呆れ返る紫苑とは逆に、直親は腕を組んでしゃがみこむと、足元の餌に群がる蟻に視線を落としうんと唸った。紫苑もおずおずと彼に倣って腰を下ろす。諦めている自分が嫌で、けれど本気で生き残ろうと足掻くのは何となく恰好悪いような気もして、思索に集中できない。所在なく蟻が群がるのに指を伸ばせば、蟻は逃げ惑って餌から手を引いた。
「……なぁ。何でこいつらは餌から離れるんだろう」
「そりゃ、自身が危険に晒されるからだろう」
 このように悪しき気にたかられた「鬼」も解放されれば事は簡単だったろう。けれど、今まで儀式で生き残った者はおらず、容易に離れるのなら抑も餌の意味がない。
「で……あんたが見た時ってどんなだった?」
「ん? ああ……幼心によく覚えているよ。余りにえぐくてな」
 短い嘆息を漏らしてから、直親は語った。
「好奇心から、立ち入り禁止になっている区域まで潜り込んだ私は……そこで鬼役と後戸警備の検非違使が対峙するのを見た。『鬼』は黒い影――あれが怨霊と呼ばれる悪い気なのだろうな――に群がられ、切れ切れの声で『助けてくれ』と手を伸ばした。それを容赦なく検非違使は斬り捨てた。……儀式は終わった。鬼が斬りつけられる瞬間、たかっていた怨霊が一斉に離れて……あぁ、真っ暗な闇に散った血飛沫が、朱の花弁のようだったよ」
 言葉に紫苑の鼓動が早まった。彼は焦る思いをなんとか落ち着かせると、問いを重ねる。
「その、たかっていた悪い気はどうなったの」
「戸の向こうは根の国だ。『鬼』から離れたものの、やはり戸の向こう側へと消えた。鬼と共にずるずると引き込まれるようにな。あるべき場所へと引かれていったのだろう」
「――――直親」
 確信が、紫苑の足先から頭頂に走り抜けた。全身の肌がびりびりと痺れて粟立つ。
「ん? なんだ、紫苑」
 紫苑は、幾度か舌先で唇を湿らせると、真っ直ぐ直親を見つめて言った。
「俺を、殺せるか」
「なっ……何を言い出すかと思えば! 死なせないために今、知恵を振り絞って」
「俺は絶対に死なない。だから、俺を殺す気で斬りかかってくれないか」
 ぎょっとして立ち上がった直親の袖を、縋るように掴んで起立した紫苑は、顔を顰める年上の友に噛んで含めるように続けた。
「鉄は神気を宿すもの。刃の殺気を前に、怨霊は逃げざるを得ない。そして幸いな事に、俺は俺の死期を見れる。だからあんたの太刀筋を避ける事だってできる」
「た、確かにそうかもしれんが」
「容赦なく俺ごと斬るつもりで剣を振ってくれ。必ず避けるから」
「し、しかし」
「信じてくれ」
 躊躇う直親に、紫苑は勢いよく頭を下げた。
「俺を信じてくれ。俺は絶対に死なない」
 唇が震えた――望んだ未来が余りに眩しく……願う事を止められない。
「俺、今の今まで自分が生まれた意味を考えてた。だけど、今は違う。俺は生きたい。生きたいから、生きる。意味なんかじゃない。俺は、俺の望みのために……生きたいという願いのために、生きるんだ。――――運命なんて、俺らの力で打ち破れば良いんだろ?」
 直親は、顔を上げた紫苑を暫く難しい顔で見ていたが、やがて降参だと両手を上げた。
「…………お前に信じてくれ、などとは初めて言われたな」
 それから、いつものように紫苑の頭に触れると力強く、深く、肯いた。
「分かった。お前を……絶対に生きると言い切ったお前を、信じるぞ」

* * *

