Count.1.20 見えない犬
数秒の沈黙を破り、マキが毅然とした態度で口を開く。
「……。無理なのよ。葉月くん。」
葉月をはじめ、4人が一斉にマキに目を向ける。
「……この二人には、あの犬が見えていないわ……。」
葉月は何も言葉が出ず、ただ力無く視線を落とす事しかできなかった。
陽は耳を疑った。いや、もしかしたら聞き間違いかもしれない。しかし、自分の耳だ。ごまかせない。『2人にはあの犬が見えない。』マキははっきりとそう告げた。信じられない。信じたくない。
「……。ちょっ…。何言ってるんですか?オレらをだまそうとしているんですか?からかっているんですか!?」
マキは何も言わずに陽の眼をじっと見続ける。
「だっ…だって…そんなのっ………。ねえタカシさん!?」
タカシは陽に背を向けて目を合わせようとはしなかった。かすかに肩が震えていた。
「なあ…ユリさん……!?」
「……………。」
「ユリさん……!!」
「……す………せん………。」
「えっ……?」
「すみま…せん……。私たちには……見え…ません……。」
「…そ…そん…な…。一体……」
「陽くん、落ち着いて。」
陽は勢いよくイスから立ち上がった。
「落ち着いてなんていられません。意味が分かりません。全然分かり」
「陽っ!!落ち着けっ!!」
陽とマキは少し驚いた表情を見せ、葉月に視線を移す。
葉月は真っ直ぐな瞳でオレを見ていた。手が少し震えていた。オレだって同じだ。でも葉月はきちんとマキと、現実と向き合おうとしている。大人だ。オレにはできないよ…。
「……病院でオレが言った事、忘れたのか?」
「…えっ…」
『あの人を信用しろ。
あの人に着いていけ……。』
「……葉月……。」
陽は目を閉じ再びイスに座る。
「マキさん。話を聞かせてください。」
“葉月くん……”
マキは一呼吸置いて話を切り出した。
「………あの犬は、もう亡くなっています。」
「えっ…!?」
陽と葉月が戸惑いの表情を見せる。
「近所の野良犬だったんだけど、私が餌をあげているうちになついてね……。だから今もこうして私の傍にいるのよ……。私の事を護ってくれているらしいわ………。」
不意に見せたマキの微笑にはどこか哀愁が漂っていた。
「必然的にマキさんにもこの犬が見えているんですよね。」
マキは陽の言葉に何も答えず、一瞥すると話を続けた。
「ある日、私が偶然ハンカチを無くしてしまって…困っていた時、近くの草むらに落ちていたらしくて…その犬が見つけてくれたの………。すぐに届けてくれようとしたのね……。車が来ているのに気付かずに、飛び出しちゃって……。きっと…私の喜ぶ顔が…早く見たかったのね………。」
犬は寂しそうな声で鳴きながらマキの足元にやって来て座り込んだ。
「そうだったんですか…。」
葉月が憂いを秘めた眼で犬を眺める。
「………?陽くん……?どうかした……?」
そして一人、複雑な表情で考え事をしていた陽がついに口を開いた。
「………マキさんはその犬が見えていて、タカシさん、ユリさんは見えていないという事は分かりました…。では……」
緊迫した空気が流れる。
「……どうしてオレ達にも見えるんですか……?」
今、運命の歯車が廻り出した。