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青年と犬と、もう一人 作者:Schuld
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青年と汚物槽と夢

今回少々人体破壊描写があります
狭い個室の中を蒸気が覆い尽くしていた。しとしとと降る雨のような景気の悪さでシャワーヘッドから温水が降り注ぐそこは、掃除用具入れのロッカーもかくや、という程にこじんまりとしたシャワールームであった。

 その中に矮躯の青年と黒銀の毛並みも艶やかな大型犬が詰め込まれており、非常に窮屈そうであった。それでも、お湯とシャンプーの慰撫に包まれた二人は何処までも気分良さそうにしている。

 青年の右手は濡らさないようにするためかビニール袋に包まれており、間に合わせの包帯の上には更にラップが巻かれて完璧に防水が施されていた。

 右手を庇いながら左手だけで頭を洗うのは難易度が高いことだが、へし折れた指で頭を洗うわけにはいかないので致し方ない。

 青年は死体が動き回る前から愛用していたシャンプーで髪を洗い、濡れたせいで普段より幾分か見窄らしい見た目になってしまった大型犬、カノンには犬用の蚤取りシャンプーの泡を立てる。溜まった垢や汚れを、ここぞとばかりに浮かそうと、泡が盛大にシャワールームを舞っていた。

 泡が出るようになるまで随分と時間がかかり、頭にシャンプーを垂らすこと青年は都合三回目、カノンは二回目だ。長く蓄積した頭皮より滲み出た泡はシャンプーに落とされるも泡を立たせない。たっぷりシャンプーを使ったとしても、べったりと髪の毛が重くなってボリュームが増すだけだったが、流石に何度もやれば頑固な汚れも落ちるものだ。それに、汚れがこびり付いているのは体も同じだから、湯を出来るだけ浴びてふやかしておかないと垢も落ちないのだし、結果的に時間を掛けても損はしない。

 一ヶ月以上の汚れを汚れを頭から落とした後は体をボディブラシで擦るが、垢が剥がれ落ちて薄汚い白い塊になり溢れるだけで泡は殆ど立たなかった。やはりぬるま湯に浸したタオルで擦るだけでは体を清潔に保つには限界があるのだ。

 青年はボロボロこぼれ落ちる角質を睨め付けながら、風呂に入りたいと心の底からねがった。

 暖かで景気よく降り注ぐシャワーをたっぷり浴びて体の汚れを落としきり、殆ど生えない性質ではあるが、微妙に伸びた髭を丁寧にそり落としてから湯船に浸かるのだ。青年は熱め湯に長く浸かるのが好みだ。汗を沢山流して血行を促進すると共に、シャワーでは流しきれない毛穴の汚れも落としきる。42℃の熱い湯船の中でストレッチなんぞしつつゆったりと一〇分程鼻歌でも零し時間を過ごす。それさえできるのなら、青年は何でもするだろう。

 前は一日の終わりに好きなだけできた事ができなくなる。なまじっか、その快感を知っているが故に恋しさは募り現状が苦しかった。こんな勢いが弱く、そのせいで妙に温度が高く感じられるシャワーよりも、適温のお湯が勢いよく浴びられるシャワーが狂おしい程に恋しかった。何より、中途半端に欲望が満たされている状況がもどかしい。

 青年の懊悩も何処吹く風と言うように、体に少しついていた蚤を落とせたカノンはご機嫌だ。外を歩けばどうしても蚤はつくし、冬場でも室内暮らしが長い犬ともなれば蚤も生き残る。もし寒さで死んだとしても、卵は残るのだ。だからこそ、カノンも一緒にシャワーを浴びさせているのだが。

 犬蚤は犬にしか付かないが、猫蚤は犬にも猫にも、そして人間にもつく。青年には蚤の区別なんぞ付かないので、大変でもこうやってカノンを洗ってやるしかない。ただでさえ風呂にあまり入れないせいで痒くなる事が多いのだから、痒さの元は可能性から断っておきたいと考えるのは当然であろう。

 すっかり泡と垢を流し終えた所で、人との接触が無いのがせめてもの救いか、と青年は溜息を零した。これで不潔な人間が周囲に沢山居たとしたら、今度はシラミに頭を悩ませる事になっただろう。死体だけでも十分過ぎる程の脅威だというのに虫まで加わっては目も当てられない。

 長く病床に伏せっていたが故に掻いた大量の汗と、浮かび上がった垢は完璧に落とされた。神経質に擦りすぎたせいで、体全体が僅かに赤みを帯びている程だ。それでも青年、カノン共に暫くは清々しく過ごすことができるだろう。

 風邪を惹かないように浴室で体を拭いてからキャビンに戻り、丁寧にドライヤーを使って毛を乾かす。カノンは二重の被毛を持ち、その上水を弾く油を分泌できるからかドライヤーをあててやると直ぐに乾いてしまう。雪国で犬ぞりを惹く犬種の面目躍如というところだろう。

 青年も体を乾かすと、備蓄用物資の中から新品の肌着にシャツとスラックスを取り出す。着替えの予備は沢山あるので、こんな贅沢も気にしないで出来るのだ。汚れきった下着と寝間着は、もう此処で捨てることにした。新しい物が欲しければ、大型の量販店で積みきれないほど手に入るし、肌着なら最近はコンビニにも置いている。手に入れる伝手はいくらでもあるのだから、惜しむ必要は無かった。

 文字通り皮を何枚か脱ぎ捨てたような爽快さに包まれながら、青年は珍しく相好を崩し満足したように微笑む。汚れきった世界の中で、数少ない心が安まる瞬間であった。例え、片手でボタンを絞めるのに難儀して、少し左手の指が攣りそうになっていたとしても。

 軽く水分を補給してから、寝込んでいた数日間の間に随分と汚してしまった部屋を掃除する。ゴミをゴミ袋にねじ込み、食べかすを濡らした雑巾で拭った上でから拭きし、汗や垢を吸って色を変えたシーツを取り払う。シーツは洗うと手間なので、青年はこれも捨てるか焚き付けにでも使うことにした。

