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不機嫌先生と個人授業。
作:森本エリ



第1話


どんよりと重たい雲がゆるゆると天を這っていく。

どこなんだろう、ここは。


閑静な住宅街。

あたしは今ならもれなく学校にいて勉強をしていなければならない高校生で、しかも一人。
こんな訳のわからない所にいちゃいけない。
いけないのは解っている。よく解らないのは土地名くらいだ。
字面しか知らない。わざわざ家から正反対のここに来たのには訳がある。

そこそこ立派なマンションや一軒家が並んでいる。

アスファルトは濡れて、あの匂いを立ち上らせている。
五月半ばの気まぐれな土砂降りの後。
ほとんど無意味に早退して時間を持て余している、あたし。

短くリメイクしたスカート。
湿気を含んで重くなったブレザー。

はがれかけたソックタッチの痕。

ちょっと栗色に染めた髮。
仲間意識に満ちた楽しいクラスメイト。

なんとなく付き合っている彼氏。

可愛くデコレした携帯電話。

全部、ウザい。

もっと、なにか違うものが欲しいなぁ。

あたしは溜息をついて背伸びをした。

途中下車してみたけど、なんにもない。

つまんない。
抜け出して来たつもりなのに、なんにも楽しくない。
虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい虚しい退屈退屈退屈退屈退屈退屈サミシイサミシイサミシイ

こんな時の気持ちはアレだ。


『死んぢゃおう』っかな。

携帯電話には新着メールありと不在着信の痕。

雨の匂い。熱が出たときみたい。胸をうかす。

黒ずんだ坂道を歩いて、明るくなっている向こう側の空を目指す。

猫になりたい。猫みたいになって誰かに甘えてじゃれつきたいの。
あたしを甘やかせてくれる誰か……。

ふと、脳裏に浮かんだのは短い髪を立て、口の悪さに幼さを残した同級生の彼氏ではなく、
いつも、退屈そうに、授業をする生物の淺井先生の俯いた顔。

柔らかそうなくせっ毛の隙間から生徒たちを冷たい目で見下している。
少し、騒がしい生徒たちは無視して淡々と授業をして、欠伸を噛み殺す。
終了のチャイムと共に無言で去っていく。

もちろん、評判は最悪。

顔が綺麗だから、冷たい雰囲気を強くさせ、皆よけいに怖がって近づかない。

学期初めの授業で、ふざけた男子がわざと、聞こえませーん!と囃し立てた。
淺井先生は、お前がうるさいからだ とはっきりと言った。

全くその通りだった。

男子生徒はニヤニヤして、先生、なんか言いました?と、とぼけた瞬間、名簿が飛んで来た。

すごい勢いで名簿は顔面に当たり、床に落ちた。

咄嗟の出来事と淺井先生の冷たい迫力に教室が静まり返った。

「言って解らない奴は、こうする。滅多にないが、あんまりふざけるなよ」

淺井先生は溜息をつくと教室を眺め回した。

「なんだ、皆。静かに出来るんじゃないか。せっかく親に高い金払ってもらって学校に通ってんなら元取る勢いで勉強しろよな」

そう言うと、顔面に制裁を喰らった男子生徒と一緒に騒いでいた取り巻きを見た。

「そいつを保健室に連れていけ。淺井先生がやったって言って、この時間は戻ってくんな」

淺井先生が顎で促すと男子生徒四人は怖ず怖ずと席を立った。

「……んじゃ、教科書7頁開いて」

男子生徒達が教室から出ていくのを見送った後、淺井先生は何事もなかったように授業を再開させた。

授業が終わった後、教室中が淺井先生の非難轟々だったが、あたしは痺れていた。表情には出さなかったが興奮して心臓がビリビリした。

だから、その日から彼氏よりも淺井先生の事を考えるようになっていた。

元々なんとなく流れで付き合っていた彼氏の欠点なんか目をつぶっても解る。

淺井先生は解らない。

情熱というものが、あの分厚い氷の下にもあるのだろうか。

あの無情な美貌が崩れる事があるのだろうか。

あたしは見てみたい。

淺井先生の笑い顔。

淺井先生の優しさ。

淺井先生の乱れた姿。

……乱れた姿?!あたしのバカ!
想像がつかないぶんよけいに体の芯が疼いてくる。
恥ずかしいけど事実だ。

だいたい、早退したのは、淺井先生が今日いきなり休むから。

5時間目が生物の授業だったから、楽しみにしていたのに、朝のHRで担任が淺井先生は体調を崩してお休みです。5時間目は自習で、プリントをしておくようにと言った。
冗談じゃない。
あたしの気分は一気に落ちた。

