第24話
「いいなぁ、夏樹チャン」
桜沢は投げ遣りな感じに呟いて、ビニルを放り投げると両手を後頭部で組んだ。
ビニル袋からは弁当とパックに入ったお茶がはみ出している。
「桜沢、これ、預かってきた」
俺はベッドの隅に置いていた弁当を桜沢に向けた。
「なに、それ?」
桜沢はとくに興味もないような口調で聞き返す。
「家政婦さんの弁当だ。お前に渡してくれだってさ」
俺は改めてそれを差しだす。桜沢の生意気な口元が綻び、幼さを感じさせた。
「前田さんのお弁当!?やったぁ!ありがとう。
先生、家に行ったの?」
飛びつくように弁当を受け取り、桜沢は一瞬、顔をしかめた。
「一応、な」
「ふぅん……」
「俺、そっち、もらっていいか?」
俺は目で放られたコンビニ弁当を差した。
「うん。いーよー」
桜沢は笑顔で答えてそれを拾った。
「ねぇ、先生、僕を殴ったりしないの?」
桜沢が俺の隣に腰を下ろす。
「殴って何になる?殴られる理由があるのか」
俺はラップを剥がし、薄いプラスチックの蓋を開けながら聞き返した。
「……だって」
桜沢は少し言いにくそうに口を尖らせる。
「言ってわからない奴ならそうする。だけど、お前はそうじゃないだろ?まぁ、余計、質悪いな。一応、理由言いたいなら聞いとくけど?」
桜沢はタッパーの蓋を開いて、中から卵焼きをつまみあげた。
「……僕、淺井先生が、好きなんだよ」
桜沢は消え入りそうな声で呟いた。
そして、その口を塞ぐように卵焼きを押し込む。
ゆっくりと咀嚼しながら、桜沢は無言で涙を落とした。
少し、苦しげな表情で卵焼きを飲み込むと、息を吐く。
「……好きなんて、言葉じゃ、足りない。初めて先生を見たとき、僕はあなたの退屈そうで冷めた眼差しを美しいと思ったんだ。
……先生は、覚えてないかもしれないけれど、会った始めの頃、先生は、唯一、僕の話を、聞いてくれた」
桜沢の告白に驚いてしまう。
好きだと言われた事よりも、本当に桜沢との会話の内容を覚えていなかったことが、ショックだった。
「先生って、生物の教師なのに、僕がバタイユとかフロイトとかギリシャ神話とか、エビングの話しても、ちゃんと返してくれたよね」
桜沢はぼんやりと遠くを眺めながら少し笑った。
「いや、俺は少し齧ったくらいで詳しくないし、独断と偏見もあるし……」
俺は手のひらで口を押さえた。
「いいんだ、そんな事。どうだっていい。僕はおかげで教師に憧れる事ができた。……それだけじゃないか、僕は神様なんていないと思っていたけど、僕は僕のなかの神様を見つけることができた。敬虔な信者ではないけれど」
桜沢は自嘲的に鼻で笑った。
「この人になら、服従しても、蔑まれてもいいって思えた。僕の誇大な自尊心を踏み躙られてもいいって、思えたんだ。
僕に絵の才能があるなら、淺井先生をモデルにして絵を描いて出来上がったら祭壇を作りたいくらいだよ」
「やめとけ、なんのご利益もないぜ」
俺は気恥ずかしくなり、思わず、くだらないちゃちゃを入れてしまった。
「それほど、愛してるって事さ。僕はあなたに殺されるなら、喜んで死ぬよ。あなたが望むなら、こんな身体、いつだって投げ出せる。そして、僕は綺麗な心をもった奴隷のままで死を迎えるのさ」
桜沢は夢を見ているようなおぼろげな微笑みを浮かべていた。
「俺が、お前を殺すなんて……そんなことできない」
俺は曖昧な笑顔になる。
「……どうして、僕が望んでいるのに。……どうして?罰せられるから?どうして罪になるの?警察を呼んできて、裁判官を呼んできて、僕が言うよ。僕は淺井先生に殺してほしいって。そしたら、先生は僕を殺してくれる?」
桜沢はうわごとのようにまくしたてる。桜沢は今、我を忘れている。きっとどんなに正当な理由があっても、聞き入れる余裕はないだろう。
俺は深く息を吸って桜沢の腕を引き寄せ、抱き締めた。
水澤とは違う、やはり、少し、かたい。けれど、その華奢な身体は脆そうで、繊細な魂の器はガラス細工のようで、力を入れるのは憚られる。
「……淺井先生」
桜沢は俺の腰にしっかりと自分の両腕を巻きつけた。
桜沢の熱い吐息が胸部を湿らせる。
細い肩が震え、鼻をすするのが聞こえた。
ぐんにゃりと脱力した桜沢の身体。
桜沢は顔をあげ、目を閉じた。
俺は玄関のレプリカを思い出す。