 病み上がりという事もあって体が重かった。体力も落ちているし、シャワーを浴びて疲れもした。そして掃除の追い打ちだ。まだ日も高いが、青年は疲れで眠気を感じていた。

 まだ、しなければならない事は沢山あるけれども、眠気ばかりは仕方が無い。耐えようと思えば耐えられるが、作業効率が落ちるのは避けられないだろう。青年は何日も寝ないで動けるような訓練を受けた軍人ではなく、現代のぬるま湯に浸かって生きてきた大学生なので、それも致し方ないことであった。

 カノンの皿を軽く濡らした布巾で掃除してやり、食事と飲み水を盛ってやってから青年は一寝入りすることにした。疲れている事もあって幾らでも眠れそうな勢いである。

 汗を流して清々しい気持ちになり、清潔な被服を着て寝床は新たにベッドメイクしなおした甲斐もあって綺麗だ。もの言わぬはずの寝床が、蠱惑的な迄に誘いかけてくる。このまま自分に身を埋めてしまえと。

 茫洋としたまま作業をしても仕方が無いし危ないから、もういいか、と自分を納得させて青年は体を寝床に放り投げた。靴を面倒くさそうに脱ぎ、そのまま蒲団にくるまって目を閉じる。風呂に入るためにつけていた発電機は既に沈黙しているからか、部屋に落ちた静寂は耳に痛いほどであった。

 青年は冷たい蒲団に自分の熱が移るのを感じながら、あっさりと意識を手放した。眠りたいときに眠れるようになったのは、この旅路で唯一まともな収穫と言って良いだろう。

 カノンは餌皿の前で暫し沈黙しながら待っていたが、青年が完全に寝入ってしまった事を確かめると、仕方ないかとでも言うようにもそもそとドライフードに手を付けた。

 疲れ切った青年は、許可を出す事さえ忘れてしまっていた…………。










 「FU●K!」

 妙に流麗な発音での罵倒が嫌味なまでに澄み渡った青空の下に響き渡り、〇八年版京阪神ロードマップと書かれた紙の地図が地面へと叩きつけられた。

 長髪の女が珍しく束ねていない髪の毛を掻き毟りながら、真っ黒な巻紙の煙草を噛みしめる。犬歯をフィルターに食い込ませ、繊維と紙が断ち切れる鈍い音が鳴った。

 「ちっくしょう、幹線道路や高速が駄目なのは分かってたが、何だコイツは」

 がしがしと頭を掻きむしる度に痛んだ毛が僅かに千切れて宙を舞う。それでもお構い無しに、女は鬱憤を晴らすかの如く頭を乱暴に掻き乱した。

 キャンピングカーの屋根で仁王立ちしながら進行方向を睨め付ける女の心が安らかならざる理由は唯一にしてシンプルだ。道が無いことに尽きる。

 女は自衛隊の基地に保護か武器を求めて走る事を提案し、青年はそれを受け入れた。だからカーナビやロードマップを頼りに道を裂がしながら進んだのだが、これが難航し殆ど断念した方が良い状況になりつつあった。

 東大阪から伊丹の自衛隊駐屯地、つまりは兵庫県まで行くには外環、環状線外回りの高速道路を使うか下道でトロトロと走らなければならない。ルートとしても、天王寺から高速に乗ったり東からキタへと向かうなど幾らか方法はある。しかし、その悉くが上手く進んでいなかった。

 まず、放置車両の問題である。そこかしこで混乱が起こり、その結果自動車事故が多発したせいで道路の多くは使い物にならない。車が駄目だと思って道の端っこに鍵を残して扉を開けたまま立ち去るという、自動車教習教本に書かれた手順を皆が守っていれば話は楽だった。だが、現実は得てしてマニュアル通りには進まないものだ。パニックに陥った群衆は車を適当な所に放置したり、後で取りに来るつもりなのか多くが扉をロックし鍵を持って逃げてしまった。そうなると、もう車を動かすのは困難だ。

 牽引するなど方法が無い訳ではないが、それでも道が広い場所などの条件が重なっている必要があるし、サイドでロックがかかっていれば、もうどうしようもない。

 死体に驚いて事故を起こしたり、死体になる前段階の高熱で集中を欠いて操作を誤るなど事故車両も多く、事故の結果通れなくなった道を放置車両が更に塞ぐ。網の目のように通った道路は、その要所要所が詰まってしまい、最早かつてのスムーズな流通を取り戻すことはないだろう。

 次の理由は火事だ。遠方を見やれば、遠く煙がたなびいている所が幾つも見られた。工場排気ではない、炎が上げる濁った黒い煙だ。

 恐らくだが、死体の襲来と襲撃は本当に突然であったのだろう。だからこそ人々は対応できず、混乱で事故が多発した。そして、その傾向は人が多い市街地であればあるほど顕著な筈だ。勿論、火急の現場で人間は冷静に火の始末などしていられない。あり得る事態として、事故車両が炎上しガソリンスタンドなどに引火する可能性は否定しきれない。そして、あの炎は、遠くに臨む市街から上がる炎だ。

 女は大分短くなった煙草を吐き捨て、新しく煙草を咥えた。コンビニに行けば幾らでも手に入るから消費速度は気にはならないが、ここ数日で消費量が一気に増えていた。

 「おい、後輩。信じられるか、燃えてるぞ」

 床、ひいてはキャビンの屋根を蹴りつけて女は下に聞こえるような大声を上げた。声に反応して近くにあった家の庭で死体が反応するが、連中には門扉を開けたり壁を越えるだけの知能は無い。

 「見えてますよ」

 壁に阻まれてくぐもった返答が聞こえた。平素通り平坦で抑揚も何も無い声。感情など大凡一片も滲ませない声の持ち主は、やはり表情も普段通り何ら感情らしき色を滲ませぬまま仏頂面で運転席に座っていた。

 「信じられるか、梅田だぞ梅田。梅田が燃えてやがる。あの梅田がだ」

 大阪キタの通信網を束ねる中枢にして、キタでも有数の繁華街を抱える大阪梅田。電車交通の中枢である大阪駅は事故で盛大に燃えさかっていた。原因は定かではない。しかし、数十キロと離れた場所から観測できるほど、その煙は盛大に上がっている。