淺井先生に会いに学校に来ていると言っても過言ではないのだ。

淺井先生も薄情だ。
なんてどこか間違った憤りを感じたが、デートをどたキャンされた気分になった。
だから、あたしは昼休みに淺井先生の住所を調べてきたのだ。

……片思いなんだよ。あたし。ねえ、これじゃ、ストーカー……。
あたしは溜息をつく。


「うちの高校はまだ授業中だろう?」

不意に声をかけられ、驚いて振り返った。

「……3組の水澤夏樹」

「あ”ッ淺井先生!!!」
頭一つ半分見上げると、憮然とした表情の淺井先生。私服!私服!開襟の綿シャツにジーンズときた!
似合ってる!ダサくない!しかも、名前フルネームで覚えてくれてる!

「あ、淺井先生、あたしの名前覚えててくれたんですかッ!?」

「……そりゃ、真面目に授業聞いてる数少ない生徒だから」

生きてて良かった!
授業、真面目に聞いてて、てか、むしろ見とれてただけ。でも、受けてて良かった!
あたしは心底神様に感謝した。
普段なら神様なんて浮かびもしないけど。
いてもいいと思う。
心臓がバクバクして、言葉が浮かばない。

「で?なにしてんだ?水澤夏樹」

淺井先生は腕組みをしてあたしを見下ろしている。
敵意はなくても冷たい眼差しが怖い。

「い……いえ、別に。早退して帰っている途中です」

こ、怖い。
あたしはちらっと淺井先生を伺う。

「家はこの辺なのか?」

「……み、南町ですぅ」

「……真逆だよな」

睨まれて、咄嗟に嘘がつけない。あたしのバカ。
超怪しいじゃん。

「学校サボってこんなとこでなにやってんだお前」

淺井先生が溜息をついた。

「あ……淺井先生だって具合悪くなさそうですが」

あたしがそう言い返すと淺井先生が口をへのじに曲げた。

「関係ない」

「あ!そういって実は先生もサボりでしょ!」

あたしは思わず指を指して叫んだ。

「でかい声出すな」

正面から、あたしの口を押さえる、大きな掌。

心臓が跳ねて、顔が熱くなる。

歯に唇の裏がぶつかって痛かったけど、それどころじゃない。

「俺も黙っててやるから、水澤も言うなよ。補導される前にとっとと帰れよ」


そう言うとさっさと踵を返す淺井先生。

−嘘!?この奇跡を呆気なく終わらせないで!

あたしは咄嗟に淺井先生の腕を掴んだ。
積極的な自分に驚愕だ。

「……なんだ?」

じろりと淺井先生があたしを睨む。
怖ッ!!

「ホントは……今日、生物なかったから……」


淺井先生が黙ってあたしを見ている。
顔が熱い。声が上擦る。
バレバレじゃない?

「生物の授業楽しみにしてたんです!」

「……だから早退か?」

「はい!」

「物好きな生徒もいるもんだな。その割には水澤の成績、いいとは言えないぞ」

「物好きなんで」

「好きなら、なんで成績に比例しないんだ?」

「だから、その、淺井先生に教えて頂こうかと!」

「わざわざ?」

淺井先生が意地の悪い笑みを浮かべている。
解っているくせに……。絶対、悟られた。
あたしが生物より淺井先生が好きってこと。

淺井先生、大人だもん。

「お前の気持ちはよく解った。そんなに熱心な生徒がいたとは知らなかったな。もう、俺もサボらないようにするよ。だからお前も早退なんかするな」

「……はい。解りました」

悟ってるくせに。
ちくしょう。先生と生徒の一線引きやがった。
でも負けない。あたしは負けず嫌いだからね。

「放課後、補習してください」

「いいよ。テスト近いもんな」

嫌だと言われるのを覚悟して言ったのに、あっさりと承諾。
自然と頬が緩む。

「ホントですか?!」

「ああ。嘘つかない」

淺井先生は頷いた。

「まさか、俺の授業受けて補習までしたい生徒がいたなんてな。仕事に行く理由がまともに出来たよ」

じゃあな、と片手を上げて五指をやわやわと曲げたりした。
なんか変な手の振り方だなんて思ったけど、
口角があがるあがる。
淺井先生の背中を見送りながら、胸が高鳴る。

「明日からですよ!先生!」

「解っている!早く帰れ!予習と覚悟しとけよ!」

淺井先生が横顔だけ振り向いて応えてくれた。

「はい!!」

あたしは大袈裟なくらい、張り切った返事をした。












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