桜沢は俺の腕の中で、安らかで恍惚とした表情を浮かべて、目を閉じている。
あまりにも、美しく、光を放っているようにさえ見えた。
「……同性愛が異常であるとされたのは、性交の第一目的を人類の繁殖にありとしたキリスト教の道徳が確立されてから以後の事だと思う。
たとえば、武士道の葉がくれの中には“恋愛は美少年と”というくだりもあるし、出雲神話にも大国主と少名彦名、建御雷と建御名方の結びつきといった、いわば、同性愛の理想化された原型とも言うべきものが発見される。
コレは、日本だけじゃなく、世界のどの地方の、古い神話のなかにも必ずある。西洋の騎士道にもだ。
異性愛以上に高貴な、理想化された倫理的な性質をおびたものとされてきた同性愛を否定する気はない。けれど、同性愛の契りは不毛で、子供が産まれるということはないし、その悲しみに、俺は耐える自信がない。
……もし、俺が天才的な彫刻家かなんかで、この弱点を精神的、文化的領域での仕事によって発散できたら、話は別かもしれないけれど」
俺は桜沢の目蓋に口付けた。
「今の俺には、これが精一杯かな」
桜沢が目を見開いた。
俺は耐えられず、目を逸らした。
「先生、ずりぃよ……」苦しげな呟きに視線を戻す。桜沢は顔をしかめた。
「悪い、してみたかった」
嘘はつかない。と言うよりつけなかった。
桜沢の表情と、薄い目蓋が俺の中の欲望を誘った。
「でも、これ以上は、できない」
「先生」
桜沢は体重をかけて俺をベッドに倒すと、くちづけを押しつけてきた。
「……お前なぁ……」
俺が呆れるてぼやくと、桜沢はとても楽しそうな満面の笑顔になった。
「してみたかったんだもん」
「あー……、そう……」
俺は身体を起こして、肘で上体を支えた。
「ったく……。あ、お前、パソコンの悪戯メール、ああいう事、二度とすんなよ」
「二度としないよ、ビジンちゃん♪」
桜沢はそういうと、俺から離れて立ち上がった。
いつもと同じように軽口をたたいて。
「いうなって、言ったろ」
「はいはい、ねぇ、先生」
「なんだ?」
「あと少しだけ、僕に付き合って、夏樹チャンなら、もう少し待たせててもいいでしょ?その後でも、いっぱい時間あるだろうし」
「……いいぜ、何するんだ?」
「お散歩」
桜沢はニカッと一際明るく笑ってみせた。
「じゃ、行くか」
俺も立ち上がって、背伸びをした。
「どこいくんだ?」
「あっちの公園」
「あぁ、あの大池公園か」
「うん。あそこに一匹だけ真っ白な魚がいるの」
「ふぅん」俺たちは並んで歩いた。
螺旋階段も石造りのエントランスも何時もどおりの見慣れた風景を取り戻していて、さっきまでの違和感が嘘のようだった。
外に出ると日差しが眩しすぎて、俺たちは顔をしかめた。
「眩しいな」
桜沢が迷惑そうにいう。
「あぁ、眩しすぎる」
先ほど見た桜沢の滲むようにぼんやりとした青白いような光とは、かけ離れた太陽光線。
風はほとんどなく、アスファルトから熱気が立ち上る。
「先生の膚ってけっこう冷たいんだね」
桜沢が俺の肘に指をかけた。
「なんでだろーな」
俺は桜沢の一歩前を歩き、まるで盲目の人間を引導しているように見えなくもない。
「こんなに光がいっぱい当たってるのに先生の髪の毛真っ黒」
「お前みたいに色素をぬいたりしてないからだよ」
「先生はすべてが綺麗だね」
「お前の心には及ばないよ」
「……本当に?」
桜沢の目が輝く。
「俺はそんなに真っすぐに感じるまま生きてこれなかった」
「だから教師になれたんじゃない?」
桜沢は嫌味や皮肉を悪気なく言えるという才能がある。癪に触る人もいるかも知れないが、俺は、このあっけらかんとした物言いが嫌いではない。
平日の昼の公園は母親と小さな子供たちが多かった。その中で俺たちの組みあわせは少し妙かもしれない。桜沢は池の柵を握り、子供たち以上に真剣な眼差しで池を覗いている。俺は隣で柵にもたれて煙草を吸った。
「あ、いた」
「どれだ」
「あれ」
桜沢は池を指差したが明確な位置がわからない。
モスグリーンの濁った水面に朱色や斑の影は見えたが白いのは見当たらない。
「わかんねえ」
俺が苦笑混じりに答えると、桜沢は口を尖らせて、柵のうえに顎を乗せた。
「もーぅ、ビジンちゃんったら」
「悪いな、視力あんまよくないんだ」
「仕方ないなぁ」