 燃え続けているのだ、今も。彼等が屋上に籠城した五日間、女の下宿先で準備をした二日間、そして、ここに至るまでの四日間を過ぎて尚。

 街を覆うのは行き交う人々の喧噪ではなく燃えさかる炎が爆ぜる音。かつて大勢の買い物客を収容したそびえ立つビルの群れは表面と内部を火に炙られ、黒く染まった鉄骨を覗かせる墓標と化した。街路を忙しく駆けていた通行人の姿は失せ、今や取り残された死体が虚しい呻きを上げながら舞い散る火花を浴びている。

 大阪有数の街が燃えていた。無惨に、二度と取り戻す事の無い日々を薪にして。その焚き付けは日常に生きた人々だ。天に立ち上る黒い煙は、その中に消えていった無数の魂が上げる怨嗟の声のようであった……。

 「ああ、畜生。こないだ良いコート見つけたんだがなぁ……」

 咥えた黒い煙草に火を付けて、女は寂しそうに呟いた。あの街は女も偶に行っていたのだ。女の下宿先からなら天王寺や難波の方が近いが、それでもキタとミナミでは雰囲気が異なる。買い物のため、多くの店を冷やかして財布の底を覗かせる作業に勤しんだ場所でもあった。

 「彼処が焼けたら、帰るのが大変なんですがね」

 青年の零した感想、その意味を考えて女は軽く鼻を鳴らした。ジョークにもならないジョークだ。一体、誰があそこから電車で家に帰れるというのか。

 「お前も関西人なら、もう少し面白い冗談を吐いてみろ」

 軽口に軽口で答えて、女は煙を中に吐き出した。遠方で盛る黒煙とは対称的に真っ白な細い煙。それは、人の命のようにあっさりと虚空に溶けて拡散する。

 「すんません」

 青年も、普段はあまり使わない関西人が持つ独特のイントネーションで答えた。あまり使わないだけで、その気になれば他地域の人間が想像するステロタイプな関西人が使う関西弁も彼等は使えるのだ。平素用いないのは、日常に浸透した標準語の影響が強いだけに過ぎない。

 「ちっ……次の通路左折しろ。もう地図は役にたたないぞ。このデカ物が通れる道だけ選んで進んでたら、どこに辿り着くことになるのやら」

 言って、女は天窓からキャビンに降りた。屋根に上ったのは火災の規模と、正確な位置をおおざっぱに確かめる為だった。故に、梅田が燃えている事を確認できたなら、何時までも上に居る必要性は無い。それに、屋根に突っ立ったまま車を走らせる訳にもいかないのだ。人間は時速数十キロで走る鉄の箱に直立できるほど頑丈には出来ていない。

 女の命令に従うように、青年は停止させていたエンジンを起動させ、未だに慣れないクラッチ操作の手順を踏みながらキャンピングカーを緩やかに発進させた…………。










 鈍い音を立ててスコップが深々と地面に突き刺さった。放置されたせいで固まった土塊が吹き飛び、根を這った名も無き雑草が無惨に断ち斬られる。

 ジャケットを腰に巻いてシャツの袖を軽くまくった青年は袖で額に滲んだ汗を拭う。一二月の風が吹く寒空の下であっても、重労働をすれば流石に熱かった。

 彼が立っているのは広い農地の端。側の農道にはキャンピングカーも止められており、その傍らではカノンが警戒の為に佇んでいる。

 再びスコップの刃が地面を抉り、掘られた穴の深さを増す。駐車されたキャンピングカーから少し離れた位置に掘る穴は、身を屈めさせれば人を一人軽く埋葬できる程度の大きさである。

 大体こんな所でよいか、と判断した辺りで青年はスコップを地面に突き立て、今度は袖では無くハンカチで額を拭った。数日間寝込んだ体は露骨に硬く、体力も落ちているせいで重労働が酷く堪える。推測というより最早確定した予言であるが、明日は筋肉痛で悶えることになるだろう。

 筋肉痛のリスクを負いながらも何故、こんな穴を掘っているかというと、一つの問題を解決するためだ。キャンピングカーの掃除である。

 キャンピングカーは非常に大きな宿泊用キャビンを備えた車であり、その内部に一定の居住性を要する。特に、青年の乗る大型キャンピングカーは米国製で、その中での長期居住も考えられた趣味的な物というよりも半ば住居として利用されるものだ。その為、内部にはバスユニットに水洗トイレ、キッチンが備えられている。

 ただここに済んでいるだけなら問題もないのだが、当然のように人間は排泄をするし炊事もする。特に、青年は先程シャワーを浴びたばかりだ。つまり、大量の水を使うのである。

 このキャンピングカーは大型でシャワーユニットまで備えているので、清水タンク容量は120Lと大容量だ。ただ、それでも成人が節約しながら二回も浴びたら空になる程度の容量でしかないが。

 兎角、中で生活する以上は水を使う機会は多い。青年も極力節約してはいるが、どうしても欠かせない事もある。特に、普段は誰が見るわけでも無いので、安全が確保できるならば用足しはその辺に穴を掘って済ませているのだが、夜間ともなるとそうもいかない。小さい方なら、汚い話だが天窓を上がって屋根からしてしまえば何とかなる。だが、大きい方ともなると、そうもいかないのだ。

 視界が悪い中で穴を掘り、周囲を警戒しながら用を足すのは実質不可能だ。二人居れば何とかなったかも知れないが、そうもいかないのが現実である。勿論、昼間の内に済ませておく等の努力は欠かさないが、生理機能など人間に抑えることは不可能な訳で、結局夜間に催してしまうことも少なからずあった。

 水洗トイレユニットがあるので、それを使うのは良い。ちゃんと用を足して清潔にして出ることはできる。だが、これはキャンピングカーなのだ。家屋のトイレの如く下水には接続されていない。となると、流した物は何処へ行くのかと問われれば汚物槽だ。

 キャンピングカーは以前の世界の倫理観に従って作られているので、当たり前だが汚物を撒き散らしながら走る訳には行かない。よって、一時的に汚物槽へ汚物を溜めてから掃除することになる。だが、これが面倒な上に異様に大変なのだ。

 汚物槽の要領は、青年のキャンピングカーで一五Lまで入る。これを掃除するのは大変だし、汚物槽の中身を出せば良いだけではない。汚物槽とトイレを繋ぐパイプも小まめに流さなければ臭気が逆流しキャビンの中は悲惨な状況になる。青年は一回、これをやらかしていて以来、汚物槽の掃除には非常に敏感になっているのだ。なにせ、態々専用のトイレ消臭剤を手に入れる為、大型の車用品店を探した程である。潔癖症持ちにきつい臭いは相当耐えがたかったらしい。

