第13話
先生は生物というより哲学の先生になったほうがいいんじゃないかな。
あたしの視界の中ではCDコンポやクローゼットが上下している。
頭ぶつけそうになる。
浮遊感と墜落感。
弾む息と身体。
これって立派な全身運動。
「水澤!!!ベッドはトランポリンじゃないんだぞ!降りろ!!いくつなんだお前は」
「ぎゃあ!びっくりしたー!先生いきなり怒鳴らないでくださいよ!!」
ドアが開いた瞬間に怒声を浴びせられ、あたしは驚きのあまりベッドに不時着した。
「あー、もう、ちょっとおとなしくなったかと思ったらすぐコレだ」
先生は溜息混じりにうなだれてベッドに腰掛けた。
「無邪気で可愛いっしょ!?」
「永遠に悩ませておけばよかったよ」
先生は嫌味を言いながら、あたしの肩を抱き寄せる。緊張して思わず筋肉に力が入ってぎこちなく先生の胸に頬をあてた。
息できない。息。
呼吸を忘れるくらい、緊張してしまう。
「水澤、」
囁く声が降ってきて、あたしは顔をあげた。
反動で大きく息を吸い込むと空気が喉にひっかかり、潤んだ擦れ声が漏れた。
「もうすぐ十一時になるから寝な」
「先生も、隣にいて」
「俺は明日の授業のプリント作らなきゃいけないから。後でくるから、先に寝てなさい」
先生はあたしの髪を指で梳いてくれた。
……なんてジェントルマンなんだ、この人は。
伊達に家具がブルジョワではないな。
あたしは頷いて先生から離れた。
「朝起きたらいなかったとか嫌ですよ」
あたしは軽く睨むように先生を見上げて、念を押した。
「わかってるよ、俺は嘘吐かない」
先生はそう言って、指をやわやわと蠢かすと寝室を出ていった。
ちゃんとおとなしくしていよう。
ちょっと淋しいけど、うるさくしちゃったら邪魔になってしまう。
それに、ベッドには先生の匂い。
先生がくるまで起きて待っていようかな。
そんな事を目論みながらも、あたしの意識はどんどん降下していく。
先生の匂いがとても安心させてくれた。
よかった
先生と超イイ感じ。
抱き寄せられちゃったよ!水澤、って擦れた声だったよ。んんぅ、セクスィ。
にやけながら寝返りをうつ。
頬の筋肉緩みっぱなし。
そっかぁ、皆、似たり寄ったりかぁ……。
ん?
ちょっと待て。
先生、しれっと重大な事、言った?言ったよね?
あの口調は見たことあるって事よね。
しかも一人とかじゃなくて複数。
……ちくしょう!淺井!!
あたしのうっとり返せ!!
あたしはベッドの上で一通り、のたうち回ってみた。
息が切れただけだった。
疲れて暴れるのを止めたら落ち着いた。
……そうだよね。あたしと淺井先生は10年くらい差があるんだよね。
あれで経験ないほうが変だよね……。 仕方ないことだけどさ。
泣きそうだよ。
あたしが十歳の時にはもう二十歳でしょ?
先生があたしの年齢の時はあたしまだ小学生か。
しかも【赤い実はじけた】も知らないくらいかな。
あたしが、かけ算の八の段を憎んでた時、すでに先生は異性を意識していたのかな。
あたしが性教育を初めて受けたときには、先生は実践していたのかもしれない。いつまでたっても、埋まらない、先生と出会う前の空白。
その間に存在していた女の人にあたしは強烈な嫉妬と羨望を抱く。
先生に快楽を教えたのは誰?
先生に女の両足の間のモノを教えたのは?
先生のあの鉄仮面の下の野性を最初に開いたのはどんな女?
先生はどんなふうに抱くんだろう。
あのコットンの下に張りついた膚の温もりをあたしはまだ知らない。
唇の柔らかさは知っていても、舌の柔らかさは知らない。
でも、知っているヒトがいるんだよなぁ。
……いいなぁ。ずるいよなぁ。
あたしの嗚咽で湿った枕には先生の匂いしかしない。
でも、このベッドで、暖かい膚から染みだしたばかりの新鮮な体液の匂いを共有した誰かがいる。
あたしの涙はせいぜい寝汗と、もしかしたら垂らしてしまったかもしれない涎と交じっているだけだ。
過去の、じゃなく現在進行形の体液を共有してみたい。
あたしだって野性的な先生の表情を目の当たりにしてみたいよ。
理性的な、不機嫌そうな表情だけじゃなくて。
悲しそうとか、楽しそうとか、優しそうとか、そんなものさえ、とっぱらった、むき出しの表情であたしの身体を拓いてほしい。
あたしの思考はどこか破錠しているのかな。
生殖から逸脱したエロスへのあたしの渇望を先生は叱るだろうか。
でも、たぶん、この渇望は純粋なもの。
だって、失われた半身を求めて彷徨うのがあたしたちの運命なんでしょう?
