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青年と犬と、もう一人 作者:Schuld
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青年とライターと自転車

 いつも通りのほんのりグロ注意。むしろ、もうグロさなんて殆ど無いからどうでもいいかもしれません。
 薄暗い廊下があった。灯りは一つも無く、光源と言えるべき物は矮躯の青年の手元に握られる、炎上している布切れ程度のものである。

 その布切れは、血塗れのナイフに巻き付けられた衣服の切れ端であり、よく観察すれば青年が纏っている物に似ている事が分かった。

 青年が来ているのは血糊で汚れたジャージの上と、悪臭の漂うスラックスだ。ジャージは、シャツだけでは寒いので、首を切り裂いた見張りから奪った物だ。水を弾く素材なのか、中まで血が滲んでいないので無いよりずっとマシだ。

 廊下は床がリノリウムであり、壁面には薄い化粧板のような物が貼り付けてある。空間は埃に満ちており、随分と黴の臭いがした。

 両開きの鉄扉の前にて光源を握りしめながら屈んでいる青年は、灯りを掲げて周囲を悉に観察した。

 先刻まで自分が監禁されていた部屋の上には、物品倉庫というプレートが掛けられていた。そして、廊下の左手を見やれば第二医療品倉庫というプレートが掛けられている。どうやら、その言葉を見る限り、ここは医院の地下であるようだ。

 そして、地下であるが霊安室が見当たらず、倉庫もそこまで大きくなかった為に、然程大きな病院ではなく個人診療院規模の物だと推察する事が出来る。

 もしかすれば、大きな病院の別館地下という可能性もあるにはあるが、県境から街を睥睨した限りにおいては、そこまで巨大な医療施設は見当たらなかったので、その可能性は低いだろう。

 現状においては行動範囲を広く取る事は難しい。死体や放置車両に阻まれて長距離移動は難しく、更に青年一人を拉致して担ぎ込んだという事は、そこまで移動したとは考えがたい。それ故、ここは自分が襲われた場所の近くにあるのだろうと予測出来る。

 とはいえ、機動力の高いバイクの後部に積載したという可能性も無きにしも非ずだが、流石にそこまで考え始めると可能性は無限大に膨れあがってしまう。ある程度は切り捨てて考えるしかあるまい。

 しかし、彼等が医院を拠点にした事は納得が行く。医院は部屋数が多く、居住スペースは整え易い上、医療品の蓄えもある。

 その上、万一の災害に備えて大抵の医院には発電施設が大なり小なり備えられているのが普通であるし、場合によっては水の循環設備などを設置している事もある。立て籠もるには最適と言えるだろう。

 自分が監禁されていた倉庫でも、電球の明かりが灯っていたのにも頷ける。どうやら、死体が少なくて状態の良い病院を見つけ、そこを拠点にしたのだろう。

 病院と言えば、ゾンビ物では運び込まれた怪我人や死人のせいで死体の巣窟と化していそうであるが、あまりに大きな災害であると人々は小さな医院よりも大きな病院を頼る傾向にあるし、その医院も救援を求めて病人を大きな病院に送りたがる。

 その上、この街自体に死体が少なかったという事から暫く人が居なかったらしく、死体は都市圏へと向けて移動した筈だ。そして、殆ど空になった病院に何処からか流れてきたチンピラ共が死体共の代わりに居着いたという事だろう。

 だが、今はそんな事はどうでもいい。まずはどうやって脱出するかである。

 現在の装備は、弾丸がシリンダーの中にあるだけのM37エアウェイトが一丁。血塗れの上、強引に筋を裂いたせいで刃筋が痛んだフォールディングナイフ。そして、現在松明の柄として使っているジャックナイフだ。

 他にはターボライターくらいしか持ち合わせておらず、体のコンディションは悪いと言わざるを得ない。利き手である右手は人差し指が拗くれて熱を持ち、物を持つ位は出来ても銃を使う事は不可能だ。

 そして、銃を保持している左手は、二の腕の矢傷が僅かに動かすだけで泣きたくなるほど痛む。派手に動かすと傷が開いて出血しそうだ。

 しかし、感染症の危険性があるので、安易に服を裂いて傷口を塞ぐ事は出来ない。糞尿や血液を浴びた布で傷口を覆うのは返って悪化させる事になる。やるならきちんとした清潔な包帯で行わなければならない。

 左手奥にある医薬品倉庫を漁れば或いは……と思うが、時間もそこまではない。何時、自分が始末した見張りの交代要員か、このチンピラ共の首魁である男がやってくるか分からない。

