挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
青年と犬と、もう一人 作者:Schuld
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

21/70

青年の帰還と犬

 今回も特にグロ描写はないです。

 普段よりご都合主義が強いかと思われます。
 然程広くない路地を自転車が駆けていく。何処にでも打っている量販品の自転車で、大きな籠を前部に備え、ギア変速機能を有しない、所謂ママチャリと称される物だ。

 サドルの上には随分とだぶついた衣服を纏った青年が座している。一定のテンポでペダルを踏み込み、速度を大きく変えることなく道を走り続けていた。

 長らく整備されていないが故に痛み始めたアスファルトの路面は、時折小さく隆起しており、それにタイヤが取られて車体が小さく跳ねる度に青年は顔を顰める。僅かな振動であっても傷に響くのに、数センチも車体が浮くとなると、着地時の衝撃は大きい。その度に叫びそうになるが、青年は努めて口を閉じたままにしていた。

 車道の真ん中を走るのは、路地から死体が不意に出てきて倒されるのを避ける為だ。一度不意打ちを食らって食われかけた経験から、気配が無くても用心している。

 放置車両を避け、バイクが側面に突き刺さって倒れている自動販売機を避けながら、青年は太陽の位置を確かめつつペダルを踏み込んだ。

 闇雲に当て所なく走っている訳では無い。きちんと方角を確かめ、自分が来た方向へと向かっている。

 青年は名古屋の方面から滋賀に入り、カーナビゲーションのおかげで自分がどの方角から入ったかは把握している。この街へは真西へと向かって辿り着いた。

 つまり、東側へとひたすらに走っていけば、自分が拉致された近くへと何時か辿り着くだろう。大きな幹線道路があり、それは都市部へと繋がる大きな道路なので、何処の路地から進んでもぶつかるはずだ。

 そこまで行けば、一度見た景色なので何とかなるだろう。

 しかし、青年はコンパスを持っていない。一切の装備は奪われており、持っているのは、僅かばかりの武器と道具くらいだ。

 先程自分が入り込み、衣服を失敬した家も漁ったのだが、武器になりそうな物は何も無かった。包丁の一本さえも。

 だから代わりにコンパスか地図でも無いかと思ったのだが見つからず、雑多な物入れから見つけたコンパスは壊れていた。

 少し残念だったが、時計と太陽さえ出ていれば方角は分かる。腕時計を使って方角を測る方法があるのだ。

 地球は一日に一週するので、その角度は一時間で一五°ずつ変動する。そして、時計の短針は一二時間で一週するので、一時間で三〇°動く。つまり太陽に倍する速度で回転しているわけだ。

 また、日本の標準時は東経一三五°の明石市を基準としているので、午後一二時に太陽は明石市の真南にあることとなる。

 と、言うことは文字盤の一二と短針が寄り添う正午に太陽の方向へと短針を向ければ、自然とそれは南を指し示す。

 つまり、時計の短針を太陽に向けてやると、一二時からどれだけ離れているかで大体の方角を知る事が出来るのだ。短針と一二時の間、その中央が南だ。

 日本は東西に長いので場所によって誤差はあるが、明石から然程離れていない滋賀県では誤差の範囲内だ。地図で見れば遠く思えるが、地球のスケールでは全く些細なズレに過ぎない。

 外国では方位の問題で若干勝手が違うが、町中や山で方角を見失った時に役立つ方法で、コンパスが無くても方角を知る事が出来る。世の中がこうなる前に、何かあった時に役立つかと思って読んだサバイバルガイドで得た知識であった。ああいった本も、存外馬鹿にしたものではない。

 一応、時計の時間が合っている必要があるが、奪われなかった青年の腕時計は正確に時を刻んでいる。これが無くとも、人間が居なくなっても惰性で時間を刻み続ける時計を何処からか失敬してくればよいのだ。

 時折自分が向いている方角が正しいことを確認し、狭い路地やアーケード商店街を避けて進み続ける。彼等は自分達の領域に死体が居ることが気にくわないらしく、掃討はかなり丁寧に行ったようで殆ど死体を見ることはなかった。

 しかし、掃除出来る程度の数しかこないということは、あの幹線道路が続いている都市部ではまだ人が生き残っているのだろうか。だとしたら随分と根気よく粘るものだ。死体の移動速度でも、今頃は完全に包囲されているだろうに。

 そんなことを適当に考えつつ道を幾度も曲がり、車両や彷徨い出てきた死体を避ける。勿論避ける為に道を変えると方角がずれるので、その都度別の道を探して修正しなければならなかった。

 幾度も方角を修正したせいで、走れども走れども道がずれている気がして仕方が無い。走行距離が伸びるにつれて疲労が蓄積する。

 時間は既に夕方の三時。自分が脱出した時は既に午後であった訳だ。着替えて落ち着くまで時計があったのに時間を確認しようともしなかったのは、それ程迄に余裕が無かったというのだろうか。

 拾った携帯を細工する時に時間も見ただろうに、一切記憶がないのは焦っていたからか。青年としては冷静でいたようだが、やはり人は焦燥すると、焦っていることにさえ気づけないのだろう。

 無様だと感じつつも、傾いた太陽を眺めて目を細める。東を向いているから、沈みつつある陽光が止めどなく降り注いでくるのだ。サングラスでも探して失敬してくればよかった。

 十二月の現在では日が沈むのは非常に早い。四時半にはもう宵の口で、五時にもなると完全に世界は闇に沈む。かつては無数の街灯や家々から漏れる灯りが街を照らし、夜でも一定の明るさがあったが、今ではどの家にも明かりが灯ることなどなく、街灯が動かなくなって久しい。

