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青年と犬と、もう一人 作者:Schuld
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設定IF:青年と女と狂った獣

道の真ん中に一人の童女が立っていた。あどけない微笑みを湛えた、修学して間もない年頃と思しき彼女は何をするでもなく、妙に汚れた街路に立ち尽くしている。

 ありふれた市街の路地。両脇に戸建ての判を押したような家が建ち並び、人々の穏やかで変哲の無い日常が流れている光景。その中で少女は、光景と同じようにありふれた存在であった。

 多少薄汚れているように見えるが、遊び盛りの子供であるなら不思議では無い。公園の砂場で遊んだか、追いかけっこでもして転んだのか。通りすがりに目を留めたとしても、誰も彼女の汚れを気にはしなかっただろう。

 路地が多少荒れているのも、別段おかしなことではない。倒れた自転車や割れた植木鉢は、マナーのよくない通行人か、悪戯盛りの子供が何かをしでかしたとしか思うまい。

 ふらりと、定まらぬ足取りで少女が一歩を踏み出した。次いで踏み出される足も動きは定まらず、酷く不安定な歩調である。

 体調でも悪いのかと心配したくなる歩き方だが、少女の顔は健康そのもの。血色は悪くなく、微笑みに崩れもない。しかしながら、外見に不釣り合いなまでに歩調だけが崩れていた。

 今にも転びそうな足取りで歩く彼女が、ふと足を止めて振り返る。路地の向こうから、慌ただしい二つの足音が響いていた。

 軽い足音だ。一定のリズムで響くそれは、スニーカーではなく分厚いソールを有するブーツの音だろう。それも恐らく、洒落っ気のあるブーツではなく、軍人が履くようなコンバットブーツの類い。

 無垢な童女の瞳が路地の奥に向けられ、微笑みが強まった。何か面白い物を見つけた、そんな顔だ。

 ふらふらと彼女は体を動かし、音に向かって進もうとする。そして、彼女が完全に振り返る前に音の源が路地の角から姿を表した。

 二人組の大人だ。春の空気も温み始めた時期であるというのに、全身を一部も露出しない、真冬の寒さに耐えているのかと思うほどの厳重さで全身を覆っている。

 身に纏うのは厚手のジーンズや皮革のコートなど、一目で分厚く頑丈そうだと分かる物ばかり。その上、目出し帽やバンダナで顔を覆って、スキー用のゴーグルまで身につけていた。

 挙げ句の果てには大きな背嚢を担ぎ、背の高い方は消火斧を担い、後を追う小柄な影は中折れ式の散弾銃を持っているときた。どうみても普通の人間ではない。

 映画などに現れる、古典的な強盗そのものだ。大きな荷物を担ぎ、武器を持って慌ただしく走る姿は、今正に何処かを襲撃してきましたと言わんばかりである。

 二人は素早く走りながら、呼吸しづらい装具のせいで上がる息を荒げて路地を突き進む。丁度童女が居る方へ向かって。

 普通であれば、鬼気迫る雰囲気を発散しながら駆ける大人を見た時、子供は怯えて逃げるはずだ。彼らは大人であっても命の危機を感じさせるほど勢いがある上、各々が担う武器に“実際に使用した形跡”を纏わり付かせている。恐ろしげな風貌も相まって、振りまかれる威圧感は凄まじいモノとなっていた。

 しかしどういう訳か、童女は笑みを強めて二人の方へと歩き始めたではないか。先ほどまでと同じく定まらぬ歩調で、小さな紅葉のような手を精一杯伸ばし、まるで抱きつこうとしているかのように進むのだ。

 先頭を駆ける長駆の影が舌打ちを零す。続いて苦々しげに吐き出される罵倒は、明らかに目の前に立ちふさがる童女に向けてのもの。

 彼、或いは彼女はよろよろと嬉しそうに近寄る童女に向けて……コンパクトに消火斧を振りかぶった。右手で殆ど根元を握り、柄頭の付近を左手で保持、刃は地面と水平に構えられている。

 路地に差し込む午後の陽光を反射し、血糊を浴びた赤と銀のコントラストを描く斧の頭が剣呑に輝いた。一目で分かる物騒さを発散するそれは、玩具などではない。紛れもない本物だ。