 一人までなら何とかする自信はあるのだが、二人同時に来られると辛いし、発砲して一気に押し寄せられればどうしようもない。

 医薬品倉庫にでも立て籠もって抵抗するという手もあるにはあるが、それは止めた方がいいだろう。負傷している上に飲料も食糧も無いので、此方の体力が持たない。

 ついでに、自分が奪われた装備の中には破片手榴弾や焼夷手榴弾が含まれている。痺れを切らして此方に投げ込まれては洒落にならない。一瞬でミンチになるか、ウェルダンに焼き上げられてしまう。

 そうなると、取れる手法は限られている。可能な限り静かに脱出するか、何か注意を逸らす為の大事故を起こし、その間に逃げ出すかだ。

 今の装備とコンディションで戦う訳にはいかない。損害を受ける可能性が極めて高い上に、勝率も高くない。なら、逃げる他あるまい。

 さて、逃げるにしてもどうするか……。

 そう考え始めた時、遠くから足音が聞こえた。一定のリズムで響く音は、階段を下りるそれだ。

 青年は咄嗟にナイフを下に向けて布を落とし、火を踏み消した。そして、足音を立てぬようそっと移動し、廊下の中程に置かれている掃除用具入れの影に隠れた。何処にでもあるスチールで出来たロッカータイプの掃除用具入れである。

 影で息を殺し、耳を澄ませる。足音は一つだけであり、他に続いている物は無い。また、金属の大きな音もしないので、銃器や金属バットなどを携行していないか、取り出していないと推察出来る。

 足音がどんどんと大きくなり、そして止まった。階下まで辿り着き、一度足を止めたのだ。そして、靴底と床が擦れ合う音が響き、仄かな灯りが届いてきた。光源が弱く、僅かにちらついている事から、その灯りはライターか蝋燭なのだろう。

 電源となる発電機を動かすにしても、最低限の灯火管制は敷かれているらしい。粗暴で短慮なように思えたが、あの首魁も存外馬鹿ではなかったようだ。

 とはいえ、詰めが甘いと言わざるを得ないが。青年はジャックナイフに付着した煤を、火から移った火の熱さを感じながら服で拭い、右手で逆手に握る。

 見張りに何かあった時のためや、万一の奇襲に備えて人員は余程安全で無い限りツーマンセルで動かせるべきだ。平時ならまだしも、捕虜を抱えているのなら万が一もあり得る。一人だけで、しかも視界を態々不確かにして動かすなど此方にとっては好都合以外の何物でもない。

 呼吸を止め、時を待つ。正に歩くペースで弱い灯りが近づいてくるが、掃除用具入れの影に隠れて居る自分の姿は灯りの中に映らない。

 暫くすると、掃除用具入れを通過した。青年は掃除用具入れの影にしゃがんで隠れて居る。油断しきっている上に、薄暗くてはっきりしない視界で発見する事は敵わない。

 臭いなとは思っても、臭いがきつい捕虜を閉じ込めているのだから廊下に臭いが漏れてもおかしくは無いかと交代要員が思い込んでいるのが功を奏した。もう少し用心深ければ、その臭いのせいで警戒されていただろう。

 横切った交代要員は女だった。年の頃は二〇代頭であろうか。薄汚れたジャージを着て、右手に警棒らしき物をぶら下げている。長い茶髪の髪は、地毛が伸びたせいで斑になり、何とも薄汚い。

 別に女であろうとなんで有ろうとやることは変わらない。青年は、これが必要であったならば相手が幼い少女であろうと気にしなかったであろう。

 無防備に背を見せている交代要員の背後に、ロッカーの影から這い出るように足音を消して忍び寄った。

 息を消しているから相手には気付かれていないが、緊張と息苦しさで鼓動が体中に五月蠅いほど響き渡っている。外にまで同じ音量で響いているのでは無いかと錯覚する程だ。

 身長は相手と然程変わる物では無い。歩調を合わせ、一気に接近し、扉に手を伸ばそうとした所で青年は女の口に手を被せた。

 だが、見張りを殺害した時と同じ事を使用としている訳では無い。このジャックナイフは、グリップから刃が飛び出すというギミックを搭載している分、非常に脆い。突き刺して横滑りさせようとした時に折れる危険性があるのだ。そうなって殺しきれず、声を出されては溜まった物では無い。