桜沢は気を取り直したのか飽きたのか、俺の腕をひっぱった。
「もう、いいよ。戻ろう」
俺は頷いて、桜沢の前を歩いた。
大通りは結構な交通量の割に信号機のない横断歩道しかない。
俺は車両が途切れた隙をついて先に大通りを横切った。 少し強引に渡らないといつまでたっても待ち惚けを食らわなければならない。水澤の事もあって、俺は先に渡ったのだ。
俺は振り向いて、桜沢を目で探した。
桜沢はまだ向かいの歩道に立っていた。
「出遅れたのか?お前らしくないじゃないか!」
俺はからかうような口調で叫んだ。
「淺井先生!デートしてくれてありがとう!」
桜沢はそう叫んではにかんでみせた。俺は照れ臭くて少し苦笑した。
変な事、言うなよ。
そう言おうとした。
その瞬間に、俺は信じられない光景を目の当たりにして、身体が凍りついた。
桜沢が、風もないのに、ひらりと舞う、ひとひらの花びらのように見えた。
猛スピードの古い形の高級車は、ジャガーだった。
桜沢は自ら飛び出し、その猛獣の餌食となったのだ。
「春樹!!!!」
絶叫のような急ブレーキに俺の声はかき消され、桜沢は人形のように脆く地面に叩きつけられた。俺の身体は弾けるようにして桜沢の方に走った。
無我夢中で桜沢を抱きかえた。
「桜沢!おい!なにやってんだよ!!馬鹿野郎!!」
「せんせぇ……、僕ね、きっと、醜くなる……それは嫌なんだ……美しいものだけ……欲しいんだ、瞬間でもいい……美しいままで……ねぇ、今……僕はヒアキントスみたいでしょ?……今、僕達、あの絵みたいじゃないかな…………」
額や口から血が流れていた。あの生々しくも美しい絵画にはこの鮮やかな赤は描かれていなかった。
桜沢の膚は青ざめて現実味を失くしていた。
「……あの絵なんかよりも、お前は綺麗だよ。春樹」
俺がそういうと、春樹は今まで見たことのないくらい柔らかで満たされたような微笑みを浮かべた。
運転手がうるさかった。
野次馬も寄ってきた。
邪魔しないでくれ。
俺はすべてを憎んだ。
「……先生の腕のなかで……僕は……なんて幸せなんだろう……」
春樹はそう呟くと、二度と口を開くことはなくなった。心なしか、少しだけ、軽くなった。
救急車のサイレンや喧騒が俺たちを囲んでも、それは世界の果てから聞こえているようで、微弱な温もりを放っている春樹の、か細い魂の抜けた器だけが、俺の中で認識できた。
「なぁ、春樹、俺はお前をヒヤシンスに変えることはできないんだぜ?
でも、たぶん、俺の中で、ずっとお前は美しいままだ。
なぁ、お前、あの車、芸術作品だって言われてんだよ。
知ってたんだろ?じゃなきゃこんなこと、お前がするわけないよな?」
救急隊員が俺たちを引き離す。
俺はかまわず、春樹に向かって喋り続けた。
気が触れたのかもしれない。
しかし、あの少年の凄惨にして完全なる美の完成を目の前にして、正気のままでいられるだろうか。
「お前の神様って奴は、俺だったんじゃないのか?
どこに行くんだよ。
俺はここにいるじゃないか。
俺は、神なんかじゃない。お前を花に変える事もできないし、救うこともできなかった」
春樹に対してなのか、自分に対してなのか解らない怒りがわいた。
救急車の中で、俺はただ常軌を逸していた。
必死で春樹を看護している救急隊員と別にいた救急隊員はお手上げだったろう。うずくまり、初夏だというのに、ひどく寒くて、身体が震えた。
「はる、き……」
最期の微笑みが、フラッシュバックする。
「……そうか」
俺はわかったのだ。
春樹は、全てを手に入れたのだ。
自分をこの世界から解き放つことで、自らの神となった。
完成したのだ。
だから、もう、きっと、彷徨うことはない。
やはり、俺は神なんかじゃない。
そんなものは、どこにもいない。
創るか創られるかなのだ。
春樹は、嘘を吐いた。
でも、たぶん、幸せと言ったのは嘘じゃない。
けれど、その思いつきすら、俺を満たしてはくれない。
春樹は俺を残して、永遠に失われた。
俺の記憶に無邪気な笑顔で美しい引っ掻き傷を残して。
死を美化させる程、強烈な愛と思想を持った純粋な少年の美学には感服せざるをえない。
まったく、どっちが生徒で教師なんだろう。
俺の震えは止まっていた。
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