未踏 14号 「存在と意味」
存在と意味
私は誰知られることもなく、目をもち、耳をもち、今を存在している、一つの時間、一つの空間を映し、在るこの私は、も早それだけで世界、銀河のこの地球の片隅で、存在者の意識をもって存在する、私という者の存在、この私の存在とは、意味を問うようなものではなく、人に考えられる永遠と同じように、存在の器、私の存在とは、その永遠の時空間のこと、魂といえど、私の意識に存在していくものは、全て存在し、時空間と同じように永遠で、私の目、耳、心、私と宇宙を繋いでいる所の、感じられ、考えられる、存在と永遠と、何ら変らない、私という者の存在、
存在と意味
私は誰知られることもなく、目をもち、耳をもち、今を存在している、一つの時間、一つの空間を映し、在るこの私は、も早それだけで世界、銀河のこの地球の片隅で、存在者の意識をもって存在する、私という者の存在、この私の存在とは、意味を問うようなものではなく、人に考えられる永遠と同じように、存在の器、私の存在とは、その永遠の時空間のこと、魂といえど、私の意識に存在していくものは、全て存在し、時空間と同じように永遠で、私の目、耳、心、私と宇宙を繋いでいる所の、感じられ、考えられる、存在と永遠と、何ら変らない、私という者の存在、今、人魚伝説がわかる、あれは一度死んだ者が蘇り、存在の喜びを歌ったものだと、人間の世界に憧れた人魚とは、死者のこと、人間世界とは、存在のこと、健康が人と世界を結びつけていただけ、病気は世界との無関係を思い知らせるばかり、病んだ一個の私は世界そのものとなり、人間世界は部分となる、かぐや姫もあの世の、死せる者、この世の限定された人生、生きることの憂欝、人の心象風景、鶴の恩返しにしてもそう、社会の中に生きてはいるが、私と貴方という二人だけの世界がそこにはあり、電車の中で抱き合い、見つめ合う二人のように、その二人とは何ら社会的存在などではなく、個人的存在を生きているのだった、世界は意味だけとなって、人が自殺者に貼るレッテルは、背涜、逃避、敗北、それでもどうして自殺をと、ビルのフェンスを越えて一人立つ時、これから後生きていて何の意味が、愛した者が、愛する者が、縋り、死なないで、一緒に生きてと、その言葉はこれから先を、一瞬考えさせはするが、一人で生きようとする時、これから先何ほどのことがと、いずれ死ぬのに、何の為にと、今、不安が、自己を守れない不安、自己を貶めるような苦痛が、生きようとする心を挫く、耐え生きている者、たとえ励ましを与えてくれても、も早私を私で守ってやれないことが不安、私を守れない者に世界など、今や私は空の上から見、虚空に向かってしゃべっているだけ、人とは語っていないのだった、自身と石に語っているのだった、君は今日も耐え生きている、君は私一人の死を悲しんでいる、私は生きたかった、私は歌う、私は無念と、殺された者の声が聞こえ、それでも私は去ろうと、意味を何によって回復し、死を何によって忘却出来るのか、今、人の生命が挑戦を受けている、私という生命を慈しむ行為へ、私が私の膝を抱くようにして、私の生命を生き始めねば、世界のあそこ、ここで、それぞれが挑戦を受けて立とうとしているのだから、私の生命は何より自身で守れてこそ喜び、なのに今日この秋の日に、旅立つ者があり、落日が台所の隅まで射しこみ、世界の悲惨に対して、何かをしなければと人は共鳴し合い、急かされるように、関わり、行動していき、生きる意味、理由は見つけているのだろうか、確かに意味は感じられるのだろう、人に求められていく自己、人に喜ばれる喜び、しかし、それが時として忘却に感じられるのは何故なのか、何か人の為、社会の為以外の何か自己の個的なものが求められ、存在への疑問が心を横切り、自省の時を抱き、あと十年を何かの為に尽くしても、それで何かが解決されたと感じられず、ただ私を忘却していくだけ、一体、この懐疑とは、人の本質的なものなのか、自己の責任で死んでいくとしても、しかし、それまでの生きていく理由は、意味は、意味は解らなくとも、喜びの時があり、例えば、万年青の緑と白の縞模様の美しさ、散歩の時の落葉の様々な味わいのような、国、社会、世界に迄は、私の責任や義務は負えない、出来ない、せめて家族の範囲での、彼等が私の自由死を、止めて欲しいと言えば、生き抜くことに成る、私の今の予定死ではあるのだから、彼等と掛けがえなく生きて行く、私は生かされて在るのだから、生還した私は、も早、死にゆく人と同じように、人や社会と違った位相を生きているのだから、求められる人生の虚構化は疲れる、私はたった一人の私でいいのだった、見る私、見られる私、そしてそれらを見る私などと、私は一人に完全になりたいのだった、私は私自身であると、今や世界は人の庭と化し、もはや文学が虚構を描く時代は終わったのだから、虚構の人生になってしまった現代にあって、人が人に励ましを与えられると考えるのは、人の幻想にすぎず、私対世界の一対一の関係だけが、人が人として生き始めることであり、フレデリック.バックの木を植えた男のように、一人の人間の可能性と、一人という人間のもつ意味を、一人で木を植え続けたということ、砂漠を緑の森にしたいという一人の人間の意志、自然と共に生きようとする人間が、その自然を自らの喜びのために、生涯をかけ、鳥や、虫と、共に生きたいから、喜び合いたいからと、人としての役割を果たしただけ、これが人に課せられた使命、そして、この一人の人間とは、自然からすれば、神にも勝る能力を与えられているという、そして人の死が、それら自然の中で、迎えられる時、それが自殺であろうと、事故死であろうと、自然なものであり、死は人に必要なものであり、けっして無でも、悲しみでもない姿として、大自然の、厳しい、しかし優しい、一人対世界の、納得される姿がそこにはあり、生と死の意味はそこにあっ間の埃、床の上の微細な塵芥、ジュータンの髪の毛、私の目に映る世界はこれだけ、そこに私は私の存在の影を見る、これらも時だ、私亡き後も、これら埃は在るというこの確かさと、私というものの頼りなさ、光、またたき、浮遊するもの、埃、塵芥、それらよりも確かな私というものへの希求、叫び、呪いが言葉となって、時として訪れる無意味、他人も自分も、全ての存在が、俄には信じられず、共感はあっても、それは一時的なもの、自分が信じられないのに、他人や世界がどうして、生きていることの空虚感、生命の終