 故に、青年は逆手に握ったナイフを振り上げ、伸びた髪に隠れた首へと勢い良く刃を突き込んだ。

 目当ては盆の裏と呼ばれる、首の裏側の僅かに凹んだ所だ。髪のせいで正確な位置は分からないが、僅かに見える肌から予測して鍔まで刃が埋まるほど勢いよく押し込む。

 口を覆った手に、小さな吐息がかかり、体が一度震える。そして、体から力が抜けてると同時に悪臭が漂い、倒れ込んだ。

 ライターと警棒が手から抜け落ち、廊下に転がって妙に音が反響する。ライターは、落ちた拍子に火を失っていた。

 青年はナイフから手を放し、腹に腕を回して体を支える。背後から抱きすくめる形に移行すると、そのまま体をゆっくりと仰向けに降ろした。

 落ちたオイルライターを取り上げ、火打ち石を擦った。火花が飛び散り、軸芯に灯が灯る。そして、うっすらと女の顔が闇の中に浮かび上がった。

 目は見開かれたままで、惚けたような表情をしていた。口に被せられた手に驚く暇も無く死んだのだろう。

 全力で振り下ろされ十分な加速度を与えられた刃先は、皮膚を突き破り、自らの先端を毀れさせながらも頸椎に突き刺さった。そこは人間の神経が束ねられている、体の制御を行うにあたって最も重要な場所だ。ここが潰れると、体に一切の電気信号が伝わらなくなる。

 そして、其処をナイフで突き刺すという事は、相手の指先すら動かさずに即死させられるという事だ。女は、声を上げる所か指を動かすことすら無く一瞬で死んだ。

 血が噴き出して衣服を汚したが、既に限界まで汚れているので気にしない。汚れを気にした所で、このスラックスとジャージは廃棄する他ないのだから。

 思ったよりも上手く行った。脆弱な構造の為に不安だったが、ジャックナイフの先端は一撃で頸椎を両断してくれた。フォールディングナイフでは鍔が無いので、上手く押し込めるか不安だったので、半ば賭けであったが、どうやら存外安物では無かったようだ。

 横たわる死体から仄かな悪臭が漂った。糞尿の臭いだ。頸椎を断つと、コントロールを失った筋肉が緩むのである。括約筋もその例に漏れず、糞尿を垂れ流す事となる。

 微塵も身動きさせずに即死させられるという利点はあるが、臭いで気取られる可能性があるので使い所は選ぶべきだろう。

 さて、これで見張りの交代要員も始末した。敵の戦力がこれでまた一つ減った訳だ。

 ライターの明かりを頼りに死体を探る。しかし、持って居たのは時計代わりに使っているらしいピンクの携帯と、ハンカチやちり紙。他にはリップクリームなどの使いようもない小物ばかりであった。

 まぁ、警棒だけでもいいだろう。携帯も何かに使えるかもしれない。青年は携帯を拾い上げてポケットに入れ、警棒はベルトに差し込んだ。

 交替は始末したものの、次は何時首魁がやってくるか分からない。早く動くとしよう。こんな所に長居する理由も意味も無い。

 青年はライターを消して、これもポケットにねじ込んでから階段へと向かった。靴底の厚いブーツは足音を吸収してくれて、小走りで移動しても全く騒がしくは無い。普段から足音に気をつける歩方を意識している事もあり、黒づくめの青年が走る様は影が滑るようであった。

 階段を登ると、明るくなってきた。どうやら、外は昼らしい。光の質が蛍光灯の物とは違うので、外から入り込んだ日光が部屋を明るくしているのだろう。

 寝ている間に夜が明けたのか、それとも全然時間が経っていなかったのか。だが、今は大して重要では無い。時計を見れば分かるんだがと思ったが、別にそれは重要ではないので後回しだ。

 階段から先を覗き込むと、そこはどうやら待合室であるようだ。受付のカウンターがあり、階段出口の側には幾つもの長椅子が押し避けられて並んでいた。

 そして、受付の向こうには一人の少年が暇そうに雑誌を捲りながら座っている。恐らくは正面入り口の見張りであろう。それ以外に人の気配は無い。

 だが、二階に通じる階段の方から何か音がする。これは恐らくプレイヤーから垂れ流される音楽だろう。

 敵は全く警戒していない。相手が全くの素人の集団であった幸運に青年は感謝した。今ならば、全く信じていない神の存在すら信じても良かった。

 見張りの少年が紙面にのみ視線を注いでいる事を確認してから、青年は階段から出て椅子の影に移動する。

 ……反応は無い。どうやらばれていないようだ。体に血液が付着していたりとして臭うのだが、どうやらこの辺にも死体が居たようだ。腐臭の残り香が血の生臭さを消してくれている。

 さて、彼は此方に気付いていないし、注目もしていないが、流石にこのまま外に出ようと前を横切れば普通に見つかるだろう。となると、何とかして意識を逸らさねばならない。

 ああ、良い物があった。思い出して青年はポケットから、女より取り上げた携帯を取り出した。よもや早速役に立つとは。

 停波している為に通話機能は使えないが、それ以外の機能はバッテリーがあるので使える。青年は携帯を操作して、一分後に振動を始めるようにセットした。

 そして、そっと隠れて居る椅子の座席に置いてから別の椅子の影に移動した。椅子同士は待合室兼受付の面積を広げるために寄せられており、長椅子の上にパイプ椅子が立てかけられていたりして隠れる場所には苦労しない。勿論、携帯を置いた長椅子から死角になる場所へと隠れる。

