私にとって何かを学ぶと言うことは、何事にも変えがたい喜びだ。単純に言えば、私は勉強が好きだ。それは物心がついた頃からずっと変わっていないことだ。
例えば、小学二年生の算数の時間にかけ算を教わった時もそうだった。
いつもと同じような教室、いつもと同じような算数の時間。そこに突如として、新しい数字の世界の概念が先生の手によって提示された。
すなわち、『インイチが一』から始まり『クク八一』で終わる数式計八一種だ。そして、どうやらそれらは何が何でも暗記しなくてはならないらしいと言う、ある種理不尽にも等しい告知を受けた。クラスメイト達はそろって背筋を凍らせ、悲鳴を上げたものだった。
クラスメイトの半分以上(ちなみに、私の友人全員もそれに含まれる)が数字と記号の組み合わせによるシビアな暗記の世界に絶望し、クラスの半分の半分くらいが難なく知識を吸収したり塾であらかじめ覚えていたりで優越感に浸っている中――私はその世界に、言いようの無い感動を覚えたものだった。
+や−が私にとっての全てだった算数記号に加わった、せいぜい○×ゲームくらいでしか馴染みの無かったバッテンマーク。ただただ衝撃的だった。
初めてのお使いの際に、母から足し算や引き算を教えてもらった時も、同じような感動を覚えた記憶がある。1や2や3などといった数字が、それらの記号によって組み合わさり、新しい数字が生成される。ちょっと考えてみれば当たり前な話であったが、初めてそれを知った時はとても嬉しかったのを覚えている。
――きっと世の中には、多様で素敵な決まりごとが宇宙のようにあり、それに比べて私の想像なんてアリのようなものなのだ。そして、だからこそ私はそのアリのような一歩で、たくさんの素敵な決まりごとを知ることが出来るだろう。
このように、それこそ、新しい世界や可能性でも知ったような気持ちになったものだった。そしてその予言が的中したのが、まさにかけ算の授業だったのだ。
私はかけ算を夢中になって覚えた。『いんいちが一』、『いんにが二』、『いんさんが三』……『しちいちが七』、『しちに一四』、『しちさん二一』……クラスメイトの大半が「これは無理だ!」と嘆いた七の段のマスターも、私にとっては全然苦痛では無かった。ただし、私はそれなりの努力はした。私は天才では無いから物事を覚えるのには努力が必要だが、私にとって努力は苦痛なことでは無い。
夢中になってしまえば割とあっという間に覚え終わって拍子抜けだった。しかし後日、親の口からインドでは二桁の九九を暗記していると言うことを知った時は、「もう九九じゃ無いじゃん」と突っ込んだ一方、世の中にはすごい国があるものだなぁと改めて世界の広さに感心した。
また、その頃のある日――ジャンパーや手袋を身に着けていた記憶があるから、おそらく冬の日だったと思う。犬の散歩の道すがら、私は近所に住む曽田おばさんとばったり会った。大分過剰な防寒具に身を守られながらも、彼女は顔を真っ赤にして寒さに震えているように思えた。
「あらあら樹花ちゃん。今日も犬の散歩かしら? こんな寒い中偉いわねぇ」
そんな感じの切り出しで始まった立ち話。特筆することも無い話題で会話が進んだ。やがて、先日のテストが話題に上がった時、おばさんの口からこんな愚痴がこぼれた。
「樹花ちゃんはお勉強が出来てえらいわねぇ。うちの子何て頭悪いくせにいっつも表で遊んでばっかりで、勉強なんてちっともやらないからやんなっちゃうわ」
私はその言葉を不思議に思って、「何を言ってるんですかおばさん?」と首を傾げた。不意を食らったように固まったおばさんを尻目に、私は私にとっての当たり前を述べた。
「いっぱいいっぱい表で遊んで、そこで何かを学べれば、それだって立派な勉強ですよ」
おばさんはいささか目を丸め、しばらくしてから苦笑いを浮かべた。何を分かったようなことを、くらいのことは思ったかもしれない。
「まぁ、そりゃあそうなのかも知れないけどねぇ……。うちの子と来たら、そればっかりだから困っちゃうのよ」
「それで良いんだと思いますよ」
今度は面くらいを「え?」と口に出して表したおばさん。私は再び、私の当たり前を述べた。
「お勉強なんて、大体は日常生活で役に立たないんだって、うちのお父さんが言ってました。そりゃあ漢字とか算数とか、覚えなくちゃいけないものもたくさんあるけど、それにしたってあまり多くは無いと私は思います。だから私はそのことばっかりに机にかじりついているよりは、表でいっぱい遊んで、いっぱい友達を作ったほうがよっぽど良いと思います」
年の割には、随分と大人びた口調だったように思う。おばさんはしばらく、眉根をひそめて私のことをじぃっと見つめながら、うーんと唸り声を上げた。
「じゃあ、何で樹花ちゃんは勉強をするの?」
少しばかりの沈黙の末に発せられたこの言葉は、会話の繋ぎのための適当な疑問では無く、純粋な疑問の発露だったように思う。
「やだなぁおばさん。楽しいからに決まってるじゃ無いですか」しかしその時の私はそれを慮ること無く、ただ私の考えを純粋に語った。この時、確か私の顔には満面の笑みが張り付いていたはずである。
「私だって、楽しく無いことを続けたりしないですよ。私の友達がサンリオのキャラクターグッズにはまるみたいに、私も勉強をして色々知ることが楽しいんです。楽しいからこそやるんですよ。他に理由なんていらないでしょう?」
私だって何も、勉強することだけが生きがいと言う訳では無い。私はテレビを見るのが好きだったし、漫画を読むのが好きだったし、友達と話をしているのが好きだった。そしてそれと同じくらい、あるいはそれ以上に、勉強をすることが好きだったのだ。
思うに私の勉強好きは、何事においても物事を『知りたい』と思う、強い好奇心から来ているようだった。
国語の時間ではお話に出てくる主人公達がどのように物語を紡いでいくのか。算数の時間では数字の世界にどのような法則があるのか(そしてそれを手足のように使えるようにするのが最終目標)。それらを理解しえた度に、私は無上の喜びを感じたのだ。
また、そういった好奇心は当然、学校の授業の範ちゅうに留まら無かった。テレビからは興味を引かれる情報が止めどなく発進され、漫画では絵やセリフなどによって素敵な世界が展開されている。そして、友人との会話は何気無いものでもそのほとんどが刺激的だ。
私の友達が「九九なんて覚えたって何の役に立たないに決まってるじゃん」と言っていた。しかし、それは間違っている。そもそも勉強に意味を求めることがナンセンスなのだ。お父さんの言葉を借りることになるが、勉強と言うのは最終的には自分のためにやるのだ。何かのためにでも、何かの役に立てるためにでも無い。そう言うのは、言ってみればおまけのようなもので、後々何かの拍子に役立った時に、「ああ、昔こんなことやったなぁ」と笑うためのものなのだ。
とある登山家が『そこに山があるから』山を登るように、私は『そこに興味深い世界があるから』それを少しでも理解したい。それこそが、私が勉強が好きな理由なのだった。
おばさんは口をポカンと開けたままの表情で、しばらく固まっていた。
そう言えばこの時、こんなこともあった。
固まっていたおばさんが、ようやく何か言おうとした時、
「おいブスオンナ! てめぇ誰とくっちゃべってるんだよ!」
曲がり角の向こうから、喚声を上げてつつ表れた一人の少年。
丸刈りに、ビーダマのようにまん丸な目が特徴的な、いかにも風の子然とした少年。私の友達の間ではそこそこかっこいい男の子として評判良しだったが、私にとってはやたらウザく絡んでくるサイコーにムカツク奴だった。
私は、またこいつかと思いながら、憎まれ口を叩き返した。
「何よバカカズ、何か文句あるの?」
「うるせーブス! ガリ勉バカのブスオンナ! お前なんて一生机の前でガリガリ計算ドリルでもやってろ!」
……この頃のこいつと、有意義な会話が成立した試しは無かった。人間とサルの会話が成立した試しは無い、くらいのことは思っていたはずである。
「うるさいのはあんたよチビ馬鹿! 万年幼稚園児オトコがガタガタ騒ぐな!」
バカカズが「うぐっ!」と大げさなほどに叫びながらたじろぎ、うろたえる。
バカカズの身長は低かった。当時、彼は私に大きく水を開けられるどころか、クラスの身長順で不動のワースト三を堅守し続けていたのだ。大体の男の子にとって身長が決定打になりうるステータスであるように、バカカズにも立派なコンプレックスになってその小さな背中にズッシリのしかかっていた。
「てめぇまた身長のこと言いやがったなこの野郎! めーよきそんで訴えてやる! ほーのちからでお前のことぶっ飛ばしてやる!」
名誉毀損。法の力。何とも可笑しかったのではっきり覚えている。
何ともらしくない用語(どうせドラマとかバラエティーとかから引っ張り出してきたんだろう)が彼の口からたどたどしく出たのは、一応明るく愉快な優等生キャラで通っていた私への対抗心からだろう。後ろで聞いていた曽田おばさんも、これにはおかしそうに苦笑の声を出していた。
って言うか、たかだか子供同士の喧嘩で司法の介入を考える……。たとえ冗談だとしても、酷く幼稚な発想だ。すぐドラえもんにジャイアン退治の道具を求めるのび太と同レベルな気がする。
私は余裕ある態度で鼻で笑い、言ったものだった。
「あのさぁ、名誉毀損って言うのはね、こんなやわな悪口程度じゃ成立しないのよ」
「な、なんだってぇ?」
「って言うかさぁ、そっちから喧嘩を売って暴言吐いておいて、自分のコンプレックスを刺激されたら即逆切れってどうなの? こういうタイプの口喧嘩になったら言われるに決まってることなんだから、それが嫌だったら私に構わないでよ」
バカカズの顔がみるみる赤くなる。まるで気合でも入れてるように拳を強く握り締めている。今にも奇声を上げながら地団駄でもしそうな様子だ。
それでもどうにか自制して、涙声で必死な風に金切り声を上げた。
「う、うるせぇ! 今に見てろ! 俺は小学校入って以来牛乳飲みまくってるんだ! てめぇなんて軽く……」
――そうそう、この後の流れもまた傑作だった。
「牛乳、だけ?」
「あぁ? どういう意味だ」
「確かに背をのばすには牛乳は大事だけど、それだけじゃまぁだ足りないのよ。これだけは、どうしても食べなきゃいけないって言う食材があってねぇ」
「おう上等じゃねぇか! 言って見やがれ! そんな食材、俺が軽くバケツ一杯ほど食らってやらぁ!」
「それ、本当に言ってるの?」
「あったりめぇだろうが! この俺が嘘をつくと思ってんのか? ドリアンだろうが何だろうが食ってやらぁちきしょう!」
――ほほう、言ったね?
