序
その者は古より数千年の長きにわたり、深い眠りについていた。
いや、それは生体的に見るならば完璧に死と呼べるものだ。呼吸や心臓の鼓動はもちろん、脳波も発していない。体のありとあらゆる細胞が停止している。
しかしそれは死か?
見方を変えれば死は躍動的だ。筋肉の硬直に始まり、数日後、腐敗は内蔵からやがて全身に及ぶ。細菌やバクテリアが、虫が、そして化学反応が、肉体を劇的に変化させていくのだ。
だがその肉体は少しの異常や欠損もなく、完璧な状態を維持しながらも停止している。凍結しているわけでも、特殊な液体に浸されているわけでもない。ただ横たわっているだけだ。
もちろん永遠に眠りから覚めることがなければ、それは死に等しい。だが実際そこにある体は「今動いていない」だけであって、やがて動きだす時を待っているのだ。まるで肉体だけが、流れる時の束縛から切り出されたかのように静かに――だがそれは魔法でも何でもない。紛れもなく、人知が生み出した力だった。
『科学』という、人類が頼るべき唯一の法則に従い、その者は目覚めの時を待っていた。
・ ・ ・
ゆらゆらと揺らめく金色の長髪が風に吹かれて揺れた。
揺れた?いや、そんなはずはない。この部屋は特殊な部屋であり、空気の揺らぎなど起こり得ないはずだからだ。
部屋はただガランとしていて、天井とも床ともなく全体が青白くボーッと光っている。その中央に、一人の若い男が全裸で身じろぎもせず横たわって…いや――
動いたのだ。だからこそ髪が揺れた。長くウェーブがかった透けるような金色の髪。それはまるで、神が地上に与え賜うた奇跡とも言うべき美しさだった。だが与えたのは神ではない。人間だ。もちろん均整の取れた完璧な肉体もそう。そして線の細い、美しい顔立ちは確かにピクリと動き、無表情な口元は笑みへと変わった。それが震えるように髪を揺らす。
「…フッ…フフッ……フハハハッ!」
部屋中に響く笑い。それに続いて瞳が大きく見開かれる。
「そうかっ!ウイルスはもう存在しないということか。いやいや、違った違った。私としたことが…フフッ…らしくない。変異だ。ウイルスは既に変異しているのだ」
その男は右手を動かし、自らの額に手をあてた。その動作といい、喋りといい、とてもなめらかでブランクは感じられない。ましてやそれが数千年来の目覚めだなどと、誰が想像できよう。
だがどうしたことか、その男の顔から、無表情であった頃の『神が使わしたが如き』美貌が消えた。さっきまでの奇跡のような顔立ちは消え、獣のような狡猾さを見せ始めたのだ。
「ノイマノイドの時代はこれより終わる。かつてのあるべき姿への回帰だ…」
男は一人ブツブツと呟き続ける。だがそれは、決して独り言というわけではなさそうだ。
「お前たちはそこで待機しているがいい。もう少しだ。お前たちを統べる者がくる。間もなくだ。実りの時を待て。お前たちは最強の戦士に変わりはない。が、同時にもろさも合わせ持つ存在なのだ。――フフッ、もっとも…見た目ほどではないか…」
一瞬、男の顔が淫猥に歪む。男は確かにこの部屋以外の何かを見ていた。
「そうだな。3人ほど私の部屋へ入ってこい。その儚き肢体を我が手に抱くとしよう。フフッ…少しは人間へ近づけてやる…」
言葉を終えてもなお残る笑み。
やがて一時、男の顔はさっきまでの無表情に戻った。いや、少し違う。何かを思い悩み、沈んでいるようにも取れる。だがすぐ再び目を見開くと、その顔はやはり獣のように狡猾に――だがそれだけではない。男の顔とでもいうべき顔が、そこに確かに存在したのだ。無表情な時にはあり得なかった、人間としての美しさ、汚さ。それらをひっくるめて、人は野心と呼ぶ。
「おぞましい。ウイルスと共生してなお生き残る半ノイマノイドなど…」
その拳はワナワナと震え、誰に対してでもなく、ただ自分に言い聞かせるように男は呟いた。
「取り戻すぞ。私の理想を…」
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