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紫陽花
作:結城 蒼璃


「貴女の絵は一枚もないのね」
 青柳の五回目の命日を間近に控え遺作を整理していた時、手伝いに来ていた姉がそんな言葉をもらした。“花絵の大家”と謳われた青柳らしく、居間の畳敷きには色とりどりの花々が咲き誇っていた。とりわけ紫陽花を好み、この時期になると青柳が植えた紫陽花で庭は紫色に染まる。
「画家のくせに妻の肖像一つ描かない冷たい旦那よ。いつまで義理をたてるつもりなの。縁を切ったと云ったって、お父さんも心配しているわ」
 私と二回りも歳の違う青柳を、父は気に入らなかったのだろう。私と青柳の結婚を許してはくれなかった。だから結局私は家を飛び出す形で青柳と一緒になり、未だに家の者とは交流がない。唯一私を訪ねてくるのが、私と一番歳の近いこの姉だった。
「三木さんと仰ったかしら、清次郎さんのお弟子さん。あの人なんてどうなの。未だに何くれと世話を焼いてくれているんでしょう」
「三木さんの事情もお構いなしに、勝手な云い様ね」
 姉は何かと話を再婚の方へ持っていこうとする。それを適当にあしらうのももう疲れた。

 青柳とは、世間で言うところの大恋愛の末に結婚した。けれども周りに噂されるほど甘い思い出もなく、人の口の何といい加減なものかと苦笑するようなこともよくある。元々青柳は無口なたちで、私への思いをはっきりと態度や口に出すような人間ではないのだ。それでも青柳が生きている内は良かった。青柳が死んでしまった今、私と青柳との絆を見出すものは何一つない。その不安は年が過ぎるにつれて大きく膨れつつあった。
 命日の前日、梅雨の間のつかの間の雨止みを見透かしたように、三木さんが訪ねてきた。大層真面目で毎年きっちり命日に顔を出す人なのに今年は一体どうしたのだろう。少々不思議に思いながら家に上がるように勧めたが、三木さんはそれを頑なに断った。
「お忙しそうね。すっかり人気の美人絵師だもの」
「今の私があるのは、先生のおかげです」
 三木さんは少し居心地悪そうに笑った。
 美人絵を得意とした三木さんがなぜ花絵の青柳の元に出入りしていたのか私は知らない。けれども青柳は、弟子の中でも三木さんを一番目にかけていたようだった。
「今年はお線香をあげていってはくださらないの」
「先生の命日には、明日改めて参ります」
 若干の気まずい沈黙が、ふと流れる。そして、三木さんは意を決したように私の顔を真っ直ぐに見た。
「今日が最後の機会なので言わせて下さい」
 そう断った後に三木さんの言った言葉を私はよく覚えていない。でもそれが結婚の申し込みだということだけは辛うじて理解できた。
 
 毎年命日には決まって雨が降った。今年も庭の紫陽花を雨が濡らしている。
── 私は雨になりたい
 梅雨時のしとしとと降り続く雨を見るたび、青柳の生前の呟きが頭をよぎった。花の中でも特に紫陽花を好んだ人だから、梅雨時に死んで、こうして雨になって、自分の育てた紫陽花を愛でに帰ってきているのだろうと思う。
 仏壇の前にいる三木さんが、静かに鈴を打った。線香と雨の香の混じった空気がふわりと流れていく。
 「私はまだ青柳の妻のようだから」
 昨日の三木さんの申し出に、私はそう答えていた。自分でも驚いたが、それが偽りでないことは自分がよく分かっている。
 長い間仏壇に手を合わせていた三木さんが顔を上げ、こちらに体を向けた。そしてその傍らに置いてあった風呂敷包みを、私に差し出した。
「先生からお預かりしたものです」
「青柳から」
 三木さんは静かに頷く。
「先生が亡くなられて五年経っても、奥様がこの家にいらっしゃったらお渡しするように、と。── 奥様の肖像画だと聞いています」
 三木さんに促されて、私はそっと紫色の包みを解いた。
「……紫陽花だわ」
 八号のカンバスには、盛りの紫陽花が雨に映える様が丁寧に描かれていた。三木さんも初めて見る様子だったが、「先生らしい」と微笑んだ。
「『女の色香と花の色香はよく似ている」と先生はよく仰っていました。私はその教えにならって美人絵を描いてきましたが、先生は花に女性を託していらっしゃったのでしょうね」
 三木さんの声を遠くに聞きながら私はその絵を抱きしめる。
 涙がとめどなく溢れていた。














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