第12話
ロンズディールのロゴ入りトレーナーと古いジーンズは少し大きいかったけれど、あたしから放たれる雌の匂いを視覚的に消去している。
黒光りの車体に映った自分を確認して、あたしは安心する。
なんでいきなりドライブに誘ってくれたんだろう。
助手席のシートベルトを装着して両手は膝の上に置いた。
車が走りだしたのに、まったく静かで困ってしまう。
部屋のなかと同じように沈黙が漂っていたが、風景が変わるぶん、少し気が紛れたが。
あたし達は今、さっき先生の寝室から見下ろしていた夜景の一部になっている。
先生は無言で車を運転している。
「先生、どうして、ドライブ?」
あたしは先生に向かって質問した。少し砕けた口調は、変に緊張しているのを隠すためだった。
「急に叫んで、泣きそうな顔して出てきたから、芸大生の自縛霊を見たのかと思ってさ」
「やっぱりいるんですか?」
「いや、俺は見たことないってば、水澤なら変わったもん見えそうじゃん」
淺井先生は笑いながらあたしに視線をくれて、すぐに戻した。
変わったもん、ねぇ……。見たよ。先生、自分の知られざる秘境をね!
って、言えるワケナイ。
車窓に肘をついて溜息なんてアンニュイじゃない?
今のあたし。
まぁ、悩みが誰にも相談できない事だから辛いんだけど。
言葉にできないモヤモヤは声帯を通らずに空気になる。
大気を震わせるのは乾いた吐息。
遣る瀬ない思いは言葉になり損ねて溜息になる。
「どうしたんだってば。お前がおとなしくない事はもう知ってるんだぜ。今更なに静かになってんだよ?」
淺井先生があたしに構うなんてめずらしい。
「ちょっと少しの時間にカルチャーショックを受けまして、困ってるんです」
「なに?カルチャーショックって。俺にとってお前がカルチャーショックなんだけど」
よく笑うようになったな、この人。
やっぱ、あたし、この人の専属コメディアンになってあげようかな。
楽しそうな淺井先生をみてると救われるよ。
いつも表情が明るくないからちょうどいいんじゃないかな。
「言ってみ、水澤」
流れるような動作で煙草をくわえるところがあたしを揺さ振る。
カッコイイ。たまらなくカッコイイ。
「だって、言ったら先生ひくもん」
あたしは紅潮しながら、いたたまれない気持ちになる。
「今更なににひくんだよ」
淺井先生は声をだして笑いはじめた。むぅ、言われてみればそうかもしれない。
「……あたしの両足の間にある物体について、です」
「はぁ?!」
ほら、ひいた。なんだよ。まだまだあるじゃん、ひくこと。
「え?なに、それ」
先生は煙草をもった手を膝の上に置いて片手でハンドルを回している。
「……もう言えません。恥ずかしくて死にそうです」
「気になる終わらせ方すんなよ」
「言えませんって!」
声を荒げたあたしに先生は一瞬、首を傾げて言った。
「生物室の時の水澤と別人みたいだな。羞恥心があったなんて、不思議だな。そっちが意外。でも、お前って単純なくせに『意外』の固まりだから、面白いよ」
先生が笑った。
頭に血が昇るとはこれか。初めて先生が嫌味だと思った。
バカにされてる。
あたしの胸の中に冷たいものが差し込まれた。
「誉められてるのか、けなされてるのか解りませんけど、あたしにだって悩みくらいあるんです」
「なに、怒ってるんだよ」
「怒ってません!!先生こそバカにするのやめてくれませんか?」
先生は怪訝な表情を浮かべてあたしを見た。
信号にひっかかり、車が停められた。
先生は無言で前を向いたままシートにもたれかかった。自分の指を互いに絡ませながらあたしに関心を持つのを止めたように見えた。
先生があたしに構うなんてめずらしいのに。
「……なんで泣く?意味、わかんねーんだよ」
先生は冷たい声で言い放つとまた車を発進させた。
「……だって、」
あたしは涙と一緒に浴室の出来事を吐き出した。
あたしのいびつな部分と、洗おうとしたら半端ない快感を覚えてしまったこと。
汚らわしい告白は、たいして時間を消耗しなかった。
先生は絶句していた。
死んでしまいたい。 あたしは恥ずかしくて泣くことしかできなかった。
「え、と。うーん……とりあえず落ち着け」
先生はあたしと自分に言い聞かせるように呟いた。
「水澤、正直、俺なんて言ったらいいか解らねえんだけど、多分、お前の悩みは気にすることじゃない。
女性器の構造は若干の違いはあっても、そんなに美しいものじゃないし、皆、似たようなものだから。
顔立ちが綺麗な人もそうじゃない人も似たり寄ったりだから」