 夜がくると、全てが完全な闇に包まれるのだ。そこには仄かな月明かりしか頼るものはなく、雲間に隠れようものならば、その微かな頼りすら消え失せる。

 まるで世界を完全に染め上げてしまうような無明の闇の中で人間にできることなど、心細さに震えながら明かりを求めることだけだ。宗教にも闇を祓うという表現が多用され、闇に包まれた状態からの転変が世界の誕生であるとされるように、人間は古代からずっと闇を恐れ続けてきたのだ。

 我々の瞳は暗闇では満足に物を見ることは適わず、見えないことは知覚の殆どを断たれるのに等しい。それを畏れるなというのは無理な話だろう。

 無論、青年もその例に漏れない。

 子供とは違うので、暗いと幽霊が出るかもしれないから怖いという訳ではない。夜は死体共が活発に動く時間なのだ。連中は負の走光性、つまり光から逃げる性質があるので、昼間は家の中などの影に潜んでいるが、夜になると明かりが無くなるので活発に動き始める。

 その上、奴らは知覚の殆どを音や臭いに頼っているので、例え何も見えない闇の中でも人間を追い回すことに何ら支障が無い。街灯の明かりが無い今、人間にとって夜闇の中は死地と化している。

 なので、死体に追い回されたり、暗がりからの不意打ちを避ける為に暗くなる前に何とかする必要があった。

 しかし、今から日が沈むまで走っても見慣れた風景に辿り着く保障は全く無い。キャンピングカー以外で一夜を明かすのは避けたい事態だが、流石に夜に明かりも無く町中を走り回るような自殺行為はそれ以上に危険である。

 完全に暗くなる前に、何とかする必要がある。

 青年は暫し考え込んだ後に、無理をせず何処かに一夜の宿を求めることにした。

 土地勘もなく、例え幹線道路に出ても見覚えのある場所に辿り着くまでどれ程の時間を要するかも分からない。ならば、無理をして死体の夕餉になるよりも、安全策を講じる方が賢い選択と言えよう。

 その為に青年は周囲を見回して、何処か宿を借りるに相応しい家を探した。この辺りは住宅密集地で、一軒家が林立している。故に、手頃な家を見つけるのに然程の労力は必要としなかった。

 一番良いのは全週を壁で囲われ、頑丈そうな門がある家だ。少し離れた所に、それなりの大きさで門に囲まれた一軒家がある、そこが丁度良さそうだ。

 青年は家に向かったが、青年の首ほどの高さがある門扉は閉じられていた。自転車から降りて引いたり押したりしてみるものの、びくともしない。内側から閂がかかっているようだ。

 盗人ならここで諦めて他のめぼしい家を探すのだろうが、青年は人目を気にする必要はない。大切なのは大きな音を立てないことと、此処に逃げ込んだと分からないようにすることだ。

 自転車を門の前から引き離し、そっと路面に横たえる。別にそこまでする必要はないだろうが、報復の為に探しに来た敵に見つかる可能性が僅かでもあるのならば、用心すべきだ。

 門が閉じた家の前に自転車など止めてあったら、気になるだろう。露骨に人が暮らしていますよ、と言っているような物だ。

 カモフラージュの為に自転車を倒してから、青年は門扉の両脇から伸びる壁、その下段に壁の延長として備えられた花壇に足を掛ける。植えられた花が枯れきった煉瓦は膝元までの高さだが、これくらいのとっかかりがあれば門の装飾として開けられた隙間に足を差し込み、乗り越えることも出来る。

 良いように蹴り倒された続けた体が軋みを上げ、動きが不自然にならざるを得なかったので軽々ととは行かないものの、門を乗り越えられた。

 着地した時に、自転車が跳ねるのとは比べものにならない衝撃を全身に伝わり、傷が抗議の悲鳴を上げる。暫く激しい動きは慎んだ方が良さそうだが、そうは言っていられない現状が忌々しい。

 乗り越えた門を振り返ると、閂ではなく鍵で開閉するようだが、内側からは鍵が無くても開けられるようになっていた。

 観察不足だなと思いつつ、玄関扉のノブを捻ってみる。完全に回りきること無く、途中で硬い音を立てて止まった。鍵が掛けられているようだ。

 さて、どうしたものかと思いつつ青年は庭へと回り込んだ。然程大きい庭ではなく、いくつかのプランターや鉢植えが並んでいる。精々三畳程度のスペースしかないので、ここは単なるガーデニングスペースだろう。

 かつては賑やかな草花が賑やかしていたであろう枯れ草の庭園を眺めつつ、僅かに唸った後で青年は手近に置かれていた鉢植えの縁に足を掛けて倒した。

 人の頭くらいの大きさがある鉢植えが横倒しになり、乾ききった腐葉土や枯れて原型が分からなくなった花をぶちまけた。

 続いて二つ三つと鉢植えを倒すものの、目的の物は見つからなかった。見当外れだったか? と思いつつも、再び庭を観察し……。

 今度は、ひっそりと庭の隅に置かれていたノームの置物を手に取った。

 軽く振ってみると、陶器の入れ物に何か硬い物がぶつかる音が響く。底面をみると、何やら物を入れられそうな穴が開いていた。

 底面の穴に掌を重ね、置物だけを上下に振ってやる。数度の試行の末、漸く目的の物が出てきた。近年では一般的に使われるようになったピンシリンダータイプの鍵だ。

 なる程、この家の住人は鉢植えの下では安直だと思ったから、置物の中に予備の鍵を隠して置いたのか。

 青年が鉢植えを倒していたのは憂さ晴らしの為や、不意に破壊衝動に駆られたからでは無い。閉め出された時の為に、こういった場所に鍵を隠す事が多いと知っていたから、鍵を探していたのである。