 金属が有する重量は、運動エネルギーを帯びれば容易く人体を破壊するだろう。童女の細い体などひとたまりない。

 それを知ってか知らずか、童女は無垢な笑みを形作った儘で歩き続ける。それどころか笑みがどんどんと強まって行くではないか。

 「おおおおっ!」

 長駆の影は裂帛の気合いを怒号に込めながら、地面と水平に振り上げた消火斧を振るう。狙うのは握れば折れそうなほど細い、真っ白な童女の首。

 命の危機を前にして尚、童女は笑みを崩さない。そして笑みは最終的に……好物を前にしたかのような大口へと変えれた。好みの菓子を頬張らんとするかの如く、童女が口を開け、斧を振りかぶる影へと突き進む姿には、言いしれぬ不気味さが感じられる。

 日差しを防ぐスモークの入ったゴーグル、その向こうにある目は、至近で自身に食らいつこうとする彼女の姿をつぶさに観察していた。

 薄汚れた手にこびり付くのは、砂場の土でも粘度のようになった泥でもない。酸化してどす黒く染まり、粘度を増した血液だ。

 大きく開けた口からは歯が幾本か失せ、筋だったと思しきモノが挟まって垂れている。間近に近寄った彼女の口からは、肉の腐った臭いが漂っていた。

 鈍い音が響く。肉を金属が打つ、重くて鈍い音が。続いて、濡れた肉が地面を打つ音が聞こえた。

 「ちぃ、浅いかっ」

 斧を振り抜いた体制で、長駆の影は口惜しげに悪罵を蒔いた。素早く振るわれた斧は、童女が接近して体勢を変えた為、首ではなく右腕を半ばから両断することしか適わなかったのだ。

 切ったと言うよりも、質量と勢いに任せて引きちぎったような断面を見せる腕からは血が溢れ、体は勢いによって右へと泳いでいる。だがどういうわけか、童女は一歩を踏ん張って転ぶことを避けた。

 あり得ぬことだ。童女が耐えきれる衝撃でも痛みでもない。普通であれば地面に転がり、激痛に泣き喚くはず。だのに彼女は変わらぬ笑みを向け、再び大口を開こうとするではないか。

 しかしながら、彼女が開いた口に見舞われたのは甘い菓子でも、今し方食らいつこうとした長駆の人間の肉でもなく、無骨で硬い散弾銃のストックであった。

 童女の顔に容赦なく打擲を見舞ったのは、いつの間にか距離を詰めた矮躯の影だ。序でとばかりに体制が崩れた彼女に、影は遠慮無く前蹴りを見舞う。

 小さな体は抵抗すらできずに吹き飛び、少し離れた所に横たわった。顔面に突き立てられていた銃床の底部からは、砕けた歯が粘質な涎と血の糸を引きながら落ちていく。

 倒れ伏した童女の顎は、完膚無きまでに砕かれていた。顎の形は歪み、皮膚が張力に負けて裂けるほど大きく下へ撓んでいる。

 それでもまだ、彼女は笑っていた。歪んだ顔で、砕けた顎で、まだ無傷の目で。耐えられないほどの痛み、もしかしたら死んでしまうような傷を得てすら、彼女は笑い続けているのだ。

 最早その様は不気味という形容すら通り過ぎ、見る者に言いしれぬ怖気を与える。

 「すまん、助かった」

 「さっさとケツまくりますよ。さっきの一団が追いついてきたら家に帰れなくなる」

 「おうよ」

 だが、二人は悲惨な光景を一瞥しながら、見慣れているとでもいうかのように無視して駆けだした。もう立ち上がった所で、あれは自分たちをどうにもできないと判断して。

 童女は去って行く背に、何時までも残った手を空しく伸ばし続けていた…………。






 一棟のマンションがあった。如何にも高級でござい、という佇まいの高層マンションであるが、今では瀟洒な雰囲気は全く見受けられない。

 何故なら、一階エントランスホールに通ずる入り口に巨大なトレーラーが突っ込んで道を塞ぎ、一階から三階にかけては火に炙られた痕跡があるからだ。

 その上、周囲には無数の亡骸が打ち棄てられている。本来ならば丁重に葬られ、数多の惜しむ声に包まれて送られるはずの死体がだ。

 何れも酷い損傷を受けており、頭部を乱暴に砕かれたものや、上半身が至近距離から放たれた鹿撃ち用の散弾で引き裂かれたもの。中にはマンションの上階から投げ捨てられたのか、地面にへばり付く凄惨な状態のモノまで見受けられた。

