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青年と犬と、もう一人 作者:Schuld
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少女と自警団と持久戦

 一つの人影が、疎らに建物の並ぶ地方都市を歩いていた。雪が踝に達するまで深く降り積もった中を歩くには、到底不釣り合いな軽装の上、武器はおろか旅装すら整えていなの姿は明らかに異質だ。

当人は何とか前に進もうとしているのであろうが、一歩一歩踏み出す度に角度がてんででたらめな方向へ踏み出される足に翻弄され、芯が抜けたような脱力を帯びる体は一所に定まることさえ難しい。

 ただただ空っぽの胃だけが痛く、薄手のジーンズとシャツだけの体は雪に対してあまりに無防備だった。もう体に燃やすカロリーがないのか、外気に体温を吸われきった体は青白く冷めている。

 筋肉が何とか熱を保とうと蠕動を繰り返して体が不気味に震え、暫く物を咀嚼していない歯は打楽器の如く激しく打ち鳴らされる。それでいて、雪は無駄な抵抗をあざ笑うように体に纏わり付き、微かな体温に溶けて更に熱を奪っていった。

 遂に限界が訪れたのか、一歩を踏み出し損ねて人影は倒れた。糸が切れた操り人形のように力なく頽れ、抵抗すること無く地に伏す。

 雪に半ば以上埋もれた視界には、もう白しか映っていなかった。体からは寒さと痛みの感覚すら失せ、逆に幸福な暖かみと脱力感が訪れる。

 ぬるま湯に体を浸したような、久しく覚えない心地よい感覚。これに抗わねば死ぬと、未だ一欠片の理性を遺す脳は警告を発する。されど、彼の精神は抵抗することなく瞑目することを選んだ。最早、生命が鳴らす警鐘に耳を傾けることすらできぬほど、彼の精神は疲弊していたのだ。

 小さく震えていた体の動きは次第に弱まっていき、さして時を要さずに止まった。動かなくなった体の上に雪は優しく降り積もり、柔らかな毛布のように姿を隠してゆく。

 それが、死者に対する精一杯の慰めだというかのように。

 「方向はいちおー合ってんね」

 「そうだな」

 そんな命が消えていく光景を、二つの視線が無感動に俯瞰していた。

 一つは金の散切り頭が痛々しい、杖をついた少女のもの。もう一つは、腕を三角巾で吊った壮年男性だった。

 彼らが冷徹に死に行く人影を覗くのは、ホームセンター三階の廊下。焦げ跡が生々しく残る壁を板材で塞ぎ、スリット状のぞき窓だけを付けた窓からだ。

 板きれの上にはささやかながら鉄板が添えられ、襲撃に対して少しでも抵抗しようという姿勢が窺える。防弾効果そのものは大して期待できないが、姿を視認し辛くする工夫は確実に敵へのストレスへと繋がるだろう。

 そんな隠れ蓑に紛れつつ、二人はつい先刻ホームセンターから解放された襲撃犯にして元構成員の姿を俯瞰していた。いや、解放と言うよりは、断頭台の綱を切ったのとさして変わらない行為であったが。

 少なくとも人間は、薄手の服だけで雪が降る中を生きていけるだけ丈夫でないことは誰にでも分かる。その上、二週間以上全く動けぬ有様で監禁され、食事すら口の端から粥のような物を流し込まれる生活をしていたのだ。

 万全のコンディションでも耐えられぬであろう状況に置かれた人間がどうなるかなど、結果を見ずとも明らかであった。

 しかし自警団がこのような決定を下したのは、別に自分たちが人を直接殺したくなかったからという、惰弱な発想に基づく結論に依るものではない。

 むしろ、先だっての襲撃やエコー達を含む物資回収斑の損失など、元構成員達に対して恨み骨髄なコミュニティ参加者は幾らでも居る。それこそ地面に首から先だけ出して埋め、糸鋸を側に添えておけば面白い光景が見られたであろうほどに。