 首尾良く鍵を手に入れ、家の中へと入り込む。鍵を差し込んでから扉を開くと、中は随分と黴臭かった。

 玄関にしゃがみ込み、土間から廊下を軽く指で擦る。たった一度なぞっただけで指先が真っ黒になる程埃が溜まっていたので、長らく人が立ち入っていないようだ。

 それに、家の中から酷い腐臭がしてこないということは、死体も居ないと思ってよさそうだ。

 とはいえ、油断は禁物である。青年は左手でしっかり警棒をホールドして土足のままに奥へと入り込んだ。

 この家、中々大きいのだが、どうやら家主はそれなりの金持ちだったようだ。一〇畳以上のスペースはあろうかというリビングに、独立して設けられた、上等なアイランド型キッチンを有する厨房。置いてある家電製品も全て最新式の物だ。

 その上、値の張りそうな調度品なども散見される。リビングにかけられていた分厚い油彩画は複製品ではあるまい。

 他には夫婦の寝室と思しきキングサイズベッドの鎮座する部屋が一つ。ベッドと机に本棚が並ぶ高校生くらいと思しき子供の部屋が一つ。そして、主の居ないベビーベッドが寂しく佇む子供部屋が一つ。

 洗濯室と脱衣所は独立しており、風呂は大の大人が二人は余裕で足を伸ばして浸かれそうな程広い。インフラが生きていて、ここでのびのびと体を洗えたらどれ程に気分がよかっただろうか。

 家中をぐるりと見て回ったが、死体はどこにも居なかった。クローゼットや納戸の中にも。正面玄関の鍵をかけて、庭に面したリビングの雨戸を閉じれば家は夜の間も安全だろう。

 安全を確認した後で、青年は家捜しを敢行し、色々と役立ちそうな物を見つけた。

 まず、夫婦の寝室でオレンジ色のリュックサックを発見したのだが、これは単なるリュックサックではない。災害時の非常用持ち出し袋だ。

 開けてみると、乾パンのような長期保存食料や、ダイナモを搭載しハンドルを回すことで自家発電を行って動くラジオ一体型のライト。包帯や消毒液、僅かながら抗生物質の入った救急キットに、汚水を浄化できる簡易浄水器なども入っていた。

 後は大判のオレンジ色をした毛布や幾枚かのタオル。それと、断熱性の高そうな銀色のシートだ。災害時にあると嬉しい物が一揃い揃っている。

 夜が来る前に明かりを確保できて良かったと思いつつ、青年はリビングの雨戸を閉め、カーテンを降ろした。これは、夜中に明かりが漏れて目立たないようにする為だ。

 鎧戸を閉めると非常に暗くなる。それもそうだろう、家の中に電気無しで動く照明器具は無く、その上唯一の光源である太陽はカーテンで完全に遮られているのだから。

 妙にやかましいダイナモを回して電力を起こし、ライトを付けて青年は暗い家の中を再び散策し続ける。引き出しやクローゼットを開け、納戸の中身を引っかき回し、キッチンの戸棚を漁る。

 完全に日が沈んだ後で、青年は成果物をリビングのローテーブルに並べ、ライトを消してからマッチを擦った。

 マッチで火を灯すのは、硝子の器に入っているキャンドルだ。ドラマチックな夕飯の演出にでも使うつもりだったのか、それはキッチンに幾つも蓄えられていた。目的の用途とは違うのだろうが、妙に甘ったるい臭いがするそれの明かりに照らされて、青年は漸く一息吐くことが出来た。

 深く息を吐き、頽れるように力を抜いてソファーに腰を降ろした。革張りの上等なソファーだが、触り心地からして合成皮革を使った物ではなかろう。

 目覚めてから始めて気を完全に落ち着ける事ができた。手当の時は何時追撃が来るか分からなかったので、あの家でも完全に気を抜くことは出来ず、道中は言わずもがなであった。

 張り詰めた精神の糸が緩み、強ばっていた筋肉が弛緩する。蓄積した疲労と緊張が、漸く表出することを赦された瞬間であった。

 災害時に備えられていたと思しき水のペットボトルを開き、中身を煽って久方ぶりの水分補給を行う。手当に立ち寄った家は漁られ尽くしていて、口に入れられる物は何もなかったので約一日ぶりの水分だった。

 かの震災から災害対策ブームのようなものが来ていたので、それには感謝だ。おかげで、家々に踏み入っても全く何もないということは少ない。喜ぶのは不謹慎なのだろうが、それが青年の命を繋いでいるのも事実なのである。

 とりあえず今晩はこの家で夜を明かそう。久しぶりに手足を伸ばして存分に寝返りを打てるベッドもあるし、水も一晩では飲みきれないほどある。

 それに、子供部屋の持ち主は体躯に恵まれなかったのか、矮躯の青年でも履けるズボンやワイシャツ、ジャケットなどがあった。

 その上、彼はどうやらミリタリーマニアだったようだ。幾つものモデルガンや競技用エアーガン、そのアタッチメントなども飾られていた。

 最近のアタッチメントは質が良く、ともすれば実物に流用できる程だと聞くし、ダットサイトやデュアルマガジンクリップを失敬していこう。

 蝋燭の仄かな明かりを浴びながら、青年は被服を脱ぎ捨て、水を染みこませたタオルで体を拭った。カセットコンロがあったら湯も沸かせるのだが、残念ながらIHヒーターやガスコンロしか此処にはない。体を拭えるだけ贅沢だし、これ以上の文句は言うまい。

 乾いて固まった血や、体を拭えなかった故に溜まった皮脂が汗と共に拭われ、水分に熱が奪われて体が冷える。患部は熱を持っており、触れると痛んだが何よりも気持ちよかった。

 全身を拭い清め、寝室の箪笥から見つけたスウェットを着込む。四月の衣替えに取り残されていたのか、厚手の冬用スェットは着心地が良い上に柔らかく、保温性も高い。青年は随分とくたびれた自分のスェットの代わりにこれを持って帰ろうかと考えた。

