出立
幸か不幸か、左内たちの目見は上手く行ったらしく、その後行われた身辺調査である宿見もなんとか終了することができた。履歴を記載した「親類書」を提出してから、大奥に本採用が決まったと連絡が来たのは今から十日前の事である。
狂喜する殿、不安で胃を押さえる左内、砂糖の妄想に取りつかれる右京、三者三様の思いが交錯する中、とうとう出立の日を迎えてしまった。
普通であれば、決定から大奥に出仕するまでもう少し時間が貰えるのだが、なぜか大奥側が急いでいるらしく、至急出仕せよとの通達が届いたのである。
「1粒で、なんと7日間女性化が続く。しかし、継続して薬を飲まなければ数刻のうちに男性に戻ってしまうから気を付けろ。とりあえず5粒ずつ入っている」
葡萄染の振袖をそれなりに着こなした右京が、左内に香り袋に入れた薬を手渡す。
「これだけか? 35日しか持たないではないか。今度の潜入はいつまでかかるかわからぬのだ。薬が足らなくなったらどうする気だ」
「常温ではあまり保存がきかないのだ。心配ない、無くなれば面会人に化けた忠助と忠太郎に持ってこさせる手はずになっている。あの2人なら、私の家のからくりや間取りは良くわかっているからな」
「あいつらか……」
大奥を垣間見られるとのことで、二つ返事で引き受けたであろう尾根角兄弟の姿が目に浮かぶ。しかし、あの調子の良さが裏目に出なければ良いが。一抹の不安が左内の胸をよぎった。
「もう、ご出発ですか。お別れがつろうございます」
女性に身をやつし美しく着飾った左内の胸元から、悲しげな声が上がる。
そこには朝焼けに照らされて橙色に染まった鶏がやさしく抱かれていた。おけいにとっては悲しくも至福の時であろう。
「大奥は女人の園。私、女難の相がある左内様に土砂降りのような災難が降りかかってこないよう、浅草の神社に日夜祈りを捧げに行きます」
「はは、何を言い出すんだ。縁起でもない」
絡みつく様なおけいの視線から目を逸らして、左内は苦笑いする。
「確かにおけいの言うとおりだ。こいつはどうも悪女に騙される傾向があるからな」
左内の背後から、豪快な笑いとともに目鼻だちのはっきりした美女が現れる。
振り返った左内の目が吊り上った。
「殿まで何を言い出すんですかっ」
「え? 『くノ一お玉』『毒天女のお麗』お前が騙されて窮地に陥った女達を忘れたとは言わさんぞ。おお、そういえば『寸白の灘奴』もわしを差し置いてお前に接吻をしていたな」
灘奴が自分を振って、左内を選んだことをまだ根に持っているらしい。
おけいはじろりと横目で左内を睨む。左内は慌てて、大きくかぶりを振った。
「殿、寸白(寄生虫)まで引き合いに出すのは勘弁してください」
「あらあら、左内。何かやましいことでもあるように慌てて、どうしたのかしら。悪女を引き寄せる磁石でも持ってるのかしら、自業自得っていう名前の。ほーっほほほほ」
しなを作って、からかう殿。さすが、普段から多数の美女と浮名を流しているだけあって、女言葉はお手の物だ。
「殿っ、怒りますよっ」
「左内様」
うるんだ目で見上げたおけいは嘴を自らの白い羽毛の中に滑り込ませると、小さな笛を取り出して左内の手の中にそっと置いた。
「左内様、何かあれば、この笛をお拭きください。男癖は悪いですが、有能な鷹三姉妹が駆け付けてくれるはずです。これは強力な悪女払いになると存じます」
「おお、美鷹たちか」左内の顔が輝く。
「本当なら恋敵への連絡方法をお教えしたくはないのですが、左内様のためならば仕方ありません、断腸の思いでお預けいたします」
「おけい、ありがとう。警護が厳しい大奥でも、空には囲いが無い。彼女達なら何かあった時、私の力になってくれるだろう」
「ええい、口惜しい。この羽根に空を飛べる能力があれば……」
鶏は、悔しげに首を振る。
「おけい、私が不在中のこの美行藩江戸屋敷を頼む。奥方様をお守りしてくれ」
左内がそっとおけいを抱き寄せる。
昇天しそうな表情でおけいが、あえぎ声とも鳴き声ともつかない叫びを上げる。
あいつ、また自覚なしに罪作りなことを。左内は、殿と右京が視線を交わして肩をすくめていることに全く気付いていない。
「旦那様不在の家を守る。それこそ内儀の勤め。この身は焼き鳥になろうとも、奥方様とこの館を守り抜いて見せます、お任せください左内様」
「誰も内儀とは言っていなっっ」右京のつぶやきは、鶏の飛び蹴りで口の中に押し戻された。
「さあ皆様、そろそろ籠で出立してください。あなた方と美行藩との関係を知られれば、面倒なことになります」
いつの間にか現れた奥方様が、別れを惜しむ人々に時が来たことを告げる。
左内たちは、ここから一旦ばらばらの行動となる。人目を欺くために、各々が一橋治済によってあらかじめ出身地に設定されたそれぞれの家に行き、そこからまた別支度で大奥に入るのである。しかし、何をしでかすかわからない右京と殿の監視をするため、左内は江戸城の平河門の前で再び他の二人と合流する手はずにしていた。
「殿、つつがなく」
先日、大奥で側室でもお探しなさいと許可を出した奥方様ではあるが、心中は穏やかならざるものがあるに違いない。しかし、微塵も嫉妬の気配を見せず、あくまで気丈に殿を送り出す。
「さすが、奥方様。女の中の女だわ」おけいが感に堪えないといった風に溜息をつく。
「お前も、達者ですごせ」殿は奥方の肩に手をかけ、そっと抱き寄せる。殿の髷に付けられた簪の房が奥方の顔にはらりとかかり――。
ん。
右京、左内、おけいの視線に気が付いた殿は咳払いをして、遠慮しろとばかりに手を振った。
緑色の水をたたえた深い堀に、擬宝珠の付いた木の橋が架かっている。
この橋を越えれば、三の丸の正門、平河門だ。この門は大奥に近く、奥女中達の通用門として使われていた。
「いよいよ大奥か……」
殿と右京の籠を待つ間、左内は籠から下りてあたりを見回す。
と、その時。
白の裃を来た男を先頭にしずしずと紫色の天蓋の付いた神輿のような物を担いだ一団が橋を渡ってきた。白い着物に身を包んだ若い女性が、ともすれば泣き崩れそうになる年老いた女性の肩を抱く。
「葬列か」
いつの間にやら、横に来た殿が一団を険しい表情で見つめながらつぶやいた。
「平河門、ここは江戸城から見て艮の方向、つまり鬼門にあたる」
殿はちらりと左内を見る。
「大奥では今とんでもないことが起こっているようだ。こんなに早く出仕できたのも、女中たちの失踪、不審死が相次いでいるから人手が足りないらしい。我々はこの異変を起こしている姿の見えない敵と、戦わねばならない。それも、勝手のわからぬ場所でな」
ここで殿は一瞬言葉を止める。
「怖いか、左内」
「い、いえ」左内は一団が来た方向を見据えて低く呟く。
「どこまでも、殿のお供をさせていただきます」
「ここは鬼門中の鬼門、かもしれんぞ。覚悟はいいな」
いつになく真面目な顔で殿がつぶやく。
右京の籠が到着したのを見計らって、三人はなだらかな弓形を描く橋を渡っていった。