 では、何故水も無しに海賊を海へ“解放”してやったロシア軍の真似事を自警団がしたのかと言えば、尋問結果の信憑性をこの後に及んで確かめようとしたからである。

 ある種の異常性すら感じられる執着は、知る者にはプロの仕事であると感じさせたであろう。実戦に身を置く者は、殆ど確実、という曖昧さを酷く嫌うのだ。その、ほぼという不確実性が命に響くことがあると、よく知っているのだから。

 「しかし、彼奴らが近所の市民病院に流れ着いてるのはマジみたいだからいいんだけどさ」

 「そうだな。方向は合ってる。道が確かで死体の妨害もなきゃ、歩いて半時間ってところか」

 彼は、吐いた拠点の場所が本当に正しいかを確かめるために、この雪の中に死ぬことが定まった状態で解き放たれたのである。

 人は死に瀕すると、まともな行動を取ることができなくなる。寒さと餓えに苛まれ、精神的にも滅多打ちにされた状態で正常な思考ができるのは、それこそ拷問に耐える訓練を積んだ、一種の異常者とも言える完成した軍人だけだ。

 そんな軍人では無い彼は、絶対に辿り着けないと分かって尚、曇った思考の末に帰れる場所を求めたのだ。届かぬと分かって、家のある方に足を向け倒れる。これもまた、人間の心情である。

 余裕が無い追い詰められた精神が、確実な道しるべとして彼らの前に突き立った。自分が死して尚、味方の位置を敵にばらすまいとする義士であるならまだしも、中途半端な学生だった人間だ。たとえ正確な拠点の場所が嘘だった所で、少なくとも方角だけは絶対に確かと言い切れよう。

 降りしきる雪に隠され、来春まで見つけられそうに無い道しるべが示す病院は、これといって特筆することの無い市民病院だ。

 入院棟を有するありふれた病院で、恐らくは死体が蘇るようになってからも稼働していた筈の施設。立てこもるのであれば、ホームセンターや軍基地の次点程度には好条件の場所と言える。逃げ出した彼らが居を求めて駆け込むには、実に妥当な場所であった。

 病院には独自の発電施設があるし、給仕の施設もあれば寝る場所には事欠かず、健康維持に役立つ薬品も呻るほどある。資材は頼りないし、施設の目的柄出入りする場所が多いので籠城という観点から見れば多少不利ではあるが、それでも住む場所としては魅力的だ。

 「でも、自衛隊に吸収されたってのは疑問が残るなぁ」

 先住の強力な部隊が存在しなければ、の話ではあったが。

 少女はいぶかしそうに眉根を寄せながら、窓のスリットから短くなった煙草を棄てた。茶色の巻紙の煙草はくるくる回りながら風に翻弄されて飛び、雪の中に消えていく。

 雪に沈んだ襲撃斑と同じように姿を消した吸い殻を目線で追い終えると、少女は冷え込む窓辺から体を離し、近場で燃える石油ストーブの熱を求めた。のぞき窓には何も嵌まっていないので、近くはどうしても冷え込むのだ。

 そして、心地よい熱に冷え切った手を翳して温度を取り返しながら、窓辺から体を離すことなく射るような目線を外に注いでいるおやっさんを見やる。

 「疑問が残るってのはなんだ」

 「いや、別におやっさんの尋問が心配だって言いたいわけじゃないんだよ?」

 おやっさんから自警団に通達された尋問結果は、俄には信じがたい内容であった。何せ逃げ出した面々は、新たな居として求めた病院で別の自衛隊員に拘束され、彼らのコミュニティに組み込まれたというのだから。

 病院は徒歩三〇分圏内にある。確かに死体が溢れていた時は無限の距離であり、死体が失せた今でも決して楽な場所にはない。道を塞ぐ自動車や火災の後に雪が道を阻み、実際に赴くならば一時間以上はかかる位置だ。

 しかしながら、実質的な距離で言えば目と鼻の先といって等しい場所に、もう一つ自衛官に率いられる一団がいるというのは偶然が過ぎるように思えた。

 いや、実際におやっさんが此処に居ることからして、近場に自衛隊が展開されていた事は事実なのだろう。おやっさん達だけが、その部隊の生き残りだと言い切るのは、それはそれで現実味が薄くはある。