 汚れを落とし、服を着替え、漸く文明人らしい姿になってから青年は食事を始めた。缶詰に入っている乾パンや、乾燥した肉を固めたような物。後者は酷く不味いなと思いながらかみ砕き、水を流し込んで嚥下したのだが、どうやら本来は湯でふやかしてから食べるらしい。

 広いリビングの上等なソファーに座りながら、蝋燭の明かりを眺めつつ食事をしていると、世界が平和だった頃のことが止めどなく思い出される。

 青年はこれといって特筆することのない家庭に生まれた。三世帯が同居する一軒家で暮らし、家族にそれなりの愛を注がれ、自分もそれなりに応えながら育ったつもりである。

 が、そんな人間がどうしてこのような人格の破綻した殺人者になったのか、自分でも分からない。ただ、物心ついた時から人間に価値を認められなかっただけのことだ。

 だからといって、漫画や小説の悪役の如く発狂して家族を殺したり、世を儚んで滅亡させる為の計画なんぞを練ったりはしなかったが。

 それをやる意味を見いだせぬほど、青年は人間に関心を持って居なかったのである。どうでもいい、青年の評価は終始その一言に尽きた。

 憎い訳でもなく、不快でもなく、嫌いでもない。そこに居たいなら居ても良いし、何かしたいなら勝手にすれば良い。ただし、自分に迷惑が掛からない範囲で。そう考えていた。

 だが、その無関心さは、精神における深い位置づけとしての関心であり、社会的な生物として生きる為の価値は見いだしている。だからこそ、家族とそれなりの関係を築き、大学にまで通っていた。そして、生きる為に不要になったから、必要とあらば排除する、それだけのことである。

 進んで殺すことはないが、向かってくるのならば話は別。この、人間に対する態度こそが、彼の人間に感じている価値を如実に表していた。

 不意に、懐かしさが去来して青年はテーブルの上に置かれていたリモコンを手に取ってみた。有名家電メーカーの刻印が成されたリモコンは、ボタンを押してやると一瞬ランプを点灯させるが、それ以上の動きを見せることはない。

 それもそうだろう。本体には電気が流れておらず、電源がつかないのだから。

 青年はリモコンを傍らに置いてから、ケーブルテレビで放映されていた海外ドラマが見たいなと思った。続きが気になっていた作品はいくらでもあり、家のレコーダーには撮りだめしておいて見ていない話もまだまだ沢山あったのだ。

 軽く伸びをしながら、どうにもいかんなと考える。筋を動かすと、矢傷や折れた指に響いて疼くが、硬直した筋肉が解れる時の快感には代えがたい。

 キャンピングカーで寝起きしている時には、そこまで寂寥感を感じることはなかった。そこは自分とカノンだけの領域であるからだ。

 しかし、かつて自分があったような環境に身を置くと、どうしても昔を思い出してしまう。あの人が居た時のことを……。

 思い出してもどうしようもないことだなと考え直し、青年はソファーから立ち上がった。胃に物を詰め込み、十分な水分を確保した事で眠気がやってきたのだ。このソファーも柔らかくて十分心地よいのだが、折角ベッドがあるのだから、ここで寝るのは勿体ないだろう。

 ライトを手にとって明かりを付け、他の蝋燭を全て消した。電池の節約にもなるし、蝋には様々な用途があるので、これも貰って帰る予定なので、付けっぱなしにして無為に浪費するつもりはない。

 それからライトと水のボトルを持ってトイレに行き用を足した。水道が止まっていても、水さえ十分に溜めてやれば、トイレは一応流れるように作られているのだ。

 体内で消化された老廃物と余分な水分を排出し、身体的に快適な状態になってから、かつては主夫婦の寝室であった場所へと入り込んだ。

 大きな洋室に趣味の良い調度品が並び、家族写真なんぞが洒落た額縁に納められて並んでいる。赤子を抱えた両親と、息子が笑顔で微笑む旅行先の写真には、幸福だけが詰め込まれていた。

 そんな彼等も今となっては街を汚す腐肉の一部だ。世の中とは本当にどうしようもないものだなと感じつつ、青年はベッドの毛布と掛け布団をはぎ取り、中が安全である事を確認してから身を潜り込ませた。

 半年以上敷きっぱなしだったので、そこまで快適ではなさそうだと思ったが、この寝室は西日が入る場所にあり、カーテンが開け放されていたので、毎日ある程度日干しされていた為か、ボリュームは十分だった。

 数分後には体温が寝床全体に移り、柔らかな熱に包まれる。それと共に睡魔の力が一気に増し、足を掴んで強引に引き下ろすかのように青年を眠りの闇へと引きずり込んでいく。

 青年は普段足下に感じる重量と熱を感じないことに僅かながらの物足りなさを覚えつつも、睡魔に抗うことなく意識を手放した。

 今日も、夢は見なかった…………。










 誰が定めたのかは知らないが、夜が明ければ朝がやって来る。リズムは変わろうとも、それは決して変わることのない世界の定めだ。

 惑星表面上に太陽光線が直接当たるか当たらないかの違いしかないのだろうが、それは性能の低い光学的な知覚に感覚の大部分を依存する人間には大きな意味を持つ。

 朝日が窓から差し込み、枕に顔面を埋めて眠っていた青年の知覚を刺激し、眠りより覚醒させる。枕で塞がれていなかった片目が緩慢に開かれ、暫し考え込むように瞬きした後で体が擡げられた。

 「……朝か」

 誰憚る事無く寝返りを打てる環境だというのに、青年の体は一晩中殆ど動くことはなかった。キャンピングカーの狭いベッドで眠り続けていたせいで、寝ている時には動かないよう体が覚えてしまったのだろう。

