不機嫌先生と個人授業。(23/25)縦書き表示RDF


不機嫌先生と個人授業。
作:森本エリ



第23話


 車に戻って、折りたたまれた紙切れを取り出した。

細かい皴と折り目がきつく刻まれた紙切れ。
彼女がいかにこれを大事に肌身離さず持っていたのか、その様子が想像できる。

その紙切れと家政婦のくれた弁当が、俺の中の桜沢に対する怒りに歯止めをかけようとする。

家政婦の姿を、はにかんだ顔を思い出すと“切ない”気になった。

けれど、やはり、水澤への仕打ちを思うと桜沢を殴ってしまいたい。

紙切れを開いて、俺は自分の目を疑った。

一瞬、あの家政婦と桜沢がグルになって俺をおちょくっているのかとも思ったが、そんなはずはない。

家政婦のあの様子だと、そこまで狡猾な真似はできないだろう。
桜沢の現住所は、俺の部屋の真下。
今朝、水澤が部屋を出た時に、桜沢に目撃された可能性がある。

七月になろうとしている。むせ返るような湿気と熱気が籠もった車内で俺は一瞬、ひどい寒気を感じた。


どうして、あの図書室での告白を聞き流してしまったのか。

どうして、今朝、水澤を突き放してしまったのか。

“教師と生徒”だから。

“男と男”だから。

どちらにしても、俺の既成概念からズレていたから。

頭でしか理解していなかった。
そして、考えるよりも衝動に駆られてしまった。

桜沢も水澤も

俺のせいじゃないか。

俺がちゃんと二人に応えてやらなかったからじゃないか。

中途半端に受け入れて、突き放して、どれだけ勝手なんだ。

“教師と生徒だからいけない”なんて既成概念に拘らずに、素直に彼女を抱けばよかった。水澤はあんなにもストレートに自分を俺にぶつけてくれたのに。
互いに思い合っている間に“罪や悪”が存在するか。バーカ、体裁を気にして逃げていただけじゃないか。

昔から面倒臭いことが嫌いだった。

付き合ってきた女だって、友達だって、当たり障りなく、適度に。
よくも、まぁ、いいようにあんなに聞き分けの良い人間と会ったものだ。

免疫がないと一気に病原菌に侵されてしまうように、俺は水澤にひかれた。

強烈な新型の“恋の病”に慌てて投与した“理性”という薬の副作用は“後悔”

桜沢にはどんな処方箋があるのだろうか。

水澤よりも、俺の概念からかけ離れた“新型ウィルス”

それなりに年を食ってきた。
(今回のようなケースに対しては経験不足だが)世間一般ではそれなりに、生活しているので、悪くない位置にある。
経験値だってそれなり積んできている。

しかし、桜沢は“未知の領域”だ。
俺にとって、
今の医学で太刀打ちできない新型ウィルスみたいなものだ。
どんなに自分達の文明が高度になろうと、所詮、自然の前で“諸刃の剣”であるように。
既成概念や一般的な常識や経験、思想、哲学を持っても、結局、本能の絶大な威力には打ち勝つことができない。