すぅっと一息分の間を置いて、その食品を言った。
「大豆」
たちどころに動きが停止した小さな身体が一体。そしてその身体から見る見ると血の気が抜けていき、やがて顔色がキュウリの中身見たいになった。
私はその変化に、サディスト的な小気味の良さを覚えながら笑みを浮かべた。
「ねぇカズ君? さっきバケツ一杯分それを食らうって言ったよねぇ? 確かカズ君は嘘をつかないんだよねぇ? 守ってもらうよ、ちゃーんとね?」
「お、おおおおおう、ちょちょ、ちょっと待てよ。そう言えば俺はその食材がどんなのか聞いて無かったし……」
「はぁ? 何言ってるのカズくぅん? ついさっき、何でも食うって言ったばっかりじゃなぁい? そもそも、それを食わなきゃずっとチビのままなんだよぉ? それでいいのカズくぅん?」
バカカズが歯ぎしりの音が聞こえてきそうな程に歯を食いしばり、いかにも屈辱にまみれていると言った表情でこちらを精一杯睨みつける。目には表面張力ギリギリのところまでに涙を溜めていた。
ざまぁみろ。私は心の底から思った。
給食に豆が入った料理が出た時、彼がいつもそれに一切手をつけないで残飯に捨てているのを、私は見逃していなかったのだ。
……まぁ要するに、「カルシウムだけじゃなく、たんぱく質を取った方がいい」と言う話だったのだが、この時彼は面白いほどに私の言葉を真に受けていた。
「ぐ……ぐぐぐっ……!」
「ほーらほら、どうしたのぉ? そんなに嫌だったら、早く『僕は嘘つきでしたごめんなさい』って言ったらどうなの? そしたら私、学校中に『カズ君は嘘つき人間です』って教えて回って上げるからさぁ」
そんな感じでしばらくいびっていた。
いつも通りの快勝に爽快感を感じながら、「そろそろほえ面かくころかなぁ」何て思っていると、案の定、「ちきしょおおお!」と彼は大音量で叫び、その場で地団駄を踏んだ。目からは粒の大きな涙が節操なく流れていた。
「覚えてろよこの野郎! ぜってぇ見返してやるからなあぁ!」
「そのまえに身長を伸ばしてから出直してこい、万年幼稚園児!」
「幼稚園児って言うなぁ!」と憤怒に狂ったように叫びながら、その場から逃げるように去って行った。
私は遠ざかる背中を、私は達成感を感じながら見送った。
「クスクス……ごめんなさいねぇ。いつも迷惑かけてるでしょ? うちの子」
私ははっとして振り返り、おばさんの顔を見る。しばらく目を合わせてから、「ああ、いえいえ」と気まずく視線をそらせて言った。曽田おばさんは、楽しそうに笑っていた。
バカカズの本名は曽田和義。つまり彼は、曽田おばさんの子どもである。
「こっちこそすいません。おばさんの前でカズ君にあんな酷いこと言っちゃって」
「いいのよいいのよ、むしろこっちが悪いんだから。あんなこと言われちゃ怒って当然よね」
そう言ってまたクスクスと笑うおばさん。
「でもねぇ、ちょっとあそこまで手厳しいと、慰めるの大変なのよねぇ。男の子のプライドって奴がちょっとね。フフ、だからおばさん、もうちょっと手加減してあげて欲しいなぁ」
そうは言うものの、子ども同士の喧嘩とは言え、自分の息子が目の前であそこまでコテンパンにされて笑っていられると言うのは、度量のある人と言うことなのだろう。それが大人と言うものなのだろうと思いながら、「あっ、すいません」と再び謝った。
「フフフ……でも、今のを見ると思い出すわねぇ、うちのお父さんのこと」
この言葉に私は驚く。
曽田おばさんの夫が、昔あんなうざったい感じだった?
反射的に「ええぇ!」と声を上げて、
「おばさん、ああ言うのと結婚したんですか?」
「あらあら、お父さんったら、ああ言うのとか言われちゃったわね」
さっぱりとした笑みと共に言われた言葉にハッとした。
思わず失礼なことを言ってしまったと思い、うなだれながら「ごめんなさい」と小声で謝った。それを見ておばさんは可笑しそうにクスクスと笑う。
「気にしないで。でもそうね、私も最初は何よあんな奴、何て思ってたわね。顔を付き合わせる度にいっつも噛み付いてきて、いつも腹が立つようなこと言われて……フフ、本当、何でこんな人と結婚したのかしら」
呟きながら、おばさんは昔を懐かしむように目を細めた。
――良い思い出なんだろうなぁ。
この時、呟いてることと反するように、我を忘れていない程度で穏やかに笑んでいる表情を見て思った。さっきのバカカズ見たいにうざったく絡んできて、そして実際にこっちでも腹立たしく思っていたとしても、それはやがて良い思い出になって、あるいはその人に恋することになるのだろうか。私はちょっと複雑な気分になった。
私は、本当は「じゃあ、何でおばさんはそんな人と結婚したんですか?」と聞きたかった。しかし、その表情を見て止めにした。
デリカシーの無い質問だし、それに何となく、『ぶち壊し』にしたく無いと思ったからだ。おばさんが良いと思っていることに無粋な口出しをすることは、恐らく間違っていることなのだ。
私が顔をじっと見ていることに気がついたおばさんは、こちらに笑顔を向け、
「あらあらごめんねぇ。おばさん変なこと言っちゃった見たいで。でもね私、樹花ちゃんみたいに、可愛くてしっかりしてる人にうちの子を任せられたら良いだろうなって思ったりするのよね。あの子はあの子で、樹花ちゃんのこと何時も話してくるし。その時のあの子、本人は違う違うの一点張りだけど、結構楽しそうなのよ……フフ、まだちょっと気が早過ぎるかしら?」
と言い、またクスクスと笑った。バカカズが私のことを(口では否定しているとは言えども)楽しそうに話している? 普通に意外だった。
「それに樹花ちゃんも――こんなこと私が言っちゃうのは良くないと思うだけど、結構、楽しそうに見えたわ」
「ははえぇ?」
おばさんの突飛な発言に、私は奇声を上げた。
「な、何言ってるんですかおばさん! 変なこと言わないでくださいよ!」
「だって樹花ちゃん、本当に楽しそうな顔してるように見えたのよ。特に、うちの子が出てきた時なんか、『またこいつか』って感じに愉快そうな表情だったわよ」
「ちちち違いますよそんなんじゃ無いですよ! 私は本当にカズ君と仲が悪くて!」
「あら、本当に仲が悪い子とは、案外あんな風に口喧嘩何て出来無いものよ? ましてや樹花ちゃんくらい賢いと、本当にムカつく子がからかって来ても無関心で接してるんじゃない?」
いやよいやよも……と言う、手垢にまみれた言葉くらい私だって知っていた。で、でも……!
「違うんですって! 本当にカズ君とはそう言うんじゃ無いんですって! 信じてくださいよおばさん!」
「あらあら樹花ちゃんったら、そんなにムキになっちゃって。私、冗談のつもりで言ったのにねぇ」
私はまた「ふぇ?」と声を上げた。何だかおばさんの愉快そうな顔をしげしげと眺めた。よっぽどおかしかったのか、おばさんは私の顔を見るなり、おなかを抱えて笑い出した。
「それにしても樹花ちゃん、そんなに顔を真っ赤にしなくったって良いじゃない。でもおばさん、ここまで判りやすい反応されると、本当面白いなぁ。ふふ、樹花ちゃんって案外、からかわれると弱いタイプ?」
私は狼狽しながらほっぺたを触る。まるでカイロのように熱を帯びていたことにビックリした。
私は八つ当たりのようなあん梅に「おばさぁん!」と声を荒げたが、むしろおばさんはますます大笑いをするのだった。
私はおばさんと別れて家路に着く時、バカカズのこと、おばさんの話のことを思った。
しばらくバカカズの顔を思い浮かべて、急に恥ずかしくなってきた私は、大げさに首を振るってその残像を振り払った。
家に着くまでに、私は五回ほどその作業を繰り返した。
それから月日が経って小学校四年生になったころ、私は少年野球にはまった。
少年野球といっても、リトルリーグのように本格的なそれでは無く、適当な野球好きが集まってワイワイ遊ぼうと言う、まさに遊び半分然としたものだった。
元々は男子達だけで集まっていて、私はそれを友人達に「また野球ぅ?」と呆れられながら眺めていたのだ。しかし、とうとう我慢できなくなった私が、グローブすら持たないで割り込んでいったのが馴れ初め、と言ったところだ。
やっぱりこの頃、『男子は男子と、女子は女子と遊ぶ』見たいな風潮が出来始めていて、あんまり良い顔はされなかった。実際、一度ミスすると野次も酷かった。しかも、その中には、あろうことかバカカズまでいて、彼に手酷く野次られるたびに人一倍苛立ちを感じていた。
そして私自身、ちょっとした違和感のようなものは抱いていた。まるで、ワンセットのジグソーパズルの中に、一つ違うピースが混じっているような感じの。
しかし、それでも野球をやってみたい、と言う好奇心には勝てなかったんだろうと思う。だからどんなに酷い言葉で野次られても、いつも屈託の無い笑顔で「いーれーてー」と両手を振って入っていったのだ。
何だかんだで楽しかった。遊ぶ約束を守れないことを友人達に謝りながら、放課後や休日のグラウンドで暗くなるまで遊びほうけていた。時には、みんなが解散した後も、友人からグローブを借りて、一人壁当ての練習をしたものだ。
「つーかお前さ、俺達と一緒に遊んでて楽しいか?」
帰り道、バカカズが不思議そうな表情でそんなことを尋ねてきた。
あれほど仲が悪くて、そしてこの頃もやっぱり仲が悪かったにも関わらず、私とバカカズは一緒に帰っていた。たまたま家が近かったのと、「別にお前なんかと帰りたい訳じゃ無いけどよ、ただ夜に、仮にもオンナのお前が一人で歩くなんて危ないからよ……。って言うのも母さんから言われたからだからな! 嘘じゃねぇよ! 俺は本当はお前のことなんて……!」と言いつつ、やたらしつこく寄り添って来たからだろう。大体は無言で帰る私達だったが、こうして向こうから口を利いてくる時は、ほぼ百パーセント大喧嘩に発展していた。
なので私は、こいつはまた余計なことを聞いて来やがって、と内心で毒づきながら、
「楽しいって……何でよ?」
「だって、オンナのお前が野球なんてやってて……」
「なぁにそれ? 男女差別? 女の私は嫌々野球をやってなくちゃいけない訳?」
無意識について出る敵意がむき出しな語調に、向こうも脊ついで怒鳴り声を上げる。
「おい、そんなこと言ってねぇだろ!」
「じゃあ良いじゃない別に。私は楽しいから野球やってるのよ。何か文句あるの?」
「ねぇけどよ……」
いかにも不服そうな言葉。私は何となくムカついて、
「けど、何よ? 言いたいことがあるんだったらはっきりしなさいよ!」
「うっせぇな! ねぇよ!」
「言いなさいよ!」
「ねぇったら!」
「言いなさいったら!」
「ねぇって言ってんだろ!」
「言いなさいって言ってるでしょ!」
「うるせぇガリ勉ブスオンナ!」
「言ったわねチビバカカズ!」
道のど真ん中で立ち止まり、お互いに仁王立ちで肩を怒らせあいながらにらみ合い、罵倒をぶつけ合う。傍から見れば、犬同士の喧嘩のように見える光景だっただろう。
数分くらいそれを続けて、カズの方が根を上げた。ため息をつき、視線をそらして、『けど』の先にあった彼の感情を吐露した。
「なんつーかよぉ……お前って本当、変な奴だよなぁって思ってさ」
「はぁ? それどう言う意味よ!」
「だってそうだろうよ。まず勉強が好きってのがさ、その時点で変わってるじゃん。特に『得意』ってんじゃなくて『好き』ってところがよ。実際、クラスでお前くらいなもんだぜ? 計算ドリルをうれしそうな顔して解いてるの」
はいはい、また変なガリ勉オンナって言いたいんでしょ? そんなことを思いながら、冷めた目でバカカズを見る。
何となく気配を察したのか、彼は慌てたような手振りを交えながら、
「いやいやそう言うんじゃなくってさ。……まぁそれだけだったとしたら、本当にその通りなんだけどよ。でもお前さ、それだけじゃねぇじゃん」
彼はそう言って、言葉を捜すように顔を上げて唸った。長いようで短い時間が経って、彼はやっと口を開いた。
「なんつーかさ、お前にとって勉強は、例えば俺達とやってる野球と同じような感覚なんじゃねぇのかなぁって思うのよ。何かこう、とことんのめり込んで、出来る限り極めようとするテンションとかさ。いや、野球だけじゃなくってさ、他にもお前、好きなものとかあるだろ? まぁ、程度ってものがあるかも知れないけどさ、多分そう言うのにも、勉強とか野球と同じように接してるんだろうなぁって思うのよ……だからさ、お前……」
言葉につまったらしいバカカズは、「うーん」と腕を組んでしばらく考え込んだ。
「何て言えばいいか判らねぇんだけどさぁ、お前って、一直線な奴だよなぁって思うのよ」
一直線な奴……。今思えば、それほど的外れな言葉では無いような気がする。
しかしこの時は、単純に何かムカついてくる言葉として処理した。
「要するにあんた、私のこと単純馬鹿って言いたい訳ぇ?」
「え? い、いや、俺が言いたいのはそんなんじゃなくって!」
「じゃあ何よ! 言って見なさいよ!」
「え……いや、だからその……」
「ほらほら! やっぱりそうなんじゃない! あーあ、やっぱりバカカズはロクなこと言わ無いわねぇ」
バカカズの表情がカチンとなった。表情をいつもの怒りのものに変えて、「あのなぁ!」と叫び、いつも通りの悪口を並べ立てた。それがいつも通りの喧嘩に発展したのは、それからすぐのことだった。
「おめぇの性格って誤解されやすいんだよ! たまにはお前の好きなことだけじゃなくて、その周りのことも目にかけやがれガリ勉オンナ!」
その口喧嘩の中で出た彼の言葉。
今思えば、それは予言だった
その予言を聞いてから――大体、三ヶ月くらいだろうか?