 欠伸をかみ殺し、長時間動かさなかった為に固まった体を伸びで解す。関節の間に溜まった空気が抜ける乾いた音が各所から響き、それに合わせて指と腕に痛みが走った。

 動く都度痛むのは非常に不愉快だが、今は痛みが眠気覚ましのような物である。青年は首を回しながら階下へと降りていった。

 朝食は簡素に済ませる。食器棚から硝子コップを取り出し、それに先程見つけたインスタントコーヒーを数匙入れてから水で溶かす。そして、その安っぽい芳香を楽しみながら乾パンを囓った。

 優雅といえば優雅な朝食を楽しみながら、キッチンに放置されていた四月の新聞を手にとって手慰みに広げてみる。報じられているのは政情不安や支持率低下が第一面で、この事態を引き越す感染症の話題は第三面よりも後の頁で僅かに取り上げられているだけであった。

 誰が予測しようか、花粉症よりも死体が人間を喰らうようになる病が、出会いと別れの季節に流行ろうとは。

 桜の花びらがもたらしたのは誰にとっても別れだけであったろう。青年も例外ではなく、幾つもの別離を経験してきた。

 「まぁ、些末な事だな」

 呟いて新聞を閉じ、放る。食事が終わったらこれ以上こんな物にかまけて無駄にする時間などありはしないのだから。

 青年は昨日のうちに集めた、自分にも大きすぎない着替えを身に纏い、使えそうな物を子供部屋から失敬した大きなリュックサックへと詰め込んでいく。

 寝間着に借りたスウェットと、それと同じ物を何着か。災害対策の緊急持ち出し袋に入っていた物をそっくりそのまま。そしてモデルガンのアタッチメントをそれなりに。

 ボタン電池で動くダットサイトやテープを使わずデュアルマガジンを可能にするクリップは、MP5に使える物だ。建造物探索の時は小回りが効くという理由で専らMP5を使っているので、使い勝手が良くなるのは純粋に有り難い。

 他には89式小銃に備えられそうな中距離スコープやダットサイト。M37などを収めるのに丁度良さそうなヒップホルスターや大量のマガジンを携行出来るチェストリグ。他にも放出品ショップから買ってきたようなタクティカルベストにヘルメットまで、様々な物が揃っている。

 サバイバルゲームも嗜んでいたのか、結構な量の装備だった。予期せぬ嬉しい収穫だ。壁に飾られているAKやPSG-1が本物だったらもっと嬉しいのだが、などと勝手なことを思いつつ故人には不要となった装備達を拾い集めた。

 青年はめぼしい物を全てリュックに詰め込み、自らの装具を点検してから家を後にした。

 身に纏っているのは黒いスラックスに白いワイシャツ。その上に薄手のジャケットを着て、サイズのあっていないタクティカルベストを纏う。自分が愛用していた物とは違って警察仕様のそれには胸元のホルスターが無いので、M37はベルトに通したヒップホルスターにねじ込んである。

 警棒は畳んで多目的ポーチにおさめ、果物ナイフやレジャー用のフォールディングナイフも一緒にしまっておく。対人で使うには不安があるが、無いよりマシだろう。

 青年は装備が完璧である事を確かめてから家を出た。一応二階の各部屋の窓から外を観察し、付近を人が彷徨いていないことを確認してからだ。

 既に鍵を開けた門に手を掛け、開ける寸前、ふと思いついて家を振り返った。

 この先二度と人を受け入れる事がないであろう伽藍の家を暫し見つめ、青年は一つ呟いて家を後にした。

 「お邪魔しました」










 時計と、まだ低い位置にある太陽を頼りに走り続けると、二〇分もしない内に、青年は住宅地を抜けて幹線道路に辿り着いた。

 無数の車両が放置され、雑然としたそこは、見慣れた場所では無いものの、そこに繋がっている事から安堵を与えてくれる。

 このまま真っ直ぐ進み続ければ街の切れ目に出られるので、キャンピングカーを隠している車庫を探すことも出来るだろう。また、幹線道路沿いに進んで見覚えのある景色を見つけてから来た道を辿る安全策を取るのも良いだろう。

 さて、どうした物かと思っていると、遠くで何かが動くのが見えた。視界の端を掠めたそれは、車の上に乗っている。

 放置車両、車高の高い黒のワゴンに人間が二人程。死体は鈍重なので、あそこまで登る事は不可能だ。

 まだ幹線道路に面した路地から完全に出ていない青年に、彼等は気付いていないようだ。周囲を頻りに眺めていることから、何かを探していると窺い知れた。

 ……追っ手か。青年は実に忌々しげに顔を歪めながら舌打ちを堪えた。よもや連中夜を徹して探したとでも言うのか? 少なくとも此処まで来るにはそれなりの時間が掛かるぞ。

 いや、足を使ったのかもしれない。自分を包囲していた時にだが、敵がオフロードバイクの側に立っているのを見た。あれを使えば少々の距離など無いも同然だろう。

 傷を庇って走る、空気が抜けかかったママチャリと、オフロードバイクの速度差は正しくウサギとカメだ。自分が優雅に朝食を片付け家を出て、此処に辿り着くまでの時間があれば十二分に追い越せよう。

 しかし、あれをどうしてくれようかと考えつつ青年はママチャリのスタンドを出来るだけ静かに立てて路地に置く。静かに接近するために、これはもう邪魔になる。

 拳銃を抜いて、限りなく静かに道を駆ける。車の影に身を隠し、そして相手を油断無く観察する。幸いにも路地の側面に突き刺さるよう止まった車があったので、敵の視界に殆ど入ること無く幹線道路の真ん中までやって来られた。

 敵は二人。死体に襲いかかられぬ場所であると同時に、何かを探す時には適した場所である高所に陣取っていた。彼等は互いに背を預けるように立っており、死角を補い合っている。

