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野良怪談百物語

エレベーター

作者: 木下秋

 薄紫色のシクラメンが、吹きすさぶ北風に揺れていた。


 それは見ているだけで凍えそうな、いかにも寒々しい光景だった。一瞬だけそちらを向いた舞は、すぐに目を逸らしてまっすぐ前に向き直る。


 夜の暗幕あんまくおおう、寝静まった住宅街を舞は一人で歩いていた。風が止むと視界に動くものは何もなく、まるで時間の止まった世界を一人で歩いているかのような錯覚を覚えるほどだ。


 きちんと時間が進んでいるのかを確認するかのように、腕時計を見る。左手首の内側にある文字盤では、短針がちょうど“Ⅱ”を示していた。


 舞は、少し飲み過ぎてしまったことを後悔していた。何時間か前まで――今となってはもう昨日の話だが――五年ぶりに集まった高校の友人達と久しぶりに集まり、食事をしながら、昔話に花を咲かせていたのだ。


 それは彼女が高校生の時、一番仲の良かったグループの友人達だった。卒業後も一人一人とは会っていたのだが、全員が集まるのは卒業以来初めてのこと。それぞれ、大学では勉強やらサークルやら、または彼氏やらで、忙しかったからだ。就職し、同じことを繰り返す毎日にうんざりしていた舞は、一ヶ月以上前から集まるその日のことを楽しみにしていた。“女三人寄ればかしましい”、などと昔から言うが、六人も集まれば“姦しい”なんてものでは済まない。舞は日頃の鬱憤うっぷんを全て忘れ、居酒屋の個室で友人達と喋り、笑い、食べ、飲んだ。いつもならどんなに遅くとも十一時には帰るというのに、気付けば時間はあっという間に過ぎていた。


 今日の天気予報では、雪が降るかもしれないなんて言っていた。そんな二月の風のせいで、酔いはすっかり覚めていた。しかし、「どうせなら酔ったままでよかったのに」と舞は思った。それは、彼女が“怖がり”であり、暗いところが苦手だからだ。


 見上げれば、どの家の窓にも、もう明かりは灯っていない。それはアパートであっても、マンションであってもそうで、辺りを照らすのは頼りない街灯と、白々しく光る自動販売機だけ。


 人の存在を全く感じることのできない街中を、夜、一人で歩くのが舞は苦手だった。暗闇が不安感と恐怖心をあおり、無音が神経を研ぎ澄ます。普段見えないモノの存在を、嫌でも察知してしまうような気がした。


 マフラーで顔を半分以上覆い、寒さに耐えるように腕を組んで、早足で歩いた。だが、彼女が一番恐れているモノは、まだこの先にあった。



     *



 俯瞰ふかんで見ればホッチキスの針のような、コの字型をしているマンション。舞はここの最上階、八階の部屋に住んでいた。真っ白な外壁は経年によって少し黄ばみがかっていたが、夜の闇の中ではそれもよく見えない。


 建物が見えてくると、舞は安心するとともに、強く緊張した。


 それは他ならぬ、そのマンションに備え付けてある“エレベーター”のせいである。


 言葉にしようのない、嫌悪感だった。まるでそこで誰かが亡くなったことがあるかのような、それともこれから誰かがそこで亡くなることが決まっているかのような、居心地の悪さを感じさせる場所なのだ。舞はそのエレベーターが苦手だった。そこに住み始めてからはもう一年以上経ち、その間にエレベーター内で何かが起こったことなど、一度もない。しかし乗るたびに、今日こそ何かが起こるのではないか、という気にさせられるのだった。


 立ち止まることなく、敷地内に入る。集合ポストを確認し、掲示板を横目にエントランスを通り抜ける。すると左手に、エレベーターがある。


 舞はボタンを押すより先に、右手の通路を見た。理由なんてものは無かった。ただ、恐怖心からなのか、神経が過敏になっているからなのか、広い空間が気になって仕方がなかった。


 薄暗く、長い通路だった。この通路を真っ直ぐ行くと、右手には非常階段がある。

 今日は非常階段を使おうかしら、と舞は一瞬考えた。しかし、舞の部屋は八階にある。


 ――バカバカしい……。もう、暗闇に怯える子供じゃないんだから。と、自分に言い聞かせて、エレベーターの“上”ボタンを押した。



     *



 エレベーターの扉が開き、舞が乗り込む。


 振り返り、“8”とあるボタンを、右手の中指で押した。


 扉がゆっくりと閉まり、腕を組み直した舞が真っ直ぐ前に向き直ると、エレベーターの小窓、網入りガラスの向こう側。長い通路の奥に、何かが見えた。


 それは、小さな子供のように見えた。食紅で色付けられたような、真っ赤な雨合羽を着ている。太陽の下で見れば、それは鮮やかな“赤”なのだろうが、暗闇にいるとその色は黒ずみ、こびりついた血痕を思わせる。フードを被っており、俯いているせいで顔は見えない。しかし、その顔の横を流れる髪の長さからいって、少女のようだ。背丈からして、小学校低学年くらいだろう。


 その少女が、暗く長い通路の向こうに、ポツンと立っている。


 舞は、全身を凍らせた。エレベーターに乗り込む前、向こうを見たときには、そこには誰もいなかった。ましてや、今は深夜二時過ぎである。そこに、少女がいるはずがない。舞はその少女が、“生きた人”でないことを、直感した。


 舞を乗せた箱が、動き出す。視点はゆっくりと、高くなる。


 目の前が一瞬、暗くなり、舞はホッとすると同時に強く願った。


(早く……早く八階に……)


 暗転ののち、二階の通路が見える。と、向こうに――あの少女がいる。


 再び暗転――。三階の廊下にも、その次の階の廊下にも、少女はいた。俯き、ポツリと立ち、動かない。


 舞の、心臓の鼓動がゆっくりと早くなる。それに比例するかのように、エレベーターの昇るスピードもゆっくりと上がり、そして、少女の立つ位置がゆっくりと、近付いてきていることに、舞は気付く。


 五階、六階、七階と上がり、少女の姿はより近くで見えるようになり、舞は気付いた。


 少女の着ていた雨合羽は、もともとは“白”かったのだと。


 八階に着く。


 扉は、何故か開かない。


 舞はというと、震えていた。荒くなった呼吸は、おさまりそうもない。


 扉の向こうに、少女は見えなかった。ただ――


 七階から八階に上がる時、一瞬の暗転。黒く塗られたガラスに、怯えている自分の姿と、その後ろに隠れるように佇む、少女の姿を見た。


 止まった箱の中には、濡れた、錆びた鉄ような匂いが充満した。


 扉は、開かない。

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