了意識、も早、期待と驚きもなく、惰性の中を生きていることの無意味、かつて社会や人との関係で、私の意味、価値は了解してきた、が今、それらに投影出来ず、個的な、一回性の私の意味、価値を探らないではいられず、狂うかもしれない、頭が回転しなくなるかも知れない、生きたくなくなるかも知れない、全てが詰まらなくなるかも知れない、という予感が、て初めて、自然裡なこととして理解され、私が生きている理由を述べるなら、妻子のため、犬のため、万年青ため、否、実存開明、一寸先は闇、死はいつも目前に見据、瞬間を生きているだけ、偶然に助かったのだから、私はも早存在することだけで意味が与えられ、私と世界という一人の感覚があり、いつ死んでもいい、そして死ぬときは自死でと、それでも尚、私の生きている意味はと考え続けているだけ、世界に金と石コロがあり、がこれは人に於いての金と石コロであって、存在に於いては共に等価値の鉱物であり、存在であり、私の存在意味とは、これら無意味の意味、石コロの存在意味を考えることであるのだった、狂人に備わる、人間の超越した姿としての、存在意味のように、障害者にも備わる、障害を通して発見される、意味の伝達者としての使命、障害が特別な能力であるような、価値意識をこそ探究したいのだった、私が腰痛に耐えかねて、台所にうつ伏せる、冷蔵庫の隙私を困難に、人を喜ばせることで、私は私を喜ばせることが出来なくなっている、意味はない、目的はない、しかし生き続けなければならない、目に見させるために、耳に聞かせるために、手に書かせるために、足に歩かせるために、頭に考えさせるために、私は生き続けているだけ、出した手紙の返事がこない、出そうとして出せない手紙は、重くのしかかり、十年が長い一日に、春よ来い、早く来い、四月になれば、あれをして、これをして、私にも意味が訪れ、雪割草はもう咲いている、私の自由、無重力ということ、どこへでも、何にでも成れるではなく、重力にも似た社会的な規制や定義を感じないで済む心ということ、かつてこれらを主観的と排除してきたが、今や、私の主観において、これらは実感されているのだった、無いものを惜しみ求めるのではなく、在るものを喜びとする心の状態、社会が個人において成立していくとするなら、また社会が個人によって生きられるとするなら、この感情で充分であると、私の自由、私の無重力へ、孤独はない、越えた、ただ、ある虚しさだけ、淋しさなどない、この喧噪の中、あらゆる出来事は、私を生きるという課題の前では無化された、あらゆる出来事は、社会的関係から発生し、これらを個人的関係に変化させた時、全ては無化され、私を生きるという現象が起きた、これが無重力ということ、新聞、テレビは見たくない、作品も書きはするが、人に見せたくない、人との関係は、社会的部分の個人には、無人格化して付き合うだけ、私が私を生きるということが、やっと出来てきた、様々な不安、不満が、社会、私に取り巻き、私を生きるとは、これら社会を私の根源において、捉え、関わることであった、末期の眼、極限の眼、奇跡の眼、一回性の眼、長い一日としての眼、去るべきこの世としての眼、ブンのこと、木のこと、空間、時間、存在の意味が真に書ける日がくるかも知れない、私の生きる意味を見つける必要はない、私が生きるとは、何ら意味ではない、意味とは社会的関係のことであり、私個人においては何の意味もない、ただ生命が感じられるだけ、意味とは社会が、社会的関係が私に求めているだけのもの、存在としての私においては、木、犬のように生きている事その中の意味、喜びも、悲しみも、虚しさも、存在に対してただ備わったものとして、ただ意識される私の生がそこには在り、雨の中を散歩しているのだが、歩いている時、思考と瞑想、世界との一体とを、これほど感じることはない、カントが日に三度、同じコースを生涯散歩し続けた理由が、この散歩の中に全てが含まれてあり、人は本来、誤るものであり、人以前のアプリオリなものが、存在する事の証明をしたカント、良心の存在、実存の扉、確実なものの否定、私に於いてアプリオリな喜びとは、家族、犬、植木が元気、花が咲いているなどなど、日常の当たり前なもの、この当たり前なものへの喜び、これが私のアプリオリなも、もし縄紋時代に私が生きているとするなら、私は社会、文学への関心、そこでの意味などより、縄紋時代を味わい尽くすことをするだろう、意志とはその存在を味わうことであり、アプリオリな感情を何より大切なものとして、生命の意志に忠実に、知識などではなく、知識など会話の楽しみの道具にすぎず、相手と向き合って話すとき、相手を共有しようとするとき、知識はなんの役にも立たず、死ぬとなれば、何ら神秘も不思議もなくなり、社会も文学も、必要ではなくなり、死ぬまでの私の生きる理由としての、妻の、子の、犬の、植木の、友人らの行く末などの興味、世界は次々と難問を抱え、が、何の変化も示さず、政治は政治のしたい事をするだけ、私は私のしたいことをしていくだけ、私対世界ということ、他人、社会に私を委ねないで、誰かがやっている、誰かが生きているでは、私対世界の意味は失せ、世界が彗星一個によって、消滅する事実を知っていて、神を絶対視する人間の存在など、神とはもっと無限のもの、普遍の、イデア、アプリオリなるもの、私の生きる理由とは、これら人間存在などに関係なく、私が私を生きる中に、生きて何をするかは別問題、社会、他人との関係などなく、私を生きるとは、どのように生きても私を生きることとなり、私対世界との関係で自死を捉え、それであって初めて世界に意味が生まれ、世界の現実に対しての抗議の死とは、人の群れ意識の中でのこと、それは組織と個人の問題、私は私の死を、強い所有意識でもって捉え、社会にけっして委ねないで、人に自死の決意があって初めて、主客一体の感情は生まれ、生きる理由は、私と世界となり、世界を私が、植木のように世話する、育てるという、義務、好き、という自然な感情に、地球は生きている、そして生命もまた、一日の生命、七十年の生命、どれも永遠の前では一瞬、何の差位もなく等しい営み、だとするなら、人は、生命は、充分に生きることだけが意味なはず、充分とは存在との一体、共感、生命の喜び、記憶が人間の特質だとするなら、人間は記憶を最も大切なものとしなければならない、良い記憶、良い経験、記憶の発見、再構成、記憶の探検実存を知ったのなら、生き始めなければならない