 やはり、思っているよりも連中、阿呆ではなかったようだ。頭の中に脳の代わりに豆腐でも詰まっているのではないかと思っていたが、訂正する必要があろう。

 車高の高いワンボックスカーの屋根、その上に人間が立つと目線の高さは四m以上にもなる。視線が高いと言うことは遠くを見渡せる事に繋がり、また見下ろす事により死角を消すことも出来る。

 例え車の影に隠れようとも、普通乗用車では隠れきれまい。伏せるように動けばある程度は接近出来そうだが、そこまで近くまではいけそうになかった。

 青年は左手でM37を強く握り直す。この使い慣れた拳銃だが、射程はそこまで長くない。弾が届く距離は38スペシャル相応の距離ではあるのだが、如何せん銃口が短い。

 銃口が長ければ長いほど、弾丸に与えられるライフリングよりの回転が強まる。そして、回転が強ければ弾丸の直進性は高まるのだ。その為、長い銃身を持つライフルの精密性は高い。

 だが、M37エアウェイトは携行性を高める設計が成されており、非常に小型だ。必然的に銃身は短くなる。

 そもそも拳銃は長距離の敵を撃つ為の銃ではない。近距離、長くても一〇mほどの距離で使うのが普通だ。それ以上の距離になると当てるのは至難の業となり、届くだけで当たる訳ではない。

 狙って当てられない距離ならば、そんな物は無いと同じだ。弾は命中してこそ役割を果たすのだから。

 扱い慣れた拳銃ではあった。多勢を一人で相手する為、リロードもままならない状況ではサイドアームの拳銃二丁で死体を相手取ったこともある。左手での射撃感覚は掴んでいる。だから、左手でも右手と変わらぬ精度で射撃も出来るだろう。

 だが、拳銃の精度と距離の問題が大きすぎる。恐らく、不意を打てる距離は二〇mまでだろう。それ以上近づくと、仮に完全に伏せっていても見つかってしまう。

 果たして自分に当てられるか? 自問するように左手を見つめる。震えは無い、気負いも無い。ただ、冷え切って白く染まった手が微動だにせず鋼の暴威を携えていた。

 敵の視界は広く、退くのは厳しい。車両が詰まっていれども、この幹線道路は広く、他の路地に駆け込もうものならば必ず姿が完全に露見する。そうなっては敵に狙い撃たれよう。

 では、こんな所にまで出てこないで、一旦道を戻って別の路地を通り、幹線道路の彼等より遠い所に出ればどうだろうかと考えはしたのだが、彼等は双眼鏡も持っていた。相当離れないと意味がないし、例え離れても車両が無い場所もあるだろうから発見される危険性は高い。

 それに、まず無いだろうが、等間隔で見張りを立てていないとも言い切れない。そして、高確率でこの辺りを巡回している者達も居るだろう。

 自分が浚われた場所の近くに見張りを置くと言うことは、何とかしてここに戻ってくるだろうと踏んでいるのだ。動かない見張りの死角を補う為に巡回する捜索隊くらいは組織しても不思議では無い。

 そうなると、一旦退いても同じことだ。相手を過大評価しすぎやもしれないが、過小評価するよりはいいだろう。侮って殺されるなど、剰りにも情けなさ過ぎる。

 さて、一人は拳銃、ニューナンブを装備している。此方の射程は青年のM37とほぼ同等だが、もう一人が構えているのはスコープのついた競技用クロスボウだ。

 見覚えがあった。自分の左の腕を射貫いてくれた奴だ。僅かにだが腕の傷が疼く。

 装備の質から考え、まだ対処できる敵だ。巡回している追っ手が、自分から奪った小銃を装備している可能性もある。拳銃では小銃には勝てないし、対処できる相手を選ぶ方が確実性は高い。

 まずクロスボウを始末し、そこからニューナンブの順番だな。青年はそう思ったが、ふと気付く。

 ……流石に銃声を発するのは不味いか。

 映画ほど劇的ではないとはいえ、銃声は大きく響き渡る。これがまた喧しい。死体を呼び寄せるのみならず、今撃てば他の敵に位置が知られてしまおう。

 そうなっては、態々隠密している意味が無い。

 と、なると少し考え物だな。そう思いつつ、青年はポーチに入っているナイフの存在を思い起こした。

 サイレントキリング、果たしてやれるか。

 拳銃の射程は短いが、投げナイフは言うまでも無く更に短い。達人であれば一〇m離れていようが的に当てると聞くが……如何せん青年の投げナイフは感覚的な物だ。そこまでの長射程と精密性には期待出来ない。

 命中させようと思えば五m以内が限度だろう。さて、博打を打つか見つかる危険を冒すか、それとも相手が自分を見落とす幸運を頼って駆け出すか。

 増援が来るかも知れないので、長々と考えている時間は無い。青年は暫し黙考した後にM37を取り出した。

 ナイフは無理だ。発見されるリスク、外して攻撃を受け、剰え敵が発砲して銃声が響くリスク。全てを計上した場合、失敗する可能性が限りなく高い。

 ならば、発見されるリスクを負おうとも、幾許かは可能性が高い方を使えば良かろう。クロスバイクを奪えば距離も稼げそうだ。あんまり喧しければ己の足に任せて走るしかないが。

 青年は息を整えて覚悟を決めると、影のように車の合間を駆け抜けた。ただ静かに、そして早く、かつ死角を縫ってタイミングを外さず。その全てを満たすのは大変難しいことであったが、青年はその距離を一五mまで詰める事に成功した。

 この距離なら何とか。風があるが、当てるほかあるまい。当てねば反撃を受け、死だ。自分には予備の弾丸はなく、この五発こっきりしかない。弾が切れれば遠距離からの威圧で縛り付けられ、後は増援が来てなぶり殺しだ。

