君はあの男のことを覚えているかい? 何年か前まで、このあたりでよく見かけた顔さ。
うんそう、あの男さ。君も覚えているのだね。名前は斉藤といったね。実は斉藤には姉がいてね。親戚一人いない天涯孤独の姉弟なのだが、僕はなぜかあの二人には縁があるのさ。その話を聞きたいかい?
ある真夜中、診療所の戸をドンドンたたく者がいるから出てみたら、斉藤がいたのさ。両手首を血だらけにしているじゃないか。僕はすぐに入れてやり、治療をした。なぜこんなケガをしたのかときくと、階段から転げ落ちたのだと答えたが、すぐにウソだとわかったね。つき方からして、ろくな道具も使わずに手錠をむりやり引き抜こうとしてできた傷に違いなかったよ。じゃあ斉藤は犯罪者だったのかって? そう早合点するもんじゃないよ。
この斉藤が僕の診療所をたずねてくる半年ばかり前のことだったが、猫坂のある銀行で事件が起こっていた。銃を持った強盗が白昼堂々と押し入り、行員と客一人を射殺し、現金を奪ってすぐさま逃走したのだった。すぐに非常線が張られたが、犯人の姿は町の中に消え、もはやどこにもなかった。
後日わかったことだったが、犯人は銀行を出てすぐ下水道に入り込み、工事のために臨時に作られていた通路を通って地下鉄の駅に逃げ、そのまま雑踏の中に身を隠したのだった。下水道には黒い覆面と銃が残されていたが、指紋はまったく検出されず、手がかりらしいものは何一つないといっていい状態だった。
数週間たっても犯人は捕まらず、このまま迷宮入りになるかと思われた。だが事件から一ヶ月たとうとしていたころ、ひょんなことから容疑者が逮捕されたのだ。それが斉藤なんだ。
奪われた物の一部ではあったが、紙幣の番号を銀行が記録していてね。おりしも斉藤は現金で自動車を購入しようとしており、その支払いに使われた中に、奪われたものと一致する番号の紙幣が数枚含まれていたんだ。
斉藤は軍隊に籍を置いていたことがあり、銃の取り扱いにも慣れていた。体格も目撃者の証言と一致しており、身軽な男でもあり、斉藤なら工事中の下水道を通って地下鉄に乗り込むなど簡単なことだと思われた。
逮捕されても、斉藤は犯行を認めようとはしなかった。「自分は銀行強盗のことなど何も知らない。番号の一致する紙幣は、強盗が市内で使用したものが偶然まぎれ込んだのに過ぎない」と主張したのだ。
それでも警察は見解を変えなかった。新聞記者たちを集め、猫坂銀行の強盗犯を逮捕したと発表したのだ。これは翌朝の紙面で大きな記事になった。だが、ここからがおかしなことになってくる。新聞記者たちが、斉藤の逮捕に疑問を持ち始めたのだ。物的証拠のまったくない状況証拠だけによる逮捕だったからだ。いくつかの新聞は声高に疑問を表明し始めた。
「斉藤は本当に犯人なのか? 無実の者の誤認逮捕ではないのか?」
警察は反論した。大学で数学を教えている男を引っ張り出し、奪った紙幣を強盗がすべて猫坂市内で使用したとしても、それが斉藤の所持金の中に複数枚混じる確率はゼロに等しいと長々と数式を使って説明させたのだ。
だが新聞社も負けてはいなかった。別の数学者を引っ張り出してきて、犯人と斉藤がたまたま同じ店で買い物をしたとすれば、複数の紙幣が混じることも十分ありえると証明してみせたのだ。
もうこの先は水かけ論でしかなかった。斉藤が真犯人であるにしろないにしろ、これ以上の証拠は何も出てこなかった。この事件は連日紙面を飾り、ついに複数の新聞社が協力して、「有力な証拠のない斉藤氏はすぐさま釈放されるべきである」との論陣を張った。そして状況が大きく動いたのは、このキャンペーンが始まって一週間ほどたったころのことだった。こともあろうに斉藤が脱獄したのだ。
もちろん『脱獄』というのは警察側が使用した言葉であり、新聞記者たちに言わせればそもそも無実なのだから、斉藤氏は単に留置場から『立ち去った』だけなのだが、起こったのはこういうことだった。
「体調が悪い」と斉藤が訴え始めたのだ。これは以前からある持病であり、すぐに専門医の診察を受けないと命に関わると斉藤は主張した。もちろん警察は仮病ではないかと疑ったが、新聞社によるキャンペーンのせいで慎重になっていたのは事実だろう。念のため専門医のいる大きな病院へ連れて行くことにしたのだ。留置場から出され、手錠をかけられ、四人の警察官に付き添われて、斉藤は地下鉄に乗せられた。病院は警察から四つ目の駅にあった。