 無残な姿を晒し、数多の死体に彩られるかつての高級マンション。ぼやで済んだからか、それとも最新の消化システムのおかげか原型を保った四階のとある一室。そのベランダからは、緊急避難用と思しき縄ばしごが伸びていた。

 マンションであれば、どこの廊下にも常設されている避難ばしごだ。鋼のワイヤーで余れ、相応の重量がある梯子はコツさえ覚えれば昇降に十分な役割を果たす。

 本来緊急避難に使われるべきそれは、風で煽られぬように点々と下に続くベランダの一部に針金で固定されており、常用されているように思えた。

 梯子が続く角部屋の一室にて、重い音が二つ響く。荷物を満載した、二つの登山用背嚢が乱雑に広い居間へと放り投げられた音であった。

 「あー……きつかったな」

 「とはいえ、食わずに人は生きていけませんからね」

 荷物の主は、路地で異質な童女を切り倒した二人組である。そして、言うまでも無く外の惨状を作り出したのも、この二人だ。

 彼らは大儀そうに首と肩を回し、酷使された体をほぐしてから、それぞれ装束を脱ぎ捨てる。ゴーグルを外し、目出し帽やバンダナを剥ぎ棄てていった。

 すると、意外な事に目出し帽を脱ぎ捨てた長駆の姿からは、艶やかで長い黒髪がこぼれ落ち、子供のような矮躯の姿からは短い散切り頭が覗いたではないか。

 180cmを超える、見上げるような長駆の主は女性であり、150cmあるかないかの矮躯の主が男性であった。体躯から連想できる性別とは、真逆の結果がそこにある。

 「やれやれ、水物が多いとやはり重い……」

 腰元まで届く長い髪が特徴の女は、切れ長の怜悧な瞳が目立つも、顔に貼り付けた満面の笑みのせいで冷たい印象は全くない美女であった。近づきやすく、馴染みやすい雰囲気がある。見た目通り話す調子も軽く、親しみやすい人物であるようだ。

 「それは先輩が欲張って酒を何本もねじ込むからですよ」

 対し、矮躯の男は無面目と評する以外に適当な形容が見当たらぬ、何処までも地味な男であった。顔見知りでもなければ、背景に埋没して見つけることが難しそうな面構え。

 その中で不機嫌そうな半目だけが、酷く印象的だった。光の当たり具合のせいか、それとも瞳の色合いが濃いのか、妙に淀んだように映る目。ただそれだけが、目立たない彼の中で異質に目立っていた。

 ともすれば不気味さ、異質さすら感じられる目。だが、眇になっていた目が眠そうに伏せられると、発散されていた異質さはナリを潜め、全くの地味な青年という印象が帰ってくる。