 よし、やるか。

 特別に気負うこと無く、青年は一拍の間を置いた後に上体を隠れて居た車のボンネットに乗り出し、しっかり両手で銃を保持した。狙いを付けるのはクロスボウの男。頭を狙うのは難しいので、ポイントするのは胸だ。

 自分の姿は既に晒した、直ぐにでも見つかるだろう。

 想像の通り、クロスボウを持ち、青年と正対する位置に立っていた男は直ぐに青年を見つけた。一瞬、驚愕の色が顔に滲ませながら声を上げたが、淀みなくクロスボウを肩付けに構えようとする。

 青年はそれに構わず、二度引き金を引いた。狙いは相手の胸だ。面積が広く、重要な器官が集中している為、何処かに当たりさえすれば効果は高い。

 青年の拳銃射撃の腕は実地で磨かれた事もあり、非常に高い。だが、この距離と風は如何ともし難かった。本来ならば小銃で狙う距離なのだ。

 弾丸は一発、腕を掠めて虚空を貫き、もう一発はクロスボウを掠めるに留めた。だが、破壊は出来ていない。

 風で弾丸が流され、狙っていた所から逸れてしまったのだ。M37の銃身が短い為に弾道安定性が低く、風の影響を強く受けてしまう。

 青年は舌打ちを押さえ込まず、銃口を巡らせて風に流される分を含めて狙いを修正する。これで、先程までの致命的なズレは無くなるはずだ。

 後が無い、当たれ……いや、当てろと念じつつ引き金を絞る。

 クロスボウの射手がスコープ越しに青年の額を見た時、音に倍する速度で飛翔した弾丸は、過つこと無く男の腹を穿った。

 腹腔の内にて小腸が裂けて内容物を撒き散らし、回転する弾丸に中身がかき混ぜられる。弾頭の先端が被甲され貫通力を高めた弾丸も、この距離では威力を減衰させ、男の体を貫くには至らなかった。

 だが、最早弾丸が体に残ったかどうかなど、さして重要な問題ではない。大量の内臓出血に、腹腔を汚す消化中の食べ物や、老廃物。激痛に気絶した男が助かることは万に一つもあるまい。

 初撃に三発も使ってしまった。弾丸は後二発こっきりだ。これを外してしまえば、自分は拳銃に対抗する手段を失う。この距離では投げナイフなど当たるはずも無い。

 当てろ。己に強く命じながら、彼は相方の声に反応して振り返った男を、頽れる射手の向こうに見た。

 狙うのは同じく腹だ。風は右側から吹き下ろすように来るので、ある程度流されることを予測して銃口を巡らせる。

 ただ、静かに煮えたぎる殺意に従って引き金を絞った。寒空に響き渡る銃声。38スペシャルは炸裂した火薬に与えられる推進力と、銃身内のライフリングより加えられる回転のままに突き進み……外れた。

 振り返りつつあった男に、撃ち殺された射手の体がぶつかって倒れたのだ。それによって目標の体は泳ぎ、横っ腹を見せる体勢へと移行してしまい、弾丸は数瞬前まで胴体があった所を抜けて行くに留まった。

 思わず叫びそうになる。普段、人相手に銃を撃つ時の癖としてダブルタップを狙ったのが悪かった。虎の子の弾丸二発は浪費され、二度と帰る事は無い。

 この状況だ、ダブルタップの確実性よりも、弾を大切に使った方が選択としては賢かっただろう。確実に殺らなければ反撃を喰らうという畏れと、無意識の内にあった気負いが青年に選択を過たせた。

 所詮自分も人の子か、そう思いつつ青年はもどかしげにM37を投げ捨て、ナイフを抜き放つ。刀身を指で挟むようにして、投げる準備をしつつ駆けだした。

 近づく前に相手は上体を起こすだろう。そうなれば自分は撃たれる。死角に隠れたとしても、此方に近づくことは出来るし、近づかなければ釘付けにできる。そうなっては増援が来て、包囲された後に狩り殺されるだろう。

 だから、青年は趨った。足掻く為に。決して無為に死んでなるものか。良いように扱われ、相手に都合良く死んでやるものか。

 理不尽には相応の理不尽を以て応報とせよ。決して、座して死んではならない。

 腕を軽く振り上げ、柳が撓るように振り抜く。距離はまだ八mはあろうか。だが、既に敵は体を起こしている。迷っている暇は無い。

 腕が加える速度と回転を意識し、ナイフを投じた。日光に陽光が煌めき、回転によって一陣の銀円と化した刃が飛ぶ。

 当たれ、ただそう念じて投ぜられたナイフは目標を穿った。目標の左肩を。

 本当は首か胸の真ん中に当てるつもりであった。しかし、自分より高所に居る目標を狙っていたことにより距離感のズレと、吹き下ろしの風がナイフの軌道をねじ曲げ、当たるべき場所を外させた。

 敵は苦痛に顔を歪ませながらも未だ銃を保持している。そして、ナイフを投じて体が泳いでいる青年には銃撃を避ける術は無い。

 死んだか。

 冷静にそう思った。所謂詰みだろう。

 こんなつまらないところで、つまらない死に方をするとはな。青年は脳裏に過去の記憶が走り抜けていく走馬燈を見ながら思った。どれもこれも碌でもない記憶だ。死の間際にまで安息は訪れないか。