 それでも、そんな近場に偶然居て、制圧されて服従させられたと言われても、簡単には受け入れがたいのだ。

 これで相手がおやっさんの同期やら上官だったなら、正しく映画か何かだ。ハリウッドであるなら、長年の因縁を解決するためにおやっさんの孤独な戦いなんぞが始まったこと請け合いである。

 が、残念ながらそこまで現実は劇的ではなかったようで、聞き出した人名に心当たりはないとおやっさんは言う。事実は小説より奇なりと言うが、場合に依るようだった。

 「俺の尋問に不安が無いなら、どうして腑に落ちないってんだ?」

 「いやぁ……無駄が多くない? どうして折角手に入れた武器持たせて、馬鹿五人を突撃させたのさ」

 「威力偵察の使い捨てだろ」

 少女の疑問におやっさんは一言で答えてみせた。

 確かに少女の言い分は分かる。折角得た人員を簡単に放出した上、調達斑を狩って手に入れた武器まで持たせて送り出すのは、果たして効率的と言えるのか?

ゲームではあるまいし、人間はボタン一つで補充できないしリスポーンを待つことも出来ない。補充することが極めて難しい、重要な資源なのだ。しかし、その資源の価値を決めるのは集団の性質であり、性質によって価値は大きく増減する。

 兵員一人の価値がソビエトとドイツで違ったのと同じく、自警団と病院の自衛隊とでは扱いが違う。それだけのシンプルな図式だったのだろう。

 「尋問したガキが言うに、自衛隊員自体は一個分隊にも満たない数だが、恐らく自己完結してるんだろう」

 「つまり、成果さえ出せれば自分たち以外はどんだけ死んでも構わないってスタンス……ってこと?」

 「ああ。多分、トーシロを鍛える気も養う気もねぇのさ。合理的だぜ、雁字搦めで動けなくなってる俺たちよりは」

 送り出された襲撃部隊は、最初から生還や成功を期待されていなかったのだ。だから本職であるはずの自分たちは出て行かず、ただ全滅するに任せた。

 その代わり、確実に邪魔になる上、潰しておけば牽制になる調達斑の襲撃は念入りにやったのだろう。一人も生存者を出さず、その上本職は丁寧に殺しきってあった手際を見るに間違いはない。

 彼らにとって人員の浪費は、ホームセンターのコミュニティと違って下策ではないのだ。これほどまでに人命を軽視する辺り、定住しようとしているかすら怪しかった。

 もしかしたら、蝗のような生活をしていたのかもしれない。自衛隊の戦線が崩壊した後は、装備を持って放浪しながら拠点を探し、使えそうな物を取り尽くしたら次に移動。

 籠城戦が上策とはいえない現状、移動中に包囲される間抜けさえしでかさなければ現状最も生き残りの高そうな戦法である。その効果は、無線機の向こうに居る名も知らぬ男が実証済みだった。

 「あー……シビリアンコントロールから外れたら、鋼の自衛隊員も所詮人かー」

 考えていて憂鬱になったのか、現実を軽く罵倒しながら少女は新たに煙草を探った。誉められた習慣ではないし、自分でもポーズの筈だったのにのめり込みつつあるのに危機感を覚えないでもないが、始めてしまえば癖になるのだ。ニコチンの慰撫と脱力の陶酔感が。

 「やな事言うなよ……真面目にやってる俺が阿呆らしくなってきた」

 おやっさんには、少女のぼやきが多少ながら耳に痛かったらしい。元同業の不貞行為だ、完全に無関係を装いずらかったのであろう。

 とはいえ、最早給料をくれている国も無ければ、護る物などきっと両隣の戦友以外に存在しなくなってしまったと思えば、あまり強く否定できないもの事実だったが。

 彼もまた、ここに辿り着いていなければ、四人の部下と生き残るため、どうしていたかなど分からないのだから。

 元より苦みと辛みがきつい銘柄ではあったのだが、おやっさんには煙草の味が一際不味く感じられる一瞬だった。

 「他意はないんだけどさー? 情け容赦の棄てた本職相手に戦争となるとね……やってらんないなぁ……諦めてくんないかな?」

 しかし、如何に理由を付けようと襲われる側からすると差して重要ではない。殺すか殺されるかの状況に立ったなら、最終的には立場も身分も関係なく、互いの臓物の暖かさを確かめ合うだけになる。