 何を目的としているかというと極めて単純だ。おとりを使って誘因しようとしているのである。そして、携帯を拾おうと思って近寄った隙を突いて外に出れば良い。元々は自動ドアだった硝子張りの扉は砕かれて完全に開いている。

 一応、死体の侵入を防ぐためのバリケードはあるが、急いで逃げてきた仲間を入れてやるための隙間が空いているので音を立てずに通り抜ける事くらいは出来そうだ。

 別に警棒で殴り倒しても良いが、腕力にはそこまで自信が無いので即死させるのは難しいだろう。それに、人を殴ると想像しているよりも大きな音が響く。それで敵に見つかっては本末転倒だ。

 呼吸をかみ殺し、体を完全に椅子の影に隠して時間を待った。時期に携帯が鳴り始める……きた。

 携帯のバイブレーションは元々、大きな音を立てるのが相応しくない場所で使うための機能だが、実際鳴ってみるとこれが以外と五月蠅い。バイブ音でも周りが静かならば、嫌というほど響き渡る物なのだ。

 その上、携帯には小さいが何やらビーズを連結したようなストラップまで付けられている。それに振動が干渉し、プラスチックが擦れ合う小うるさい音も立っている。

 受付で見張りをしていた少年はその音に気付いて、漫画の紙面から視線を外した。そして、首を巡らせて音源を探り、ソファーの上に音を見つける。

 「……なんだ、落っことしていったのか」

 言ってから雑誌を閉じ、受付から立ち上がってソファーへと向かう。最早此方には注意が向いていない。青年は僅かに足を浮かせ、直ぐにでも走り出せるように準備した。

 少年は直ぐにソファーの前に辿り着き、体を屈めて携帯を手に取った。そうすると視界は大きく制限され、背後は元より、携帯に集中しているために側面も全く見えない。

 青年は足音を立てずに駆け出し、数歩で入り口に到着。服を引っかけないように体を横にしてバリケードをすり抜けた。こういう時には、背が低く痩せ形である自分の体型に感謝したくなる。

 外に出られた。外も中も死体の腐臭のせいで空気が淀んでおり、大した差はないのだが、それでも清々しさは格別であった。

 地下に数時間監禁され、二人殺して血の臭いを嫌というほど嗅がされたのだ、例え少々腐臭がしていようと、外の空気は何よりも甘美であった。

 しかし、いつまでも感動しては居られない。早々に行動を起こさないと、あの地下室に逆戻りだ。それだけならまだしも、最悪殺されるだろう。それだけとも言えるが、青年は死なないで済むのなら生きていたい性質なので、無意味に死に近づくような事をするつもりは無かった。

 建物の壁際に寄り、体を擦り付けるようにして進む。屋上に見張りが居た場合、その視界の死角から出てしまうと発見されてしまうかもしれないからだ。そして、その死角が建物外周の至近にして、見張りの真下である。

 建物の外周を確認すると、煙草の吸い殻が幾つか落ちていた。その内の一つは未だ煙を上げている事から、捨てられてそう時間が経っていないことが伺える。

 屋上に見張りが立っていて、周囲を警戒しているのだろう。暇の慰みに煙草を吹かし、下に捨てているのだ。新しい吸い殻がある事から、見張りの存在は確実である。

 だが、その吸い殻が落ちている場所は扉から少し離れた場所に集中しており、それ以外には見当たらない。推測に過ぎないが、見張りは一人で前だけを見張っているのだろう。

 さて、この病院には外壁がある。高さは二m程でコンクリート製の頑丈な壁だ。侵入防止用の鉄柵も上部にあるが、これは夜中に盗人が来て医薬品を盗むことを防止するのが目的だろう。受付を見る限り単なる診療内科なので、内側から人間を逃さないようにする必要は無い。

 建物と外壁の合間は三メートル近くあり、ちょっとしたスペースがある。そして、転々と物干し台があるので、洗濯物を干す為にも使っていたのだろう。

 つまり、頑丈な壁が張り巡らされているために、見張りが気を払う必要があるのは入り口である正門だけだ。今は両開きの鉄扉が閉じられているが、それでも死体が溜まると厄介なので見張りが付けられているのだろう。

 鉄扉に近づかず、死角を移動すれば見張りに気付かれる事は無さそうだ。

 それよりも気になることがあった。小さな音が病院の裏側から聞こえてくるのだ。それは低く機械が唸る断続的な物であり、青年がキャンピングカーの発電機を起動させている時の音に似ていた。

