第8話
「水澤、腹減ってないか?」
先生はシンクに腰をもたれてあたしの方を見た。
「あ、そういえば」
あたしは思い出したように頷いた。先生は戸棚から鍋とフライパンを取り出してコンロに置いた。
鍋にはたっぷり水をいれ、火にかけた。
「お手伝いしましょうか」
「そんなにたいしたもの作るわけじゃないから、座ってろ」
先生はくわえ煙草でニンニクを剥く。長くて体温の低そうな指、骨っぽくて、爪は桜色。紫煙に歪む眉間、集中している眼差し。
するすると灰になる煙草。あたしの視線に気づいて、ちらっと、目を合わせると
「ん、」
と言って煙草をさした。
あたしは大半灰になった煙草を持って、落ちかけた灰を片手で受けた。
「うわ、バカ!」
先生は強引にあたしの手を引いて蛇口をひねり、灰を洗い流してくれた。
「火種が残ってなかった?」
「んーん、全然だいじょぶよ」
先生が心配してくれるのが嬉しくて、あたしは満面の笑みで答える。
「悪かったな、水澤」
先生はそういうと、ニンニクを刻みはじめた。
なんかこの人、いろんな事に手慣れてるなぁ、なんて思いながら先生をみる。
鍋のお湯が沸騰し、先生は別の戸棚からスパゲッティを出すと束を解き湯のなかに放った。
「先生、どうして“実技”は後回しなの?」
「エロティシズムの勉強をしてるからさ」
「どういうことですか?」
「簡単にできるものは、たいしたものじゃない」
先生はそういうとフライパンに火をかけ、瓶詰のオリーブオイルを垂らす。
時折、スパゲッティを掻き混ぜたりして、輪切りの唐辛子とニンニクをフライパンにいれて炒めはじめる。
「俺もなんだけど、人間って楽なほうに流れやすいだろ?簡単にできるならそっちの方がいい。でも、それじゃあ中身がない」
先生はオリーブオイルにニンニクの香をつけて火を弱めるとスパゲッティを一本掬い固さを確かめると頷いて今度はそれを金属のザルにあげた。湯切りして、一気にフライパンに入れて炒める。塩とブラックペッパーを振って、醤油を二回り。
「そっちの棚に皿あるから取って」
あたしは先生の指示に従い皿を取り出す。
ニンニクの芳ばしい香が食欲をそそる。
「先生、性欲と食欲と睡眠欲は人間の三大欲っていいますよね」
「そうだ」
先生はフライパンを振ってスパゲッティを混ぜながら頷いた。
「どうして、性欲だけがこんなにも悪いことみたいに言われてるんですか?」
「……性欲が悪いわけじゃない。どちらかと言えばエロティシズムが関わっていると思う」
「エロティシズムですか」
「生殖のための行為はごく単純なものだが、まぁ、それをセクシャリティと呼ぼう。
セクシャリティとは生物学的なもの、エロティシズムは精神学的なものに分けられる。
エロティシズムは狂気、悦楽、熱狂、錯乱などへ高まる性質を持っていて、祭とか饗宴、遊びや暴力や犯罪、はたまた芸術や宗教まで多彩な方向へ向かう。
最も崇高な芸術や宗教の根底にも最も凶悪な犯罪にもエロティシズムが存在している。人が最も魅入られる悪魔的な存在としてあるわけだ」
はい、無理。意味解らん。今メチャクチャ長いし、難しい単語出すぎ。
あたしが、すました顔をしていると冷たい淺井先生の視線が……。
「煩悩の固まりめ」
ムカッとした、今。馬鹿にされたのはよくわかった。
「淺井先生にはボンノーはないんですか?」
あたしの得意技・へらず口で負けじと対抗する。
淺井先生は、スパゲッティを皿に移しながら、にやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
「あるよ?当たり前じゃん。下心なしで誰が部屋に連れ込むかよ」