、犬のように、草木のように、彼等実存の超越者なのだから、人は実存の此岸だが、彼等は彼岸を生きている、世界を実存的交わりの場ととらえ、出会うこと、世界は私の扶養家族だと、朝が初めて綺麗に見えた、涙が出た、十時、レコード掛ける、エンヤ、レノン、マッカートニー、息子が綺麗、とても綺麗と言う、夫が怒った、ポールが好き、ジョンは嫌い、煙草を吸い続け座って聴いていた、十三号読んでいた、エンヤは怖いと子供が言った、四時四十分、夫が降りてきて、パバーヌを聴いた、変化していない、五時八分、犬を散歩に出す、五時五十分、末踏読んで、シャワーに入って、ゴミを出して、花に水をやって、九時にコーヒー入れて、また椅子に座って読み続けた、十時五十六分に読み終わった、エンヤを掛けて欲しいと夫が言った、お茶を入れたりして、今電話をかけたところ、ケルトの人で、ふっと考えていたことが、意味が、言葉ではなく、言葉から解放してやろうと思ったの、センチになって、夫が顔を見て安心と、エンヤもう一度かけてと、かけて、何を話したか、優しさ、曲が言っているの、ちょっと待って、わからないの、曲の中に入っているの、先週の木曜から何も手につかない、うーん、ちょっと待って、サラエボのヤドランカという人なの、ピュリアッツ賞のカメラマンが自殺したでしょ、パバーヌを聴いていたのそしたら、突然震えだし、止まらなくなったの、今なら死ねる、もう生きてられない、苦しい、息が詰まりそう、君は一体どんな交わりを私と持とうとしているのか、人生について、文学について、どのような最前列を求めているのか、一度孤独を味わった者は、再びは連帯の中では死ねなのだった、君は私のことの何か一つでも知っているのか、返らぬ答えに、独り歩むだけ、人と手を繋いで輪を作るように、共感し、心が淋しさを乗り越え、求めあったような、いつかの健気な心に戻れたなら、君の誠実さ、君の涙は、宝石の涙だった、私は君と共感しオルフェウス合奏団が、奏者が共感し合っていて、集うことを楽しんでいたように、自然さ、優しさ、素直さ、指揮者によってコントロールされたハーモニーではなく、自発性のハーモニーがそこにはあり、オルフェウスとは民主主義の形、組織ではなく、人々の自由な、求め合う者どうしの集い、彼等のパバーヌ、一人一人の心で喜びを伝えていた、あの心のような共感なら、君の赤裸さ、あれで充分な姿ではあった、死の間際、「死なないで」と、あの涙声に出会ったら、私は死ねないかも知れない、いつかのように、街の通り、ビル、人々との出会い、日常の、神秘と、共感、自己の探究においての意味が蘇る、自死によって、生きる理由は見つけたはずだった、死ぬまでの喜びは、日々刻々を生き、が、一体、私に生きている意味というものが成り立つのかが疑問だった、そこへ「死なないで下さい、生きて下さい」と、ただの共感ではない、もっと積極的、根源的な、私の意志としての生きる意味が求められ、人のために書く文学など私に何の役にも立たない、が、世界の自殺者に向けては書きたい、死なないで欲しいとの思いはある、君が私に向けてくれたように、私が人に向かって「死なないで下さい」「生きて下さい」と、そして「貴方を愛しています」と、イエスがマリアを讃えたように、その位置で最良を生きる者は神なのだと、文学とはそうしたもの、自殺者、それはイエスと同じ犠牲、あがない者、私の言葉は、私のあがないでしか報われない、イエスもそうであった、言葉が生命と、死に繋がっていた、私が神の恩寵と繋がった、自分の体を自覚して、この指から、この口から、この目から、君にこの恩寵を与えんと、私は言葉でもって、生きてあるここにおいて、それを行おうとしている、次々と死んでいく人々、いたし方ない、求めよさらば与えられんなのだった、求めた者には与える、求め続け、生涯をかけた者には、最高の恩寵を与えんと、「心臓がドキドキしてくる」、「冗談だと思ってたことが、本心だったと気付かされて」、「眠れない、夜中に突然に目が醒め、苦しくなる」、女の愛というもの、男の愛の持つ意味、今の私に女なんて関係ない、何も信じてはいない、私の作品を読めば、自分自身を発見するだろう、もう一人の自分を、それだけのこと、そこに愛など成立しない、私が、ローザ、ベイユ、etc、の女を考えるのと同じように、人間への考えがそこにはあるだけ、実存とは一人で、単独者で生きる道なのだ、淋しかろうが、悲しかろうが、そうしたものなのだ、そこからしか、不条理への闘いは始まらないのだし、闘い続けられない、忘れられる者は、忘れた方がいいのだ、作家とは忘れられない人間なだけ、感じる者、論理の人ではないのだ、私が到達点を作品化するとは、愛、日常、現実、肉体、etcの存在からの浮遊、離脱や解脱などではなく、また消滅などでもなく、生きる限りは浮遊、自在を、生は自死で以て、意志、意図の中で完結しようと、明確な意志と囚われない心で以って生きたいと、綺麗でもなく、美しいでもなく、ただ可愛い存在、性を意識しないでよくなっている、木や草に接するように、いま女が眺められる、今や愛されることなど、必要ではなくなっている、ただ存在が、これは、一人に、絶対的に愛されていることの意識によるものなのか、もしそうであるのなら、君の言ったことは当たっている、代用ではない、必然と、必要において、愛されることによって、人は生き、意味を感じると、「我が子を可愛いがることができなかった」「魂の本当の話を出来る男を求めていた」、君から学ぶものとは、青春とはストイシズムであって、大人のアンニュイからの実存ではないのだった、泣いて私の手にゲロを吐いた女、「手に入れられたら終わりなんです、手に入れられないから良いの」と、癒されない魂、裸の魂、傷ついた魂、剥き出しの魂、君に無償の愛が持続できるだろうか、マリアの、カフカの、魂の葛藤に耐えられるだろうか、もし耐えられず、共通のテーマとならないのなら、形式だけでも試してみよう、肉体と精神、けっして肉体に支配されない精神というものの確認を、「性愛とは一回でいい、死ぬ時でいいの」と、フォーレのパバーヌ、その私が歩んで来た、困難な道のりを表しているような、涙が、G線上のアリアとも、主よ人の望みとも違う、私そのもののように聞こえ、そよぐ風のような、さざ波のような、追憶、過去、記憶が蘇り、女とは愛する存在なのだろうか、我が子への愛のような、しかし、我が子とは違った、所有されることのない、永遠の