「先生、それ本当?」
あたしは意外な事実に泣くのを止めて先生を見た。
先生は前を向いたまま頷いた。
……なんだ、そうなのか。
「見た目は悪いけど、大事にしてやりなさい。
……なんか変な事言ってるみたいだけど、その中にある子宮や卵巣ってのは命を育む場所なんだ。生殖は種の保存の為に重要な事だ。
卵子は人間の細胞の中で最も大きいんだぜ。
精子は0.05ミリ程度だが、卵子は0.14ミリもある。受精すると細胞分裂をして最後に人間ができるんだ。すごいと思うよ。
人間を壊すことは容易いけれど、どんな設備や最先端の技術をもってしても作りだすことはできない。
けれど、女性は体内でそれをやってしまうんだ。
そしてもう一つ、人間の脳内には、脳内麻薬と呼ばれる快感物質が存在する。
たとえば、脳内モルヒネと呼ばれるβエンドルフィンには強い鎮痛効果がある。
女性が絶頂に達した時にはこのβエンドルフィンが大量に分泌される。これは分娩の陣痛の時にも大量に分泌され女性は激しい痛みに耐えられる」
「じゃあ、あの時のすごい感覚って脳内モルヒネのせいなの?あたし麻薬を打ったのと同じなんだ」
先生、詳しい。いつのまにかあたしの涙は完全に乾いていた。
「んー……まぁ、そういう感じかな」
苦笑いしながら先生は頷いた。
「どうしよう、麻薬って中毒になるんですよね?あたし猿になっちゃう」
「それは猿に失礼だぞ、水澤」
「ちょっと、ひどくない?先生」
あたしはいつのまにか先生のからかいに笑っていた。先生はあたしのいびつな部分を見たとしても引かないんだと思う。
恥ずかしさはあるけど、一安心だ。
「野性の雄猿が手淫をするのはあることなんだが、死ぬまで繰り返すことはない。ペットとして飼われている猿の場合に回数が増えはじめるんだ」
「え、なんで?」
「野性の状態では群れを作る猿にとっては一匹で生きるのは寂しいものだろうし、自由に行動もできないストレスからノイローゼになるんだ。手淫を繰り返すのはノイローゼがひどくなった証拠さ」
「可哀相だね」
まったくだ。先生はそう頷いて、煙草をくわえる。
「人間って不思議だね、先生」
「そうか?」
「セックスって生殖の行為だよね。子孫を残す為の行為なんだよね」
「そうだな」
「でもスキンシップっていうじゃない?子孫を残さなくても、構造をしらなくても望んじゃうのは何でですか?」
先生は煙草に口をつけて、煙を吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。
「セックスの語源はね、確かラテン語の“わける”という意味の言葉に由来するという説が有力でね。
ちょっと哲学的な話になるけれど、原始時代の人間には男女の区別がなかったんだ。一つの性しかなかった。そしてその生物が自分より勝のを恐れた神が男と女という二つの性に分けてしまった。
この失われた半身を求めて地上を彷徨い歩く運命を人間は担わされたっていう考え方さ。
これを基に“わける”という意味の言葉が“性”や“性交”を意味するようになった。
俺はこの仮説がすごく好きなんだ。
男と女も、それだけでは一人前ではない、相手と結びついて初めて一人前になる。失われた半身を求めて彷徨っているなんて、ロマンチックじゃないか」
先生はそういって照れ笑いを浮かべた。
そんな貴方のほうがロマンチックじゃないか。
うっとりしながらあたしは先生を見つめる。
「でも、人間はエロスに捕われて、どんどん逸脱している。種の保存を目的としない行為を求める傾向に傾いている。
皆が皆じゃないけれど、快楽にかまけて生命を蔑ろにして、暴力や犯罪を平気で行なう。
生態系から離れて一人歩きしていく人類は自ら絶滅へと向かっているような気がするよ。
食物連鎖の頂点に鎮座して天敵がいなくなり、外敵から身を守る必要がなくなり人類は増えすぎたんだ。結局は同じ種族で殺しあい。そのために進化していく、おかしな生きものだ」
対向車線のヘッドライトに照らされた先生の横顔が、無機質で綺麗な物体に見えてあたしは悲しくなった。先生の眼差しが何も映さなくなってしまったように見えて、不安になった。
「それだけじゃないよ。先生。そうじゃない人間もいるよ」
先生があたしを忘れてしまいそうな、漠然とした不安を感じて、ギアに置かれた先生の手に自分の手を重ねた。
「わかってるよ、水澤。だから俺の心配はするな。お前みたいな素直で無垢なほうがよほど心配なんだよ」
先生の笑顔は今まで見たこともない柔らかいもので、なぜか泣きたくなった。 |