 彼の異質さは、正面からはっきり目を見ても分からないだろう。奥に、目から脳の奥を覗くかのように心を観察しない限りは。

 「どうせなら消毒用エタノールでも持ってくればよかったんですよ。薬の方が需要としても高いんですし」

 「とはいえな、酒は命の水とも……」

 「百薬では万病は癒やしきれないと思いますが?」

 対照的に正反対の二人は、荷を降ろしてから装具を脱ぎ捨てていく。血濡れの武具はベランダに捨て置き、手近に置いてあった脱衣籠にコートやジャケットは脱ぎ捨てる。

 気候に似合わぬ分厚い服を脱いで、少しだけ楽になれた。やはり、あれだけ着込んで走り回ったのは熱かったのか、コートの下に着ていた被服には、汗が滲んでいる。

 だが、まだ安心して一息つけられる訳では無いのだ。

 二人はそこで脱ぐのをやめず、シャツから肌着まで、着ている被服の全てを脱ぎ始めたではないか。目の前に立っているのは異性だというにの、全く何の抵抗もなく堂々と。

 あっと言う間に、気軽な軽口を叩いていた二人は、互いの目に裸身を晒していた。

 長駆の女の体は女性らしい起伏に富み、矮躯の青年は小柄ながら引き締まった体つきをしている。二人は近寄ると、どちらともなく体に触れあい……。

 「前はよしっと。目立った噛み傷はないな」

 「こちらも同じく」

 情欲も何も宿らぬ目で、体を確かめ合いはじめた。探すのは小さな傷や歯形、兎角目立つ種類の傷を慎重に探し合う。性器やら何やらを全て見られていると言うに、全く何の恥ずかしさも感じていないような自然体で。

 それは、両者共に無感動になされる行為であった。男女間の機微が関わる行為ではなく、完全に武器か何かを鑑定するかのような行為。ただただ無感動な瞳が、裸身を眺め続けていた。

 「ん、おっけ、怪我は無し、噛み傷も無し。奇麗な未使用品だ」

 「喧嘩なら買いますが? とりあえず、こちらも問題ありません」

 暫し両者の体を確かめ合った二人は、ぐるりと一頻り見終えると、安心したように離れた。あって欲しくない物が無かった、そう確認できて始めて一息つくことができる。

 「あーやれやれ、後輩、ビール」

 長い髪を掻き上げて、女は暖かいのを良いことに服を着ようともせず、窓際に置かれたソファに身を投げ出す。色々とほっぽり出したままの彼女に、青年は呆れたように嘆息しつつも背嚢からビールの缶を取り出して、適当に投げつけてやった。

 「ん、ご苦労。走った後はやっぱりコレだな。冷えていないのが残念至極だが」

 「ガソリンもそんなに無いんですから、贅沢に電気は使えませんよ」

 雑に対応し、青年は服を着替える。背嚢の中身からスーパーで売っている量販品の袋を取り出して手早く身につけると、汚れた服の入った籠を手に玄関口へと向かった。

 「じゃあ、これ燃やして処分しておきますから、新しいの用意しておいてください」

 「おーう、これ呑んだらな……ああ、火口忘れるなよ?」

 「きちんと新聞を持っています」

 そう言った青年の脇には、一部の新聞が挟まれていた。日付が一月ほど前で止まった新聞が…………。








 高級マンションの最上階というのは、フロアぶち抜きのペントハウスになっているというイメージがあるが、このマンションは貧困な想像に見合った造りをしていた。

 広々とした高級感のある造りの洋間。恐らく海外のアンティークと思しき家具の数々に、一目で高級だと分かる音響器具を備えた大型のテレビ。レコーダーや最新のゲーム機まで贅沢に並んでいるが、それらが動くことは最早無い。

 そして高級なマンションの一室となればお約束の、大きく間口を取った夜景の見える窓もリビングには備えられている。しかし不思議なことに、大阪は北部の繁華街を遠く望むはずの窓は闇に沈み、煌びやかな夜景を眺むる贅沢は適わなかった。

 また本来なら部屋の雰囲気に合わせた豪奢なシャンデリアが明かりとなる時刻にも関わらず、灯る光源は頼りない蝋燭ばかり。

 それが洒落たアロマキャンドルでもあれば、何かの演出だと納得する事もできようが、何処ででも手に入る仏壇用の蝋燭では格好もつくまいて。

 更にソファーで思い思いに寛ぐのが、部屋の雰囲気にそぐわぬ気軽なスウェット姿の男女だというのだから、尚のことミスマッチで滑稽に映る。

 実際、この二人も自分たちが部屋にそぐわぬ存在であることは自覚していた。片や実家暮らしの大学生、片や下宿暮らしの貧乏大学生であったのだから。

 しかし、女が掲げ持つグラスで揺れる琥珀の液体は、一瓶が二〇〇〇〇円する上質なコニャックであり、青年が囓るクラッカーにのっているのは上等なキャビアだ。物品ばかりは部屋のクラスにあったものに囲まれて、両者共にどことなく満足そうである。