愛を求める存在として、だとするなら、リルケは正しい、ナジャのような女、神の絶対的な愛、恩寵、多くの人がかつて感じたもの、この絶対的な愛の確認が、天国と永遠を意識させるのだろうか、君の愛は信じられなくとも、神の愛は信じられると、人の絶対への憧れが、そして何に憧れていたかが今解る、愛の絶対性というもの、泣くなら泣け、私の自在な魂を愛せないのなら、仕方がない、もっとしなやかに、一ケ月先を考えて、私の病気を今考えるように、私は感謝されこそすれ、恨まれることなど一切無い、君に日常が私との同時性において捉えられるなら理解でき、あれは未だ、人を愛せない魂なのだ、無垢なるもの、君には要求する、責任と義務とを持つ立場にあって、君は怠惰だと、共感、掛けがえのなさ、同時性、時空への存在において、僕は昔と何も変わっていない、あの感情をちゃんと保持している、君は泣けるか、今の自分を泣くのではなく、あの頃の自分の、渡り廊下で、うつ向いて地面を眺めていた、孤児の顔が、焼きついて離れない、記憶が意味をもって蘇る、波のように、繰り返す、全ての意味となって、文化、芸術、あらゆる存在が、こんなことってあるのだろうかと、全ての困難は私のものに、君に礼を言いたい、感謝したい、君は私を選んだのだ、責任をもって、最後まで仕事をして下さいと、男の胸でお前は泣いたことがあるのだろうか、その淋しかったこと、悲しかったことを、お前は抱かれたことがあるのだろうか、あの魂の赤裸さは痛々しいよ、自信をもって愛は告げること、失意を恐れて、オズオズと告げた君、全ての意味は、愛のために人は死ぬべきと知り、私は人に顔を見られたくない、「君は生きるに値する」、病院の廊下に掛かっていた額の言葉を君が、「私にとっての意味の全てです」と、世界の、チェルノブイリの自殺者を阻止する答えが、キルケゴールであり、死に至る病、マルクスの資本論であったのだが、今、私個人の生きる意味が問題、エゴでも何でもいい、私の生きる理由が欲しいと、泣きながら「私は罪なのでしょうか」「私は間違っているのでしょうか」と、「でもどうすることも出来ないのです」と、あの正直な魂の、健気さの、本能的に人の不条理を、生の一回性を捉えた、あの真摯さ、懐疑することの真摯さ、不条理を原点で見つめ、異邦人のように、ただものをはっきり見、感じるだけの魂、明白な象徴としての存在、意味を求めて世界と出合った、感じ合った人間、どこにも住むことのできない、空中を浮くことだけの魂の存在、人は人の愛、神の恩寵でしか救えない、たとえ人は忘れていても、幼少期、または存在において人は、恩寵の記憶、または希望があるから、生き続けるのだった、生きなかった者は、死んだ者は、生き続ける者への犠牲だ、サクリファイスだ、映画サクリファイスの主人公、マリアの膝に身を投げた、しかし発狂した、連続した愛が必要だったのだ、人の愛は不連続、神の愛も受ける人間によつて変化、仕方がないのだ、愛がないと人は生きられない、徒労感、無意味、一度死を考えた者にとって、死を乗り越えさせるだけのものが得られないでは、それが愛、義務、生きる意味でなければ、死は、非日常は、人をあれほど人らしく、優しくするのに、アルメリア地震の映画、伝統と、抵抗の歴史をもった民族が、天変地異によって、祖国、暮らしが破壊され、生きるアイデンテティを失い、虚脱感、アンニュイに、損なわれる世界の不条理、不安、絶望感があって、日常が、詩情をもって描かれていた、非日常こそが、日常を焙り出し、存在感が在り、濃密な2時間、息苦しくなるほどの時空、死が自然と一体となって、エイズ患者が、十人十色の生きる理由をもつように、人は病気、不幸に見舞われれば、いとも簡単に、自分の生きる理由など見付けてしまうのだが、チェルノブイリの人々、12万人が自殺など病死しているという、そして四百万人が後遺症で苦しんでいる、この世界の内にあって、もう一人の自分がいると実感することの喜び、「永遠なものを愛す」、「所有出来ないものを愛す」、リニアモーターカーのように私は、地上を浮遊しているのだが、磁力線のように、思い、思い返されて浮いているのだった、私は自分の作品を読んで泣いた事がある、だが本当に淋しくなった時、石を抱く、けっして人ではない、石、石と語る、犬は人に近い分だけ、狭くなる、文学のテーマとして、君が言う「生きて下さい、死3ないで下さい」は追求する、そして、そこに生きていく理由が見つかったなら、文学はやめるだろう、そして死んだように生きるだろう、同時性とは、私の時間を生きる者が、この世に居るということ、私の時計を持って、私の時間を共有するために生きている者が在るということ、愛の重さとは、人の実存、直感、人も生物であるのなら、生きている意味は、自らの中に在るのはず、あのチョウ、あの犬のように、私が君から学ばなければならないものは、愛するということ、現実生活の、愛するという一般的な姿を通して、私は愛を、全ての物に、等しい愛を、犬も、万年青も、妻も、友人も、私の等しい愛の部分として、ひたすら待つブン、良い子で待つブン、可愛いいブン、記憶を捨ててきた者とは違った、記憶を私と同じように、持ち続けてきた、ただ囚われ、未だ自由になれていない者、私は誰のものでもない、私は誰も愛さない、引き裂かれない、しかし、全て愛す、人生に不思議の部分を持ち続け、重さ、深さ、明晰、綺麗より可愛いいが好き、遠くのすばらしいものより、近くの何気ないものが好き、自由とは、どこにでも、何をしてても、誰といても、心地良い心の状態、無重力ということ、誰も好き、皆好きという感じ、特別に君がというものではない、いつだって、全部捨てられるこの心の状態、私の自由、生きる意味は、不幸の程よい連続の中で感じ、不幸は待つもの、期待して待つもの、どの位の贈り物がくるのかと、最大の贈り物は死だが、何で神は再び私達に試練を、それはきっと私のために成された、更なる幸福を約束する為、試練の後の喜びの為、左肺尖腫瘍影これら形而下の問題、そして現実の生活の問題、これだけで人は充分に生きる意味を感じられ、理由があるのだが、ほとんど理由は、これだけなのだが、更に何かをと、私は探っているのだった、これら現実、日常というもののもつ、魔性、人を貶める、惰性というもの、日常とはそうした不安以外の何者でもない、異常も、正常も、全て飲み込む、生命の母なのなっだ、もし真実を発見したのなら、その場所で、その時を愛して生