 むしろ、多くの人間にとって、生き延びることが人生の目的となりつつある今では、それこそが重要なのだ。背景や事情など、耳垢ほどの重さも持たぬ。結局は生きた死んだの話に行き着くのだから。

 「無理だろ。即応戦力の無さは確かめられたし、多少は手傷を負わせたが、返って激高させただけだと思うぞ、俺は」

 「えー? ヴァシリ・ザイツェフみたいな凄腕が居るってびびったりしないかな? 結構良い腕見せたと思うよ?」

 何で有名所を例えにするとして、プロパガンダ利用されたと思しきスナイパーを引用するのだろうかと首を傾げたが、おやっさんは構わずに続けた。

 これでいて割とミーハーな趣味をしている所もあるので、どうせ映画の俳優がお気に入りだから、とかいう理由に違いあるまいと思ったのだ。

 「お前くらいやれる奴は、珍しくもないんだよ」

 それでも釘を刺すために黙ってはいなかった。妙に利己的で大人しくする所があるように見えて、興が乗ればとんでもない無茶をしでかす女なのだ。杭として出っ張る分には結構なのだが、抜け落ちて杭として機能されなくなるのは困る。

 「ええー?」

 「本職舐めんな。後、俺たち四人じゃどうやってもカバーできん。戦力を漸減して殺りに来るぞ……本職だからこそ悪辣でねちっこい」

 「あー、そうか……飯食う暇もクソをひる暇もねぇ、ってやつか。ほんと、大東亜戦争染みてきた」

 女子高生らしくない発言に次ぐ発言に、咥えていた煙草が揺らいで灰が落ちた。流石にポイ捨てを叱る存在が居なくなったところで、未だ居住スペースに灰を落とすような行為は厳禁のままだ。

 もう少し言葉を選べと言おうとしたものの、首を巡らせた時には、既に少女は伸びをしながら窓から離れようとしていた。

 「おい、何処行くんだ」

 「ん? 寝る。夜は不寝番やるよ、昼間のシフトはおやっさんよろしく。流石に私は、穴掘って三日三晩埋まるドイツの狙撃手ごっこはできないし」

 振り返りもせず、ひらひらと手を振って廊下の向こうに消える少女。このまま寝床に帰り、小銃でも抱いて日が沈むまで寝るのだろう。

 この葬儀をするにもしづらい、沈んだ空気に付き合いたくもないと言うように。悼むも悲しむも、当人の心次第だ。彼女は前と違い、喪に服して大人しくするつもりは無いようだった。

 いや、前は前で大人しくしきれていなかったし、一人で四人殺す大立ち回りだ。今もまた、大人しくしているつもりが無いと言えば無いのだろう。

 「……結局、狂人の考えは理解できんということか」

 誰にも聞こえない呟きを肯定するように覗き窓から風が吹き込み、煙草の煙が静かに燻った…………。











 薄暗い部屋の中、少女は一人身を丸めて寝入っていた。在庫だけは幾らでもある毛布や湯たんぽに埋もれ、手負いの獣が傷を癒やすように深い深い、夢すらも見ない眠りに落ちている。

 元より眠りは深く短い性質だから、少女は夢に馴染みが薄いが、今では自分の性質に感謝していた。最大の隙である睡眠時間を短く済ませられるし、恨みがましい声を聞かずに済むからだ。

 恨みがましい声。自分の過去は、不意に這い上がってくる。ふとした物を見た時や……寝入っている時に。

 しかし夢は記憶の整理であり、過去に見聞きした物を覚えるために脳がする処理行動だと言うものの、少女は少ない夢の中で幾度も声を聞いた。

 自分を恨む、知っている多数の声をだ。それは同輩であったり先達であったり、時には後輩だったり両親であったりしたが、その全てが今生きている自分を詰る内容であることに違いはない。

