黄昏篇
世常の事、人にしてみれば見えぬ夜闇を行くが如くである。
明日の空の行方など、如何なる者にも解す術などある筈も無い。
悠久の時の流れは、広大な大河の如く緩やかに流れ、その変化を表さない。
しかし、歴史という大河は、時に急速に流れ、劇的な変化をもたらす事がある。
天はその全てを見通すが、普段は黙し、何かを語る事は有り得ない。
だが稀に、天は、何かしらの形で、歴史の転換期を知らせる事がある。
そして、この時……。
遥か頭上を、厚い黒雲が急速に広がっていく。
黒雲は中天に輝く太陽を覆い隠すだけでは飽き足らず、空全体にドス黒い蓋を覆い被せ陽光を殆ど遮り、辺りは宵闇のように暗くなった。
薄闇を引き裂く雷光が輝き、天地を揺るがすような雷鳴が轟く。
やがて豆粒のような雨が滝の如く激しく降りしきり、顔を打った。
風はますます勢いを増し、信長の背後から、田楽狭間の方角へと吹き付けていく。
「吉兆でや。熱田神霊の思召しに違いなきや!」
暗闇は軍勢の姿を晦まし、激しい雨音は馬蹄を掻き消す。
永禄三年五月十九日。
未の刻(午後一時頃)、天候は急変し尾張・三河の国境付近は雷鳴豪雨にみまわれた。
相原という小集落に差し掛かった時、信長の前に、土埃に塗れた一騎の武者が飛び出してきた。
「簗田弥次右衛門にござぁる!」
武者は簗田広正の父・政綱であった。
「弥次右衛門、待っておったがや!」
駆けに駆けてきた政綱は息を切らせ、喘ぐように信長へ状況を報告した。
「今川軍本陣備え、ただいま海道を反れ、田楽狭間に入っておりまする。丸根、鷲津を襲った先鋒隊は戻らず。
後詰隊は前に出払っておりまする。
本陣備えが殿軍となって、その後ろに続く部隊はござらん。
つまり敵本陣は手薄!
今こそ、千載一遇の好機。雌雄を決するは今をおいて他はございませぬ!」
「であるか。弥次右衛門、この先は左衛門太郎に変わって案内いたせ!」
「御意ーっ!」
大粒の雨が降りしきり、時折雷鳴がこだまする中、信長は織田軍全ての武士たちと向き合った。
「佐久間、飯尾、伯父上(織田玄蕃)、佐々、千秋、そして幾百の尾張衆、いずれも劣らぬ当千の武士たちが、何故、命懸けで戦いに臨み、散っていったのか?
今、この時、この瞬間、この一戦に我らを導く為だがや!
敵大将、今川義元は田楽狭間に在り!
よいか、各々今より鬼を食らう魔神・羅刹と成りて、今川に連なる奴輩を皆殺し、義元の歯黒首を取るがや!」
信長の叱咤を受けた軍勢の士気は爆発的に膨れ上がり「応、応」と声を荒げ、刀槍を掲げた。
「全軍、進めーっ!」
雷鳴すら凌駕する盛大な鬨が轟き、織田軍は動き出した。
先頭を簗田親子、それに柴田勝家、森可成、丹羽長秀ら歴戦の暁将たちが必殺の闘志を抱き、それぞれの兵を率い、雨水を跳ねながら疾駆していった。
今川義元を含む隊列が田楽狭間に差し掛かった時、鳴海城周辺の戦闘報告がもたらされた。
佐々隼人正、千秋四郎、岩室長門守など多数の侍大将を討ち取り、織田軍本隊は一戦も交えずに一目散に逃げ去ったという、華々しい戦勝報告であった。
「織田上総介が一合も切り合わず逃げたと?」
義元は信長の不可解な行動に若干の違和を覚えた。