 辺りはすっかり日が暮れて、星が空に瞬く戌の刻。不気味な静寂の中、恙なく儀式を遂行するため守護の任にある検非違使が見回り歩いていた。社から左手奥の奥院へと続く参道にはずらりと民衆の姿があった。彼らは各々手にした石を握りしめ、今か今かと刻を測る。後方の高台には賞玩にやってきた貴族の姿もあった。そんな中、黒牛に跨がり、社前へと紫苑は登場した。彼は鮮やかな蒼色の美しい狩衣に身を包み、顔にはカッと口を開いた鼻高の、眉間に深い縦皺の走る恐ろしい鬼の面をかけていた。
「勤請再拝、勤で啓す!」
 くぐもった声が、祭文を読み上げる。
 紫苑は、祭文を持つ自分の手が湿って震えているのに気づき、内心苦笑を零した。面の目元に穿たれた穴は狭く、心細い。燈火に揺れる自分の影さえ、恐ろしげに感じた。
「……体はただ百鬼夜行に異ならず」
 最後に近付けば近付くほど、咽が緊張でひりひりやけた。人々の凶悪な殺気が増し、どんよりと辺りの空気が重くなる。
「――――此の如き異類異形、不道無懺の奴原においては、長く遠く根の国底の国まで……払い退くべきものなりッ!!」
 言い切った瞬間、紫苑は祭文を放ると脱兎の如く踵を返した。人々の合間から大地が唸るような怒号が沸く。次の瞬間、びゅんッと空を切る音が走った。
 紫苑は息を詰めて身体を低くしながら、地を蹴った。検非違使に押しとどめられながらも、男も女も老若問わず罵詈雑言を口にして石を投げ付けてくる。全部を避けきるなどできるはずもなく、紫苑は頭部だけをとりわけ庇いつつ奥院を目指した。
「くっそ……ボカボカ投げやがってッ!!」
 まだ衣がある分、背や腕に当たるのは堪えられた。しかし袴の下、足袋のみの足元を打たれた時、思わず激痛に地に伏してしまいそうになる。確認している余裕などありはしないが、もしかしなくとも小指が折れただろう。だからと言って、走るのを止めるわけにはいかないのだが。
 人の投げた石の数だけ、京に蟠る悪い気が鬼役に集まる。けれど、ここで打ち殺されてしまえば儀式はやり直しで、紫苑は無駄死になってしまう。……絶対に、痛みに屈する訳にはいかない。
 時間が立つにつれて、段々と打たれた痛みだけでなく、身体のだるさが加わってきた。目と鼻の距離にある奥院が、遠い。
「………………重てぇ」
 左右の腕、足、肩、加えて腰元、心の臓の当り、そして……首筋から頭部にかけて、見えないながらも、そこにナニカが張り付いているのが分かる。それは段々と体積を増して、成人男性一人分ほどの重さにまでなった。
 怨霊だとか呼ばれる――京にはびこる、悪い気。それが紫苑の身体に集められたのだ。彼はこの悪い気を、奥院の背後、後戸に祭られている神へと引き渡さねばならない。
 奥院の手前にある拝殿の脇を突っ切ると、人の波が途切れた。紫苑はいよいよ真っ直ぐ院の後ろを目指す。後戸を警備していた男たちは、彼を出迎えるとじりりと後退した。
 紫苑は肩で息をしながら立ち止まった。そしてはっきりと、自身の身体からおどろおどろしい黒い霧が立ち上っているのを見てとった。その様子に直親を除いた他の者らは、悲鳴をあげ、蜘蛛の子を散らすように逃げだす。
 紫苑は鬼の面を剥がし取ると地に叩きつけた。やがて、前方で白刃を鞘から抜き放ち立ちふさがる、朱の衣に身を包んだ直親を睨め付けた。ぞくり、と肌が粟だった。
「――――いいじゃん、その殺気」
 ちろりと渇いた唇を舐めてから、紫苑は浅く呼吸を繰り返すと、地を蹴った。
 目前に立ちはだかるのは運命だった。従い続けるしかなかった、未来と言う名の呪い!