 兎角、使った後は掃除しなければならないのだ。とはいえ、昔と違って掃除の手間はそこまでかからない。こそこそと公衆トイレまで持ち込んで流す必要は無いのだ。普段の用足しと同じで、穴を掘って流すだけでよい。

 青年は心底嫌そうにスコップと一緒に持ち出していた真新しいゴム手袋を装着すると車体側面に設けられた蓋を開けた。

 蓋は汚物槽の収容場所だ。大抵はトレイユニットの付近に据えてあり、簡単に外せるようになっている。青年が使っているタイプでは、丁度トイレの下部にタンク来るように設計された、長いパイプを要しない物だ。その為、パイプの掃除が特別必要ではないのが有り難い所だが。

 取り出したスーツケースほどの大きさがあるタンクの中で、液体が揺れる音が響いた。擬音にするなら、ドポンとでも表するべき水音を聞いて、青年は顔を露骨に顰める。寝込んでいる最中は外に行けず、ここで用を足していたので半分ほど溜まってしまったらしい。

 数度、大きく深呼吸して排出口の蓋に手を掛ける。排出口はL字の管になっていて、横に動かすことで本体から排出口が離れ、内容物の廃棄が容易になっている。

 逡巡し、更に数度深呼吸。覚悟がいるのだ、色々と。自分が出した物だと分かっていても、汚い物は汚いのである。ふと見やれば、カノンはちゃっかりと距離を取ってキャンピングカーの向こう側に待避していた。彼女としては嗅覚が人間など比べものにならないほど鋭いので、青年以上に汚物槽の臭いとは関わり合いになりたくないのだろう。

 更に覚悟を決めるために時間を掛けること数分、長い懊悩の後に漸う蓋を開けると、嫌な臭いが周囲に広がった。

 「ああ、くそ……」

 鼻を肩口に押さえ、少しでも臭いを嗅がないで済むように足掻きながら、タンクを傾けて排出口から汚物を掘った穴に捨てていく。元より中に消臭剤が入っているので臭いは抑えられているのだろうが、それでも例えようも無い嫌な臭いを放っている。青年からは見えないが、カノンは不快そうに鼻を鳴らしていた。

 「あー……中で軽く詰まってるな……失敗した……」

 持ち上げて、タンクを軽く振って排出を促すが、中から軽い音がまだ聞こえている。汚物を全て出し切れなかったのだ。青年が細かい原理を知らないが故に起きた失敗である。

 キャンピングカーは走ることで揺れるのだが、この時汚物槽の中身も一緒に揺れて攪拌され全て液状になるから綺麗に中身を排出できる。しかし、殆ど走らせないままにここ数日間の汚物を捨ててしまったが為に、まだ完全に処理しきれなかったのだ。

 とはいえ、手を突っ込んで掻き出すこともできないので、青年は諦めてペットボトルから水を注いだ。これは以前の雨水を集めたものでミネラルウォーターではない。流石に、飲める物を汚物掃除に使う事は青年も気が咎めたらしい。

 ある程度水を注いだ後で蓋をし、左右にシェイクして汚れた穴を水に注ぐ。同じ工程を数回繰り返してタンクの中身を注ぐと、最後に水を入れ、更に液状の芳香剤を注ぎ込んだ。これは油性の芳香剤で先に注がれた水の上に幕を張り、後から沈んできた汚物諸共蓋をする。そうすることによって臭いを最大限上ってこないようにできる代物だ。

 汚物処理という心穏やかにできる訳もない仕事を片付けた青年は一息吐き、汚物タンクを規定位置に収めるとゴム手袋を外し、そのまま汚物を捨てた穴に放り込んでしまった。汚物掃除に使った手袋など汚いから保管したくない、という本人の好き嫌いで使い捨てにしているのである。スーパーを漁れば沢山出てくるので、惜しむ必要は無いと普段のケチ加減が嘘のような浪費ぷりであった。

 汚物槽の掃除は済んだが、まだ穴は埋めない。今度は汚物槽のタンクが収まった蓋、更にその上に設けられた蓋を開く。そこにはシンクやシャワーで使った使用済みの水が蓄えられた汚水槽が収められていた。

 此方でやることは簡単である。ホースを伸ばし、バルブを捻って水を出す、それだけである。この汚水槽は大きいので、全部手入れしようと思えば専門の業者に頼まなければならない。今電話した所で業者が仕事に来るわけも無く、結局は垂れ流すしか無いのだ。

 気味の悪い水音を立てながら汚物の溜まっている穴に注がれていく汚水。青年は一瞥して表情を顰めた後で、視線を逸らしスコップに手を伸ばした。あんまり見ていて気分の良い物ではない。流し終わり次第さっさと穴を埋めて始末してしまおう。

 排水される勢いは中々に早く、そして青年が元より節約して使っていたこともあり程なくしてパイプから溢れ出る水は止まった。後は全部を元に戻すだけである。

 スコップを奮って、最初は中に溜まった水が跳ねないように気をつけながら穴を埋めていた青年だが、ふとこれを埋める意味はあるのかと考えた。

 穴は埋める物という固定観念が彼の中には、というよりも多くの人間の中には備わって居る。開けたら開けっ放しで放置してはいけない、ドアと同じだ。

 汚物を溜めた穴なんぞ言うまでもなく埋めて処理しなければならない。そうしなければ、誰かが嵌まる危険性もあるし、何より臭い。

 だが、今となっては外をフラフラ歩き回って、この穴に無様に嵌まるのは死体程度の物だ。更には、数分後にはここから居なくなる自分は穴から臭気が立ち上っていようとも何ら不都合は起こらない訳である。となると、この穴を汗水流して必死に埋める意味は何処にあるのか、となる。

 自分がやっている事の不必要さと無意味さを感じ取った青年は一旦手を止めてスコップを地面に突き立て、額や首筋に浮いた汗を拭う。もう、このまま放置して行ってしまおうかと考えたのだが……。