 そういえば、自分が監禁されていた地下室では電気がついていた事を思い出す。と、言うことは発電機がこの病院で稼働しているという事だ。

 大抵の病院は、個人医院でも有事の際に備えて発電機を有している事が多い。この病院は三階建てと個人医院にしては大きく、入院用のベッドなども備えていそうなので、発電機が備えられていても不思議では無い。

 なので、音源へと向かって小走りに駆けてみる。すると、医院の裏側にはグレーに塗装された箱形の立派な発電機が設置されていた。

 横幅は青年の身長ほどはあろうかという医療施設向けの固定型発電機で、恐らくはディーゼル方式の発電機だ。

 それを示すように、発電機の隣にはポリタンクを保管する為のケースが幾つか並んでいた。放火を防止する為の物で、外にしかポリタンクを保管しておけない家庭向けの商品だ。

 南京錠を掛ける為のフックも備わっているのだが、面倒臭がった為か鍵は掛かっていなかった。

 上開きの箱を開けてみると、角形の見慣れたポリタンクではなく、白い箱形のポリタンクが三つ並んで収まっている。恐らく、キャンプなどで使う軽油を入れられる専用のポリタンクであろう。

 ディーゼル発動機を動かすのにはディーゼル燃料、つまり軽油が必要だ。そして、軽油を保管するためには赤い軽油用のポリタンクか、このような専用のポリタンクが必要になる。ポリタンクも見栄えの為に塗装されている訳では無いのだ。

 青年は暫しポリタンクを発電機を見比べた後で、口の端を釣り上げるだけという普段通りの歪な笑みを零した。

 まず、急いでポリタンクを取り出して発電機の近くに並べておく。そして、空になったポリタンクケースを壁際に移動させる。音を立てないよう細心の注意を払う。目立っては見張りが此方に注目しかねない。

 同じように他のケースも空にして、最初に置いたケースに重ねた。そうして、二段重ねになったケースの下段にもう一つケースをぴったりと並べる。

 すると、かなり段差が高いものの、ケースで階段が出来た。普通ならば2mはあろうかという壁など乗り越えようも無いが、これならば十分に乗り越えられる。

 だが、これだけでは終わらない。青年はポリタンクを一つ持ち上げると、その蓋を開けて中身を発電機に振りかけた。中身が詰まったポリタンクは重いのだが、そんな事を気にせず青年は豪快に振りかける。

 ポリタンクを一本空にしてから、青年は自らのジャージを脱ぎ、血塗れのフォールディングナイフで袖を片方だけ切り落とした。そして、切り落とした袖に振りかけた軽油を僅かに滲ませ、刃が毀れて使い物にならないナイフに巻き付ける。

 残った方のジャージは、そのまま羽織らずに階段へと登り、有刺鉄線が巻かれている鉄柵へと被せる。こうすれば、少し気をつければ鉄柵を乗り越えられる。

 準備は整った。よし、ではさっさと逃げよう。もしかすると、携帯を拾った少年が持ち主である女に届けようと地下に降り、彼女の死体を見つけているかもしれない。

 青年は交替に来た女から奪ったオイルライターを取り出し、火打ち石を一度擦ってみる。軸芯に染みこんだオイルに火が灯り、仄かな炎を風に揺らす。一度で着いたのでオイルには余裕があるのだろう。

 一度蓋を閉じて火を消してから青年は即席の階段を昇る。そして、ジャージを被せた鉄柵を跨ぎ、片足だけを壁の縁にかけておく。勿論、まだ外には出ない。

 そのままの体勢で振り返り、手に持ったままのライターに再び火を灯した。左手を風防にして風から護り、火を起こす。

 別にこのまま投げる訳では無い。むしろ、このまま投げても風の影響で火が消えて、振りまいたガソリンには引火しないだろう。

 なので、青年はナイフに巻き付けた裾へと火を移す。軽油を十分に啜ったそれは、あっという間に燃え上がる。

 このままでは火傷してしまうので、直ぐに放り投げた。灯油がたっぷりと振りかけられた発電機……にではなく、手近なポリタンクの真上へと。

 適当なコントロールながらもナイフは回転しながら飛翔し、ポリタンクの真上へと落着した。勿論、灯油を燃料に燃える火は高々風に煽られた程度で消えはしない。

 燃え上がる袖は、その熱量を以て己を保持するポリタンクの地面を焦がす。その大地も直に耐えきれなく、その身の内側に炎を招き入れる事となろう。

 直接軽油を振りまいた発電機に火を掛けなかったのは爆発までの時間を稼ぎたかったからだ。自分が十分に離れない内に発電機が爆発してしまっては、何事かと駆けつけた敵に発見される危険性がある。