さーっと血の気が退くのが解る。誰?今の人。この人って……。
「やだー!!淺井先生、実はサド?!二重人格?!」
あたしが胸の前で両腕をクロスさせて喚くと淺井先生は爆笑する。
……からかわれたのね。
あたしは横目で淺井先生をにらみつける。
「サドって人の名前って知ってたか?」
淺井先生は笑いを押し殺しながらあたしに聞いた。(殺せてないけど)
「知りません」
あたしは突き放すような言い方で答える。
「女を拷問しなきゃ興奮出来なかった公爵の名前だよ」
「変態じゃん、そのおっさん」
「エロティシズムと変態性欲は関わり深いぞ」
淺井先生は皿をあたしに渡しながら少し笑う。
「それ、実技のテストに出ますか?」
あたしは皿を受け取りながら先生を黒目だけで見上げた。
「いずれ出るかもな」
全く別の言葉に当てはめながら性的なやり取りを匂わせている。
未熟な唇と心臓は窒息寸前。
なのに、ゲームのように楽しんでいる脳みそと声帯。
学校で学べないものは、どうしてこんなに楽しいんだろう。
もう少しで進級できそうでできない。したいけどしたくない。
淺井先生はどう思ってるんだろう。
フォークが皿にあたる微かな音だけが余計に緊張感を強くさせる。
淺井先生がオーディオのスゥイッチを入れる。
管楽器の洒落た雰囲気の音楽が性的な濃度をあげていく。
どうしよう。距離が、怖い。近づくのが、怖くてしかたない。
身体の距離は近づいていないけれど、何かが近づいているような。そして、あたしは何故か、淺井先生が怖い。自ら望んでいたのに。
淺井先生は淡々と食事をしている。
「どうした?水澤。美味くないのか?腹、痛いのか?顔が青いぜ」
淺井先生のいつもの低い声が、視線が妙に怖い。
「別にどうもしません」
自分でも解りすぎるくらい声が震えている。
「……食ったら送るから、心配するな」
淺井先生が少しだけ口元でほほえんだ。
あたしは何も答えなかった、というよりも、答えられなかった。
「生物のテストの方がメインだってわかってるよな」
「はい、わかってます」
なんだろう。この胸がすくような感覚は。近づくのが怖いけど、離れたくない?淺井先生は頷くと、またフォークを口に運んでいく。さっさとスパゲッティを完食すると、油でぬめった唇の端を少し舐めた。
その仕草に見とれてしまう。いつのまにか急な展開についていくのが精一杯な自分がおかしい。
勢い良く突っ走ったのは自分なのに。
いきなり怖気づいている。
「先生、質問なんですけど」
「ん?」
「怖気づいたときはどうしたらいいですか?」
「いろんな理由つけて逃げれば?」
冷静に、他人事のように、先生は答えてくれる。
ちっとも嬉しくない。
先生はどうしてあんなに冷静にいられるんだろう。
あたしはどうしてこんなに激しく舞い上がったり沈んだり。
どうしていいか解らないのに。
―怖い、怖いけど、帰りたくない。
だって学校では見られない淺井先生が、ここにはたくさんあるんだもの。
「今日は帰りません」
「怖気づいてるくせに?」
「でも、逃げたくないんです。だって、あたし、まだ淺井先生の事、何も知らないんですもん」
「俺のことなんか知ってどうする?お前が単位とれるのか?」
「知ったら、怖くなくなります。淺井先生が少しだけあたしの気持ちに応えてくれたら、学校の勉強だって頑張れます」
「気持ち?」
「先生が好きなんです。さっきも言いました」
「俺はまだ水澤が好きか解らない。でも、興味はあるよ」
単細胞万歳。あたしの中の胸のもやもやが、モーゼの波のごとく引いていく。あのおっさんは分けただけだが。
「期末の生物、絶対、満点とります」
あたしはこれ以上ない笑顔で答えた。 |