 数秒逡巡した後で、スコップと穴を見比べ更に考え込む。黙考が一分を越え、カノンがどうかしたのかとキャンピングカーの向こうから様子を見にやって来る段に至って、青年は再びスコップを手に取った。

 そして、ザックザックと音を立てながら再び穴を埋める作業に戻る。その背中を眺めるカノンはきょとんと首を傾げていた。動物ながらに不思議な行動に至った理由は単純だ。

 犬猫でさえ用を足した後は片付けるのに、人間様がそのままにしておくとはどういうことなのか。等という尊大な考えでは無い。ただ、この潔癖症持ちの青年、自分の生活の痕跡を有り有りと残して去るのが気持ち悪かったのだ。

 ゴミを捨てるまでは良い。されども人間としての感性が、自分の粗相をそのまんまにしていくという行為に強い忌避感を抱かせた。その上、彼は誰が見るわけでもなしと笑えるタイプの人間ではないことが拍車をかける。結局は、面倒くさかろうと嫌だろうと汗を滲ませて穴を埋めることにしてしまったのだ。

 たっぷり十分以上かけて穴を埋めた後、私は何でこんな無駄なことを、とぼやく。

 折角シャワーを浴びたのにうっすらと汗を掻き、掌は負荷で真っ赤に染まり鼻は臭いで馬鹿になった。爽快さは得られたが色々と残念な有様なのは否めない。どうせなら、これらを片付けてからシャワーを浴びた方が良かったやもしれぬ。

 ふと、使い終えたスコップを仕舞おうとしたとき、さて度無く彷徨う死体が数体近寄っている事に気がついた。まだ距離は一〇〇mほど離れているので、相手しないで逃げ去るのは簡単なことだ。スコップをしまい、運転席に乗って車を出す。それだけでいい。

 ただ、青年としては若干気が立っていることもあり、少数で接近してくるだけの死体など良い鴨だ。普段なら危険を避ける為に相手など断じてしないが、リハビリだと思い体を動かすことにしよう。

 「さて、塹壕で一番人を殺した武器の切れ味を試してみるか」

 数分後、手ひどく頭部を破壊された数体の死体を炉端に残し、キャンピングカーは走り去っていった…………。










 「おい、なんだかどんどんと大阪っぽくない風景が見えた来たんだが。見ろあれ、田圃だぞ田圃。ついでに、あれに見えるはサイロじゃないかね」

 「そうですね」

 女が言いながら指さしたのは干上がった田圃だ。田植えの時期が来ていない田圃は水路を閉められ、収穫以後干上がったままにされている。

 「本当にここは大阪か」

 女は呆れた様に呟きハンドルを切る。流れ行く風景は都市と田園を半端に残した古き良き地方都市という風情である。

 田圃といえば地方や田舎というイメージは多分にあるが、東京や大阪などの大都市であっても地方に行けば自然は多く残り田園地帯も広がっていたりする。彼等は兵庫県を目指す遠回りの末に、大阪を出ていないのに凄まじい田舎にやって来ていた。

 結局、あの後何とか北上しようと足掻いたのだが、主要幹線道路は殆ど死んでおり、使える道を選んで行けば、あれよあれよと東大阪寄りの外れにまで到着している有様。結局、こういった開発から取り残された地方都市を進んでいく他にルートはなかったのである。それもさもありなん、こんな米国製の日本国内において取り回す事を考慮されぬ設計の車では道で詰まるのも当然だ。中型セダンなら通れる道であっても、この車ならつっかえて曲がりきれないのは言わずとも理解できよう。

 「くそ、これじゃ何時間も走らないうちに奈良まで行ってしまうぞ。大仏に用は無いと言うに」

 「大仏だけが奈良じゃないでしょう。自衛隊基地なら和泉や八尾にもありますけど……」

 「八尾は八尾で都市部だぞ。車は捨てていけん。和泉なんぞどうやって行くんだ。国道は309号線が完全に糞詰まり起こしてて、ここからアクセスしようがないだろ」

 女は今まで見てきた主要幹線道路の惨状を思い出しながら煙草の煙を吐く。そして短くなった吸い殻をもみ消しもしないで、少し開いていた窓から投げ捨てた。普段なら顰蹙物だが、今となっては咎める者など何処にも居ない。

 「伊丹は伊丹で都市部だと思うんですがね……」

 青年は言葉で咎めることはせずとも、車内に残った煙を手で祓いせめてもの抗議をする。だが、その迂遠な抗議が女に届く事は無かった。よしんば届いた所で、女は気にしないだろうが。

 「彼処は規模大きいだろ、近畿では比較的な」

 「それなら舞鶴の方がよくないですかね。艦艇があれば死体から逃げてる人達もいるかもしれませんし」

 「舞鶴は舞鶴でしんどいだろ」

 結論の出ない会話は続く。その間車を止める事なく走らせているので、その実結論に対しては然程重要視されていないのだろう。何せ、二人ともナビゲートの存在に慣れきった平成生まれだ。免許を得て幾許も立っていないので都市交通状況に精通しているとは言い難い。そんな二人がうだうだ話し合っても結果など出るわけも無いので、結局は初志を貫徹しようという結論に落ち着くのである。

 「それに付けても銃が欲しいな、銃。ほら、あるだけで大分違うだろ」

 ハンドルを切りながら、女は口元を歪めて話題の転換を図る。実入りが無い会話を不毛に続けるくらいなら、同じくらい不毛であっても気が楽な雑談の方が幾分か有意義だ。

 「あるでしょう、エアライフルが」

 「いやいや、そんなんじゃなくて、こう、連発できる小銃とかがな。格好良いだろ、あんなの」

 片手を離し、握った手の人差し指と親指だけを伸ばして銃の手真似をする女。悪戯っぽく笑った後で、その指先は青年のこめかみに触れた後で、親指が倒される。おふざけに対して、青年は左の中指を立てることで無口に答えた。

 「見た目に威圧感あっていいしな。それに連射が効いてストッピングパワーが強い武器ってのは魅力だ。私のエアライフルは打撃力が高くて最適だが、お前のクロスボウやエアライフルはちょっとな」