きなさい、けっしてその真実を、君の青い鳥を手放さないように、死ぬまで抱いて生きて行きなさい、忘れた時は死です、私はもはや、誰からも愛されたくない、私を真に必要とする者を愛すばかり、その人が望むのならば、私は何でも、生命でも差し上げるつもりです、肉体など一体何になるのか、欲しい人はどうぞと、私は男娼にでもなって、聖書とは何と人間臭いものだろうか、仏典とは何と形而上的なのだろうか、二つのこの世の花、ユリと蓮のように、私は君の為に泣いたのに、私は君の不幸に泣いたのに、君は何も求めてはいない、押し売りなどするつもりはなかった、初め私の死に、私の不幸に、私の喜びに共感し、自分を発見し、途中、変化、その時、全て捨てなければ得られない、不可能性を知り、混乱した、未だ罪は知らず、私の声が、瞳の色が変化するのは、私が未だ生きる理由を確信してはいないから、真に無償性の内に生きてはいないから、人は死を愛して発狂はしない、人を愛して発狂するのだった、ガルシンの赤い花、あれは人の代用、良かったね、愛が発見できて、幸福が足元にあることが解って、しかし、私にはまだ、神への可能性が残されてあり、君も無関心、私も無関心、死んで行こうとしている私にとって、無関心だけが救い、聖書の意味、やはり生きていく上で、究極ではある、生きて下さいと、叫んだ少年の日の私が、記憶されてあるから、その私が私を活かしていけるのか、ずっと自死というものを意志していたのに、一瞬現れた生きる希望、意味、必要、今また失せようとし、再び探すのは疲れる、私は何かから解放されるために、求めてきたのではない、解放はもうとうに、少年の日に終わっている、ただ私の意味を求めてきただけ、癌患者どうしの、エイズ患者どうしの、いつかエイズの少女が、世界のエイズの子供を励まし、一人の男の子の死を悲しんでいた、少女の愛を今知る、人の愛に生き、愛に死す方法が、ボバリーは私だと、自死ではなく、心中ではなく、樹海に二人で入っていくような自然なイメージの、元気なうちは一緒に存在しているだけで、最後はワゴン車に乗って旅をして、万年青も、文学も、一緒にやって、自然が自然なものになって、特別な一日でも、特別な存在でもなく、あたり前の花や木に変化して、昔、君の愛を知った日、輝き、讃えた、しかし、今讃えることなど必要はなく、当たり前の一日の中に、君は他の理想される男を求めなかった、自分の力の及ぶ範囲での、否、生命を捧げてもいいと、直感したところの、私という男を選び結婚したのだった、私もどこかで、そうした生命的直感が働いて、処女と童貞の結合であったのだ、それがあって今が考えられるのだった、名誉や、地位が必要なく、私の為に死す、生き存在するだけとなり、全てが自然なものに、性の充実が、生の充実に、鴎歌へと、毎日、平等に、自由に、女は考えるのではなく、感じるの存在だと、あそこで、あれで、日々いつ死んでもいいと、毎日あの時、あれだけあれば、何もいらない、財産、知識、健康、etcはこうした感情が得られないと知った女の代用品なのだと、生きものたち、毎日、毎時、愛死を生きているのだった、昔見た映画で、妻を失くした男が、再婚し、以前と同じ生活を送っていく話しが、今よく解ると、末踏を読んでいて、子宮がジーンとしたと、私は最愛の者を失うことを通して、自死を決意し、一人に戻った、末踏何度目か読む、私が掴んだものを再確認する、人は何れ日常に帰ると、一度味わった、愛の不在は大きい、そして、掴んだ精神は物質と化して、私は十年を生きていて、五十才でいいと、私はやはり癌を生きていたのだった、不安を生きていたのだ、誰からも、何事からも自由でいられることを目指して、朝、人が、犬が、早足で歩いていた、何だろう、この光景、彼等死んでいるよう、彼等の健康志願、草や木、生きもの、物達、彼等何だ、何をしているのだ、いったい君等は何者なのだ、私だけが意識存在だなんて、私だけが全宇宙だなんて、神と繋がっいるではなく、私は神なのだとは、全能なのだと、意識とは全能を意識させる、山を動かし、海を割る意識、意識とは、宇宙の剥き出しの生命、私も朝、スポーツをしていたことがある、会社勤めも、バス停で待ったことも、が今、私はそのようには生きない、何者からも自由な、自在な、存在に対しても、も早何も見ることの必要を感じない、あらゆる出来事、存在に締観、私の意味とは、イエスと同じ、物事を確信的に語るだけ、私を誰も十字架には掛けない、イエスの喜びもこの確信の中にあったのだろう、否、私はもっと自由、誰も私を求めてはこないし、私に意味はない、私は私を抱くだけ、イエスのように、私が犠牲となって、後、復活する必要もない、彼がやってくれたから、私は自由に、死にたい時に死ねばいいのだった、ブンにとって死が何でもないように、私にとっても何でもないものに、出来れば、春風に寝て、新緑の中でと、今、君との柿田川、笠間、etcが蘇っている、生きる理由が、日常を愛することに変化し、君に向き合い、君は私に向き合い、女は、向きあってくれる男のためなら、死ぬことが出来るのと、理屈抜きで越え、そのことだけで生きて行けると、私を子宮で感じるという君、日々、変化、発展していく君と生き、学び、味わう、こうした生活の中にこそ永遠性を見、互いに向き合った中にだけ、世界が開かれ、探究の対象が人間、君だから、終わりということがなく、きっと死ぬときに、それまでの二人が現れ、生きて来たようにしか人は死ねないのだから、君が私の地平まで登ってきてくれたことが嬉しい、大変なことだと諦めていたのに、毎夜、セックスが戻ってきて、全ての芸術が愛に満たされていないから、創られているような気さえし、これは最後の闘いであり、日常、死との闘いに於いて、闘っていないで、グチッテばかりいるような芸術に何が、君が一度味わった感動は元に戻せないと、一緒に死ぬと、女が死を覚悟した事の、普遍の輝き、何も怖いものはないと、音楽が、テレビが、新聞が、人が、何も必要ではなくなった、学びたいのだった、感じたいのだった、考えたいのだった、何も欲しいものはない、青春の日、君も私もいつもこうであった、エミちゃんであり、山口君であった、私が万年青以外の植物を愛する必要がないように、君以外を愛する必要がないということ、充分に満たされてあるということ、同世代の夫婦が、本当には生きていないと思えると、でも、若い夫婦には愛があり、生きていると、私達は青春の何一つ失ってはいない