地下鉄は混んではいなかった。乗客たちにはよく知られていることだが、この地下鉄は駅の手前で信号待ちをすることがあった。赤信号で止められ、青になるのを一分ばかり待つのだ。ちょうどそこには渡り線と呼ばれる線路があり、停車の仕方にもよるのだが、停車した瞬間に電気の供給が止まり、車内の電灯がすべて消えて真っ暗になってしまうことがある。電車が動き出せばまた点灯するのだから、大した問題ではなかった。だがこのとき、斉藤を乗せている電車でこれが起こってしまったのだ。
付き添っていた四人の警察官たちは、みな地下鉄に乗った経験があまりなかったらしい。車内が突然真っ暗になって、ひどくあわててしまったのだ。強盗の仲間が斉藤を取り返すために襲撃してきたと思ったのかもしれない。必要以上にまわりを警戒し、斉藤への警戒心がおろそかになってしまった。
何事もなかったかのように電車が動き始め、車内に明かりが戻ってきたときには、斉藤の姿はもうなかったのだ。暗闇の中で非常スイッチを操作し、ドアを開けて姿をくらませてしまっていたのだ。
それからが大変だった。警察はすぐに非常線を張ったが、斉藤の行方は手がかりすらなかった。
警察は必死になっていたが、新聞の反応は違っていた。斉藤はもともと無罪なのだから、警察はすぐに捜査を打ち切るべきだと主張した。しかし新聞記者たちがのんきなことを言っておれたのも、翌日の昼ごろまでだった。猫坂のある地区で殺人事件が起こったのだ。裏通りにある金物屋で、老人が一人で経営している小さな店だったが、真昼間に襲われ、老人は殺され、現金が盗まれた。
決定的だったのは、犯行後犯人が売り物の金ノコを使い、何かを切断したらしいノコくずが現場に残されていたことだ。切断するときに発生した金属の粉さ。これがなんと、手錠に使われている金属と同じ成分のものであるという鑑定結果が出た。
こうなると、当然市民はパニックに陥った。人を殺すことをなんとも思っていない男が野放しになっているのだ。人々はおびえ、日が暮れると道を歩く者は目に見えて少なくなった。各新聞紙の方向転換は、これまた見事なものだった。「斉藤は無実である」から、「警察は今すぐ斉藤を逮捕し、投獄すべきだ」に百八十度変わったのだ。
それでも斉藤は捕まらなかった。その後もいくつか強盗や殺人事件があり、すべて斉藤の仕業だと考えられた。とうとう新聞は、地下鉄の中で斉藤の逃亡を許してしまったことで警察をなじり始めたではないか。これには市民もあきれてしまったが、斉藤への恐怖のほうが何倍も大きかったので、新聞の猫の目ぶりも不問に付されてしまった。
斉藤が僕の診療所に現れたのは、ちょうどこのころだったのさ。治療が済むと金を払い、斉藤はそそくさと姿を消した。僕は警察には通報しなかった。金ノコを使って手錠を外したのなら、手首にあんな傷がつくはずはないからね。斉藤が真犯人でないことは間違いないさ。だが世間や警察の意見は正反対だった。
その後斉藤は捕まったのかって? あせらずに聞きたまえよ。ここで斉藤の姉が登場するのさ。
彼女が僕の診療所をたずねてきたのは、十二月の寒い夕暮れのことだった。ひどくやせて青ざめ、歩くのもつらそうだった。彼女は自分の身体を診察してもらいたいと言い、僕はその通りにした。いろいろ検査などをして一週間後、結果を聞きに彼女は再び姿を見せた。
どういう女なのか、不治の病におかされていると告げても顔色一つ変えなかった。あと数ヶ月もない命だと告げてもまゆ一つ動かさなかった。青白い顔でにっこりと微笑み、彼女はこう言ったのさ。
「先生は誠実なお人柄のようですから、それを見込んでお話ししたいことがあります。長くなるかもしれませんが、かまいませんか?」
僕は首を縦に振った。君も知っている通り、僕の診療所はいつもひまだからね。彼女は続けた。
「この近所に住んでいた斉藤という男のことをご存知ですか?」
「ええ、知っています」
「私は斉藤の姉なのです」
「でも斉藤は、先日しばり首になったのではありませんか? パトロール中の警察官に偶然見かけられて、逮捕されました」
「そうです」彼女はうなずいた。「弟はしばり首になりました。でも逮捕されたのは偶然でも何でもありません。弟は自分の意思で警察官の前に姿を見せ、自ら望んで逮捕されたのです。彼らをはずかしめ、復讐するためです」
「彼らとは?」
