甘い罠、辛い罰
「ああ! またやられた!」
そんな悲痛な叫び声が聞こえたのは、昼休みになった直後だった。
「どうしたの?」
慌てて階段を駆け下り、声がしたと思われる給湯室に向かう。
ドアを開けると、目の前でしゃがみこんでいる一人の女性社員を発見した。
何やら冷気を感じると思ったら、女性社員の前にある冷蔵庫が開きっぱなしになっていた。
「ゆ、悠木さぁーん……まただよう・・・」
「え? 緑川さんまたなの?」
彼女がこくこくと頷く。
「うわーん! 楽しみにしていたのにぃ!」
立ち上がり、さっと冷蔵庫のドアを閉めたと思ったら涙目のままぎゅうぎゅう抱き付いてきた。頭をポンポンと撫でて慰める。しばらくメソメソしていた緑川さんだったけれど、次第に『悠木さんのおっぱい、柔らかくてマシュマロみたいーふわふわー』とか言い出したので、ベリっと体から引きはがす。
「あうっ! もっとー」
「変態かお前は」
「私にはないんだもの!ほら見て!」
「自虐か!そして脱ぐな!」
ぷくーっと頬を膨らませながら、捲りかけたブラウスを戻す緑川さんを見て、本当に気持ちの切り替えが早いなぁと感心しつつ、目の前で起きている小さな事件に話を戻した。
「ここのところ続くわね、お菓子泥棒」
「ほんとですよ!」
また思い出したように次は可愛らしい顔のままプリプリと怒りだした。
正直言って、全くと言っていいほど迫力はない。
これなら幼稚園生が癇癪を起こす方がよっぽど怖い。
「一体誰なんだろう……」
「内勤の人なんだろうけれど……」
うーんと二人で考えながら外に出る。楽しみにしていたお菓子を食べられてしまったため、緑川さんは仕方なくコンビニに買いにいくことにしたようだ。
私がコンビニにご飯を買いに行くと告げると、にっこり笑ってじゃあ私も行くよと言ったので、一緒に向かうことにした。
会社にお菓子泥棒が現れ始めたのは、一か月前のことだった。
最初に被害にあったのは他の誰でもない、私だった。
楽しみにしていたチョコケーキを盗まれてしまった。しかもそれは休みの日にも関わらず朝五時に起きて、長蛇の列に並んでまで手に入れた幻のチョコケーキ。
銀座にオープンした、フランスに本店を構えるチョコレート菓子専門店の人気商品。
それを盗まれた時の悲しみ。怒り。一か月だった今でも私は忘れてなどいない。
必死に犯人捜しをしたが、どのタイミングで盗まれたかも分からないし、指紋でも調べようとゴミ箱にあると思われる包み紙やカップを漁ったけれど、それすらも犯人は盗んでいってしまった。全くもって憎らしい。
指紋を採取するためにわざわざ片栗粉と筆を持参したのに……!!
そしてチョコケーキに味を占めたのか、犯人は週に一、二回のペースで冷蔵庫にしまってある様々な人のおやつを盗むようになった。
大抵の人はやられたで済むけど、私は……私は……
「絶対許さないんだからあ!!!」
「悠木さん! ここコンビニ! コンビニ!」
「もご……」
緑川さんに口を塞がれてしまう。いけない、思い出し笑いならぬ思いだし怒りしてしまった。周囲の目が冷たくて夏にはぴったり……じゃなかった恥ずかしい。
適当にパスタを選んでレジに向かう。途中でデザートコーナーを通ると、どれにしようかなと幸せそうな顔をして悩む緑川さんがいた。
「決まった?」
「あ、悠木さん。見てみてー和菓子フェアだってー」
「わあ、美味しそう」
二人してホワホワしながら眺めていると、ふとあるデザートが目に留まった。
これは、使える!!
「緑川さん。私が犯人を捕まえて見せるわ」
「え!?」
「こんなに悲しむ人がたくさんいるんだもの」
「悠木さん……」
「捕まえて弁償してもらいましょう」
「そんなお菓子くら「弁償してもらいましょう。ね?」
「う、うん」
絶対にチョコケーキを弁償してもらう――
次の日。
「冷蔵庫のお菓子、絶対開けないでね」
「う、うん?」
人のものなんて取らないよーと慌てる緑川さんの隣で、私はさっさと仕事に戻る。
今社内にいるのは内勤事務と、営業三人。そして経理と重役たち。
この中に犯人がいるのなら……今日絶対捕まえる!