「紫苑…………いざ!!」
 直親が一歩踏み出す。その瞬間、紫苑の脳裏に、右肩からなで斬りにされ、白目を剥き倒れる自身の姿がよぎる……彼は歯をきつく噛みしめると、思いきり左へと飛び退った。
(……邪魔くせぇ! くそっ!!)
 紫苑は、直親の剣筋を精一杯研究したつもりでいた。しかし重く憑かれた体では、話は全く違ってしまう。なんとか避けたものの、続いて両の膝から下を斬り飛ばされる痛みに襲われた。彼は刹那の幻に堪えると、思い切り飛び上がる。次の瞬間、ザッと低い所を直親が凪ぐ。
(両足……軽くなった!)
 その瞬間、背後でガタンッと音がした。奥院の後戸がひとりでに開け放たれたのだ。紫苑から切り離された黒い靄の一部が、ずりずりと音を立てて引き込まれていく。思わず直親と目を合わせた紫苑はくっと低く笑った。予想は間違っていなかった。切り離された悪しき気は、戸の方へと引かれていく……!
 紫苑は何度も鋭い殺気に切り刻まれながらも、振り下ろされる刃を紙一重で避けた。息はとっくに上がっていた。全身は冷えに冷え切り、脳裏に過ぎる未来と現実の境界はあやふやになっていた。意識は朦朧とし、混濁し始めていた。
 襲いかかってくる死の恐怖。
(あとは、頭部のみ……)
 紫苑は絡みつく気配と直親を見比べた。突き入れられる刃が咽を正確に貫く――
(こいよ!……絶対に、避ける!!)
 首を仰け反らせ、左に飛び退く。ふっと重みが消えた。地に倒れ込むと、強かに脇腹を打った。けれど痛みよりも、全身が軽くなったことへの喜びに、身体からぐたりと力が抜ける。――終わったのだ。
「やっ――――――ぐ、ぁあ……っ!?」
 と、背後から何かに羽交い締めされたのは、その時だった。
(な、何だ?……苦し…………ッ)
 首、両手足、胴に絡みつくねっとりとした気配。全身の動きを封じ込まれ、ずりずりと後ろへ引っ張られる。紫苑が首を捩って背後を振り返れば、戸の向こうにぽっかりと暗黒が横たわっていた。根の国が、そこにあった。
(嘘、だろ。やべぇ。これじゃっ)
 足を踏ん張って堪えるも、力は数段引っ張る方が強い。前方を向けば、青ざめながらも、唇を引き結ぶ直親と目が合った。
 直親が柄を握り直す。死が脳裏によぎる。
 動きを封じ込められた紫苑にはなす術もない。ぼんやりと見つめる先で、刃がゆっくりと振り下ろされる。血飛沫が飛び散る――繰り広げられる、刹那の幻。
(あーまずい。避けらんねぇ……)
 足も手も動かない。全身は痛みに軋み、今にもばらばらになってしまいそうだった。
(精一杯やって、この様かよ)
 直親は怒るだろうか。後悔するだろうか。――いや。彼ならここまでやった紫苑の頑張りを分かってくれるに違いない。
(ごめん、直親。俺……)
 直親の刃に目をやった紫苑は――息を飲んだ。そこに迷いはなかった。
(俺……)
 生きたいと言った自分を、直親は疑ってなどいなかった。彼は、信じてくれていた。
(…………直親)
 二人で生き残る――願いが胸を震わせる。
(俺――――俺だって)
 紫苑はぐっと咽にわだかまる恐怖を飲み下すと、吠えた。
「……諦めて、たまっかよォ――ッ!!」
 一歩踏み込んだ直親の白刃が月光にきらめく。と、同時に、紫苑は思い切り前に身体を倒した――未来を打ち破り、幻が霧散する!