「はて、織田上総介は気の荒かった父・弾上忠信秀を、更に上回る気性だと聞いていたが?」
「何、所詮はうつけ者。本当の窮地に怖気づいたのでありましょう」
義元は首を傾げたが、本陣に顔を並べる宿将たちは楽観した。
刻は昼、そろそろ胃袋の中身も寂しく成る頃である。義元は気が進まなかったが、宿将たちに促され、全軍に中食を取らすように命じた。
ただし、四方に七備えの陣を敷き、要所には見張りの兵を立てた。
七備えの兵たちは、今川家中でも選りすぐられた豪の者共で、精鋭中の精鋭である。しかも最新兵器である鉄砲も数百丁装備していた。
当然油断など微塵も有り得ず、警戒は厳重であった。
この時点で信長が今川軍本陣を急襲したとしても、果たして結果はどうなるかは解らない。
しかし、天は気紛だった。気紛れとしか言い様のない、偶然がその時起こったのだ。
「ん」
一滴が義元の額を打った。
天を仰ぐ義元の顔面に、まもなく大粒の雨が降り注がれた。
「おわ、なんじゃ」
「いきなり降ってきおった」
「通り雨か?」
突然の雨に打たれ、兵たちも一斉に倦怠感を含んだ声を上げていた。雨は今川軍の兵たちから、一瞬にして緊張感を奪い取った。
「ふん、暑気払いにちょうど良いわ」
状況をあくまで楽観している宿将たちは、突然の気象の変化もものともせず、豪語する。
「雨が上ったら隊列を整え、進軍を再開するがよからあず」
義元はこの窪地の狭路で進軍を止め、中食休みをとったことを後悔した。どうしても心の片隅に、嫌な予感がこびりついて離れなかった。
それは理屈でなく、油断も隙も無い駆け引きの中で、これまで戦い、生き抜いてきた戦国武将としての勘である。
やがて雨は小降りとなり、完全にあがり、天には再び晴天が広がり始めた。
それに伴い、今川軍本陣備えの兵たちは七備えの陣を解き、隊伍を整え、進発の準備に取り掛かった。
この時、異変はすでにすぐ側まで迫っていたのである。
身体に残る雨水を払いながら、支度を整える一人の兵が、ふと何気なく顔をあげると、未だ霧雨が漂う窪地の周囲に生い茂る樹々の間を、黒い影が蠢いていた。
「何じゃ……?」
樹間を埋め、声も無く騎馬武者たちは迫撃してきた。
「て、敵じゃ。尾張衆が来とるっ!」
彼は慌てて傍らの鉄砲を取って、銃口を殺到してくる敵武者に向けた。火蓋を切ったがカチリと小さく鳴っただけであった。
「駄目じゃ、石皿が濡れて火を噴かん!」
彼は鉄砲を捨てて太刀を抜こうとしたが間に合わず、突っ込んできた騎馬に跳ねられ薙ぎ倒された。
呻きながら立ち上がった瞬間、騎馬武者が投げ放った槍が、彼の胸を刺し貫いた。そのまま絶命し前のめりに地面に倒れた。
「うおおおーっ!」
四方から咆哮が上がり、殺気立った騎馬武者、徒歩武者が窪地を駈け降りながら斬り込んでいく。
ちょうど防衛陣を解き、進軍の支度に掛かっていた今川軍は、完全に不意を突かれる格好になってしまったのである。
屈強な精鋭の今川軍旗本衆も、あまりに突然の事で何が起こったのか解らず、浮き足だった。織田勢は猪の如く突進し、容赦無く今川兵を蹴散らし、隊列を粉砕した。
「謀反じゃ、謀反じゃぁーっ!」
乱戦の中で、金切り声が響いた。
一体誰が叫んだのか?