朝、昇降口をくぐると、靴箱の前に立つ私の一番の友人、藤下裕香を見かけた。どこか抜けているような性格から、私達の間ではいじられ役になっている子だ。まぁ正確には、私が主体となっていじってる訳だが、彼女が何かに困るたびに放って置けなくなるような、いわゆる『愛される』タイプの子だ。
私はせかせかと靴を脱いで彼女に近づき、
「おはよ、裕香。今日はちゃんと宿題やったぁ?」
と、彼女の肩を叩いた。普段、宿題を忘れては先生にこってりしぼられている彼女への、いつも通りのあいさつだ。
彼女は一度振り返った。そして、「えへへー、やってないんだよねぇ」と苦笑いを浮かべて……
「…………」
彼女は無言で顔を戻して、ツカツカと廊下へと歩いていった。足の動きが、気持ち早まっているように感じた。
――ん?
胸が、かすかな痛みを訴える。重々しい違和感が、裕香の全身にまとわりついていた。
――今、裕香がそそくさと去ろうとしているのは、私の顔を見たからのような……。
私は早足に彼女に追いついてその肩を叩いた。急速に重々しくなった足。自然に、軽やかに、と念じればそれだけぎこちなくなった。振り返った彼女に、私は普段友人に向ける笑みを、出来る限りに自然に作った。「それは不自然な行動です」と無言で述べているような、頬の引きつりが憎たらしかった。
「なーによ裕香、そんなに焦っちゃって。まだまだ遅刻ペースじゃ……」
言っている途中で、私の言葉は途切れた。彼女の表情に気がついて。無表情、まるで軽蔑している人間を冷視しているような、無表情に。
先ほどから重い高鳴りを感じていた心臓は、この一瞬、鼓動を止めた。
数秒ほど後、彼女は私の手を払いのけ、先ほどのような早足で去っていった。彼女の後姿が三教室分くらい離れてから、再び心臓が鉛のように重い鼓動を感じ始めた。
――私は今、一体誰に話しかけた?
私の頭の中が、さっきの出来事のことでいっぱいになる。
友人だ、友人のはずだ。私は今、私が一番だと思ってた友人に話しかけていたんだ。いつも通りの、あいさつをしたんだ。
じゃあ、何だ今の裕香の態度は? 友人である人間が、何であんな態度を取るのか? まるでさっき……そう、嫌ってる人間にやる行為ナンバー1のシカトじゃないか。
シカト、シカト、シカト……! 今までしただのされただのの話を他人事のように聞いていたそれが、私の身に降りかかっている。そしてそれを、よりにもよって一番の友人にやられたと言う事実が、決定的なショックを与えていた。違う、違うと否定すれば否定するだけ、シカトを立証する行動が頭の中を埋め尽くしていった。
考えれば考えるほど、その行為を否定することが出来なくなった。私の口内はいつしか乾き、喉が猛烈に張り付いていた。周りの教室に向かう生徒達のざわめきを、とても遠く感じていた。
この日の一時間目の授業が道徳だったのは幸いだったと思う。元々、興味を引く話をやる時以外はやる気が無かった授業だからだ。教科書の見当違いなページを開き、生徒の朗読や先生の解説を聞き流しながら、先ほどのシカトのことを考えていた。あれから私は、裕香を始め、私の友人達と一言も口を聞いていない。朝自習の前の空き時間の間、裕香が、私を除いた私の友人全員と楽しそうに話しているのを見て、どうしようも無いほどの疎外感を感じたからだ。
この日の授業ほど、時間が長く感じたことは無い。それでもチャイムは鳴り、息苦しい授業は終わる。先生が一旦教室を出た時、私は再び裕香や、他の私の友人の輪の中へと入ろうとした。
このまま、先ほどの出来事を流す訳には行かない。先ほどシカトのことを考えていた間、やはりそれをシカトとして認識することに納得がいかなかったからだ。理性が論理的な結論を出しても、感情がそれを良しとしない。人間にはしばしばそう言うことがあるが、今がまさにそう言う時だった。
裕香たちが友人達と話をしているのを見る。ああ、とても楽しそうだ。私はつい先日まで、あの中で一緒に笑いあっていたのだ。
「ねぇ、何の話してるの?」
彼女達の中で見せる、いつも通りの声、いつも通りの笑顔。ああ、そんな単純なものを作り上げることが、今はどれほど困難なことか。しかし、私はやった、それをやったぞ。頼む、どうかさっきの出来事が、気のせいであってくれ。
しかし――彼女達は、振り向かなかった。いや、実を言うと二人の友人が振り向いた。そのうちの一人は裕香で、私はほとんど裕香のことだけを見つめていた。
彼女は、朝に私に投げかけたような、冷たい目で睨んだ。彼女はすぐに、何事も無かったように彼女達の方へと顔を向けた。
――…………。
彼女達を見ていた私の中で、何かが急激に冷めていくのを感じた気がした。あるいは、何かが壊れたのかも知れない。
私は彼女達をしばらく眺めて、自分の席へと戻った。眠くも無いのに机に突っ伏してしばらくすると、彼女達の笑い声が聞こえてくる。
――あれあれ? ガリ勉女が居眠りしてる振りしてるよ?
――私達にシカトされて、泣いてるんじゃないの? 一人が寂しいなら野球でもやってれば良いのにね?
その声の中には、裕香のものも混じっていた。あるいは、裕香に似た声なのかも知れなかった。みんなの声が、まるで同じもののように聞こえていた。
まるで三文手品の種を見たような心境だった。要するに、私が好きだった友人は、私が思っていたよりくだらない人間達だったと言うことだ。
特に私が一番好きだった、裕香も含めて、裕香も含めて。
――私はなんとどうでも良いことで、貴重な授業を、時間を無駄にしたんだろう?
私は深層心理に、笑いたくなっている自分を発見した。
そりゃあ私は最近、彼女達と話をする機会が減っていた。そしてそれは、野球に傾倒し過ぎた私の責任でもあるのだ。もし彼女達が決別を宣告してきたり、自然消滅をした場合は、それはそれとして受け止めるつもりだった。もちろん、本当はそんなことは嫌だった。しかし、少なくともことが起こった時に、それを受け止めるだけのケジメのようなものは持っていた。駄々をこねてもオモチャを買ってもらえない時があるように、いつだって、自分の思うものが手の中にあるとは限らない。そのくらいのことは分かっていた。
しかし、現実はどうだ。私の一番の親友まで、村八分、そして将来はイジメとして発展するだろうと言う、もっとも下劣なやり方を持って、私に制裁を加えようとしているではないか。
「ねぇ、樹花ちゃん」
その時、一つの声が私を呼び、手が私の肩を叩いた。
顔を上げると、そこには、卑しい笑顔を浮かべ、腕に数冊の計算ドリルを抱えた裕香がいた。かつて、私の一番の友人だった人。いつもいじってばっかりだったけど、いつも心配して見ていた人。
その背後には、かつての私の友人達。私には不思議と、彼女達が個体の集合体と認識することが出来なかった。みんなが、同じような表情を浮かべているようにしか見えなかった。裕香と同じ、まるで、奴隷が豚を見下すような笑みだ。
「あのさぁ、私今日の算数の宿題やってなくってね。私、インテリの樹花ちゃんと違って馬鹿だから全然分からなくってさぁ。後、喜美ちゃんも、洋子ちゃんも分からなかったんだって。だから、やっておいてくれない? ね? 私達、友達でしょ?」
インテリ、インテリか。なるほど、ガリ勉女であるところの私のことか。私は思わず苦笑いを浮かべた。何を勘違いしたのか、彼女は笑みをさらに深めた。
なるほど。そうやってあんた達は、あんた達の頭や心の貧しさを無反省に棚上げして、私のことを天上人の知識人として見上げるわけだ。そして自分達のくだらないプライドを守るわけだ。なるほど、ずいぶんとらしいやり方じゃないか。
私はただ、自分の好きなことに真摯でいただけだ。そしてその好きなことの一つが、たまたま勉強であっただけだ。何だったら、その好きなものを黒板消しでも花の水遣りでも、目の前の人のようにサンリオのキャラクターに変えたとしても、全然構わないのだ。
なのに、どうしようも無い馬鹿であるところの彼女達は、そんなことを思いもよらないで、宗教差別のように勉強を愛する私を迫害するわけだ。たいしたご身分なことだ。
――これらの思考は、発言者の裕香と言うより、その後ろでニヤニヤと笑っている連中に対して思ったことだ。
では、裕香に対しては何を思ったか……思うも何も、混乱するだけだった。今の彼女のセリフは、本当に彼女の本心だと言うのだろうか?
