貸別荘
これは十年前、ある貸別荘に泊まった時の話だ。
大学時代、学部が一緒で特に仲の良かった佐藤と三原、俺の三人は、佐藤の車で二泊三日の卒業旅行をした。それは、中部地方にある有名な観光地なのだが……それを言ってしまうと、おのずとその“貸別荘”の場所も特定できてしまうので、細かい地名は伏せることにする。
その貸別荘に泊まったのは、二日目の夜のことだ。一日目は旅館に泊まったのだが、二日目の夜、つまり卒業旅行最後の夜は、男三人で人目も気にせず心ゆくまで騒いで、学生生活最後の思い出にしよう、と目論んでいたのだ。
*
夕方六時過ぎ。森は紺青に包まれて、空と一体化するかのように、木々の輪郭はぼやけて見えた。車のヘッドライトが当たっている部分だけがざわざわと蠢き、通り過ぎて行く。それまで楽しかったはずの卒業旅行だが、嫌な予感がしてきたのは、ちょうどその頃からだった。それは佐藤と三原も感じていたらしく、車内では三人ともが黙り込んでしまっていた。三原の趣味である海外のロックバンドの、やたらと喧しい音楽だけが、虚しく流れていた。
それは山奥の、鬱蒼と茂る森の中にあった。蛇のようにうねる山道を延々と走り、気を抜けば見逃してしまうような小さな看板と、小道の向こうに立っていた。元々は普通に人が住んでいたという建物で、他の貸別荘よりも遠く、わかりにくい場所に建っているためか、料金は格安だった。
車を降り、建物を眺めて、
「意外と良さそうなとこじゃんか」
と三原が言った。楽しげな口調だったが、三原が無理に明るくつとめているのはバレバレだった。
確かに、そのいかにもな“別荘”感を漂わせる木造の一戸建ては、芸能人が避暑地として使っているかのような雰囲気を醸し出していた。しかし、日が没し、月も見えない空の下で、その家をずっと眺めていると、妙に不安が掻き立てられる。うまく言葉にはできないのだが、自分たちは“招かれざる客”であり、その建物自体に、拒絶されているかのような印象を受けるのだ。
この家に入りたくない。純粋に、そう思った。俺は、その貸別荘の前で立ち尽くしてしまっていた。
車を止めた佐藤が、あらかじめ渡されていた鍵で玄関の扉を開け、室内の電気を次々と点ける。三原もそれについて行き、「おぉ!」と、今度は本心からであろう、感嘆の声を上げた。
家から漏れた明かりを受け、我に返った俺は、覚悟を決めて建物の中に入る。ここまで来て、今更帰りたいだなんて言うわけにもいかなかった。友人二人を前にして、怯えているところなんて恥ずかしくて見せられなかった、というのもある。
建物の中は広く、壁の少ない開放的な作りになっていた。天井も高く、二階とも言えるようなロフトがあるが、リビングは吹き抜けになっている。見上げれば、ちょうど回り始めたシーリングファンが目に付いた。照明が煌々と光り、木目調で統一された家具やフローリング、内壁に反射して、室内には暖かなオレンジ色が満ちる。
――それでも、俺の不安感は拭えなかった。まだ知り合って間もない他人の家に上がり込んだかのような、居心地の悪さを感じていた。
それはここが元々、普通に人が生活をしていた家だと知らされていたからこそ、思うことなのかもしれない。ただ――。
目の前で室内を物色しながら、談笑している二人を見ながら思った。
では、今俺が感じている“視線”と、“気配”はなんなのだろう、と。
その後、俺はそれを二人に言うこともなく、リビングで食事をとり、酒を飲んだ。笑い話をしているうちに、“視線”も“気配”も気にならなくなった。アルコールと“慣れ”で、感覚が麻痺したのだろう。
気が付けば、目の前は真っ暗になっていた。ソファに横になっており、肩には毛布のような物の感触。おそらく酒を飲んでいるうちに眠気に襲われ、そのままソファで眠ってしまったのだろうと予想できた。毛布をかけてくれたのは、きっと酒に強くて気の利く、佐藤だろう。眠った時の記憶はない。少し、飲みすぎてしまったようだ。
目が慣れてくると、テーブルを囲む前方のソファには佐藤が、俺と逆方向に頭を向けて寝ていた。その佐藤の頭の方、俺の足元のソファでは、三原が寝ているのが視界の隅で確認できた。そちらには外に出ることのできる大きな窓があり、カーテンから漏れた微かな光が漏れていた。どうやら、この別荘の中に入る前には確認できなかった、月が出ているようだ。
真っ暗な室内では、その月だけが光源となっていた。暗闇に生理的な恐怖を覚えた俺は、もっと月明かりを部屋に入れたくて、カーテンを開ける為に、起き上がろうとした。
――ペタッ……ペタッ……ペタッ……。
それは、すぐ近くから聞こえてきた。静寂と暗闇の中でなかったら聞き逃してしまうような、微かな音だった。深い森の中にポツンと建つ別荘の中の、自分以外の人間が寝静まる中、何が動いて音を立てるというのだろう。俺は、動きが取れなくなった。
その音は静かに、ゆっくりと近づいてくる。ペタッ、ペタッ、と、湿り気があり、また弾力あるものが、なめらかなものに張り付き、また離れる音。それは、誰かがフローリングの上を裸足で歩く音だ。視覚で確認しなくとも、そうとしか思えなかった。
その場で動かぬまま、薄目を開けると、カーテンから差す細い月明かりが、ほんの数秒遮られた。窓の前を、横切ったのだ。俺のすぐ足元に居る。
俺は身体を硬直させたまま、呼吸もなるべくしないように努めた。冷気の立ち込める部屋の中で、じっとりと汗をかいていた。早くいなくなってくれ……! そう、祈りながら。
その足音は、ソファの背、横を向いて寝る俺のすぐ後ろで止まった。
*
帰りの車の中、運転していた佐藤が、助手席に座る俺に言った。
「昨日のやつ、気付いてたろ」
俺は驚き、前を向く佐藤の横顔を見た。昨日の晩、あの足音がしていた時、佐藤も起きていたのだ。
後ろを向くと、三原が眠りに落ちていた。
「三原は見てない」
佐藤は言った。朝、俺の知らないところで確認していたようだ。
「あれはなんだったんだろう」
俺が言うと、佐藤は「わからない」とだけ言った。そして少し躊躇って、
「お前の顔、覗いてた」
と言った。