 ずるっと大地が滑った。紫苑は目をきつく閉じると、そのまま地面にどうっと倒れこむ。
 髪を数本焼き切り、背を熱が走った。
「つぅ……ッ」
 顔面を強打した時、ごおおッと一陣の強風が吹き抜けた。今度こそもう、紫苑は死を予見できたとしても動けなかった。ばくばくと破裂しそうなほどに血潮が脈打っていた。思考が焼き切れたように、頭の中は白に塗り潰される。バンッと……戸の閉まる音が聞こえたのは空耳か。これから起こる事への最後の拒絶だろうか……からからに渇いた咽を震わせ、紫苑の唇が自嘲を零す。
「――――――紫苑」
 ややあってから、爪を立て、頑なに地にへばりつく紫苑の背に、直親の声が降った。
「紫苑、……終わったぞ」
 右肩を叩かれてやっと、紫苑は顔を上げた。辺りに危険がないのを確認し、爪が割れて血の滲む手を地から剥がし取ると、握ったり開いたりする。もう自分が何者にも拘束されていない事を知って、彼はやっと両手を広げると仰向けに寝転がった。藍の天では、星が何事も無かったかのように白く瞬いている。
「そか……そっか。終わったのか……痛ぅッ」
 全身に走る痛みに紫苑が身体を丸めれば、礫と刃で傷ついたその身体を、直親が喜びに心配の滲む複雑な表情でもって抱き起こす。
 紫苑はくつくつと肩を震わせた。
「はは。身体のあちこちがいてぇ。…………いってぇよ」

 笑いは途中で途切れた。紫苑は袖で顔を覆った。痛みがあった――生きていた。

* * *

 季節は巡り、件の祭を終えて、三度目の春が過ぎた。
「よっ! 直親。元気だ――――あだっ」
 晴れ上がった空の下、すっかり架設の住んだ法輪橋の上で腕組をし顔を顰める直親に紫苑が駆け寄れば、頭頂にすかさず拳が落ちた。
「他に言う事があるだろう。え? 紫苑」
「この度、わたくし出仕が決まりまして」
「…………な」
 じゃーん、と身に纏う絹地の狩衣を見せつけるように紫苑はくるりと回転し哄笑する。
「ふははははー! 弓月くん、頭が高い。頭が高いぞ! ……ってのは冗談だけど」
 紫苑は、口をぱくぱくさせる直親に「あれ? 言わなかったっけ?」と首を傾げた。
「俺、この力を買われて陰陽寮に就職決まったの。だから、あんたとあんたの母ちゃんを死ぬまで養うくらいの甲斐性はできたわけ。ささ、遠慮なく嫁にこい! なーんて……」
 しょうもない冗談にもいまいち反応がない。紫苑はつまらなそうに頭の後ろで手を組むと唇を突き出した。
「っつーか、あんだけ文に書いたじゃん。絶対会いに行くって。なんだよ、信じてなかったのか? それで怒ってんのかよ?」
 祭の後、紫苑は姿を消した。生け贄である『鬼』が生きていれば、民衆にいらぬ不安を与えると思ったからだ。もちろん失踪直前に寺からちょろまかした経文の裏紙を使い、逐一近況報告の文は書いていたのだったが……
「お前が頑張っているのは知っていた。元気だろう事も疑っていなかった。また会える。信じていたとも」
「じゃぁ……何で? あ。まさか、寂しかったとか?」
 軽口に、直親はむっと押し黙ったが、
「……ああ、そうだ。寂しかったのだ!」
 ややあってから苛立たしげに告げると、紫苑の額に頭突きを喰らわせた。
「いっ―――」
 次いで問答無用で紫苑を抱きしめる。その腕には三年来の心配がこめられていて……
「…………ご、ごめんなさい?」
「もう良い。お前はこうして帰ってきたしな」
 直親は大仰に溜息を吐くと紫苑を解放した。やがて気を取り直し、紫苑の前髪をくしゃりとかき混ぜると、目を細めて笑った。
「おかえり、紫苑」



(了)
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