 その危険性を無くす為に、青年は時間差で爆発するように態々ポリタンクの上に火を付けた袖を放ったのだ。暫くしたらポリタンクの表面が熱で溶けて引火する事だろう。

 ポリタンクそのものにもある程度の耐熱性はあるものの、それはあくまで内容物の温度に溶かされない程度だ。数百度の炎には耐え切れまい。

 青年は火がしっかりとタンクの上で燃えさかっている事を確認して、壁を跨いで飛び降りた。高さが二mもあると着地の時の衝撃も軽いとは言えないので、着地と同時に膝を撓めて衝撃を殺す。

 可能ならば片手を着いた三点着地にし、より衝撃の分散をしたかったのだが、右手は指が拗くれていて痛むし、左手は矢傷が痛むので難しい。それに、既に着地の衝撃で十分に響いているのだ、無理に使って痛みを増幅させる必要は無いだろう。

 立ち上がり、軽く足回りを確認するが、別に筋を痛めていたりはしなかった。問題なく走れるだろう。

 青年は一度だけ上を見上げて、屋上の見張りが移動していない事を確認してから街へと向けて駆けだした。早く此処から離れなければ。

 街路の隅を走り、汗ばんだ手で警棒をしっかりと保持する。近寄った死体は彼等が掃除しているのか、少ないのが幸いだ。一体程度であれば最悪素手でも問題なく処理出来るが、今はやりたくなかった。

 現在地がよく分からないが、とりあえずは移動して此処を離れてから、移動のための足を見つけよう。自分の乗っていた自転車は何処かへ持ち去られてしまったし、のろのろと走って帰り道を探す訳にもいかない。

 青年は走る度に響き渡る激痛に耐えながら街を駆け抜けた…………。










一人の男が病院の屋上で煙草を吹かせていた。その傍らにはパイプ椅子と小さな丸机が並べられており、机の上には水のボトルと、吸い殻が満載された灰皿が乗っている。

 彼は今し方火を付けたばかりの煙草を深く吸い込み、薫り高く仄かにバニラの風味がする甘い煙を楽しんだ。

 屋上を囲む手すりに体を預け、碌すっぽ下を見ることも無く煙草を吹かしている所からして、彼が見張りに意欲が無い所が伺い知れる。

 足下にはカーボンスチール製の矢が装填された競技用のクロスボウが立てかけられているが、それを手に取ることも無い。最近は集まってくる死体を小まめに処分しているから、一々見張りが神経を尖らせる程死体に襲われないのだ。

 それに、例えやって来ても数体だ。それなら、下の暇な連中に言ってやれば、先端を尖らせた鉄パイプなりを使って処理してくれる。態々此処から撃つを使う必要は無い。

 そういった事情もあり、見張りは何処までも弛緩していた。何やら騒ぎがあって二人殺されたり、捕虜が運び込まれたりしたが、彼からすればどうでも良いことだ。

 自分さえ良ければそれで良い。この集団が考えているのは根源的にはそれだ。自分に都合が良いから集まっているに過ぎず、もしも都合が悪くなかったら三々五々に解散するか、物資を奪い合って殺し合いでも始める。そういった烏合の衆だ。

 この男も集団自体に拘りは無く、そんな連中と深く付き合うつもりも無かった。だからこそ、一人になれる見張りを買って出て、暇そうに煙草を吹かせているのだ。

 下の方では淫蕩に耽っていたり、ドラッグストアから奪ってきた薬を使ってハイになっている連中もいるが、興味は無い。

 今となっては女を抱きたいとも思わないし、薬みたいな物に溺れて、遠からず供給が絶たれて狂うなんてのもご免だった。だから、一人で青空なんぞを眺めながら煙草を吹かしている。

 こうしていると、世界が終わってしまったなんていう実感が何処かに飛んで言ってしまうようだ。もしかしたら、あの遠い山並みの向こうでは普段通りの営みが行われているのではないか、そう思えてくる。

