第18話
結局、水澤を見つけられないまま、時間だけが過ぎていった。今日の初発の授業は二時間目からか。
三年二組だったな。
今日は五時間目に村田先生がいないから二年の自習も見に行かなきゃならない。
……めんどくせぇ。
舌打ちをこらえながら、車のドアを閉めた。
―水澤に会いたい。
そして、謝りたい。
こんな気持ちは初めてだ。誰かを追いかけてしまうなんて。
水澤のインパクトはかつてないものだった。振り回されて困っていたはずが、どうだ。
まんまとハマっている。
「淺井せんせー!」
職員駐車場側の建物は図書室とパソコン室。
図書室の窓から金髪の男子生徒が両手を大振りに振っていた。
朝日に反射する金髪に目が眩む。
「桜沢、来てたのか」
俺は眩しくて額に右手をあてて眉を潜めた。
「淺井先生に会いにきたんだよー!うれしー?」
「……いや、別に」
言ってから口を右手で塞いだ。
「こっち来てよー、ビジンちゃぁん」
俺は嫌悪感に眉を潜めて舌打ちをする。
これのせいでどれだけ嫌な思いをしてきたか。
無邪気に笑う金髪少年は、桜沢 春樹。
この高校創立以来の天才と言われているが、疑わしい。
いっつもフラフラしていてどこで何をしているか解らない。
職員室での評判はよくないが、屈託のない笑顔と人懐っこい振る舞いのどこに、その原因があるのだろうか。
「ねーねー、ビジンちゃんってばぁ!」
「ヨ・シ・ヒ・トだ!!」
俺は思わず叫び返した。
淺井 美人。この胸くそ悪い字面で何度、嫌な思いをしてきたか。
何度、母親のネーミングセンスを恨んだだろう。
中身もすべて美しい人になってほしい。そんな怨念が籠められているらしいが、どうせなら義仁とかそんな名前にして欲しかった。
「わかったってばー!早く図書室に来てよー!」
人の気も知らないで。
どうせあの駄々っ子には、何を言っても無駄なんだろう。
行かなきゃ、ずっとあそこに居座って一組の八坂先生を困らせる。
あいつが二年生の時にクラスの副担任を受け持って以来、懐いてきた。
『淺井先生、頼みますよぉ』
まだそんなに年でもないのに、すでに頭の薄い八坂先生の泣きそうな声が聞こえてきそうだ。
「わかった、そこで待ってろ」
俺は溜息をついて、桜沢のいる図書室へと歩きだした。
「待ってたよー!ビジンちゃ……」
俺が無言で睨むと桜沢は口をつぐんだ。
「その呼び方はやめろ。胸くそ悪い」
図書室は冷房が効いていて、朝から汗ばんでいた膚に心地よい。
俺は中途半端に締めていたタイを緩めてボタンを外した。
「どうしたのー?朝っぱらからお疲れ?」
「いや、昨日からかな、ちょっと色々ありすぎた」
「……オンナ?」
「答える義務はない」
「冷たいなー、淺井先生はー」
桜沢が椅子を引いて俺に笑顔で勧めた。
「おぅ、ありがとう」
俺は椅子に腰掛けた。
「はい、どうぞ」
桜沢がスラックスのポケットから俺の愛飲している煙草のソフトパックとライター、ご丁寧に携帯灰皿まで出した。
「こら、桜沢。どうしてお前がこんなもん持ってんだ?」
「淺井先生、生物室で一服してるじゃん。僕は吸わないよ。疑わしいなら、没収して」
「じゃあ、お言葉に甘えて職権濫用するかな」
俺は煙草を受け取りパッケージを開封して一本取った。
「煙草を吸う男の人の仕草は好きだな」
桜沢が微笑みながら独白のように呟いた。
「だからって、お前はまだ吸うなよ。あと二年我慢しろよ。建前程度に言っておくけどさ」
桜沢が吹き出した。
「わかってるよ、先生」
他愛のないやりとりをしながらも、頭の片隅には水澤の顔がちらつく。
「先生は、ヘビースモーカー?」
「どうかな。一日一箱くらいかな」
「どうして煙草を吸うようになったのー?」
「なんとなく。特に理由はないな」
桜沢は頬杖をついて俺を覗き込む。
「口唇愛期から離乳の時期に起こるショックから、母親の乳房への激しいノスタルジーを保存し、男の場合には飲酒や喫煙に強い誘因をともなうらしいよー」
フロイトだっけ、口唇愛期。昔ちょっと読んだことがあったな。懐かしい。
しかし突然持ち出されてもなぁ。
「……あ、そう」
「マザコンなんだね。淺井先生ってば」
「男なら誰しも少なからずあると思うが」