 ただ、少女にはそれが不思議でならなかった。

 別に恨み言を直接聞いたことが無いからだとか、断末魔以外に聞いていないからとかではない。たとえ知らぬことでも、人は夢に見ることはできるのだ。訳の無い悪夢、いわれの無い拒絶感、兎角そんな物も夢には現れる。

 されども、そういった夢は一般的に、見捨てたり殺した事を悔いているから見るのではないだろうかと思うのだ。

 少女は生き延びるために、多少なりとも汚いこと、人道に悖ることをしてきた。これから生き残る為に何でもする覚悟があったように、過去にも同じ覚悟を決めて、実際に行動で示してきたのである。

 コトは彼女が学内に居た頃に起きた。より正確な時分を言うのであれば、何処かの狂人二組が部室で駄弁っていた時だ。

 放課後に部活動の新入生勧誘などで、学内は未だに賑やかだった時期、校舎に人は沢山残っていた。運動部や文化部の部員に、どの部活に入ろうかを品定めする新入生達と監督の教員。

 少女もまた、何の変哲も無い一人の学生として、何処にでもある光景に紛れ込んでいた。

 発端は、確か正門で響いた叫び声だった筈だ。校門の向こうから聞こえる、女子生徒の助けを求める甲高い声と、年老いた何の役に立つのか疑問に感じる警備員の怒号。

 その後、校内のざわめきの中でノイズ混じりの校内放送を聞いた。学校に変質者がやってきたから、決して校舎から出てはいけないと。

 今だから分かる。その常識的な対応が、何よりの悪手だったのだ。

 生徒達は下らないことを話しながら、話半分に聞いているふりで怯えを隠し、校舎に引き上げる。そして、きっと誰かが助けに来てくれると信じて待ったのだ。事態が時間と共に悪化することしかできないと知らず。

 まぁ、考えてみれば極めて単純な図式ではあった。日本は法治国家であるし、米国のように市井に銃が溢れている訳でもなくば、独裁国家のように指導者のフレキシブルな命令を受けられる訳でもない。

 結果として、奇病としか事態の最中に語られることのない病に対応できなかったのだ。自衛隊は押っ取り刀で軽々しく出て行ける集団ではないし、ROEすら整備されていないのに狂した自国民相手に何かが出来たりもしない。

 そもそも要請がなくば、どれだけの騒ぎがあった所で出て行くことすらできぬのだ。役立たずと罵る者も居るかも知れないが、そうしたのは武装集団に奇妙なアレルギーを持つ国民だ。論じようが批判しようが、コトが起こってからでは遅すぎる。

 理性的な法治国家故の弱点で、事態の解決は不可能になったのだ。せめて政府がもう少し早く、奇病感染者への対策を明文化できていれば話は違ったのかもしれないが……。

 野党も市民団体も兎角五月蠅い我が国において、それは望み薄だろう。結果的に自衛隊や在日米軍が動き始めたのも、全てが手遅れになってからであったのだし。

 事態は加速度的に悪化する。一人が噛まれて死ねば直ぐに変わり、二人三人と伝播していった。人間はどうしても、人のカタチをした物に暴力を振るう際に物怖じしてしまうのだ。だから“変質者”に襲われ、保健室にて出血多量で息を引き取った女生徒を誰も止められなかった。

 いや、首を噛まれて彼女のように肉を抉られた何人かは、動いている彼女が死んだことにも気付いてなかったのだろう。死体に触れる機会が少ないだろうし、死んだばかりの動く死体は結構瑞々しいのだ。眼球ですら、生者の透き通ったものと変わらぬほどに。

 むしろ、それが事態の悪化に一役買ったのかもしれない。生きた人間と死んだ人間、事態が始まったばかりの頃は実に区別が付けづらかっただろう。負傷してふらついているのか、それとも心臓が止まっているのか。一目で区別することなど、実質不可能だった筈である。