先生、あなたの半身があたしで、あたしの半身があなたらならいいと、心から思う。
先生に強く魅かれたのは、きっとあたしの中の何かがそれを嗅ぎ分けたからなのよ。
なんて言えたら先生はあたしを愛してくれるかな?
……愛……?
愛ってなんだ。
照れ臭い。愛って正体がなんなのかわからない。
でも愛って漢字の形が薔薇の蕾に見える。
たぶん混乱してるんだわ。
それにちょっと疲れた。
あたしのたよりない目蓋が薄れていく意識と共に降りた。
夢の中でくらい、愛を笑わないあたしになりたい。
洗濯機が仕事を終えた。
水澤が脳内モルヒネにイカれた浴室に神経がいく。
まったく、人んちでなにやってんだか。
お前のおかげで俺はシャワーなんかに劣等感を感じなければならなくなったじゃないか。
くだらない。
クソくだらない。
俺は自分とシャワーなんかに心の中で悪態を吐きながら、乾燥したばかりの制服を取り出している。
情けないったらない。
『先生も、隣にいて』?
『無邪気で可愛いでしょ』?
どこがだ。
俺の膝にあんなもの押し当てて翻弄して掻き乱して、頭の中非処女とか言って、シャワーなんかにβエンドルフィン放出して、ビビって泣いて、やるこということめちゃくちゃで仕舞いには俺に洗濯物までさせやがって。
俺の理性は限界だ。
こんなふうに自分を正当化したくはないが、俺だって人間なんだよ。
キリスト教に言わせれば、楽園を追放された汚らわしい塵の産物。
生憎、俺はキリスト教ではないが。あえて例えさせて頂く。
人間は欲望の固まりでその大きさは人それぞれで異なるとしても、欲望と理性の葛藤に苦しみながら生きる。耐えかねた者は宗教に道をみる。
禁忌を強いてそれを抑制する。一概には言えないが。
エロティシズムに精神のパラドックスが生じるのは人間の性質を表している。
その他の生物にとって、種の保存を目的としたセクシャリティは人間の進化により精神と結びつき変形した。
たぶんアダムが追放されたのは、子宮という名の楽園で、永久の贖罪のためイヴを与えられた。二度と還れない楽園に想いを馳せながらこの混沌とした世界に落された。
だから男は女を求める。
しかし、女はそれを受け入れ、神の命により新たな罪人を作り出す。
女は天使であり、悪魔だ。
でなければ、こうも無邪気に困惑させられない。
めちゃくちゃだ。
普段はキリスト教どころか、宗教など、ただの文化でしかないと見くびっているくせに。
理性を奮い立たせたいがために、神を冒涜している。現代の日本人に宗教的なアイデンティティーがないと他国に罵られているが、俺はこの順応性に感謝する。
俺は教師で、あの子は生徒。一般的には俺は大人で、あの子はまだ子供だ。
俺はその場の衝動に任せて行動するわけにはいかない。
悩みは、未来と過去の間に想いを馳せる瞬間に生じる。
座禅は先も後も排除してその瞬間と一体する。
それは無と呼べるかもしれない。
若干の間違いはあるだろうが、たぶん、そんな感じだ。
無の境地へ行きたい。
できることなら、悩むことをやめて、瞬間に没頭したい。
訳のわからない御託を並べているのは、本当は、ただ、怖れているから。
俺の既成概念を打ち壊した彼女の純粋さにひどく魅せられながらも、それが失われるのが、怖い。
好奇心だけで冒険するほどもう俺は若くない。
俺が、これまで経験してきたように、彼女は新たな経験をしていく、俺は踏み台には…………
手放してしまえ。
衝動的な口づけはまだ忘れられる。
これ以上、惨めになりたくはない。
いつものように煙草をくわえ、火を点けた。
味気ない煙が、乾いた咥内をいためつける。いつもの部屋がやけに広い。
俺はまた既成概念を打ち壊した。
嘘は吐かない。
三度目の正直とはよく言うぜ。
俺は三度目にして嘘を吐いた。
いや、他にも吐いたか。
どうせなら、既婚者だという嘘をつきとおしていればよかったものを。
水澤、悪い。
お前の傍には行けない。
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