「……裕香ちゃんって、やっぱり馬鹿だったんだね。どうりで、自分が今どれだけくだらないことやってるかにも気づけないんだ」
そんな反論をしている自分の存在が、何だかよく分からない。
しかし彼女は私に攻撃を加える。圧倒的な数の世論を背負い、圧倒的な敵意を持って。
「はぁ? 生意気言わないでくれるガリ勉。お前の存在の方がくだらないし」
ねぇみんなぁ、と振り返った裕香に、後ろの友人達、さまざまに低俗な趣向を凝らした言葉で賛同を述べた。
私は黙ってその光景を眺める。クラスメイト達が、私達の方をじっと見ているのを感じる。どうやら、こう言うただ事では無い雰囲気は何となく伝わるらしい。
「まぁいいよ、私がくだらない人間だとしても。すっごくどうでもいいし」
「そうそう、その通りだよぉん。やっと樹花ちゃんも気づいたんだねぇ。よかったよかった」
ニヤニヤと笑いながら、彼女は右手に掴んだドリルで私の頭を数回はたく。強くなったクスクス笑いが、彼女の背後から漏れて来た。
痛くも無ければかゆくも無い、しかし、むき出しの悪意が頭から心を突き抜かんとする殴打。私はそれを無表情で受け止めていた。
恐怖心が沸かなかったと言えば嘘になる。しかし、だからと言って、この恐怖心に潰されるほど小心でもなかった。今思えば、そっちの方が良かったのかも知れない。
ニヤニヤと、ただニヤニヤと笑う彼女。これが、こんなにも愚かで、卑しい人間が、私の親友だったと言うのだろうか? こんなのが、私の一番だったと言うのだろうか?
その時、私の頭の中を、彼女との出会いの場面がぐるぐると駆け巡った。
あれは小学校二年生の時、九九を初めて教わってから二ヶ月が過ぎた頃だ。
クラスどころか、二年生はほぼ全員が九九を覚えきった中で、うちのクラスで一人、どうしても覚えられなかった裕香。
教わって一ヶ月がたった頃に、「ちゃんと覚えるまで、放課後は残りだからな」と宣告されて、彼女は涙目でうつむいた。
それでも、いくら頑張ってもどうしても覚えられなかった彼女。こうなると、『馬鹿女』といじめられるのは、酷い言い方になるが、当然のことだったのかも知れない。
休み時間、三人の男子達が彼女のことをイジメ始めた。「返してよ!」と泣き叫ぶ頭上で、彼女よりも数段でかい男子達の手によって飛び回る彼女の筆箱。
私は彼らをチラチラと見つつも、友人と話していただけだった。しかし、彼らのうちの一人から発せられた言葉に、私はカチンと来た。
「別に良いだろうがよ? 馬鹿が勉強したってどうせ無駄なんだからよぉ?」
「……樹花ちゃん?」
気がついたら私は、眉根をひそめてその男子のことを睨みつけていた。
馬鹿が勉強したって無駄? 何を言ってるんだろうかこのマウンテンゴリラは?
勉強と言うのは、漫画とかに出てくるような、頭がいっちゃっているような科学者達みたいな人たちだけのものじゃない。
勉強は、何かを知りたいと思っている、何かを知りたいと努力をしている、そんなみんなのものなのだ。
私はこのころからすでに、周囲から「樹花ちゃんって天才だね」と言われているような、いわゆる『神童』扱いをされていた。しかし、何も私は文字通りの天才だった訳じゃない。私にだって、どうしても苦手な科目と言うのはあった。特に、漢字はちょっと難しくなると何十回書いても中々覚えられず、音読も「お願いだから神様どうか指さないで!」と一秒間に十六回必死に祈るほどに苦手だった。
それでも嫌いにならなかったのは、私がそれらを「絶対にマスターしたい」と、時間を忘れて、勉強したからだった。
私は友人達が止めるのを無視して男子達に歩み寄り、大の字に立っているマウンテンゴリラの股間を後ろから思いっきり蹴り飛ばした。
「ほんぬぅお!」と悶絶の奇声を上げながら、ゴリラは床をゴロゴロと転がった。
突然のことに泡食った他の二人と裕香の意思を無視して、私は裕香の手を取り、友人達の元へと歩いていった。そこでやっと二人が、「てんめぇ何しやがる!」と殴りかかろうとしたが、私の一睨みと、「私とこの子をぶったら先生に言いつけるからね!」の一喝でうなだれた。
「……大丈夫よ。九九を覚えることは、全然難しいことじゃ無いから」と、私はいまだキョトンとしてる裕香に言った。
「いい? 「数字が並んでるのを覚えなきゃいけない」なんて思うからいけないの。そうじゃなくって、「そこに私の知らない数字の世界がある」って思えばいいのよ」
何を言ってるのか分からない、と言いたそうに首を傾げる裕香に、私はやさしく笑いかけた。
「私達はまだ子どもで、知らないことが沢山ある。そうだよね? もしこのまま生きていけば、私たちは自分の分かることが少ない、狭くて、色彩の少ない世界で生きていかなくちゃいけなくなる。だから、私たちの知らない世界に住む人たちに歩み寄って、教えてくださいって頭を下げながら手を差し伸べるの。その世界の住人達はやさしいから、私達が望めばきっとそれをくれる。でも、違う世界の道具をすぐに扱えるようになれ、って言われたって無理でしょ? だから、その世界が与えてくれた道具の使い方を少しでも知りたいと思って、私達は勉強をするのよ」
「そうなの、お姉ちゃん?」
「そうよ」と答えながら、私は苦笑した。お姉ちゃん、か……同級生なんだけどなぁ。
「可愛い妹をもったねぇ、樹花お姉ちゃん」と、みんなが爆笑する。私は振り向いて「うるさいなぁ!」と叫んだ。
しばらくして、置いてきぼりな裕香ちゃんの方を向いて、「ごめんねぇ」と苦笑いをしながら、話の続きをする。
「だから、早く覚えられた方が偉いとか、そういうのは全然無いの。ただ、私の知らない世界を知りたいって思う気持ちを持って勉強していれば、いつか必ずそれは答えてくれるの。だから焦らなくていいの。自分のペースで、違う世界のことを知りたいって思いながら学んでいけば、『シチイチがシチ』、『シチにジュウシ』って言う記号が、素敵な意味を持って、きっと裕香ちゃんに答えてくれるから」
「……いや、意味分からないから。って言うか何かマジキモイし」
友人の冷静な突っ込みに再び起こる爆笑。いやに真面目腐っていた私は妙に恥ずかしくって、「何よ! 何か文句ある訳!」とプリプリになって怒った。
と、その時、突然裕香が「あぁ!」と叫びだした。「どうしたの?」と慌てて顔を望みこむと、彼女は何やら思い出したような明るい表情を浮かべていた。
「何か忘れてるとずっと思ったら、筆箱忘れてたぁ!」
……へ?
私は目をぱちくりとさせた。
ずっと思ってた? 私が話してるかたわらで?
唖然とする私を尻目に、彼女はツカツカとマウンテンゴリラの方に近づき、まだ悶絶してるゴリラのかたわらに落ちていた筆箱を拾って、満足げな表情でそれを見つめた。
……ええっと、裕香ちゃん? 私の言うこと聞いてました?
「ううんっと、聞いてたけど良く判らなかったから、途中で筆箱のこと思い出してた……で、お姉ちゃん、結局何の話してたの?」
……………………。
………………。
…………。
……。
――ドッカァンッ!
それはもうすごかった。学校中に響き渡るんじゃないのかって言うほどの、満場一致での大爆笑だった。
当の私は、もう、頭が真っ白って言うか、意識が飛びぬけたって言うか、精神がしあさっての方向に悟りを開いたって言うか……。
――このガキィァアアア!
この恨みはらでおくべきかぁ! とめちゃくちゃに叫び散らそうとした時、「でもよかったぁ、どこも傷ついてなくって」と、裕香は自慢の宝を友人に自慢するように、本当にうれしそうな表情で話し出した。
「これね、うちのおばあちゃんが買ってくれたものなんだよねぇ。このキティちゃんがもう可愛くって可愛くってさぁ。私、サンリオのキャラクターが大好きなんだけど、そのことをお母さんが話してくれたら、おばあちゃんが一時間も選んでくれたんだよぉ。しかも私が一番好きなキティちゃんを! だからこれ、私一生とって置くんだぁ」
……そう言って、筆箱に描かれたキティちゃんに頬擦りをする裕香。どうしても解けなかい問題をやっと解いた時のように、彼女の表情はまさに至福のひと時を満喫しているようなものだった。
「…………プッ」
私は何時しか笑っていた。何だこいつ頭変になったか? と言う表情で友人やクラスメイト達が見ていたが、そんなこと関係無かった。裕香のこんな表情を見ていたら、もうさっき話をスルーされたことなんてどうでもよくなったのだ。
――あぁ、裕香ちゃん可愛いなぁもう。
「よぉしお姉ちゃん、絶対裕香ちゃんに九九をマスターさせて上げるからね!」
そう言って私はニヤニヤと笑い、裕香の頭をグシグシと撫でた。
裕香は私の顔を、何か変な人を見るような目で見ていたが、私はチャイムが鳴って先生が入ってきても、しばらく頭を撫でることを止めなかった。
頭が悪くて、間も抜けていた裕香。それでも天真爛漫で、何故か構って上げたくなるような人だった裕香。
それの本性が、これだと言うのか? それの私への結論が、これだと言うのか?