 「そういえば、今日で一月か」

 喉を灼く酒精の美味に溺れながら、女は顔を上気させつつ言った。

 「何がです?」

 指先についたクラッカーの粉を舐め取って、青年が女の方へ視線をやると、彼女は笑みを皮肉気なものへと変えている。何時もの何が楽しくて浮かべているのか分からない笑みとは違い、何とも無しに自然な印象を受ける笑みを。

 「世界が狂ってからさ。消火斧やら散弾銃のストックで童女を殴打するなんざ、新聞の一面クラスの出来事だぜ、後輩」

 「二度と新聞なんて発行されないのに、一面クラスも何もあったもんじゃありませんがね」

 昼間に火口として燃やされた新聞、その一面には「奇病パンデミックか。政府非常事態宣言を発令」という文章が踊っており、二面以下もその内容で持ちきりだった。

 奇病と一言で語られる病。感染源もルートも不明で、唐突に全世界へ波及した病は、人間を狂わせる。昼間に路地でであった童女の如く、笑顔で人にかぶりつこうとする、狂った獣に変貌させるのだ。

 まるでジョージ・A・ロメロのゾンビだ。だのに、その奇病の患者は体に暖かさもあれば、外観も生者そのままだというのだから性質が悪い。

 外見は全くの健康体のまま、人間は獣に成り果てる。穏やかな、ともすれば惚けたような笑みを貼り付け、自然な動作で生きた人間にかぶりつく怪物へと。

 これが一目で死体と分かる存在なら、まだ対処も楽だったであろうに。怪物と脳に納得させるに易く、現代文化にも馴染むからだ。今の世の中、日本に生きていれば一度たりとも動く死者が出てくる作品を目にしたことが無い、という者は存在すまい。

 動く死者は怪物だ。敵対する物であり、明白に命を狙いに来る存在と視覚効果で理解できる。腐敗が始まった体に命は既になく、本能に任せて口を開き追い縋る。

 だからこそ戦うのは気が楽だ。討ち果たそうと燃やそうと、それは敵であり怪物でしかないのだから。

 しかし、同じく肉を喰らい臓物を引きずり出しに来る存在が、全く奇麗な生者と違わぬ容姿をしていればどうだろうか?

 昨日までの隣人が、今までと変わらぬ姿で襲いかかるのだ。

 簡単ではなかろう。殴り倒すにせよ、発砲するにせよ。何故なら、彼らは人間にしか見えないのだから。例え白痴のような顔をして、汚物を垂れ流していようとも見た目は人間なのだ。

 剰え体には暖かさがあり、呼吸までしている。一体何処が生者とことなるのか、外見だけでは理解できまい。

 故に国家は終わりを迎えた。人が人を喰らうようになる奇病を抑えきれずに。病が濃厚な粘膜接触をするか、血液や唾液による飛沫感染でもしなければ移らないというにも関わらず。

 健常な人間にしか見えず、もしかしたら治療が適うのではと思う存在を無慈悲に破壊できなかったからだ。倫理的にも、法制度的にも。多くの国家は、国民を保護せねばならぬという存在の前提によって滅びたのである。

 無論、そんな物を擲って戦った者達も居るだろうが、それが最早国家と言えるかは疑問だ。連日連夜大騒ぎをした末、全てのインフラが途絶え、何もかもが静かになったことから滅びは確実であろう。

 もしまともな国家が生き残っていたのであれば、なにがしかのアクションを見せているに違いない。それが無いということは、何処も余力が無いほどの打撃を受け、立ち上がれなくなったということに相違ない。

 生き残れたのは、自分が生きるために生者にしか見えぬ獣を殺す気概を持った者達だけだった、ということだ。

 「混乱する大学からケツをまくったのが三週間前、キャンピングカーが擱座して、此処に拠点を置いて二週間だ。長かったような、短かったような……」

 幸いな事に理性を失った獣は、人間の持つ俊敏さは喪っていた。歩みは遅く、バランス感覚も悪くて階段を上ることすら一苦労。扉を開けるくらいの知能は残れど、複雑な機器を操ることも適わず、ただただ残った本能に従って、生前の行動を機械的に繰り返すのみ。