 さりとて、どちらにせよ危険だから、生きているか死んでいるかなど構わずぶっ放せ、などと言える訳も無い。シビリアンコントロールに伏する軍隊であろうが、公共の守護者である警察だろうが出来る筈が無いのだ。

 それが出来てしまえば、その国は最早法治国家ではなくなる。つまり、日本は法治国家であったが故に、法治国家として滅ぶべくして滅んだのであろう。

 果たしてそれが、国家として誇り高いあり方であるかは、今となっては誰にも分からない。判断を下すべき歴史家もまた、悲劇と呼ぶべき歴史の一部に呑まれて消えたのだから。

 後に残るは、生き延びようと必死になっても生ききれない、無力な人間だけだった。

 とまれ、悪化する事態の中、少女は生きるために逃げようとした。即席の武器を手にし、幾人かの居合わせた同輩や友に後輩を連れ、死者の饗宴が開かれる学舎から。

 その時、周りには二桁に届こう人数が居たのを覚えている。人間は不安になれば、群れずにいられないものなのだ。だから、名も知らぬ生徒も居れば、授業を受けたこと無い教師の姿もそこにはあった。

 凄惨な事態を前にして、皆が皆冷静であったとは言い難い。それでも、各員のできる限り周りを思いやり、生き延びようと努力した姿は賞賛されてしかるべきであろう。その中で、多少とはいわず努力した少女は、当事者ながらに考える。

 しかし、それでは生きて行けそうに無いと少女は悟った。物資は足りず、戦える人間は少なく、それでいて餓えた死人を惹き付けるには十分過ぎる人数。全てが不利に働く。

 逃げながら、戦いながら、死体から逃れた家屋の中で眠りながら少女は一つの結論に行き着いた。今までの生き方はもう、生き易い生き方ではなくなってしまったと。

 協調し流され、適度に頼られ信頼される。人類社会の中で生きるとすれば、良い立ち位置ではある。だが、戦いながら生きるとすれば、そのポジションは常に摩耗することを要求される盾でしかない。

 共に脱出した男子生徒、現に彼がそうだった。部活動で優秀な成績を残し、立派な体躯と高潔な精神で皆を学外まで引っ張り出し、生存の目を作った彼は、尊かったが哀れでもあった。

 役に立たない女教師の代わりに皆を率い、前線に立って物資を集め、ふらふらとやってくる死体を消火斧で叩きつぶす。彼が求められ要求され、果たしていた事は皆のために骨身を削ること。つまりは、折れるまで戦えと環境に強いられることだったのだ。

 当人も己の立ち位置を理解していたのか、進んで傷つこうとしていた節すらある。誰かが誰かの為に戦い、安全を作る。実に人間らしい振る舞いだ。

 しかし、人間らしくては生きていけないのだ。特にこんな、倫理や常識が失せた、気の触れたような現実だけが残った状況では。

 盾として使い潰されることが期待される現状を少女は嫌い、集団から離脱を試みた。できる限りの物資を持ち、ダメージを受けないままに。

 されども見張りを交代で立て、一晩毎に死体を逃れようと郊外に近づいていく生活の中で、ふっと煙のように遁走するのは難しい。

 だから少女は手段を選ばなかった。逃避行の最中、機会を見て逃げ出したのだ。自分が助けねば皆が死ぬ、という状況に至って。

 何をしたかは覚えているが、どのような過程があったのかは、最早少女の頭の中ででも曖昧であった。どうでもいいと思っているからか、それとも内奥で思い出すべきでは無いと思っているのかは判別できない。

 フラッシュバックする事実は、ほんの幾つかの場面に切り取られている。

 助けを求める、太ももを噛まれた同輩を蹴り落とし、死体の海に投げ込んだ。叫ぶばかりで役に立たぬ養護教諭の腕を振り払い、死体が群がるに任せた。無駄に物資に拘る馬鹿を捨て置き、自らが持てる最低限を持ち、重荷に震える助力の懇願を無視もした。

 そして、信じていたのにと泣きすがる、自らに憧れていた後輩を階段から突き落としすらした。彼女が騒ぎながら扉を開けたせいでやってきた、なだれ込む死者の群れから逃げるために。