「……ねぇ、随分とご立派じゃない、裕香?」
……今度は、はっきりと分かった。ボソりと呟いた私の中で、一体何が起こったのか。
――ワタシノナカデ、ナニカガコワレタ。
私はそっと、自分のペンケースを掴む。そして表情を変えず、スナップを効かせて、思いっきりペンケースを裕香の頬に叩きつけた。
小気味の良い音がしたのと同時に、彼女の右手が止まる。左手に抱え持っていた残りの計算ドリルが手からすり抜け、パラパラと音を立てて落ちた。彼女の表情が焼いた粘土のように固まる。背後の笑い声もピシャリと止まり、教室中が水をうったように静まり返った。
「ねぇ、はっきり言ったらどう?」
私は裕香の双ぼうを見据え、はっきりとした声で言った。裕香の表情が、恐怖の色に染まる。
「私達は全然自分達に構わないで野球ばっかりの樹花ちゃんがムカつくから、その憂さ晴らしでちょっかいをかけるんだって」
一瞬、裕香の表情が青ざめた。彼女は私から視線をそらし、
「……はぁ? な、何言ってるのよ?」
「右手」
私は即座に指摘した。彼女が、無意識に右手を『ある所』にかけたことを。彼女は私の言わんとすることが理解できないと言わんばかりに、私の顔をキョトンと見つめる。
「……は?」
「あんたは嘘をつく時、右手を左の二の腕にかける癖があるのよ。知ってた?」
みるみる内に、彼女の表情が目に見えるほどに青くなった。目が見開かれ、彼女の顔が、自分の腕と私の顔の間で、カクカクとぎこちなく動く。どうやら、自分でも気づいていなかった癖のようだ。
そう、本来これは、イジメに発展するような問題では無い筈なのだ。
これは思うに、特定の人物がムカつく為に行う、憎悪によるイジメだ。
さて、そうなると、何故私が彼女達に恨みを抱かれるようになったか、と言うのが問題になってくる。そこで真っ先に出てくるのが、ここのところの私の野球偏重なのだ。
なお、それ以外の可能性については消去しても問題無いと判断した。そもそも私は、彼女達に対して何かしらの不愉快になるようなこと、少なくとも決定的に常軌を逸した言動は行っていないからだ。仮に、いくつか世間の常識から逸脱している言動を無意識に行っていたとしても、それほどの問題にならないと考える。そもそも友人関係と言うのは、そう言う所もひっくるめて受け入れることで、成り立つものだからだ。
それで可能性は、野球偏重ただ一つ、と言うことになる。そしてそれにしたって、ただそれだけでイジメに発展するには弱い動機であるのだ。
彼女達が野球ばっかりの私に文句があるなら、それをそのまま言えば良かったのだ。それで話し合うか口喧嘩をして、私が野球を止めるなり、私が彼女達と決別するなりすればそれで完結する話なのだ。もしその時の私が気に食わなかった場合にのみ、初めてそこでイジメの正当性が生まれるのだ。
戦争とは、宣戦布告無しに行ってはならないものだ。しかし、それでも彼女達は戦争を始めてしまった。近隣の国家が気に食わないと言う国民感情だけで。だからこそ愚劣なのであって、卑しいのだった。
その時、私の腹のそこから、一つの感情が爆発しようとしてた。
そう……私はおかしくておかしくって……
「ぷっ……あはははははははははははははははははははははははははははははははは!」
呆然として私を見るクラスメイト達。
先ほどまであんなに強気だった彼女も、こうなると子犬のように震えるばかりだ。
ほぅら見なさい、と私は思った。何と言っても私は一番の親友だったのだ。彼女が一体どう言う人間か、このクラスで一番よく知っている。流石は筋金入りのいじられ役だ。こんなにも簡単にメッキが剥がれる。やりやすいったらありゃしない……。
まさに噴飯、抱腹絶倒だ。
笑いと一緒に、バカカズを返り討ちにする時以上の、冷酷な感情がわき上がって来るの感じた。
――さて、あんたには、少なくとも泣きっ面にはなってもらおうかしら。今のあんた、サイコーにムカつくし、今の私は、サイコーにムカついてるから。
曲がりなりにも、やっぱり一番だったんだろうと思った。そうじゃなきゃ、私はこんなにも憎しみを持たなかった。
「しっかしねぇ、いつも私に宿題を頼む時は、助けてお姉ちゃんって泣きついて来てたあんたが、いつになく強気じゃない。楽しい? 普段いじられてもろくな反論出来ないあんたが、私みたいな爪弾きにされた奴相手に憂さ晴らしするの。数の利に頼れば、ひょっとしたらいじり役の主犯格ぐらいは論破できるかも知れないわよ? ほぉら遠慮すること無いって。どんどんその幼稚な言葉を吐いて、それを苦し紛れに正当化してもらいなさい? そうでもしなきゃあんた、人にろくな攻撃すら出来ない愚図なんだからさぁ?」
私はあの日のように、彼女の頭を犬の頭のように撫でながら、あくまで幼児を諭すようにやさしい声で言った。彼女はしばらく、きつねにつままれたような表情でそんな私を見つめた。
やがて彼女は手を振り払い、カッと顔を真っ赤にしながら手を振り上げた。殴られる、と思った時には乾いた音が教室中に響き、鈍い痛みが頬を襲った。教室中でワッと声が上がり、瞬く間にざわめきが広がり始めた(「おいこれ、先生呼んできたほうがいいんじゃねぇのか?」)。これには私よりも、むしろ裕香ちゃんの方が堪えたようだった。
私は、赤く熱を帯びた左頬に手を添える。殴られたのは生まれて初めてなので、切れた口内のチリチリとした痛みは不快で、中々のショックでもあった。しかしそれ以上に、彼女が自分の右手を信じられないものを見ているような姿を見る面白さの方が勝った。
私は緩い笑みを浮かべて、
「……痛いなぁ。あんたがやりたいのは、口喧嘩じゃなくて殴りあい?」
「うるさい! ガリ勉女がごちゃごちゃ騒ぐな! あんたは人間的にクズなのよ!」
もう余裕が無くなっている。友人達の支援も、「そうだそうだ!」「てめぇ何様のつもりよ!」と言う罵詈雑言だけで、ほとんど無きに等しいものだ。
それでも鬱陶しかったので、私は視線を裕香の背後に向けて、「あんた達ちょっと黙っててくれない?」と釘をさした。
「はぁ? 何でてめぇに命令されなきゃいけねぇんだよ?」と言う声を、「じゃあ私は今から職員室に行って、藤下さんから宿題押し付けられて、断ったら思いっきり殴られたってこと言うから。証言者はクラスメイト全員、それでもいい?」と言って黙らせた。これで、支援無し。
私はニヤリと笑みを浮かべながら、裕香の方に顔を戻した。裕香の顔は、ますます青ざめていた。まるで、袋小路で獣に追い詰められた小鹿のようだ。
「って言うかさぁ、さっきから私のことガリ勉ガリ勉言うけど、あんたが馬鹿なんでしょ? さっき自分でそう言ってたわよねぇ? ところで算数のテスト、また三十点だったんだって言ってたわねぇ? この程度、ちょっと勉強すれば八十点超えるのが当たり前なのに。このクラスで未だにテストで百点取ったこと無いの裕香ちゃんだけよ? それで宿題まで他力本願じゃあ、馬鹿になって当然ね。まぁ、あの程度のことで人のこと殴ってる時点で、『人間的』にも程度が知れるけどねぇ?」
「うるさいうるさいうるさい! ガリ勉女! ガリ勉女!」
最早彼女の攻撃には、主語もなければ述語もなくなっていた。名詞オンリーの幼稚園児式戦法。哀しいなぁ、この状態。
「はいはい。で、それがどうしたの? 私がガリ勉女で、くだらない奴だったとして、あんたがどうしようも無い馬鹿だってことは変わるわけ? 変わらないわよねぇ? そんな簡単なことも分からないなんて、本当、可愛くすら思えちゃうなあ? お姉ちゃん頭撫でてあげるよ」
そう言って裕香の頭を撫でた手を、彼女は精一杯の健気さで思いっきり払い、「うるさい! うるさい! うるさい! だまれぇ!」と、まとわりつく悪霊を気合で払いのけようとするようなテンションで叫んだ。
私は「おっと危ない」とおどけながら両手を挙げて、一歩後ずさった。
「ところでさ、馬鹿は死ぬまで直らないって言葉知ってる? 可哀想ね、あんた一生馬鹿なのよ? お似合いの運命だとは思うけどさぁ。まぁ、せいぜい一生いじられ役でがんばったら? 集団の中にいたら、あんたの馬鹿も少しはごまかせるかもしれないわよ? でも、安心して本性を曝け出せる人生が送れないって、すっごく窮屈そうじゃない?」
裕香の全身が、プルプルとゼリーのように震え始めた。彼女が必死になって堪えようとしている涙は、まぶたと言う防波堤の能力の限界を超えて、数滴が流れ落ちている。
私は、そっと彼女の横に周り、これ以上無い最高の笑みを浮かべて、彼女の耳元で囁いた。
「だからさ、今のうちに死んじゃえば良いんじゃない? 悪いこと言わないからさ。どうせみんなすぐに、あんたのこと何て忘れちゃうんだからさぁ?」
私がささやけばささやくほど、彼女の涙の筋はより太く、嗚咽はどんどん大きくなっていった。
彼女は背後から撃たれた人のように膝から崩れ落ち、その場でうずくまった。「ううっ、うううっ……」と言う声が教室中に響き始めたのは、それからすぐのことだった。
その中で私は、裕香以外の者の沈黙を感じる。その背徳的な重さに、その場でひるみ、立ちすくんだ。
その時、私の頭を硬い物体が直撃した。
「つぅ!」と声を上げながら、衝撃が襲った側頭部を反射的に押さえる。面を食らいながら、かたわらに落ちてる投てき物とおぼめしき物体を見た。見慣れた携帯電話。女の子が持つにしては無骨なデザインの携帯電話だった。私が顔を向けると、元友人達の群れの中で、涙すら浮かべて激しくこちらを睨む元友人の姿があった。クラスの女子で一番の長身を赫怒に震わせ、彼女、篠原比奈は私の前まで歩み寄り、私の胸倉を掴んだ。男勝りの腕っ節を誇る彼女の力は粗野に強い。
――いや、実を言うと二人の友人が振り向いた。
――みんなが、同じような表情を浮かべているようにしか見えなかった。
そうだ、あの時振り向いたのは裕香と比奈で、みんな同じに笑っていたと思っていた中で比奈だけは笑っていなかった。むしろ苦々しそうにすらしてたのでは無かったか?
「樹花……あんたって本当最低ね? 自分が被害者だったら、何を言ったっていいの? あんたと裕香って、仮にも親友じゃ無かったの?」
「……親友ですって?」
私はありえない、と言う風に首を振った。
「あんなのは私の知ってる裕香じゃない! 私の知ってる裕香は、私にあんなこと言ったりしない!」
彼女はさらに胸倉に力を入れ、持ち上げるような容量で腕を上げた。息が苦しい。彼女の獣じみた瞳と、荒い息遣い。私は圧倒されていた。
「それがあんたのムカつくとこだって言うのよ!」
彼女が叫ぶ。彼女の存在に押しつぶされている私がいる。彼女の叫びに、私の知らない裕香を知っているであろう彼女に、どうして太刀打ちできようか?
「自分だけが、被害者だと思って、正しいと思って!」
苦しい、苦しい……私はほとんど息が出来なかった。
「裕香はいつも私に言ってたのよ。あんたと一緒にいると、自分が情けなくってしょうがなくなるって! 裕香がいっつもあんたの前で笑ってたのはね、あんたにそう言う所見せると、くだらないことで悩んでんじゃないよって言われるのが怖かったからよ! 分かる? 裕香にとってあんたはね、負担にもなってたのよ!」
私は彼女の言葉に、目を見開いた。
私は、一時間目が終った後に声をかけた時のことを思い出していた。
裕香が振り向き、朝に向けてきた冷たい視線で、彼女は私を『睨みつけて』いた。そうだ、あれは断じて、朝のときのような無表情では無かった。あれは、憎しみを持っている者に向ける目だ。
もし彼女の言う通りだったとしたら、裕香があの時向けてきた視線は、私に対する劣等感への敵愾心を意味していたのだろうか?
彼女の見せていた、二年生以来、初めて出会って以来、ずっと変わっていないと思っていた笑顔。あれは、私に弱さを隠すためだけのものだったとでも言うのか?