しばらく人の出入りが続き、ようやく事件が起きた。
時刻は午前十一時。お昼休みにはまだ早い。
「ぎゃあああああああ!!」
「何だ?!」
「お菓子泥棒か!?」
「……かかったわね!」
今までで一番大きな叫び声に、事務はもちろん、普段はゆったりしている重役もびくっと肩を震わせた。
「悠木さん、行くわよ!」
「え、ええ!?」
昨日の被害者である悠木さんの手を取って、私は給湯室に向かい、勢いよくドアを開けた。
「さあお菓子泥棒! 観念して盗んだお菓子を弁償しなさい!」
「弁償が重要!? 謝罪じゃなく!?」
苦しそうにうずくまっている人物――それは、営業の一人だった。
「な、お前……これ……」
「どういうこと? これって昨日悠木さんが買ってたやつですよね?」
事態が読み込めず緑川さんがあたふたしだす。
私はしばらく無言で、営業を見下ろす。
営業の左手には、私が持ってきたお菓子のカップが握られている。透明のデザートスプーンが、デザートに突き刺さっている。なんて行儀の悪い。それじゃお供え物だ。
「どう? 私の特製デザートは」
にっこり笑顔で聞いてみる。
「特製?」
「緑川さん。これね、カップは確かに昨日のやつだけど、中身は私が作ったものなの」
「どういうことですか?」
「元々、ここに入っていたのは抹茶ティラミス。でもこれは……わさびティラミスよ!」
「なっ……」
驚きを隠せないのか、緑川さんが口をパクパクさせている。
そう、これは決して抹茶ティラミスではない。それは昨日家で全て食べた。
カップを綺麗に洗って、そこにわさびティラミスを入れたのだ。あとはふたをして、取って置いたラベルをもう一度巻いて、底面でテープで留めればあら不思議、見た目だけは抹茶ティラミスである。
「正直、匂いでばれるかとも思たんだけど……あんた一気に食べたでしょ?」
「そ、そりゃ素早く食べないとバレ……ゴホゴホ」
「どんだけ食い意地張ってるのよ」
もはやあきれるしかない。
まぁアイスの恨みを一か月も忘れてない私も同じか。
営業が犯人なら食べた後の容器や袋が見つからないのもうなずける。
食べた後、そのまま営業に出て外で捨ててしまえば、綺麗に証拠隠滅だ。
「食べちゃダメって言われているものだと余計食べたくなっちゃうよね?」
「ゆ、悠木……悪かった……だから水を……」
「チョコケーキ」
「え?」
「あのチョコケーキを買ってきてくれたら水入れてあげる」
「そ、そんな」
「あらいやだ? 仕方ないわねーじゃあそれ全部食べる?」
営業からわさびティラミスを奪いとり、スプーンを引っこ抜いて口元へと持ってく。
「ほらほら、口開けなさいよー」
カップを緑川さんに持ってもらい、開いた左手で営業のほっぺたをがしっとつかんだ。
その間、緑川さんはそっとわさびティラミスの匂いをかぎ、すぐに顔を背けていた。
そんなにきつかったっけ?
「ゆ、許してくれ悠木……」
「じゃあ買ってきてくれる? ア・イ・ス」
「分かった、分かったから」
「ふう。じゃあ仕方ない」
私は立ち上がり、水を入れてあげる。営業は待ちきれなかったとばかりに一気に飲み干してしまった。こんなにも普通の水をおいしそうに飲んでいる人を見るのは初めてかもしれない。
「た、助かった」
「これに懲りて二度とお菓子を盗まないことね」
「悪かったよ。その……事務員さんたちが食べてるのがいつも美味しそうで」
「だったら欲しいって言えばいいじゃない」
あげるよ、いくらでも! と、緑川さんがどんと小さい胸を張る。
「出来るか、そんな恥ずかしい事!」
「窃盗犯になるよりいいでしょ」
「窃盗犯って……」
「全く、だらしないお腹して何気にしてんの」
営業のお腹を叩くとポンっといい音がした。
一週間後。私は先日と打って変わって上機嫌だった。
「悠木、買ってきたよ」
「待ってたわ!」
昼休み。
営業がふらふらになりながら会社に戻ってきた。
私はがたっと立ち上がり、営業が持っている箱に飛びつく。
白い小さな四角い箱。幸せが詰まった箱。
聞けば先日の私があまりにも怖かったのか、チョコケーキのために半休を取って買ってきてくれたらしい。
「いやーあんな並ぶとは思わなかった」
「人気店だもの。当たり前よ」
「悠木も並んだんだよなーって思うと改めて申し訳なくなった」
「あら、いいのよ。無事にケーキは手に入ったし」
あれほど燃えていた怒りの炎はどこかへすっ飛んでしまった。
「おーい、みんなにも買ってきたから食べてくれ」
営業が他の人にも声をかける。
お菓子泥棒の件については、私と、緑川さんとの三人の秘密という事にしておいた。
あの後、部屋に戻るとどうしたのかと聞かれたけれど、営業が転んだだけだと適当にごまかした。
「今日はお菓子がたくさんだね」
重役のおじ様たちも集まってくる。
一気に活気づく昼休みの職場。みんな、笑顔だ。
――やっぱり、お菓子って偉大だな。