 「撃てば当たるんですがね」

 青年はとんと撃ってない自分のエアライフル、その存在を思い出して等閑に言った。使えるなら使うが、役に立たないなら仕方が無いとしか言いようがない。

 「届かざれば死、当たらざれば死、貫かざれば死だ。厄介だな、全く」

 既視感のある台詞を吐く女に、青年はどうせ何かの漫画か時代小説だろうと思い興味を抱かず忘れることにした。ただ、それが事実だというのが何とも憎らしい。

 「よしんば手に入った所で、手入れなりなんなりが面倒……」

 「お、コンビニだ」

 真面目な返答をぶった切り、女はハンドルを切る。どうやらこのキャンピングカー、パワーステアリングが弱いらしく大きく回るときには相当の力を要する。それを然程の速度ではないといえ、面倒臭そうに片手で回す女の膂力は相当のものだろう。腕力に任せるように話題までたたき切る性根の太さはある意味流石だと青年に感心させた。

 「さて、私の好みの缶コーヒーはあるかね」

 「紙パックのコーヒー牛乳が飲みたいですね」

 それでも青年は抗議しない。言っても無駄だからだ。車が止まると殆ど同時のタイミングでシートベルトを外し、側に置いてあった武器を手に取る。女は狩猟用エアライフルを。青年はボルトを装填したクロスボウを。

 「もう食えそうにないもの多いよな。絶妙に美味しくないコンビニ弁当とか謎チョイスの紙パックジュースとか」

 女の言う食えそうにない物とは傷んで駄目になっていそうな物というよりも、今後二度と可食状態でお目に掛かれないだろう物という意味で言われていた。生鮮食品や弁当などの日持ちしない物は工場が動かない限り新しく生産されない。となると、工場が動く目処などない現在、それらを味わう機会は殆ど永遠に失われていた。

 「あのコーヒー牛乳、もっと味わって飲んでおくべきでしたよ」

 安全装置を解除しつつ、青年は軽く舌を口腔で泳がせて馴染みのある味を思い出そうとした。あの日、部室棟に泊まった日に飲んだのが最後だ。自分が愛飲したコーヒー飲料を口にしたのは。そして、それがきっと今生での最後でもあるのだろう。

 「私は愛飲してる煙草がもっと欲しかったな。金が無いからとケチるんじゃなくてカートンで買い込んでおくべきだった」

 くだらない会話をしつつも、並び立つのではなく前後での陣形を取る。前は連射できる武器を持ち制圧力のある女、後ろは精密な射撃ができるが制圧力の無い青年だ。この陣形が固まった頃、女を矢面に立たせるとは何事だ、と男女同権という言葉が二人の間では飛び交っていた。

 コンビニの中は閑散としていた。棚に物は殆ど無く、腐った食べ物の臭いはしない。略奪されつくした後なのか、殆ど何も残っていなかった。寂しく取り残されているのは雑誌のラックなんぞに放り込まれた新刊が出ることは無い既刊達。他には見事な迄に何も残っていなかった。

 「ちっ、外れか」

 「どうします? 何も無いなら戻ればいいでしょう」

 女はすこぶる不機嫌そうに舌打ちし、態とらしく腕を大きく振って指を鳴らす動作をした。しかれども、彼女は皮の手袋をしているので響いたのは間抜けな打音だけであったが。

 「バックヤードなり漁ってみるか。車見ててくれ、何かあったら大声上げる」

 そう言うと女はコンビニのバックヤードにレジを乗り越えて入り込む。大抵は予備の商品が山積みにされているが、そこなら何かあるかと儚い期待をかけたのだ。青年は諦めの悪さに溜息を付くと、大人しくコンビニの前に出てキャンピングカーの車体側面に体を預けて待つことにした。

 クロスボウを一旦置き、大きく一息吐く。空を見上げると、嫌味な程に空は青く気温は穏やかであった。こんな日に西日が良く入る自室で障子を開け、気兼ねなく午睡に落ちられたらさぞかし気持ちの良いことだろう。

 よく分からないが大型の猛禽類らしきフォルムの鳥も長閑に空を飛んでいる。空を飛べ、文明と縁の無い彼等にとっては下の喧噪や生存者の苦悩など預かり知らぬ余所の世界のことなのだろう。

 平和な田園調布の近くで食事を求めて這いずり回っているのが馬鹿みたいだ。青年は穏やかな午後の日差しにそっと目を閉じ……違和感に目を開けた。

 アスファルトの地面と砂や石がこすれ合う音。それはゴム底の靴が歩くときに発する独特の音だ。音源はキャンピングカー右側後端に立つ自分の右後ろから聞こえてくる。つまりは死角からだ。

 青年は咄嗟の判断に任せて腕を上げ、頭をガードしながら前に体を踊らせた。すると一瞬遅れて頭があった位置を金属バットがすり抜けていき、強かに車体側面を強打した。

 露天の駐車場に響き渡る不快な打撃音。金属合板の車体が激震し、大音響が鳴り響く。しかして、その生産者は青年達のような長袖の服に身を包んだ大柄な男であった。

 背は一八〇cm近く、体つきは体躯に劣ること無くがっしりしている。もしかしたら体重は青年の殆ど二人分はあるやもしれぬ巨漢だ。顔を大判のバンダナで覆っているせいで表情は読み取れないが、その目は真っ赤に血走っていた。

 「ちょっ、ちょっと待て! 何だ急……」

 青年の言葉は途中でかき消される。前に飛んで避けた為に倒れた体、その頭にバットが振り下ろされたからだ。青年は言葉を切って横に転がりバットの打擲を辛くも避ける。強かに打ち付けられたバッドはアスファルト表面をほんの僅かに削り、持ち主の手に激しい振動を伝えるに終わった。

 青年は即座に意識を切り替える。これは敵だ、言葉を聞いてはくれない。前の世の中なら大声を出して助けを呼べば何とかなったし、此方からやり返したら問題があった。だが、今は誰も助けてくれない。コンビニから女が出てくるまでに自分の頭が熟れた西瓜のように弾ける方が早いだろう。

 なら、やるしかあるまい。そう考えながら青年は打ち下ろされたバットを倒れたまま強く蹴り飛ばした。

 地面を殴った衝撃で手が痺れていたのだろうか、思ったよりも呆気なくバットは男の手からこぼれ落ち、地面と擦れ合いながら飛んでいった。拾おうにも手を伸ばしても届かない位置だ。