いや、違う。そんなはずは無い。あれが全部虚仮だ何て、そんなデタラメがある訳が無い。それは比奈であろうと誰であろうと、絶対に言われたくないことだった。
でも、私が見ていたのは、あくまで私が知っていると思っていた裕香であって。私は、私の知らない裕香なんて無いと思っていた。裕香のことは、全部把握していると思っていたから。私が裕香のことで『知らない』こと何て無いと思っていたから。
急に比奈が手を離し、私はそのまま尻もちをついて咳き込む。私が視線を向けた先の裕香は、未だにむせび泣いている。今の彼女が果たして、いつも通りの彼女なのかどうか、判別出来なかった。何時も彼女の姿を見ていた、私だというのに。
――私は、比奈の言うことを、嘘だと断定することが出来ない。
「どうして、どうして分かって上げられなかったのよ……」
比奈は、私の知らない裕香のために涙を流していた。クラスメイト達はみんなそろって無表情に見えた。
長い休み時間の終わりを告げるチャイムと共に、私はこの場で一番の悪者になったことを感じた。そしてそれ以上に、取り返しのつかないことをしたと言う思いが、私の心をグルグルと駆け巡った。
裕香は一日だけ学校を休んだ。
その日から、彼女が今までのように天真爛漫な笑顔を見せることは二度と無かった。彼女はグループの中で、卑しく笑い、私のような弱者の立場にいる人間を貶めることを覚えるようになった。
その日以来、教室に入った私から全員が目を背け始めた。私が彼らに声をかけたとしても、嫌な顔をしてどこかに行くか、最低限の応対をぶっきらぼうにするか。人によっては時によっては、「うるせぇよ」などと憎まれ口を叩くこともあった。初めてそれらの仕打ちを受けた時、すっかり嫌われ者になったものだなと、口元に苦い笑みを浮かべたものだ。
ガリ勉女。冷血女。そんな陰口が私の耳に飛び込むようになった。私の陰口を叩く者の中に草野球のチームメイトがいるのを知った時、私は野球に行かなくなった。
私は何時しか、勉強にのめり込むようになっていた。勉強こそが、学校の勉強こそが自分のやるべきことだと言う思いに駆られていた。また、それは百点じゃなきゃ駄目だった。百点が取れなきゃ、勉強の世界にまで裏切られる気がして怖かった。そんな私を、周りはますますガリ勉女と後ろ指を差した。
それ以外のことはやっちゃいけない。それ以外のことをやったら、その世界から裏切られるから。私はあの日から、少しずつ色んな世界との意思疎通に自信が持てなくなっていったのだ。
人付き合い、これが一番駄目だ。裏切りの代名詞じゃないか。私がやりたいと思ったことをやっていたと言う理由で、平気で切り捨ててくる連中だからだ。私の気持ちなんて、知ったこと無しで。
そして、最後に残ったのが勉強だった。勉強の才能、何て漠然としたものがあるかどうかは知らないが、とにかくあるとしたらそれを持っていたのだろう。もっとも、小学校のテストなんて、その気になって勉強すれば百点を取れて当たり前のものばかりなのであったが。
何かを学ぶことが喜びだった私は、何時しか学ぶことが苦痛な私へと変わっていた。
帰り道、人影のほとんど見えないグラウンドの前で、バカカズが背後から声をかけて来た。いつもの憎まれ口では無かった。
「なぁお前、最近元気無いぞ?」
振り向くとそこには、心配そうな表情のバカカズが立っていた。
確かに、憎まれ口を叩く元気は無かった。
「……そんなんじゃ、無いわよ」
「嘘付けお前。普段だったら、誰が元気無いですってバカって返すところだろ?」
「…………」
この無神経男にまで見透かされるようじゃ、本当に重症だったのだろう。
「なぁ聞いたぞ? お前、藤下さん達と揉めてクラスからハブられてるんだろ? 最近、俺達の集まりにも来ないよな? チームメイトのユウヤとイクトがうちのクラスにいるからか?」
私は黙ってうつむいていた。
ほっといてよ。そう思う私がいる中で、その思いは欺瞞だと強く主張する私がいる。
「……ちょっと言いづらいんだけどよ、ユウヤとイクトの奴、お前のこと最低の女だって言ったんだよ。どう言うことだって聞くと」
「止めてよ」
私はピシャリと言った。
彼はしばらく気まずそうに視線を泳がせてから、「ごめん」とうつむきながら言った。
しばらく、重たい沈黙の時間が続いた。太陽の半分くらいが地平線の向こうに沈んでいた。
「……歩きながら話そうか?」
私はうなずいて、しばらく彼と一緒に歩いた。左手は数棟のビニールハウスが立っている畑が(おまけにグラウンドもこっち側だ)、右手は民家が占拠している。田舎道と辺ぴな住宅街をつなぎ合わせたような通り。私はこの辺りを好きじゃ無い。昔の名残のように残った畑、色あせて影を落としているような暗さを感じる家、この辺りの風景は全てが色あせている。心が沈んでいる時にここを通ると、理由も無く、焦燥感に近い不安が湧き上がってくるのだ。
「…………」
沈黙が、重たかった。さらに、その沈黙を共有している相手がカズだと言う事実が、その重さを深くした。
私は遠慮がちにカズの顔を覗いた。彼と目が合う。お互い、気がついてすぐに顔を背けあった。彼も、まるで後ろめたいことをやっているようなぎこちなさで、こちらに顔を向けていた。どうしたら良いのか本当に分からない。そんなことが言いたそうな表情だった。
私はふと、その気になれば今すぐにでも、彼の前から走り去ることが出来ることを思った。相手は活発なタイプの男の子なので、追いかけてきた場合に逃げ切れるかどうかは微妙だったが、それでも拒絶の意を表すことは可能だろう。そしてそれは、まだ野球をやっていた頃、カズと一緒に帰っていた時にも当てはまっていたのだと言うことも思った。その頃だって、「あっちから話しかけて来たら必ず喧嘩になる」と分かっていたはずなのに、私は結局拒絶しなかった。
――本当にムカつく子がからかって来ても無関心で接してるんじゃない?
そう、今にしてもあの時にしても、もし相手がカズじゃ無いムカつく奴だったとしたら、私は即座に逃げ出し、追いすがったそいつに毒づいて、完膚なきまでに拒絶していた。
それなのに、私は今こうして、彼の隣で気まずくうなだれている。それは一体、何故? やはり私は、彼のことを必要としているのだろうか? 彼に一緒にいてもらいたいと思っているのだろうか?
気がつけば、大通りに入る道、右折するポイントまで来ていた。通常自宅と小学校へ行き来する時、折り返し地点にしている所だ。車道では乗用車や軽トラックが飛び交い、歩道には買い物に行ったり来たりする主婦を多く見かけた。
そこで信号待ちを始めた所で、彼はやっと、「あのさぁ」と意を決したように口火を切った。
「今度から放課後にさ、学校裏の公園でキャッチボールやらないか?」
私はカズの顔を見る。カズはこうして口を利いた今でも、どこか自信のなさそうな様子でこちらを見ていた。
私は再び信号の方を見ながら、そっけなく言った。
「……何でよ?」
「いや、何でってことも無いけどさぁ」と、戸惑っているような表情を浮かべ。
「……最近お前、全然俺達のところに来て無いから、運動とかしてねぇんじゃねぇかなぁって思ってさ」
「余計なお世話よ」
「いやいやいや、たまには外で思いっきり遊ぶのも楽しいもんだぜ? どうせ家に帰ったって勉強しかやって無いんだろ?」
「…………」
「そりゃあさぁ、俺みたいに全然勉強やらない奴に言われる義理もねぇと思うけどさ、あんまり勉強ばっかりやってると逆に馬鹿になっちまうぜ?」
「……」
「だからさ、たまの一時間くらい、それ以外のことにあてたってバチあたらねぇって、な? そうしようぜ? グローブとかボールとか俺が全部……」
「うるさいなぁ」
私は苛立っていた。さっきっから何を知ったようなことをベラベラベラベラ……。
私はカズの方に顔を向けて、こちらを向いていた彼のことを、今までの喧嘩の中で一番の憎悪を乗せた瞳で睨みつけた。
「私が運動不足だからって、バカカズに何の関係があるって言うのよ?」
カズは一瞬ひるんだように見えた。しかし、すぐに私のことを、力強く見据え出した。この時、今までカズとの喧嘩をして来た中で、始めてこちらがひるんだ。
「なぁ、お前さぁ?」と、彼は私の顔を見ながら言った。
「最近噂になってるぜ? お前が、休み時間にまで机にかじりついて勉強してるって。最近のお前、みんなから何て言われてるか知ってるか? 百点お化けだぜ? お前、満点取れなかった時、自分の道具に当たりまくってるんだってな?」
「…………」
「なぁ、お前さ、ちょっと最近変だよ。いい加減さ、藤下さん達のことは……」
「……っ、だから、それが一体どうしたって言うのよ! あんたに何の……!」
「樹花ぁ!」
私の肩を思いっきり掴み、私の言葉を止めた。カズが、私の目を見据える。苛烈で、真剣な眼差し。私は目をそらさずにはいられなかった。
「なぁ、そんなに不満かよ? 馬鹿な俺に知ったような口を叩かれるのがよ! いいか、お前は今、根をつめ過ぎてるんだ! そんでもって、お前は今変なところでムキになりすぎてて、頭が参りそうになってるんだよ! なぁ、分かってくれよ、俺はそんなお前を見てられねぇんだよ! 今まで俺に散々泣きべそかかせて、減らず口な憎まれ口を俺に叩いてたお前が、野球にあそこまで熱血に打ち込んでたお前が、そうやって変になっていくのがよぉ!」
私は彼が話している間中、ずっと目を合わせることが出来なかった。信号待ちしていたおばさん連中がこちらのことをチラリと見たのを確認する。大抵は、何事かと訝しっている表情だった。
しばらくの間、私たちはこの体勢のまま固まっていた。やがて信号が変わり、おばさん達が横断歩道を渡りだした所で、カズが手を放した。先の掴んだ時の野蛮さを無言で謝るかのように、やさしい手つきだった。
「……行こう」
と私の顔を見ずに促した。私はただ、彼の背後についていくばかりだった。
それから私たちは、しばらく大通りの歩道を歩いた。ガードレールの向こう側を車が行きかい、さまざまな通行人とすれ違う。私達はそんな人々の間を行きかいながら、無言で歩いていた。日は、すっかりと暮れて、もう間もなく闇が辺りを包もうとした。
やがて大通りを外れ、小さな住宅街の入り口へと向かう小さな通りへと入った。
「……なぁ、俺さぁ」
そこで彼は立ち止まり、私の方に向いて再び重い口を開き始めた。
「俺みたいに散々突っかかってた奴が言っても説得力無いと思うけど、ユウヤがイクトが言うみたいに、勉強しか能の無い冷血女だ何て思ってねぇから」
「…………」
私は、黙ってカズの言葉を聞いていた。そして、私はカズと、カズが今やっていることについて考えた。
カズは、私にとっての救いなのだろうか? 私は、カズの提案にしたがって、放課後にキャッチボールをしている姿を思い浮かべた。
無愛想な私と、楽しそうなカズが、球を投げあい、球を受けあう。どちらかが大暴投をしたり憎まれ口を叩くとたちまち大喧嘩に発展する。そしてしばらくすると、どちらととも無く笑い出す。
ああ、まさに救いじゃないか、と私は思った。その世界の中で、私は漫画の世界ようなお姫様になれるのだ。
カズも、そんな世界を望んでいるのだろうか? そして彼が思い浮かべるその世界での私は、やはりそんなお姫様なのだろうか?