 空には鳥が飛んでおり、時折鳴き声も聞こえる。下界の騒がしさなど彼等には無縁の事で、常と変わらぬ生活を送っているのだろう。

 そんな光景を見つめながら紫煙を吐き出し、彼は呟いた。

 「あーあ、平和だなぁ、畜生め」

 と、同時に背後で爆音と爆煙が立ち上り、熱波が押し寄せる。

 あまりの音響に、音そのものが物理的影響力を持っているかの如く錯覚し、思わず手すりから乗り出してしまいそうになった。

 何事かと驚きのあまり叫びを発する事も出来ず、男が振り返ると、下から真っ黒い煙が立ち上っていた。

 何が起こったのかは分からない。だが、何かが爆発して建物が燃えている。いや、確か彼処には位置的に発電機があった筈だ。

 呆然と煙を眺める男の口から煙草がこぼれ落ちた。それは赤い奇跡を描いて一度胸元に当たり、そこから弾かれて地面に落ちた。

 下の方から怒号がする。自分は、自分はどうすればいいのだろうか。

 先程まで浸っていた平和が一瞬にして破壊された衝撃に男の思考領域はアンダーフローを起こしてしまい、意識は認識の彼方へと飛び去ってしまった。

 男が正気を取り直したのは、怒り狂った彼等の頭目が小銃のストックで彼を殴り倒してからのことである…………。










 青年はとある民家の玄関で爆音を聞いていた。全力疾走すること数分、あの病院から数百メートル以上離れた場所にある見捨てられた民家の一つだ。

 思ったよりも爆発したのが遅かったなと思いながら、青年は口の端を釣り上げつつ民家へと入り込んだ。此処を選んだのは最初から扉が半開きだったからである。

 室内は長く放置されたせいか黴と埃臭く、土足で踏み荒らされた後が残っていた。どうやら、奴らは近場の民家全てに押し入って中を荒らしていったらしい。

 青年も土足のまま家人不在の民家へと侵入し、適当に家の中を漁る。冷蔵庫から腐臭が漂うキッチンには物が散乱しており、置き薬のケースが中身を全て失って転がされていた。今時置き薬というのも珍しいなと思いつつ、青年も家を物色して回る。

 食器をしまっているような食器棚の下段、その一つに中途半端に開いている薬やオキシドールの瓶、それと包帯や湿布などが溜めてあった。どうやら、置き薬以外にも別の薬入れを作っていたようだ。

 有り難いと思いつつ青年は汚れに汚れたシャツを脱ぎ捨てた。日々の運動で引き締まった体には無数の打撲痕や鬱血が見られる。そして、左腕の傷は大きな血栓で傷口がふさがっていたが、周囲には半端に固まった血液や体液が溜まってこびり付いていた。

 これは宜しくないなと思いつつ、ガーゼをキッチンに置いてあった鋏で適当な大きさに切り取りオキシドールを染みこませた。

 瘡蓋は傷口を塞いで細菌の侵入を防ぎ、その下にて傷の再生を行うのだが、既に菌が入っていた場合は、免疫力が低下していれば雑菌が繁殖して傷が化膿してしまう。

 それが悪化すると、傷口から壊死して肉を削ぐが腕を切断しなければならなくなるのだ。そうなる前に対策をしなければならないのだが、青年は今まで劣悪な環境に傷を晒し続けていたので、最悪の事態は想像しておく必要もある。

 オキシドールが傷口に触れると襲ってくる、突き刺すような痛みに耐えつつもこびり付いた汚れを拭う。丁寧に丁寧に汚れを落とし、最後のオマケと傷口に直接オキシドールを少し注いだ。

 歯を食いしばり、声にならない叫びを上げた。傷が貫通している事や、適当に扱われていた事もあり非常に痛い。目尻に涙を滲ませ、激痛に悶えつつ包帯を巻いて雑菌の更なる侵入を防いだ。

 正直、適当な手当の上に乱暴にやっているのでどれだけの効果があるのかは分からない。それでも、やらないよりはマシだし、気休めにもなる。

 後は出来る事なら体を拭いたかったが、水が無いのでそれは我慢だ。衛生的にも完全に体を綺麗にした方が良いのだが、贅沢は言えない。オキシドールと包帯があるだけで御の字なのだから。

 青年は二の腕の手当を終えてから、忌々しげに拗くれた人差し指を睨め付けた。これにも手当をしなければならないが……見るからに、その手当に激痛が伴うことは予想できた。

 叫んだら楽になるのかも知れないが、声を上げる訳には行かない。死体が寄ってくるだけならまだしも、奴らに気付かれては折角脱出した意味が無くなってしまう。

 少なくとも、現状でまともに交戦して勝利出来る確率は限りなく低い。

 青年は包帯と、キッチンで拾った割り箸を並べてから深呼吸する。そして、キッチンに落ちていた布巾を丸めてから噛み付く。

 痛みを堪える時には口を噛みしめるのが一番なのだが、あまりにも強く噛むと歯が砕ける事がある。歯医者も無いのだから、歯は大切にしなければならない。自分で抜いたり砕いたりなど、考えたくも無い。

 布巾をしっかり噛みしめてから、左手でねじれた人差し指を握った。既にこの時点で叫びたくなるほど痛いが、暫し覚悟を決めるかのように痛みを味わった後で……一気に指を捻った。