 男は武器を回収するよりも、敵対者に背を向ける危険性を嫌って倒れた青年に組み付いた。蹴り足を出したまま仰向けに倒れた青年の上に馬乗りになったのだ。

 勿論青年も腹を蹴り飛ばしてマウントポジションを避けようとするもウェイトが違う。不確かな体勢で、殆ど突き出すだけのような蹴りを男は厚着と腹筋で耐えて、足を払って腹に跨がる。もう、その重さだけで青年は朝食を戻しかけるほど苦しかった。

 拳が振り上げられる。コンパクトな動作ではなく、ただ力任せに打ち下ろすための大きな振り上げ、露骨なまでのテレフォンパンチ。しかし青年は仰向けの状態でマウントを取られているせいで大きくは動けない。

 回避することもままならず、大ぶりな一撃が右頬に突き刺さり、目の奥が白熱した。

 首からある程度の力を抜き、右から左へと斜めの軌道を描いて飛んでくる拳を頭を動かす事によって受け流す。少しは衝撃を軽減できるが、骨と肉による打擲を完全には殺しきれなかった。大きすぎる衝撃が頭部を襲い、歯と触れあった頬の内側が大きく切れる。口腔で血が溢れ、鉄さびの臭いが感覚を満たしていった。

 打撃は二度、三度と続いた。左手で襟首を掴み、右手で顔を殴りつける。右頬は幸いな事に歯こそ砕けていないが、内側がずたぼろだった。打ち付けた時の痺れが残っており、まだ手に力がそこまで入らないらしい。

 青年は何度も殴りつけられ、痛みが彼の脳を支配していた。右頬は熱を帯び、痛みは半ば痺れとして伝わるも、その奥には鈍痛として残っている。顎部を酷く痛めたかもしれない。幸いなのは、相手が正しい人の殴り方を知らず、拳を保護する武器を持っていなかったことであろう。もしもメリケンサックでも装備していたらな、青年の顔面は既にトマトのようにぐちゃぐちゃになっていた筈だ。

 男は殴るのを止めて青年の首を絞めに掛かる。殴り殺すのは思ったよりもずっと大変なのだ。それに、男としても硬いほお骨を何度も殴って拳が痛かったらしい。ただ、青年がダウンしているのにバットを取りに行かないあたり頭に血が上って効率的な考え方はできなくなっているのだろう。

 頸部に大きな手が回り、力がこもる。気道と食道が圧迫され細い首の骨が軋んだ。直ぐに落ちない辺り頸動脈の正しい締め方を知らないらしい。ただ力任せに首を締め付けるだけだ。

 それでも呼吸は止まり、血の巡りは悪くなる。青年はのど仏があまり出ていない方だが、それでも抑えられると酷く痛む。このままでは数分と保たずに酸欠で気絶するだろう。そうなれば、後は死ぬだけだ。

 耐えがたい喉の圧迫感と呼吸ができない苦しさ。目の奥が痛みと衝撃の白から、滲むように酸欠の赤に変わっていく。青年は何とか脱出しようと腕を持ち上げた。

 作るのは五指を全て伸ばし、あらん限りの力を込めた抜き手だ。青年は小柄な上、この体勢から殴ってもウェイトで増さる男を殴り飛ばすことなど不可能だ。ならば別の方法をとらざるを得ない。

 酸欠と痛みのパニックで鈍り始めた思考に鞭を打ち、ただ渾身で抜き手を放つ。唯一露出された男の顔、その右目に向かって。

 目とは人間の表出している器官の中ではとりわけ繊細で脆く敏感な器官だ。小さな塵が入っただけで違和感と痛みを訴え涙を流し、物がぶつかったなら反射を留められないほどの激痛を発する。

 青年の抜き手は首を絞め、力を込めるために上半身を屈めていた男の右目に突き立った。人差し指と小指が見開いた目に刺さり、強く擦ったのだ。

 男は痛みに大声を上げて体をのけぞらせる。首から両手を離し、獣声かと聞き紛う叫びを上げ顔を覆った。それは痛いだろう。革手袋に包まれた指が潰してやるという勢いで眼球表面を擦ったのだ。幸いなことに青年の非力さと眼球が持つ張力のおかげで潰れずに済んだが、痛みで目は使い物にならなくなってしまった。

 咳き込みながら堰き止められていた呼吸をする。口に溜まっていた血が飛沫のように散り、不足していた酸素が肺に取り込まれ酸欠で疼いた頭の痛みが徐々に惹いていく。貪るように息をしながら、青年は第二撃を繰り出した。

 再び抜き手は男の頭に向かって突き出される。だが、今度の狙いは目ではない。人体急所の中の一つ、喉だ。

 顔を覆うために掲げられた太い両腕、その間に腕をねじ込み喉を突く。子供の力で突かれても悶絶し呼吸が止まる箇所だ、不確かな体勢からの非力な突き上げでも十分な効果はあった。男は苦しそうに呼吸を乱し、痛みに掠れた雑言を吐き出す。

 ここから懐よりナイフを取り出して突き刺そうとした青年だったが、弾けるように男は青年の上から退かされた。肩口から盛大に血を流しながら。

 ごろごろ転がる男と、懐に手を伸ばしかけて固まる青年。しかして、その側面にはエアライフルを構えた女が居た。

 そう、バットが車体を殴った音を聞いて、奥のバックヤードから漸く出てきたのだ。そして、馬乗りになっていた男の方に6mmペレットの一撃を叩き込んだのである。

 当然男としては堪ったものではない。骨を砕き肉を裂く、時には頑強な鹿の頭蓋さえ穿つ威力を秘めた弾丸を受けたのだ。衝撃に押されて体は転がり、被弾した左肩は被服を貫かれ鈍い打撃にも似た銃撃によって肉が避け着弾の衝撃で肩関節は砕かれた。あれはもう、専門の医師に診せたところで手の下しようもあるまい。

 「悪い、遅くなった」

 二〇mほど離れたコンビにの入り口から、女はエアライフルを下ろしながら青年の所にやってきて、引き上げる為に手を伸ばした。少し風が吹いている中、エアライフルで二〇m先の標的にあてるのは中々の腕前と言える。