みんなにガリ勉と呼ばれてる女は、やがて幼馴染の彼には優しい一面を見せ始め、そして最後には丸くなり、幸せになってハッピーエンド。そして、私が幸せを満喫するその隣には、カズがやさしく微笑んでいる。
――出来すぎだ、出来すぎだよカズ。
「だってお前実際の所、勉強だけじゃなかったもんな? 野球とか漫画とかさ、そんな、誰だって興味を持つようなことにも一生懸命でさ、一直線でさ。だからそれで誤解を受けやすい奴だけど、本当は誰よりも……」
「……かっこいいこと、言ってるつもり?」
私の喉から出た声は、山中の吹雪のように凍てついていた。
カズの表情が、その冷気に当てられたように、固くこわばる。
「なるほど、なるほどねぇ。バカカズにしては随分とうまいこと考えたじゃないのよ。そうよねぇ、自分が好きだと思った女の子を落とすには、今みたいに失意のどん底にいるタイミングで狙うのが、限りなくベストに近いもんねぇ? いっつもお母さんに楽しそうに話してるみたいね? 私との口喧嘩のこととか。普段、好きな女の子に素直になれない男の子が、ここぞと言う時に手を差し伸べる。すばらしいよ。まるで物語の世界ね。随分とチープな感じはするけどさ?」
彼の顔が、見る見ると青ざめていくのが分かる。私がこう言うことを言い出すだなんて、予想すらしていなかった見たいだ。残念ね、私があんたの思い浮かべるお姫様じゃなくって。
「な、何を……言い出すんだよ、お前?」
「ところでさっき横断歩道の前で、ちゃっかり私のこと下の名前で呼んじゃってさ。あんたの心の下も曝け出しちゃったんじゃないのかなぁ?」
これは明らかな揚げ足取りだった。しかしそれでも割と効果ありだったらしい。「お前……!」と彼の顔が赤くなっていくのが、暗くなった外の世界で、手に取るように観察出来た。
「確かに、あんたが私に心配してくれてるのはよく分かったわ。でもさ、私ってそんなに可哀想な女の子に見えるのかな? そりゃあ私は、みんなから見放されて、勉強しか生きがいのなくなったくだらない女の子よ。でも、それって実際は私の責任じゃないのかな? 私は自分のやりたいことをやって来て、周りのことを顧みることは無かった責任じゃ? それで笑っちゃうのがね、その頃の私は、今見たいな立場にはならないだろうって勝手に思い込んでたってことなのよ。しっかりと周りに対する付き合いが出来てると思いこんで、ある友人とは無二の関係が結べてると信じ込んでた。それが、あんな裏切り方をされて、この様なのよ?」
……私は、一体何に怒ってるんだろう? 一体何に嘆いているんだろう? 私は一体、何をしたいんだろう?
呆然と私の言葉を聞いているカズのかたわら、ずっと思っていた。
一つ言えることは、私は今、自分で自分の引き返せる場所をぶち壊している、と言うことだった。
私のやっていることは、恐らく間違っているのだろう。それでも、私は自分のやっていることを止められなかった。ここで止まってしまえば、本当に、同情されるべき、ただのお姫様になってしまうからだ。
私は挑戦的な笑みを浮かべて、私の顔を威圧的な感じを演出するように近づけた。気おされたように後ずさるカズに私は歩み寄り、やがて彼を民家の壁際に追い込んだ。
「ねぇ、私ってそんなに可哀想な人間かな? 私が正しいと思ってやってきたやりかたでこんなことになった私って、同情されるべき対象かな? 何で私が、こんなチープなお話のお姫様に……」
死角、私の真横からカズの手のひらが飛んできた。かつて、裕香から受けたそれより、はるかに強力なそれ。
重い鈍さと熱を感じながら、再び彼の顔を見る。
彼は両手で私の胸倉をつかみ、私を振り回しながら回転して、逆に私を背中から壁に叩き付けた。ブロックの硬さが私の肺を襲い、私は大きく咳き込んだ。
彼の表情を感情で表すなら、怒りだった。しかし、それは激情的なものではなく、まるでこの世の理不尽を憤る時に見せるような、非常に純粋な怒りだった。
「何でだよ……何で、そんな風に考えるんだよお前は……!」
彼は言いながら震え、震えながら、大粒の涙を流し始めた。
私は彼を呆然と見る一方で……確かに、私が自分の救いを壊してしまったことを悟った。
「ああそうさ。確かにお前の言うとおり、俺はお前にその両方を持ったさ。でもよ、同情なんて、恋愛感情抜きに誰だって持つもんだろ? 俺は、他でも無いお前がそうやってみんなに意地張って苦しんでるのが悲しくって、どうにかしてまたいつものお前に戻って欲しかっただけなんだよ。なぁ、そう思うことがそんなに悪いことかよ? 気にかけてる奴が苦しんでるのを助けたいって思って行動を起こすことが、人としてそんなに悪いことかよぉ!」
彼はしばらく涙を流しながら私のことを睨んだ。私は彼のことを、ただ単に見るだけだった。
散々に流した涙が枯れた頃、彼は掴んでいた手を離して、言った。
「……今のお前には、俺が言ったって無駄なんだな。今は、俺に憎まれ口を叩いてた頃のお前に、戻れないんだな」
私はそれに答えないで、「行こう」とだけ呟いた。もう、辺りは完全に真っ暗になっていた。
それからはずっと、カズと口を利くことは無かった。そしてそれは、学校の中で完全な孤立をしたことを意味していた。しかし、もう陰口だろうがシカトだろうが何だろうが、私は全く意に返さなかった私にとってそれらは、全く持って苦痛ではなかった。ガリ勉女だろうが冷血女だろうが、何とでも言わせといてやろうと思った。人間とは、自分がいかに入れ込んで接したとしても、平気で裏切ってくるものなのだ。そんな奴らと接する必要なんて、何処にも無いように思えた。
カズと決別した後の私は、もう勉強のことしか考えなくなっていた。勉強してるか寝てるかが、生理行動以外に私が家でやることだった。どうしても疲れた時は、テレビや漫画くらいは見たと思う。
あれほど楽しさを感じていた勉強に対して楽しさを全く感じなくなって久しかった。しかし、そのことについては何も考えないことにした。また、何時しか勉強をする目的が、百点を取ることだけになっていたことにも考えなかった。
そんな生活を続けた結果、私の頬はこけ、目には色濃い隈ができ、体重が桁外れに落ちた。私は常に、慢性的な寝不足に襲われていた。そんな私を見てクラスメイトは「まじで悪霊に取り付かれてるんじゃね?」と、冗談めかしてささやいたものだった。
そして百点が取れなかったら、私はヒステリックに教室で暴れた。ふざけるな勉強の世界よ。人も裏切り、野球も裏切り、そして最後には勉強まで私を裏切る気かと、私は奇声を上げながら暴れまわった。
最初はクラス中での大騒ぎになり、しばらく続くと数人が止めに入る程度になり、やがて先生が「はいはい残念だったねー」となだめに入るだけになった。そして最後には、先生どころか親ですら私を持て余すようになった。三年間、精神病院に連れて行かれなかったことが奇跡だった。それは両親が世間体を気にしたのと、多少の奇行はあれども取りあえず家では決して暴れたりはしなかったからだろう。
こんな生活をそのまま続けて、私は小学校を卒業した。自然教室だとか修学旅行だとか、普通、一生の思い出として残りそうな行事のことは、全然覚えていなかった。むしろ休んで家で勉強してたんじゃないだろうか? そんな冗談のような推測が、酷い説得力を持った。
とにかく、小学校を卒業したと言うことは、つまり中学校に上がることを意味するのであった。
入学式、始業式を軽く流した次の日。この日は、新入生歓迎会を兼ねた、部活動紹介で午前中が費やされた。陸上部員が筋肉自慢をし、サッカー部がリフティングやパス練習をやり、バレー部がトスやスマッシュをやる。そして決まって言うのが、「うちの部活動に来てください」、だ。はっきり言って茶番だった。しかしそれでも、一年生の大多数は興奮したようで、大概の部活動に、拍手喝采が送られていた。付き合ってられない、と私は内心でため息をついたものだ。
そして帰りのHRの時、担任が時間割を配り、授業のことについて触れた。明日から時間割通りの授業だからな、忘れ物するなよと言う言葉にクラス中から文句の声が上がる。そんな中、私は「やっとか」と言う思いに駆られていた。
私は当然、教科書を買ったその日から、ひたすら最初の方の範囲を家で学習していた。流石に中学ともなると、全教科百点などと言う大道芸は諦めざるをえなくなるが、スタートダッシュは完璧だと自負できた。
私は新入生歓迎会の時のことを思い出した。同じ小学校だった連中や、違う学校から来た連中。どいつもこいつも、どうせ小学校の時にまともに授業を聞いていなかったに違いないのだ。こんな連中に負けることは許されない。そんなことになったら、私には勉強の世界すら残されないのだ。
帰りのHRも終わり、号令と共に教室内で広がる談笑。中にはHRが終わってすぐ、おのおのの仮入部先へと向かっていった。
私はカバンを持って、教室を出た。当然、さっさと帰るのだ。一応部活動に入るのは義務らしいので、適当な文化部の幽霊部員で通すつもりだった。早足に廊下を歩き、あっという間に昇降口にやってきた。上履きを下駄箱にしまい、靴を取り出して地面に置いた。
と、その時、私は昇降口の出入り口付近に、二人の女性を見かけた。彼女達はキャップをかぶり、白地に赤色のユニフォーム姿で立っている。おそらく、ソフトボール部の人たちと見受けられた。二人とも私の方をじっとみて、何かしらの相談し出した。どう考えても私のことだった。
――早くどっか行っちゃおう。
そう思い、出来るだけ彼女達と目を合わせないでそそくさと立ち去ろうとした。
しかし、彼女達は「ちょっと待って君」と私を捕まえた。彼女達は、いかにもな接客スマイルを浮かべていた。
「ねぇ君、部活動は決めてある?」と、私の手前にいた先輩が、親しげな、ちょっと馴れ馴れしいくらいの声で聞いて来た。
「いいえ」と答えると、彼女は「そう!」と、何ともうれしそうに万歳をした。もう一人、奥手にいる方の先輩も笑顔を浮かべてはいたが、ちょっと苦笑気味のそれだった。私みたいな体格の子をチームに入れても対した戦力にはなりそうにないだろう、と言うことか。そしてそれは正しい判断だ。私も苦笑いを浮かべた。
万歳をした彼女はそんな私の表情を無視するように、早口で饒舌に自分達の部活がいかに魅力的で、なおかつ私が青春費やすのに的確な部活動であるかを彼女なりの理論を持って説明した。
私はそれを、適当な相づちを入れながら無表情で聞き流した。
「じゃあ今日さぁ、うちの部活に見学に来て見ない?」
私は「今日は用事があるので」と即答しようとした。勉強のことだけを考えて生きている私が、部活動、ましてや運動部なんてチャンチャラ可笑しな話だ。
「今日は……」
しかし、そう言おうとした口の動きが止まった。この時、私は新入生歓迎会の時のことを思い出した。
あの茶番だと断じた新入生歓迎会、部活動紹介の演目の中で、唯一私が心を奪われたもの。それが、他でも無い、ソフトボールだったのだ。
野球を毎日やっていた頃、中学に上がったら絶対にこれに入ると決めていた部活だった。中学に上がってまで男子に混じって野球部に入ると言うのは無謀だと知っていたが、ソフトボール部に入れば、一応はバットが触れてボールを投げられて、グローブをつけてフィールドを駆け回ることが出来る。
私の頭の中を、かつて頭に思い浮かべていた、ソフトボールの練習や試合の想像が駆け巡った。
私と同じように、バッドやボールやグローブを駆使してスポーツをしたいと集まる女子達。草野球の時とは段違いな厳しい練習に耐え抜き、ライバル校と激戦を繰り広げる。そして勝ち取った最高の勝利を、レギュラーもベンチも応援席も関係無く、一緒に噛み締め合う……。
――…………。
「今日は……何?」
困惑顔で、先輩が尋ねなおした。言葉を区切ってボーっとしていたみたいだ。奥手にいる先輩も、ますます苦笑いを深くしていた。「やっぱり変な奴だなぁ」とでも思っているのだろう。私は改めて自分の体格と、自分と勉強の関係について自覚した。
――昔は、そんな空想もしたものだ。
そしてそれはやっぱり空想に過ぎなかったのだ。そう思い、「すいません、今日は用事があるので」と早口に言った。
きっぱりと言われたためか、彼女は戸惑ったようにポッカリと口を開けた。私は彼女が口を開く前に、さっと駆け出していった。私の背後から、静止を促す声が一つ聞こえたが私は無視した。
校門の前まで走り、私は立ち止まった。息が軽く上がっている。やはり、全然運動していないと、たかが数十メートルの距離でも息を整える必要が出るのだろう。
息を整えて、学校を出ようとしたその時、
「あっれー? ガリ勉樹花、まだ帰ってなかったんだ?」
……嫌な声を聞いた。そう思って立ち去ろうとした私を、肩に掛かった右手の力によって引きとめられる。
しかたなく、眼光に力を入れながら振り向くと、そこにはジャージ姿の裕香が立っていた。
成長しても、未だ子どもっぽさが残る容姿とは裏腹に、その双ぼうに宿す、人を貶めることなどは朝飯前に平気で考えそうな瞳。そこには、かつての天真爛漫な彼女の姿は、何処にも見当たらない。今はただ、私にとって一番うざったい人間として、目の前に立つ。
「まぁまぁそんなに逃げなくったっていいじゃん? 樹花って、運動部に入らないの?」
何とも白々しい質問、声色だった。その子どもっぽく甘ったるい声は相変わらずだ。ただし今はその甘ったるさを、私を挑発するために利用している。
私が運動部に入るかだって? 今の私を見て分からないのか? 曲がりなりにも親友だった人間が相手だぞ?