俺は桜沢になにをしてやれるのだろう。

答えを導けない俺に、教師という呼び名は相応しくない。

教師の前に人間として、二人に対して、なにをしてやれるのだろう。

……とにかく、向き合おう。これ以上、逃げ出せば、俺は俺に自殺を勧めなければならない。
人間失格と冷笑できるほど、俺はできていないのだから。





見慣れたはずのレンガ造りの旧いアパートが、桜沢邸とは違う威圧感を放っている。

よくも、こんなに近くに住んでいて遭遇しなかったもんだ。
伯父も、お前の高校の生徒が家を借りてくれた、とか一言、言ってくれればいいのに。
いや、言わないか。

日光が届かない薄暗いエントランスに入ると、湿った空気が冷やされていて妙な気分になった。
まるで、廃墟の謎と噂の真相を探りにきたような、他人行儀な気分。

螺旋階段は軋み、壁が俺の足音を反響する。
口が渇いて呼吸をするだけで空気に喉が引っ掻かれるようだった。
感覚は研ぎ澄まされているが、足が思うように進まない。


見たくない、知りたくない。そんな臆病な恐れが、心の隅にあるのだ。

桜沢の部屋の前に立って、俺は深呼吸をした。

こんなに緊張したことがあっただろうか。

インターフォンに目を向けると黒いプラスチックのボタンは壁にめり込んでいた。 ドアノブに手を掛けると、微かに軋みながら、素直にドアは開いた。

不用心だな。

中はとても静かだった。

右腕に抱え込んだ紙袋に注意して、ゆっくりと足を踏み入れた。

絨毯のおかげで足音がたたない。

男子高校生の趣味とはおおよそ言えないインテリア。

ジャン・ブロック作
『ヒアキントスの死』

玄関にそのレプリカを見た。
太陽神アポロンと円盤投げをしているとき、西風の神ゼフィロスに殺された美少年ヒアキントス。

何かの表紙で見たことがある。

アポロンに愛されていたとかいないとか。

全裸で絡み合う蝋人形のような二人の男。
初めて見たときは女かと思った。

俺はそのレプリカから目を逸らして部屋の奥へ歩いた。



「水澤……?」

天蓋つきベッドの真っ白なシーツの上で身体を丸めて寝息を立てている彼女を発見し、駆け寄った。

着衣の乱れはなく、とても安らかに眠っている。

その寝顔に、全身の力が抜けた。
膝を床につき、息をついた。

―ぱた、

吐いた息と共に涙が出た。こんなことは初めてだった。
涙は溢れるわけでもなく、二、三滴落ちると、それで止まった。

「水澤、大丈夫か?」

俺は軽く水澤の頬を叩いてみる。

「……ん、ん?ん〜〜?」

水澤は眉を思い切りひそめて薄目を開けた。

「ふ。……ぶさいく」

俺は思わず吹き出してしまう。

「?!あッ、あッ、淺井せんせぇ!!!夢?!コレ!夢?今、ぶさいくとか言った?本物だぁー!!」

……眠り姫失格。もし、この先、コイツに眠り姫の役が回ってくる奇跡が起きたとしても、俺が先頭を切って反対してやろう。

水澤は俺の胸ぐら、主にネクタイを掴んだまま、喚き散らしている。
この様子なら、そんなにひどい事をされたわけじゃなさそうだな。

「……何があったんだ?」

一先ず、水澤をひっぺがし、俺はなるべく優しく、彼女の髪を撫でながら尋ねた。
水澤は目を伏せて唇をかたく閉じる。

「桜沢は?」

「あ、あのね、先生、」

水澤は身体を起こして、今度はしがみつくようにして俺のシャツの腕の部分を掴んだ。

「うん?なに」

俺は気を付けて穏やかな口調で聞き返す。

「桜沢の事、怒ってる?」

「……お前が、桜沢の心配をするなんてな。その様子だと、俺が怒るようなことはないかもしれないな。それに原因は俺にあるわけだし」

俺は水澤の頭を抱きよせ、柔らかな髪の毛を梳いた。

「でもな、あの悪戯は度が過ぎている」

ちらっと水澤に視線をやると、いつのまにか締まりのない顔をしていた。

「なにへらへらしてんだ。こっちは心配で頭のたがぶっ飛んだってのに」

「だって、先生が心配してくれたんだもん。嬉しくてへらへらくらいしますよ」

「バカ」

水澤の間抜けな笑顔が可愛い。
いかん、俺まで間抜け面になりそうだ。
見られたくなくて水澤を抱きしめた。

「せんせー……」

猫みたいにじゃれつく柔らかな体温がひどく愛しい。

「夏樹チャン、ただいまー……」

間延びした声とばさばさとビニルのこすれる音がした。

「おかえり、桜沢」

俺が振り向くと桜沢が入り口で立ちすくんだ。

「先生、」

不安げな水澤の声に向きを戻す。

「なに心配してんだよ、忙しい奴だな」

俺は水澤の頭を無造作に撫でてやり、キーホルダーから部屋の鍵をとり、水澤に渡した。

「ちょっと、部屋で待っててくれないか。もう、心配しなくていい。俺は桜沢と話したいんだ。桜沢もそんなに構えるな。俺は二人にそれぞれ謝りたい。」

水澤に鍵を渡して促す、
水澤は戸惑った顔をしながらもベッドを出た。

「……喧嘩しない?」

桜沢の傍を通り過ぎた水澤が不安そうに振り返った。少し、嫉妬心にも似た疼きを感じる。

「大丈夫だって、夏樹チャン」

ね、と桜沢が俺を見る。

「あぁ」

ちょっと無愛想な言い方をしてしまったのを恥ながら口を閉じる。

水澤はのろのろと部屋を出ていった。

玄関がしまる音を聞き届けて、俺たちは向き合った。

「すごーい。本当にきてくれたんだー!愛だね、愛」

「茶化すな。まったく。手を焼かせやがって、とんだ問題児だな。まぁ、しかたないな」

俺は溜息を吐いた。

「個人生徒指導?」

桜沢は悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「ま、そんなとこかな」

俺は肩をすくめてみせた。


『ヒアキントスの恋』はキーワードかもしれません。











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