混乱した今川軍の誰かなのかも知れないし、今川勢を更に混乱の坩堝へ叩き込もうと織田軍の誰かが言ったのかもしれない。
ただ一つ確実なのは、この一言で今川勢は目前の敵を見失ってしまった。
混乱は加速度的に進行し、遂には同士討ちが始った。
桶狭間山の麓、田楽狭間の狭路は、絶え間なく怒声と断末魔の絶叫がこだまし、そこら中で血飛沫が散り乱れる修羅場と化した。
血塗れになり、這って逃げようとする武者に、我先にと足軽たちが躍りかかり、たちまち武者の首は掻き斬られた。
逃げ惑う者を騎馬武者が追い詰め、槍で串刺しにし、その身体を宙に放り投げる。
馬乗りになって、小刀を何度も振りかざし、下の者を刺し殺す。
苦痛に呻く者を足蹴にしてひっくり返し、逆手に持ち替えた太刀を喉に突き刺して息の根を止める。
太刀同士の打ち合いで起こる金属音。泥を跳ねて駆け回る騎馬の馬蹄。
喘ぎ混じりの息遣い、怒号、悲鳴、泣き声、呻き声、喚声、叫声。
今まさに、突如として、そこには、修羅地獄が出現したのである。
今川義元は信じられない光景を、ただ呆然と眺めていた。
「御屋形様を御守りしろ!」
義元目掛けて殺到してくる敵武者に、近習たちは果敢に立ち向かい、斬り結ぶ。
近習衆は勇敢だが、この状況では、その護衛も長くは持たない。突破して襲いかかってくる敵が現れるのも時間の問題である。
しかし、義元はうろたえなかった。
冷静に、己の取るべき行動を確実に理解し、実行した。
「明日も同じ空が見えるかのう?」
愛用の左文字をゆっくり抜き、自然体で構えた。
「まさかこの太刀を振るう事になるとはのう。武士道なんぞ所詮、血塗られた道よ。……」
義元はうっすらと笑みを浮かべていた。諦めか、余裕か、それは何とも喩え様のない笑みであった。
「桑原甚内、見参!」
刃こぼれだらけの野太刀を携え、一人の武者が義元へ躍りかかった。
桑原甚内の放った野太刀は義元の兜飾り金色の竜に当った。しかし、乱戦の中、打ち合いを経てきた桑原の野太刀は金竜を破壊したが、脆くも折れ飛んでしまった。
「下郎めが!」
義元が左文字を一閃すると桑原の手首から下が斬り落とされた。悲鳴を上げ、手首を押さえて地面を転がる桑原を蹴り飛ばし、口の中に切っ先を突き入れて息の根を止める。
「服部小平太ーっ!」
次なる敵が義元へ迫る。桑原の返り血を浴び、悪鬼の如き形相になった義元は、荒い息遣いで服部小平太を迎え撃つ。
服部が繰り出した槍を義元は踏み込んで受けた。槍先は義元の脇を抉ったが狙いを外され致命傷にはならない。
義元はそのまま槍を脇に抱え込んだ。
「あ、クソッ」
服部は槍を抜こうとしたが義元の脅力が予想外に強力で抜けなかった。
義元の左文字が再び閃くと、槍の柄ごと服部の膝を斬り割ってしまった。服部も悲鳴を上げ転倒し、泥水の中のたうち回った。
義元は止どめを入れんと、悠然と歩みを進めていく。
しかし、その時に横合いから義元に飛び掛かり、体当たりを食らわせた者がいた。
「毛利新介、御首頂戴!」
二人は転倒し、泥の中で揉み合いになった。
毛利は上になって義元の顔面を殴りつけた。しかし、義元はその拳に噛みつき、毛利の拳の皮膚は抉られた。
「この……」
毛利は怒りに顔を歪めて、義元の首に目掛けて切っ先を押し付けた。
義元は刀身を掴んで押し返さんとしたが刃が鋭利で指が斬れてポトポトと落ちた。
「おのりゃあ……」
ゆっくりと、鋭い刃が義元の喉仏に食い込んでいった。
義元の口から沸騰した血が、泡となって噴き出した。
「あ、明日の、そ、ら、はぁ…」
声にならない声が、ゴボゴボと血を噴きながら口から洩れ出た。
絶命の瞬間、義元は指が無くなった手を天に掲げた。
その瞳には、暁に染まる霊験な富士が朧気に見えていた。
掌に富士を乗せ、日輪を掲げる幻を見た。
富士は駿河国主の自分であり、日輪は『天下』そのものを表しているのである。
永禄三年五月十九日。
『東海一の弓取り』と智勇を讃えられた戦国武将・今川義元、田楽狭間にて戦死。
義元は、武田信玄や北条氏康、上杉謙信などの戦国の群雄たちと、戦いでも外交でも対等に渡り合ってきた名将の一人であった。
後世に伝えられる、無様な死に様は殆どが作り話である。
志半ば、無念の戦死を遂げた義元が、忌わの際に見たものは何だったのだろうか? |