一瞬、桜沢の無邪気な笑顔に邪気が現れる。
「僕が酒や喫煙に興味がないのは、そんなくだらないノスタルジーやコンプレックスがないって事さ」
「くだらない、ねぇ……」
明らかになにかへの憎しみがこめられているだろう眼差しから自分の目を逸らさずに煙を吐いた。
桜沢の悪意に満ちた眼が、煙ではない何かに耐えているように見えた。
自分を奮い立たせなければならない。
例えば、手っ取り早く、憎しみなんかで。
そんな哀しい眼。
「……裏返し?」
今度は俺に対して憎しみを覚えたのか、桜沢は押し殺したような声だった。
「母親が嫌いなんだろ?でも、俺からしたら、無意識では求めているように見える。あくまでも推測だけど、」
「求めてなんかないよ、アイツを始めとして、女なんて下等な生物だもの。うるさいし、あつかましいし、浅ましいし、性器ときたらいつも濡れてて汚らしい。男の成り損ないじゃないか」
「……それは違うだろう、男だけなら種の保存は成り立たない。男も女も単体として完全とは言えない」
少年の悪意に胸焼けする。根っからの男尊女卑主義者か。
「プラトンの“愛慕の説”?失われた統一への郷愁だよね」
桜沢は鼻で笑う。
「でもさ、母胎内の胎児の性的器官の形成は成長の最後の段階でようやく行なわれるでしょ?
男は生殖器の芽、女はそれが萎縮せしめられたまま残る。
そして女の管道の口は裂けたままの状態にとどまるのに対し、男のそれは接着する。陰嚢を縦に走っている縫い目はその跡を実証するもので、クリトリスはペニスの痕跡器官で睾丸も、最初は卵巣のように体内にあったけどやがて陰嚢の中に沈下する。
ねぇ、改めて考えるとさ、男も女も、互いに類似の対応物をもっているじゃない?外部器官のみならず、内分泌腺においても、ホルモンによって性転換も可能だし。
なぜ、男女が互いに異性を求めるか、根本的な理由が不明確だと思わない?」
「随分、回りくどい言い方をするな。中盤は聞き流してしまったけど、ようするに、なにか?お前はもしや、同性愛者で俺に蘊蓄たれて告白してんのか?」
桜沢が声を上げて笑った。
「妙に鋭いね、ご名答♪」
ぱらぱらと手をたたき、桜沢は嬉しそうに笑う。
「先生、僕を軽蔑しますか?」
その問い掛けに少し考える。
水澤といい、桜沢といいどうして俺に懐く生徒はこうも難題を押しつけてくるのか。
溜息をついて、解答を決心する。
「軽蔑はしないよ。個人の嗜好の問題だし、ただ、俺は口唇期のノスタルジーと軽度のマザーコンプレックスを持ち合わせていて、プラトンの説を好む人間だから、お前の気持ちには応えてやれない」
「完全体の中には男と男、女と女の両面を持っていた者もいたんだよ。でも、そっちのほうが完全に思える。先生は完全になる方がふさわしいと思う」
「過大評価だな、桜沢。いや、しかし、光栄だよ。ありがとう」
煙草も完全に灰になったしそろそろ一時間目も終わりそうだ。
俺は灰皿に煙草を捨てて、腰を上げた。
「僕、解っちゃったんだ。女も男も汚いって。僕の身体は僕が綺麗にしてるのにみんな汚していくんだ。だからもう僕の身体は誰かのためには使わない。僕は僕の為に使うんだ。……見て、先生」
桜沢に促され視線を下にやった。
スラックスの布に邪魔されながらも、天を仰ぐ肉。
「あなたのことを思うだけでこんなになるんだ。
こんないたいけで力強くて、愚かで可愛いものなんて、そうないよ。だから、俺はこれを自分の為に使ってあげるのさ」
衝撃的すぎて、反論もでない。
「……そうか、好きにするといい。悪いが、俺にとって、いたいけで力強くて愚かで可愛いものなら、人間に一人だけいる」
俺はそれだけ言うと、出口に向かった。 俺にどうしろと言うんだ。あんなモノを見せられて。
「許可は頂きました、と」
一人で残された桜沢が小さく笑う。
「待っててね。夏樹チャン」
淺井の残した吸いさしをハンカチに包み、ポケットに入れる。
何かの儀式のように、
淺井が座っていた椅子に頬を寄せて、口づける。
「下等な生物なんていらないんだよ。淺井先生、わかってないなぁ。人類なんて滅んでいくのが、当然でしょ?滅びるなら最期まで高尚な存在でいるべきさ」
頬摺りをしながら桜沢は恍惚そうな笑みを浮かべた。 |