 まぁ、己が碌でもない人間だったから仕方あるまいよ。

 やけに時間がゆっくりと流れるのは、死の間際に引き延ばされた時間が、そうさせるのだろうか。

 冷徹に自己を批評した死の縁で青年は、視界を黒銀の影が掠めるのを見ながら、乾いた一発の銃声を聞いた。

 銃声が響き渡るも、痛みはない。地面に何かが突き刺さった音のみが聞こえた。他には、苦痛に上げられた悲鳴と、うなり声……。

 何が起こったのか改めて確認できたのは、数秒の後のことだっだ。死ぬと思っていたのに死ななかった、何故。

 思って改めて顔を上げると、其処には敵の右手首に喰らい付いたカノンが居た。

 鈍い白に輝くエナメル質の牙が、唾液に絡まって粘質な光を発している。それが皮膚を突き破り、肉を裂き、骨にまで達していた。

 カノンは牙が十分深くまで突き刺さっている事を確認すると、勢いよく首を振り始めた。獣が獲物の肉を削ぎ、筋を断つ為の本能的な動きであった。

 手首の筋や動脈があっさりと断ち切られ、血が飛沫いて寒空に舞い散る。傷口が強引に広げられる度に、出血の量は増えてカノンの見事な毛並みを朱に染め上げる。彼女は全く頓着せず、ただひたすら牙を食い込ませた。

 犬は狼より分化した生物だ。彼等は分厚く頑丈な獣皮を鍛え上げられた筋肉ごと引き裂けるだけの牙と咬合力を有している。特に、狼に近しいシベリアンハスキーのカノンならば、その力は一入であろう。

 人間の細い手首など、あっという間に食い千切られた。頼りない骨など、合ってないようなものだ。

 彼女は食い千切った手首に興味など示さず、ただ獣の本能に従って動いた。

 効率的に相手を屠る為、その喉頸へと牙を突き立てるのだ。

 男は抵抗を試みるも、体重を掛けてのし掛かるカノンを酷く傷ついた右腕と、ナイフが突き立ってまともに動かなくなった左腕で止められはしなかった。

 微かな抵抗を無視し、牙が脆弱な喉頸に突き立った。そして、先程の光景が巻き戻ったかのように引き起こされる。牙を突き立て、頭を振りたくる……それが首で行われるだけの違いだ。

 気管をズタズタに引き裂かれ、重要な血管を纏めて千切られた男は、数秒と保たず絶命した。

 念には念を入れ、更に喉を破壊した後に、彼女は顔を真紅に染め上げながら口を離す。血化粧が施されたその顔は、犬であることを忘れさせる凄絶な美を宿していた。

 「カノン……」

 漸く思考を正常域まで回復させた青年が名を呼ぶと、彼女は車上より飛び降り、尻尾を千切れよと言わんばかりに振りたくりながら駆け寄ってくる。青年は折角着替えた衣服が血に染まるのにも構わず、彼女を抱きとめて体を撫でてやった。

 犬は臭いに敏感な生き物だ。その嗅覚は琵琶湖に落とされた一滴のサンプルでさえかぎ分けるという。彼女は、決して主の臭いを忘れず、ただその帰還を付近で待っていたのだ。

 焦れるような時間を、周囲にて見つけた小動物や溜まった雨水を飲みながら過ごした。そして、遂に懐かしの主の臭いを遠くから嗅ぎつけ、向かえにやって来たのである。

 それが青年を窮地から掬い上げ、その命を長引かせた。彼はまた、生き延びたのだ。

 何度目の幸運だろうと考えつつ、血で豊かな毛並みを濡らしたカノンを撫でて褒めてやる。撫でることはあっても、青年が声に出して彼女を褒めることは珍しく、彼女もそれを理解しているのか、一掃尻尾の振りを強くして喜びを露わにした。

 よくできた犬だ。自分には勿体ないくらいだな。半年以上の付き合いになる旅の相棒を撫でて青年は、普段の歪な笑みとは異なる、純粋な笑みを形作った。

 「よくやった、本当によくやったぞ」

 彼女は吠えず、ただ体を擦り付けるようにして喜びを示してくれる。だが、何時までもこうやっては居られない。直ぐに銃声を聞きつけた追っ手がやって来よう。

 青年はカノンが噛み付いた際に落ちたニューナンブや、自分が射殺した射手のクロスボウを弾ごと奪い、投げ捨てたM37も回収する。

 そして、カノンに告げた。

 「よし、帰るぞ。体勢を立て直す」

 尻尾の振りを弱めることによって彼女は命令に是と応える。青年は満足気に頷くと、彼等が足場にしていた車の側に止めてあったクロスバイクに跨がる。鍵は刺さったまま放置してあり、直ぐにエンジンを起動する。

 彼等が使っているような物だから喧しいかと思っていたが、エンジン音は静かで、排気音も静かだ。死体をおびき寄せないよう、静音マフラーを装備した静かなバイクを選んだのだろうか。

 青年はカノンが着いてこられるであろう速度でバイクを走らせ始める。今はとりあえず距離を稼がねばならない。追っ手に見つかる前にキャンピングカーに戻り、さっさと武装を調えよう。

 その後は……復讐の時だ。

 青年は随分と静かに走行するバイクを危うげに操りながら、凄絶な笑みを浮かべて街をカノンと共に駆けていった…………。
 また長らくお待たせしました。如何せん私生活が忙しくて死にそうです。一体私はどれだけの仕事を抱え込めば気が済むのやら。

 今回は原稿用紙にして五十枚分の分量になってしまいました。多分最長です。どうしてこうなった……。いえ、一重に私が短く纏めるのが苦手なだけですが。そして相変わらずのご都合主義です。いえ、ある程度都合が良くないと話が終わってしまいますのでご容赦願います。

 しかし、思ったよりもこの話も長くなってしまいましたね。本当ならある程度短くする予定だったのですが、対人になるとどうしても長くなります。申し訳無い。

 次は何時になるかやっぱり未定ですが、気長に待っていただけると幸いです。

 感想と誤字のご指摘に中々返信できなくてすみません。大変励みになっていますし、有り難いです。では、これからも感想と誤字のご指摘お待ちしております。
cont_access.php?citi_cont_id=714025369&s
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