「この国の腐った人々のことです。私たち姉弟も、始めから今のように貧しかったわけではありません。子供時代はむしろ恵まれていたのです。両親は大きな店を経営し、山の手に屋敷をかまえていました。店の客には政界や財界の有名人も多かったのです。ですがある事件が起きました」
「どんな事件です?」
「宝石や貴金属を外国から輸入している店でしたが、禁止されている麻薬などを貨物の中に混ぜ、国内に持ち込んでいるのではないかという疑いをかけられてしまったのです。もちろんまったくのぬれぎぬでした。私たちの両親は、そんな悪事など思いつきもしないほど高潔な人々でした。すべて番頭がたくらんだ陰謀だったのです。
番頭は店を乗っ取る計画を立てていたのでしょう。始めは私と結婚してむこに納まるつもりでいたようですが、私がそでにしたのでやり方を変え、私に対する仕返しの意味も込めて、この陰謀を考え出したのでしょう。
番頭本人の口から聞いたのだから間違いありません。ぬれぎぬを着せられ、それが晴れぬまま両親が他界し、店も破産してしまうと、私と弟は路頭に迷うことになりました。そのとき番頭は再び私に言い寄り、自分がなしとげた陰謀を自慢げに語り、それどころか恥知らずにも愛人になることを要求したのです。
もちろん私ははねつけました。その足で警察へ行き、番頭の口から聞いたことを話しました。でも取り合ってもくれませんでした。検察官のところへも行きました。何とかお金を工面して、有名な弁護士のところへも相談に行きました。でもみんな何もしてくれませんでした。店の取引先や顧客はすべて番頭が手に入れ、すでに自分で商売を始めていました。手回しよくわいろを配ってあったのでしょう。あの男はその後さらに金持ちになり、今ではこの町の市長におさまっていますね。
私と弟はいったんはあきらめ、すべてを忘れて一から出直すことにしました。運良くどちらも何とか生活のすべを手に入れ、明日のお金に困るようなことはなくなりました。弟は友人の援助である会社に就職し、私は昔のつてで、あるお屋敷の家庭教師におさまりました。それなりに平穏な日々が続いたのです。でもそれも、してもいない銀行強盗の罪で弟が逮捕されるまでのことでした。その後のことはご存知でしょう?」
「ええ」彼女が見つめるので、僕はうなずいた。
「一度は警察の手を逃れましたが、弟は自首し、先日しばり首になりました。弟は時期を待っていたのです。それが来たから自首したのです」
「どういうことなんです?」
「一年ほど前、私たちは外国へ手紙を出しました。ドイツへです。そして好ましい返事が来たから自首したのです。どういう因縁か、弟も不治の病をかかえていました。私と同じように、苦労を重ねた数年間に得た病だったのかもしれません。そうであれば、病院のベッドの上で死ぬのはつまりません」
「なぜです?」
「弟が心配していたのは、自首してもしばり首にならなかったらどうしようというただそれだけでした。弟は必ずしばり首にならなくてはなりませんでした。私たちはそれを望んでいたのです。なぜなら弟は無実だからです。ドイツからの返信というのは『弟の無実を証明する書類を用意することが可能である』という内容だったのです。あの銀行強盗が行われた日、弟はドイツにいたのです。弟は語学が得意でした。それを買われて会社に雇われ、商談のためにドイツへおもむいていたのです」
「その書類を、なぜもっと前に用意しなかったのですか? そうすれば弟さんも無実の罪に問われることはなかったでしょうに」
「戦争のせいですよ。世界大戦のことをお忘れですか? 世界大戦が終わるまでは、ドイツ国内とは連絡を取ることができませんでした。銀行強盗が行われた日には弟はドイツ国内にいたということを証明する書類が、数週間のうちに私の元へ届くことでしょう。ただ心配なのは、それまで私が生きていることができるかということです」
「なるほど」
「先生にお願いがあります。私が死んでしまった場合には、郵便物は先生のもとに転送されるように手続きをしておきます。ドイツから証明書が届いたら、私の代わりにしかるべきところに提出し、この国の人々の腐敗のひどさを全世界に向けて告発してくださいますか?」
そんな申し出を、どうしてこばむことができるね? だからこれをごらんよ。僕のポケットにあるこの手紙さ。これが今朝届いた。
もちろん封を切ったさ。医者のはしくれだから、僕だってドイツ語は読める。友人が記者をしているから、今から新聞社へ行こうと思っているのさ。なんだか気が重いよ。もし興味があれば、明日の朝刊を注意して見ていてくれよ。 |