私が睨みつけながら黙っていると、彼女は「ごっめん、変なこと聞いちゃったね?」と、ニヤニヤと笑いながら私の肩を馴れ馴れしく叩いた。
「ガリ勉の樹花が、スポーツなんてやる訳無いもんねぇ? どうせ中学校でも勉強ぐらいしかやらないんでしょ? また小学校の時みたいに、百点取れなかったからって暴れるのは止めてよねぇ?」
「別に満点を取ったとしても、あんたを泣かすくらいには暴れられる」
裕香はまるで気の効いた冗談だと言わんばかりに声を上げて笑った。いかにに私が本心で言っていたとしても、私の今の身体のことを考えたら、それこそ他愛の無い冗談にしかならなかった。彼女の豊かに発育した身体に比べて、私の身体のなんとみすぼらしいことか!
私は悔しくて悔しくて、歯ぎしりをして拳を握り締める。
「まぁでも、どっちにしろ樹花はガリ勉だから、勉強にしか頭に無いもんねえ? まぁ、せいぜいガリガリ勉強して良い成績でも取ったら? そしたら、人類初勉強と婚約、何てことになるかもしれないわよ? まぁ人間の恋人は一生……」
「……誰が、部活に入らない何て言った?」
口をポカンと開けた裕香。
「えーなぁにぃ? 言ってる意味が良く……」
私は思いっきりその顔面を思いっきり殴った。不意を打たれてすっころんだ彼女の横を通り、私はグラウンドに向けて走り出していた。
校門から見て右手に走り、校舎と体育館をつなぐ渡り廊下をまたいで、私は数十歩も走ら無いうちに、あっという間にグラウンドの前に到着していた。
野球場で良く見かけるような、てっぺんで反り返ってるネットの裏で息を整える私。それをじろじろと見る、数人の運動部と思われる生徒達。私は彼らを見て、そろそろ練習を始めようしてもおかしくない時間帯であることを思い出した。そんな時に、見かけない女子生徒が走ってやってきたんじゃビックリされて当たり前だなと、何だか恥ずかしくなった。
私は息を整えながら、今日ソフトボール部が練習していると言うBコート、今いる所を左に行ったところにあるグラウンド(正確には、校庭を四分の一に分けたところの一つ)に向かった。
もうすでに練習は始まっていたらしく、数十人の部員達がキャッチボールを行っていた。大部分が白地の練習着を着ているようだったが、仮入部の子達か、ジャージ姿でキャッチボールをしている子達も見かけた。
辺りに響く、精悍さを感じさせる女子達の掛け声。ボールを投げる人と受け取る人。みんな真剣に見える表情。私が思い描いていたものの一部が、そこにはあった。
しばらく眺めていて、私は絶望のため息をついた。この風景の中に、私は不自然の塊としてしか入りこむことが出来無い。
――私にはやっぱり、勉強しか残されてないんだ。
私は彼女達に背を向けた。Bコートから近いため、先に入って来た時とは反対側からロータリーに出ようと歩き出した。
駐車場も設置されている砂利道を通り抜けてようとしたその時、私は一人の男子と肩がぶつかった。ボーっと歩いていた私は、悲鳴を上げながら転んだ。砂利道で転んだのだが、幸い怪我はなかった。
――いや、そんなことより、
「あの、すいません」
私が慌てて謝ると、その生徒は意外な返答をしてきた。
「んー、ボーっと歩くのは良くないぞ、太田さん。やたらボーっとするのは、栄養足りて無い証拠だぞ? 多分」
てっきり、見知らぬ生徒だと思っていた。しかし今、私の名字を、いやに親しい感じに呼んでいた。
最初、声変わりをしていたその声の主を思い出すことが出来なかった。
その姿を見ても、ますます分からなかった。その人は、私の背より軽く二周りは大きい長身だったからだ。
そして、その顔にかつての面影を見た時、私はやっとその人が誰かを知ることが出来た。
「カ、カズ? あんた、本当にカズなの?」
「何だよその言い方? 仮にも同じ小学校だった奴に対する挨拶じゃ無いぜ、それ?」
カズと決別してからの三年間、ずっと別のクラスだったこともあり、ほとんど彼のことを意識することは無かった。
だから、気がつかなかった。カズの、チビカズの、この驚天動地の大成長に。
その驚きもあって、私は決別した時のわだかまりを抜きに彼に話しかけた。
「し、信じられない……あんた、何か悪い薬でもやったんじゃないの?」
「薬ってそんな、オクレ兄さん! じゃ無いんだからさ」
「な、何よそれ?」
「何でも無いよ、別に」
と、意味の分からないことを言いながら微笑む。カズにしても、わだかまりはなさそうだった。
「あんた、何でこんな所にいるのよ?」
「そりゃこっちのセリフ。ちなみに俺は陸部に仮入部中で、今休憩中でトイレに行ってた所。で、太田さんは何してたの?」
「……随分と他人行儀ね。太田で良いわよ」
「ああそう? じゃあ太田は何してたのこんな所で?」と言って、穏やかに微笑んだ。
――何と言うか、変わった。
そう実感する。今までのカズは、こんな風に私に対して穏やかに微笑んだりはしなかったし、会話の主導権も決して奪われたりはしなかった。
「……別に、ただ何となく部活動を眺めてただけよ」
「ふーん。そういやお前、入らないの?」
「? 何に?」
「ソフト部」
私の表情が強張った。カズは相変わらず、涼しい表情だ。私は目を逸らし、
「何で私が運動部に入らなきゃいけないのよ?」と、呟くように毒づいた。
「いや、何でって。別にいいもいけないも無いんじゃないのか? 入りたきゃ入れば良い訳で」
「あのねぇ!」
と私は、相変わらず知ったような口を利くカズに、睨みつけた。
何となくこうすると、かつて他でも無いこいつと数々の口喧嘩をしていたことを思い出す。
「私のこの身体を見てご覧なさい! こんな勉強ばっかりでひょろひょろした奴が、運動部なんて入っちゃったら笑われ者よ! 大体基礎体力も無いような奴が運動部に入ったって……!」
「いいんじゃないの?」
え? と声を上げた私に、カズは口元を緩めた。まるで、聞き分けの無い子に諭す保父さん然とした態度だ。
「小学生の時につけられる体力なんてたかがしれてるさ。ましてや女子って話になるとなおさらな。だから、たいがいの部活は一年のうちに徹底的に体力をつけさせるんだとよ。だからむしろ、お前なんてちょうど良いんじゃないのか? んで、お前にはちょうど好きなスポーツがある。なら入らない手は無いと俺は思うんだがなぁ」
「わ、私は別に野球は……」
「好きじゃないの?」
「え?」
「野球好きじゃないの? もう完全に?」
私はカズの顔をしげしげと見た。カズは意外そうな表情で私の顔を覗き込む。
――そ、そう言う表情で見るなよぉ……。
私は気まずく、彼から目を逸らした。私が野球のことを忘れていないことは、もう言うまでも無いだろう。私だって本当は、出来ることならあのキャッチボールをしている人たちの中に入りたいと思う。でも、私はそれを今まで、必死になって拒んでいた。
じゃあ、その拒ませていたのは何だ? 私には勉強しか残されていないと言う思い込み? 思い込みをごまかすための、私の体格が貧弱だ、という口実のすりこみ?
その時、私の頭にポンっと手のひらが置かれた。
私はびっくりして悲鳴を「ひゃっ!」と上げ、カズの顔を見た。カズは相変わらずの穏やかな表情で、私の顔をじっと見つめた。
気持ち、細くがっちりとしたような感じの輪郭、まるでビー球のように透き通った目。かつてはただの丸刈りだった髪の毛は、少し洒脱なスポーツ狩りになった。
しばらく見詰め合って、彼はそよ風のような穏やかさで笑顔を作った。
「好きなことを、好きなだけやりな。それが一番、お前らしいよ」
私がそれにはっとする間もなく、彼は私の頭を優しくなで始めた。すっかりいたたまれなくなった私は、耳まで赤くしてうつむいた。
――本当に、カズの奴、変わった。
しばらくそのままでいると、グラウンドの方から「しゅうごーう!」と言う、野太い男性の声が聞こえて来た。
この声に、「あっ、やっべーうちだ!」と顔をグラウンドの方に向けてもらした彼は、もう一度こちらを向いて、さっきまでとはうって変わった無邪気な笑顔を向けて、私の頭を一度思い切り叩いた。声を上げてひるんだ私を置いてきぼりに、
「……ま、陸部志願のトーホーとしては強要しねーよ、ガリ勉女」
と手を振りながら、振り向きもしないで歩き去ろうとしていた。私の中に怒りが――しかし、とても懐かしく、心地よい怒りが――湧き上がってくるのを感じた。
――あー、やっぱり変わって無いところもあったわ。
私はあの頃のような、子どもっぽい苛立ちの表情を作ろうとしたが、どうしてもその頬から緩みが落ちなかった。
「ごちゃごちゃうっさいわね! ちょっと身長でかくなったからって調子乗りすぎよ、バカカズノッポ!」
彼は立ち止まって、こちらを振り返った。
「……おかえり」
そう言ったカズが見せた笑顔は、今の彼のように穏やかで、しかし小学校の頃の彼のような無邪気さも混じった、まさにカズそのものと言った微笑みだった。
――好きなことを、好きなだけやりな。それが一番、お前らしいよ。
ゆっくりとグラウンドの向こうにに消え行く彼の背中を見送りながら、私の心の中に、穏やかで、しかし力強い鼓動があふれるような感覚を覚えた。
まるで雪山の雪解けのように、私が勉強を好きだった理由を思い出していった。
私はグラウンドの向こうに消えたカズの背中めがけて、「バカカズ」と小さく叫んで、グラウンドに背を向けた。一つスキップをして帰りたい気分だったが、何となく人目が気になってやらなかった。
今日はもう帰ろう。そして親に、ソフト部に入ることを話そう。
かつて、高得点を取るための、勉強の世界に裏切られないための媒体に過ぎなかった中学校の教科書は、新しい世界をやさしく掲示するものに変化していった。
今日は久しぶりに、勉強が楽しく出来そうだ。
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