「後四〇秒ばかし早く来てくれたら助かったんですがね」

 「そうだな、そうすればお前の仏頂面が愉快な有様にならないで済んだろうに」

 口の中で唾液と混ざった血を吐き出しながら引き起こされる青年は文句を言うも、やはり女は事もなさそうに答える。

 女としては、段ボールが沢山積まれたバックヤードから戻ってくるのは大変だったのだ。特に、体の起伏に富んでいるせいもあってつっかえる部分も多かったのである。だから、時間が掛かってしまったのだ。

 とはいえ、青年はそんな女の事情を知らない。顎をさすり、異音を立てるも動作を正常である事を確かめながらも悪態を吐くことを止められなかった。殴られるのはそれ程に痛く、耐えがたい事なのだから。

 口が切れてしまったせいで血が止まらず、溜まって気持ち悪いから何度も唾を吐き捨てる青年を余所に置き、女は痛みに悶えながら転がっている男の方へと歩み寄った。

 そして、情けなく泣きながら悶えている体に蹴りを一発くれてやり、うつぶせになっていた体を強引に上向かせる。

 見ると、下のアスファルトは黄色く濡れていた。痛みのあまり失禁したのだ。されど女はそんな事どうでも良さそうに男の腹に踵を叩き込み、体を地面に縫い付ける。男は別種の苦痛と気持ち悪さに声を上げてのけぞった。

 何の感慨もなさそうにエアライフルを保持した右手が持ち上げられ、倒れた男の額に銃口がポイントされる。指先は既にトリガーガードから引き金へと移っていた。

 銃を向けられて哀れっぽい声を上げる男。その唇が開き駆け、何事か発しようとした瞬間、女は迷い無く引き金を絞って告げた。

 「嫌だね」

 頭部が弾けるように地面に叩きつけられ、弾が抜ける衝撃と激突の衝撃が相まって後頭部が砕ける。血と脳漿が滲むようにあふれ出し、ぶつかった勢いで小さく跳ね上がった頭が再び打ち付けられるとき、盛大に頭蓋が割れて中身がこぼれ落ちた。

 弾着の衝撃で顔面は酷く窪み、歪んでいた。これが貫通力の高い被甲が施された小銃弾であれば額の傷は呆気ないほどに小さいのだろうが、対象を射貫くというよりも手ひどく打擲するエアライフルのパレットが引き起こす破壊は醜く痛々しい。

 体が何度か痙攣し、再び股間が濡れ悪臭が溢れる。男が死んだせいで筋肉が弛緩し、汚物が漏れ出したのだ。

 暫し死体を見つめる女。青年も、突拍子も無く男を殺したので少し驚いて目を見開いた。精々ストックで殴りつけて黙らせる程度かと思ったのに、女はまるで虫でも踏みつけるような気軽さで男の頭を砕いた。もうアレは男ではなく、地面を汚すだけのゴミになってしまった。

 女は不快そうに唾を地面に吐きかけて、奥で見かけただろう煙草を取り出す。それは、女が愛飲している海外製の細く長い煙草であった。

 「どうした?」

 フィルターを咥えながら、さも何も無かったかのように問う女。青年も別に、とだけ答えて鈍い痛みを伝える首を摩る。

 殺人を咎めるつもりはない。自分もナイフを取り出したら男を刺し殺すつもりだった。内もものか脇腹を突き刺して殺してやろうと思っていた。だからこそ、自分と女に違いは無い。ただ、行為者と方法が違うだけで結果は同じなのだ。

 しかし、青年は煙草に火を灯す女を見ながら、ある言葉を思い出していた。あの夕日で朱に染め上げられた屋上で、同じように煙草を咥えながら女が自分に投げかけた台詞。

 「お前、同類か?」

 あの一言が忘れられなかった。やはり、この女は…………。

 「おい、どうした、傷が痛むか?」

 急に声をかけられ、青年ははっとしたように顔を上げた。女は心配そうにというよりも、どこか不審そうな顔で此方を見ている。何でも無いと答えながら、青年はもう一度死体を見やり、あの言葉の意味を考える。

 そんな青年も何処吹く風に、女は奥に物資が山積みにされ、バックヤード奥の小部屋に蒲団などを持ち込んだ生活スペースが存在していた事を告げた。この男は住処と財産を守る為、略奪者である二人に立ち向かったのだ。

 されども、その行為の帰結は、ただ路上にて道を汚すゴミと成り果てるのみ。ただ無情に歪んだ顔面に収まる瞳が、半ばよりはみ出ながら恨みがましそうに青年を睨んでいた…………。










 筋肉が弛緩し、がくりと首が落ちた衝撃で青年は目を覚ました。バネでも仕込んであるかのように開かれた目は、驚きで丸く見開かれ、周囲をきょろきょろと見回す。

 何てことはない、見慣れたキャンピングカーの薄暗いキャビンがあるだけだった。青年は体を休ませる為、汚物処理が終わった後であの車庫に戻ってきていたのだ。そして、ソファーに座って休憩していたら疲れに負けて眠りに落ちた。ただ、それだけである。

 大きく吐息した後で、青年は知らぬ間に浮いていた額の汗を拭う。警戒もしないで眠りこけるなど、やはりどうしようもないレベルで体力が落ちているようだ。

 これは暫くリハビリが大変そうだ、そう考えながら立ち上がり天窓を見やると既に日は暮れていた。

再び大きな溜息を零し、青年はソファーに体を沈み込ませる。夕飯の支度をしようと思うのだが、体に力が入らず何もする気が起きない。心底疲れ切ってしまったようだ。

 だからこそ、あんな昔の夢を見るのだろう。そう思い、青年は心底嫌そうに頭を振った…………。
 どうも私です。年内に後一回、と言ったのでギリギリ課題達成ですね。とはいえ、大晦日という滑り込みですが。色々と忙しくて泣きそうだったんです、就活の勉強とか大掃除とか。特に大掃除が大変で、TRPG書籍やら要らんボドゲが出るわ出るわ。パスファインダーとかクリスタニアとか自分が持って居るのを忘れているような物まで出てきて懐かしかったです。

 そろそろ佳境と言いながらも自分の中で伸びていく挿話の数。ただ、それでもいい加減終わりが見えてきてしまいましたが。後暫し、このとりとめも盛り上がりも無い物狂い達のお話にお付き合いいただければ幸いです。それでは来年も何卒ごひいきに。
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