 元々指が向いていた方向へと戻し、真っ直ぐにする。指の向きが正常位置に戻って分かった事だが、やはり骨折であったようだ。関節が動くので、脱臼した訳ではなかったらしい。

 骨が折れているので綺麗な形にはならないが、指の腹が手の甲の方を向いているよりは見た目にも違和感が無い。

 これで、後は指を固定して動かさないようにし、自然治癒に任せて治るのを待つ。本来ならば石膏で固めるのが一番だが、残念ながら持ち合わせていない。

 指の方向が正されたので、歪な方向に繋がって二度と使い物になるような心配は無くなった。指が使えるようになるまでは数ヶ月を要するだろう。

 しかして、その代償として青年は耐えがたい激痛に脳髄を冒されていた。へし折れた瞬間や、敵から蹴られた時の痛みなど比べものにならない激痛だ。

 目の前が白く発光し、意識が塗りつぶされる。気をちゃんと保っていないと、直ぐにでも口を開いて叫び出しそうになる。

 痛みがやって来るのが覚悟出来ていれば耐えられる等と宣ったのは何処の阿呆だと青年は頭の片隅で思った。全く以て耐えがたく辛い痛みだ。こんなもの、予想しても耐えられる物では無い。

 布巾を噛み千切らんばかりに噛みしめて苦痛に耐える。押しつぶした悲鳴が僅かに口から漏れるだけで、その絶叫が町中に響き渡るなどという事は無かった。

 永遠に感じられるような激痛の連続も、終わってみれば僅か一分足らずの事であった。痛みで痺れる右手に割り箸を適当な長さに切って添え、触れるだけで走る激痛を意志で無視し包帯を巻いた。

 これで、骨折としての手当は完了だ。添え木をし、動かないように固定する以外に出来る事は帰ったとしてもない。

 だが、可能ならば抗生物質くらいは飲んだ方が良いだろう。炎症を抑えられるし、二の腕の怪我もある。

 痛みでまだ頭がふらふらしているが、青年はゆっくりと立ち上がり、失敬してきた家主の服を手に取った。

 矮躯の青年には大きすぎるスラックスとシャツ、そしてベスト。全てワンサイズは上だが、糞尿や臓物に塗れていた物を着続けるよりはマシだ。何より、出来るだけ臭いは弱くしておかないと死体を呼び寄せる事に繋がってしまう。

 もたつく手つきに若干の苛つきを覚えながら、青年は服を着終える。裾が大きく余るので、何度もそれを折り曲げて邪魔にならないようにし、何とか人並みの格好に戻る事が出来た。

 「……帰ったら風呂に入ろう」

 決定事項だ。臭すぎるし、酷い有様である。少なくとも社会生活を常識としていた人間に耐えられる様相ではない。

 「その前に、奴らには相応の目に遭わせてやらねばならないが」

 言って、左手にM37を持ち、右手に警棒を握った。そして、家を後にする。欲を言えばジャケットも欲しかったが、大きすぎて動きを阻害し過ぎるので諦めた。

 庭先には地味な自転車、俗に言うママチャリが放置されていた。ワイヤーロックはかかっておらず、後輪に馬蹄鍵だけが嵌められていた。鍵がかけられており、このままでは後輪が引っかかって動かせない。

 ふと、医院の方を見やると、未だに黒い煙が濛々と上がり続けていた。連中は消化に大わらわで、未だに有効的な手を打てていないのだろう。

 それもそうだ、燃料が山ほど、これでもかと言う程燃えているのである。バケツリレーや消化器の何本かではどうこう出来る問題ではない。

 精々焦ってくれ、内心にてせせら笑いながら、青年は腕を高々と振り上げて警棒にて馬蹄錠を打ち据えた。市販品の鍵はあっさりと破壊され、歪みながらタイヤを拘束から解き放つ。

 装備をベルトにねじ込み、自転車に跨がると、青年は見慣れた景色を探して自転車をこぎ始めた…………。
 メタルギアだと思った? 残念、単なる逃走だよ!

 私にはあんな緊迫感ある演出は出来ないので、何事も無く脱出です。やる気が無いならそんな物でしょう。

 年末なのでほんのりと忙しい。更新が相変わらず遅くて申し訳無い。これが年の瀬になったらどうなってしまうんだ(戦慄)

 しかし、分量的にこれほど長くなる予定など無かったのだが……まぁいいか。仕方がないね。いえ、すみません、長くなるのは私の文章能力の欠如ですね。何とか出来れば良いのですが。

 次もいつ頃になるかは未定です。ですが、よろしければ今暫しお付き合いください。感想や誤字訂正などお待ちしております。
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