 相手がお粗末だからこそ、国家が倒された相手に個人が生き延びることができていた。倫理観と法規を切り擦れてさえすれば、相手取るのは困難な相手でもなかったらしい。

 とはいえ、国家がそれらを棄てたのであれば、例え人間が残れど最早国家と呼ぶには能わぬ存在に落ちているので、どのみち助かる道は無かったとも言えるが。

 「しかしアレ、死にませんね」

 「死なんなぁ……」

 各々飲み物を煽りながら、何かを諦めたように言葉を零した。

 死なない、というのは倒せないという意味ではない。頭を砕くなりなんなりすれば、死ぬことはマンションの表で倒れている死体で確認済みだ。

 いや、そもそもそこまで念入りにやる必要すらない。胸付近の臓器を破壊してやれば、あれらは簡単に死ぬのだ。動きが止まり、二度と起き上がることはない。

 厄介なのは苦痛を受けても物ともしない頑丈さと、正気だった頃の行動をトレースする性質があるのか、人が多いところに集まる習性があるということだ。行動にさえ気を付ければ、生き残るのは然程の難事でもない。

 「肉体的には生きているようなナリだから、一月も耐えれば悉く餓死するかと思ったんだが」

 「薄汚れはすれど、どうして見た目は健全なんでしょうね」

 二人が言う死なないというのは、どういう訳か自然死を迎えないということであった。

 あれらは人間に襲いかかって食らいつこうとする以上、きっと栄養補給が必要なのだと二人は見ていた。だから、生存者が減れば食う物が無くなり、その内餓死して居なくなるのではと考えていたのだ。

 最早考えていた、というべきだが。水を飲んでいるようには思えないし、腹一杯になるほど食える人間など、大規模なパンデミックに襲われた大阪には残って居るまい。にもかかわらず、出くわす彼らは悉くが健康そうな見た目をしているのだ。

 つまり彼らは、極端な話食わねども体の維持ができるのだろう。一体どういう法則が働いているのかなど想像すら及ばないが、事実はそう示している。

 「一年、或いは数年で死ぬ可能性もあるが……」

 「そうなればいいんですけどね」

 零れるため息は、鉛でも入っているかのように重い物であった。大きな希望が潰えたのだから、それも仕方がなかろう。

 残る希望は、もっと時間が過ぎればあれらが勝手に死ぬと祈るだけとなってしまった。

 然もなくば生活域は狭いままで、遠からぬうちに行って帰って来られる範囲で集められる食料など簡単に尽きてしまうはずだから。

 それが意味するのは、枯れていくような死だ。あの正気を無くした獣と違って、人間は食べ物が無ければ生きていけないのだから。奇麗な水と食べ物、後は正気を保つための嗜好品なども欲しい。

 だが、欲しい物は全て人口密集地にある。スーパー、コンビニ、ホームセンター。これらは日常的に人が訪れるため、必然的に狂った連中が日中に多く屯している。

 かといって夜中に行ってみたら行ってみたで、帰る場所が分からないのか、入れないのか知らないが結構な数が彷徨っており、危険度は全く下がらない。むしろ視界が悪くなる上、光源に寄って来るようなので昼間より危険なほどだ。

 工夫して囮を用意し、誘因してから盗人のように物資を集めて凌いではいるものの、さして時間を要さずに此方の限界が先に来るだろう。死人みたいな相手と我慢比べして、人間が勝てる要素など無いと、もっと早くに気付くべきだったのだ。

 「どうしたもんだかな」

 「どうしたもんですかね」

 二人は今後を考えて暫し押し黙り……良い案が浮かばなかったのか、今日はもう考えるのを止めにしたらしい。

 「お前も一杯飲むか」

 「加水してくれるなら是非」

 「良いだろう。本当は私も氷が欲しい所なんだがなぁ」

 薄暗い部屋にグラスが打ち合わされる、澄んだ音が響き渡る。しかし、本来奇麗ははずの音は、どこか酷く投げやりで悲しげに聞こえた…………。
前にTwitterで呟いたネタです。死蔵するのも惜しかったので放出しました。
cont_access.php?citi_cont_id=714025369&s
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