 全ては雪崩式に起こったこと。少女には、客観的に見て咎は無かったはずだ。だから特に迷い無く切り捨てられたとは言わない。状況が後押しせずとも、遠からぬ内に少女は彼らを見捨てたであろうから。

 混乱も死体も契機でしかない。また別の契機があるなら、如何なる混乱が起こらずとも、少女は全てを切り捨てたはず。咎められるような理由を被ったとしても、だからなんだと鼻歌を零しながら、なるべくしてなったのだ、と冷たく考えて。

 だから別段、見捨てたり囮にして殺したことに何の呵責も覚えない。助けなかったら死んだのを、世間では未必の故意と言うらしいが、果たして自分が殆ど死ぬ状況に飛び込んでまで助ける必要は何処にあるのか?

 そんな命を投げ捨てるのが人間らしさだというのなら、少女は真っ向から、そのお大事な人間らしさとやらに唾を吐きかけただろう。

 だから直接的に殺した人間は、ただ一人だけだ。どうして、彼はそう咎めながら、何体もの死者の血を吸った斧を振り上げていたような気がする。

 回答は単純だった。何も言わず、鳩尾に蹴りを見舞い、窓からたたき落とした。人生で繰り出した中で、最も絵になった後ろ回し蹴りであったと少女は回想する。飛び散るガラス片と差し込む夕日、ぽかんと見開かれた彼の表情が、数少ない記憶の中で絵画の如く焼き付いていた。

 少しして、下から重い何かがコンクリートにぶつかる湿った音と、餌を投げ込まれた死体の低い歓声が響き、自分は別の窓から避難用縄ばしごで隣の建物へ逃げた。

 後は、市街を一人で点々としつつ、ここに合流した訳だ。本当に起こった事など単純である。少女は自分の中にある、生き易い方法に従ってみせたのだ。何があれど、死ねば終わりだと囁く自我に従って。

 人に事実を聞かせたことはない。どうやって此処まで辿り着いたのか。辿り着くまでの数日間を如何にして生き延び、装備を何処で拾ったのかも。

 きっと誰もが目を潜め、声を低くしつつも何も言えないだろうから。此処にいる人間は、大なり小なり何かを傷つけたり見捨てたりしたから、生きているのだ。詰る権利も誹る権利も持ち合わせていよう筈が無い。

 だが、それでもきっと気持ちよくは無い筈だ。生き残る為に誰かを犠牲にした人間と、純粋な笑顔など一体誰が交わせようか。

 誰かが生きるために死ね、と命ずる世間に少女は唾を吐いて生き延びた。だが、誰かの為にクソのような外れ籤を引け、という立場にあったらどうするかを考えた事は無かった。

 だとしたら、生き延びて斯様な立場に収まろうというのは、実に滑稽な事ではなかろうか。暗い暗い笑いが、喉の奥からわき出してくる。

 笑いは次第に連続し、疳高いものへと変わっていく。いや、気がつけば笑いは目覚まし時計の耳障りな電子音へと変わっていったではないか。

 閉じられていた目が開く。剣呑な雰囲気の半目は、自分が曖昧な眠りの中で夢を見ていたのかとぼんやりとしたままだ。

 しかし何時までも寝てはいられない。目覚ましが鳴ったと言うことは、今日もまた面倒くさい一日が始まってしまうのだ。流れ流れた先が、先行きの暗い檻の中だったと嫌でも突きつけられる一日が。

 自警団は今や、優しい大人達の集団ではなくなってしまった。組織を保つため、コミュニティを護るため発足された過程を無視し、治安維持活動をしなければならなくなる。

 さて、我らに一体どんな差があったのか。誰に問うたところで、納得できる答えは返ってなど来るまい。

 弾圧する側とされる側が生まれる切っ掛けなど、実に下らないことなのだ。少女は寝床でくしゃりと潰れていた煙草のパッケージを手に取ると、目覚めの一服を堪能しつつ、口の端を皮肉気に歪めた…………。
 お待たせしてすみません。色々あって遅くなりました。あと一回くらいは年内に更新したいと思っております。
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