、付け加わえたものは一杯あるけれど、そう言える日々、あの恋人は、あの夫婦は、どれだけ愛し合っているかと、一目で解るようになったと、鈍行列車で、和朗と二人でどこまでも、乗っていたいと、一人でコーヒーを飲んで、一人で仕事をしていて、和朗のことを考えていると、とても楽しいと、柿田川、常滑、全て今日の日を迎えるために在ったのだと、これが、この日常が欲しくて、私は意味を探っていたのだった、いつかテレビで見たアフリカの大地溝帯に残る、三百五十万年前の人の足跡、母と子、少し離れてもう一人の大人の足跡、家族を作り始めた人の歴史の一こま、人が一人を見付けるというこは、全人類に繋がるということ、一人を見つけられないなら、不安、倦怠、無意味が、付一人が見付けられれば、いつ死んでもいいのだった、肉体的にも、精神的にも、向かい合うという、人としての最高の存在として、君が今、私が今、向き合うという行為を通して、最高の精神を、魂を発露するのだった、愛する者に高低はないのだった、以前は性も愛も、依存、溺れた関係であった、が今はどちらも学ぶ対象として、意味を確かめる行為として、愛しみ、味わい、一体のものとしている、誰にも話すことはない、二人の大切なもの、基本、大地、君が自然と向き合う、人と、宇宙と向き合う、そして私と向き合う、そんな君に、私が向き合う関係があったなんて、三百五十年前、猿が人になった瞬間の感動でもって、人を見ることが、世界を見ること、真善美、愛、etcの話など飛んでしまう、感動そのもの、驚ろきそのもの、昔よりずっといいと言う君、青春の感情、感動をそのまま残し、大きな何ものかの感情が得られ、青春はただ世界を無批判に賛美するだけだったが、今、この感情は何ものかを判断し、けっして裏切られることのない、永遠なものの発見があると、顔、慈愛を増し、ただ一点、私以外は求める必要もなく、私もまた、五月の涼風に、彼等生きている、いつ死んでもいいなあと、そんなこの季節、私もやっと、何もしないで良くなった、君と私と、今少しの時間さえあれば、何もいらないと言え、意味が全部解り、永遠の青春が蘇り、心の中を今流れていると、君とのこの二十五年間、いや四十八年間の悉くを思い出す、時々の、表情の一つ一つ、今生きている君と一緒に、それらを思い出すことが嬉しい、心に最高を、手中に最高を所有しているということ、これ程共感し、良い悪いを峻別できるものだったのか、君から学ぶこと、女から学ぶことは多い、君がアイーダーを聴いて、瞬間理解したように、飛翔の凄さ、真っすぐ私の瞳を見てくる、男の子がいて、私も見ていたら、一瞬、ニコリと笑いたくなった、そしたら、その男の子も笑い返したと、和朗は散歩のとき、自分から抱いてこない、手を繋いでこないと、夜の散歩の時、私は自分から君の肩に手を回した、そして、衿から手を入れ、乳房を掴んで歩いた、君は体を小刻みに震わせ、手には汗がジットリと出て、立っていられなくなり、そのうち、私の胸に顔を埋めてきた、この二人の生きる意味、見い出された意味、二人は抱き合って、断崖に立ち、今、誰にも会いたくない、誰とも話をしたくない、ただ、和朗を見ていたいと君、どれ程女が、私を愛し、私の為に死んでもいいと言ってきても、果たしてそこに君程の意味が、愛に学び、愛を味わう、この意味が、私の追いたちの中で、母と子、父と子、父と母というように、思い出の中で愛の意味を持って、君と生きるということ、自明である、この生をいかに生きるかが意味であった、何故、今まで君を愛し抜く、一緒に生きると考えられなかったのか、疲れを知らない、飽くことを知らない、蘇る君の性、この愛らしい、完全に一体の、私の分身の君の為に生きると、これが生きる喜び、これが私の生きる意味だと、心と体が一体となり、真に生きること、真に愛に目覚めた初夜、二人だけの結婚、何ものからも自由になった日、いつ死んでもいいと確認した日、1995,5,9,昔のような激しいだけのものではない、優しさ、自在さ、無重力、ひたすら君の喜びを考え、生きようとしている私がここに在る、私を見ているだけで感じてくる君、昔モーツアルトが解らなかったが、今すべて解り、感じると、日々が君にとって掛けがいのない時に、私の分身のように、私の死でもって自らの生を終えようとする君、生きた歴史全部を、私との意味で捉える君、自らを誇れる君、自分のことを自分で最高と言える君、君、私などよりどれだけか繊細で、喜び多い存在か、性は心の現れ、心と一体のものと、性は連続されていくもの、何に対しても、誰に対しても、この性愛の心で世界を、これが人の生きる意味、世界がどうであろうとも、生き、愛し、互いが意味存在となって、向き合い、相手を生きることが、自分を生きることとなり、君、女は掛け向かいの愛の中で、感じる葦になると、世界に私と君だけの、私の死を引き受けた君と二人だけの、今、最高を得ているということ、二人が意識存在という、人において存在それ自体が意味で、完全で、私も君も、石も木も、存在とはそうしたもので、意志された愛で死を超越すること、独りになること、独りになって愛し、愛されること、何ものからも自由に、無重力、自在になるとは、一人対世界を生きる決意の中にあり、人は完全に一人になってこそ、神からの恩寵を感じ、私対世界という、人からのどのような愛の献身があろうとも、一人対世界の意識には叶わない、実存ということ、無重力の、何にも囚われない、自在な、私と世界の関係を持つということ、見出された意味とは、時間、存在と同じものだが、生を自死で、愛する者との死で以って終えるという意識が付加され、それは日々見出される意味となり、二人を生きるとは、エイズ患者の生の意味のように、個人の生をエロス、アガペ、全てを含んだ、世界と向き合った日々刻々を生きていく中に、全ての意味を求め、一人の人間をかって愛した心があって、初めて世界が愛しい存在となり、世界を激しく愛するとは、一匹の虫に、木に寄せる思いと同じで、愛の最高形態が、愛する者の死の引き受けであり、それを決意しているという君、柿田川、笠間、常滑の記憶が日々訪れ、私の育てた万年青が最高であるように、君が最高であるということ、それは私が作りだしたものであるから、一緒にいるだけでいいと言う君、電車で津田山まで、乗客のいない車内で、二人座って往復してきただけ、夕陽がホオズキのようにキレイと見つめ合い、偉大なる日常ほどに、私が愛し、愛されるものはなく、そこには全てが含まれ、在り、日常というもの、世界は愛し合っているのだろうか、出会う必然があって、人と人は出会い、優しさを求め、優しさを示し、生きていることの刹那さと、喜びを伝え合い、喜び求め、喜び与え、穏やかな、満ちたりた心となって、生きていき、それだけを楽しみ、滑らかな言葉、表情となって、人と人は一体を感じ、世界が優しく感じられ、君、自信がついている、夢で幸せと言ったら、私の意味が全て解り、物事が良く判断出来、性を通した私の喜ぶ姿が浮かび、君に私というものが独立して意識され、世界に拡がる私の意識が感じられ、君は世界との一体を感じられ、自信を持って君はここから生まれたのだと言え、私が世界を感じて、君も一人で世界を感じて、青春の記憶とは、この一人で世界を愛した記憶、可能性の記憶、この記憶が二人にあって、連帯、平等、共感、そして愛の意味へと、新婚時代より今の方がいいと君、不安がなく、性の自由感、解放感があり、私が生きているだけで喜ぶ、君という存在、幸福感、この日常と現実に向き合うということは、君の喜びと向き合うということ、一日を生きるということが、二人の一日だけを考えることに、名実共に一日を生き、旅行、散歩、食事、風呂、買い物、etcが本日限りの、二人の、一回性のものとて実感され、本は何も読んでいない、TV、新聞も、一人でやることが何もない、知識が無意味に、生きる上で、二人を生きる上で少しも必要と思えず、生き始めた二人にとって、早、充分な知識、思考は持っているのだった、二人を生きるとは、実にシンプルライフであった、生きる理由がなくとも、解らなくとも、喜びが一杯あるということ、可能性の、希望の行動であることの確認、汝死を忘れるなとは、私の自死の覚悟で充分、言葉にする必要などなく、私は私の生きる理由を探ることに意味を感じていただけ、君、私がどこまでも先を目指し進んでいることが、好きを持続させているのだと、今、私の自信とは、人を愛する幅が拡がったということ、聖人から悪人まで、今、私は個人主義の典型を生きているのだが、君や家族、日常、私の死を問題にしているのではない、人の、生き物の、生の意味を問題にしているのだった、考えれば生命は、全て個人の営みと解る、妻を子をこよなく愛する行為が、生命の全てであり、生存の意味が満たされない時があって、欲望があって人はその他のものに、そして現在の文化といわれるものを築いてきたのだが、生きるということが、いつ死んでもいいように生きていることであり、愛されるということが、愛する者と一緒に死ぬということであることが理解されれば、人は最愛のものを所有することになる、君が愛していることに、比較、上下はなく、他人、社会に関係なく、その人においての絶対のもので、女は母が子に向かうように男に向かっていける存在、今、君こそは君自身を生きている、君を通して私の掴んだ生きる理由、私が掴んだ死なないで生きる理由、私は私を生きていくだけ、君と手を合わせているだけで、伝わる喜びの感情の中、これだけで人は生きられるとの確信、今を喜びでもって送れているなら、全ての出来事が不思議と驚きで満たされる、あの時君と出会ったこと、あの時ガンの検診結果を待ったこと、奇蹟を感じる、あと十年位、も早何の準備も必要はない、二人を生きることだけ、紫陽花の花を、一番美しい時に、君と見に行きたいな、人の個展、集まりには行きたくない、今の私には苦痛、誰にも会いたくない、見たくない、私は私が立ち昇っているその喜びの中で生きていたいのだった、人は木であり、虫であり、同じDNAを持った仲間であり、世界を今を一緒に生きている生きものであり、男でも女でもなく、人は意識する動物で、人が生きるとは、この意識を生きることであり、何気ない自然と日常の私の世界で、私と君はそこに奇蹟的に存在し、満たされて在り、何も必要とする物はなく、君に意識された私だけが意味で、おさらいしてごらん、私は和朗の妻ですと、和朗とは頭の中に世界を創っていく存在で、私の生きる理由は、和朗を探究すること、清潔に、真っすぐに和朗を愛することですと、その気持を、和朗が死なないで、今ここに、こうして生きているという実感の中で、連続させます、他の女など、私の愛する心の比ではなく、自信を持ちます、私がいい女でなかったら、和朗の愛は無に帰すのだから、私は素晴らしい女なのです、私は可愛いい、ずっと和朗一筋、一心同体、オッパイが大きい、綺麗な瞳、声、肌がもち肌、昔、染み一つ無かった、優しい、手が可愛い、もみじのよう、見られているだけで、和朗を見ているだけで感じてくる、それから明るい、受け口が可愛い、顔にまだ皺がない、何より和朗と一緒に死ぬと覚悟している、心から清潔、人前ではしおらしく、和朗の前では娼婦にも、自由で、大胆で、解放的、羞恥心がない、和朗は背が高く、指が長く、節立っている、優しい、頭がいい、真っすぐ私を見てくれる、目と口がいい、足の指がいい、外見より心がずっと複雑で、繊細、私を見ただけで、心が解る、オッパイが感じる、生きものに共感している、作家で、自信を持っている、私を奴隷にもお姫さまにもしてくれる、料理も、主婦業も、子育てもうまい、セックスが凄くうまい、和朗と二人、少しでも長く居られることが嬉しい、夏の鈍行列車の旅、景色も見ないで、和朗の作品を読んでいた、和朗が隣にいてくれたから、夢中で読み、全部理解出来た、せせらぎ街道の新緑に、思わず涙が出た、せせらぎの溝でおしっこをした、定光寺の自然歩道では、青空の下でやれた、裸になって、走り回りたい程だった、正眼寺の観音様は慈愛に満ちていて、泣けてきた、和朗がいつも触ってくれていたから、和朗が私の中で生きていると、今、二人は時間の旅を生きているということ、感じたこと一つ一つを、定着させていくこと、やり続けること、切れ目なく、記憶し、味わい尽くすこと、明日死んでもいいように、死さえも喜びであるように、二人を生きていくこと、これ程の生きる理由は他に無く、生命の基本だから、性を無いがしろにしないで、性は、食事や睡眠のように、当たり前の、しかし、絶対必要なことであり、性を通して二人を生きること、生きる意味の曖昧さとは、性の曖昧さ、本当は人には何も必要ではないのだった、二人を生きることさえ出来るなら、性の喜びを思い出すこと、私と生きていることを、明日、私が死んでいなくなるかも知れないと二人を生きていること、和朗好き、和朗愛してると、言葉にすること、性はいつだって、眠りのように手に入れられ、欲しい時に、欲しいと、自由に言うこと、和朗を愛して、ちゃんと生きていないと、和朗と一緒に死ねないよ、生きる理由が、たとえ一人、孤独になっても耐えられるものであったとしも、そのように生きていないと、病気に、不幸に、耐えられない、和朗を全ての時空に、草、木に、時間に感じること、君が和朗を生きるとは、和朗と一体だということ、ただ和朗は文学を考えていることだけが違うだけ、でも、それも、和朗の文学とは、生きることそのものなのだから、それ程君と違っている訳ではなく、君が誰かの作品より、和朗の作品の方がずっといいと言う、そんな君への手紙のようなものなのだから、世界が戦争をしているとする、和朗は愛に生きているだろう、今がそんな感じ、世界が経済の、進歩の戦争をしている、和朗はあと十年位をと、存在を楽しんで、一人でやる悪業など知れている、が現代の五十億人の経済戦争、考えもつかない悪業が世界 に行われ、しかし、和朗は存在を楽しんで、作家の妻とは、作家が書き出すもの、生み出すものに惚れ、作家の精神を何よりも愛するものであり、私と君は、人生とは時空の旅であり、新婚旅行を生きているのだと、私対世界を、世界は、私の意識存在なだけ、私対世界とは、ただ意識する意識が、私という、私、私、私という意識が、木が、木の生命の最先端を変化発展しながら生きているように、私という意識体を生きていくという、明確な物質のような精神があって、世界とはそうした、私が、石、木、生きものと認識する私を支え、明確に私を隔てている所の、他者としての存在、私対世界とは、そうした存在を私が存在するという生命活動のこと、この私の五百万年の進化の、人DNAの最先端において生きていくということ、これらは言葉にする必要もなく、百年後にさえ、何の意味も持ち得ず、ただ私の生きて在る間の記憶なだけ、私対世界の意識は、私の不可逆性の、一回性の、唯一の意識体としての存在を思い知らせ、存在自体の大いなる意味を感じさせ、私という意識は、記憶や、文化の集合体などではなく、私対世界という明確な区別を生きる存在者のことであり、個人主義、デカルト的自我などではなく、人対私などの狭いものでもなく、自由以上の、愛以上の、偉大な存在そのものの事であり、自由、愛などは、その存在の一部であって、私がこの存在、時空を生き、感じられないのなら、何の意味もなく、私とは、この存在者としての、この時空、私対世界を生きてある者のことであり、この世界へ私は何をしに、生まれ、在るのだと、元気になつている私、世界に責任がもてそう、全てのことに関し、メッセージ出来そう、私の世界、私の愛した世界に対し、最後まで責任がとれそう、世界が可愛いい存在に、私と同じ健気な存在に、死んだ人々の笑顔が浮かび、公園にヒヨドリが来ているし、秋の陽は照っている、木の葉は光っているし、風はそよいでいる、私は毎日を送っているし、散歩を楽しんでいる、私の存在と意味は、日々感じられ、私は私自身に対して意味を持ち、それだけで喜びが感じられ、いかなる状況にあっても、存在者としての私が自覚され、私は世話をしたいのだった、世界に対して、植木や、ブンへのように、蟻社会が与える喜びで構成されているように、私の喜び、私の役割と、私という存在が、生命において、何ら特殊でも、記憶されるものでもなく、何人であってもそれは同じで、ただ存在者を生きる中にだけ、生きて在る中にだけ意味があり、世界は今が意識世界なだけ、人類消滅後の無意識世界、この意識とは、人の存在なだけ、現存在であろうが、なかろうが、一瞬の生成、宇宙の彼方より眺めた、地球の生命の意味など、霞のようなもので、意味は人において、地球において、私において考えられるだけのもので、その意味とは必要性、生活実感程度のことで、生活そのもの、存在そのもののことで、生命はただ生き、喜び、また生き、喜びと、一瞬の瞬きなだけ、君と私、もう十ケ月を二人を生きる事だけで生きている、君は私が癌の再発ではなかったから、私の癌が治ったからと、私の奇蹟性を、他人からも、当然視される二人を生き、私一筋が当たり前となり、私は癌で胃を全摘し、体力はなく、シンプル、二人を生きることが必然に、何度でも蘇る、新しい一日、新しい存在、私対世界の感覚、私が世界であるという感覚、アンドロメダ星雲から地球を眺めているように、地球上のことが、まるで塵のように見え、良いとか、悪いとか、幸、不幸とか、何も価値判断する必要はなく、そうした物差しは何もなく、存在そのものを大肯定する意識が、ただ日常においては、自在さを持ち、愛とは共に死すこと、いつ死んでもいいなと日々を生きていることであり、世話であり、飼育であり、それは社会や他人に対しても同じで、犬、万年青、私の愛する存在であり、ただ私の必要性においての強弱、人が特に犬より上で、犬が下ということはなく、私対世界の関係は、私の奇蹟性の認識の中に、物存在ではなく、私の確信された意識のことであり、これはあらゆる存在を超越した、物質、有機物の頂点で、これ以上はない、変化、発展はするが、最高の存在で、こうした意識を私が持ち得ているということが、奇蹟で、嘗て石であった私に、これ以上の所有は必要ではなく、こうした私が、世界、時空を母とし、ここから生まれた存在の幅であるということ、存在が母で、存在が私を生み、私は存在の目であり、耳であり、手足であるということ、私は存在の子供、センサーであり、一本の木であり、私は幹でもあり、一枚の葉でもあり、私対世界の私は、石や木達が世界に対して、世界そのもののように、しかし、存在を存在しているように、私とそれらと少しも変わらない、世界に存在しているもので、ただ意識という記憶作用を持って存在しているというだけ、ただ意識された私が違ーだけ、四十七年の記憶なだけ、私はこの記憶の総体であり、感情、思考の総体なだけ、二、三年の寿命と覚悟した時間が、今、無限に、生きる意味が、私と世界の中に、明日迎える朝は、新しい朝、奇蹟の一日、今日は誰も死ななかった、今日は誰も病気にならなかったと、死が自覚された存在の一日が、それが私を生きること、それが私の自由、それが私の意味、私が私に関わる存在に対して、意味を与えると、私にとっての意味が、その存在にとっての意味となり、私が世界を世話し、意味を感じると、世界は意味を持ち、喜びとなり、私が無名の石を見る、私が見たから、石は意味を持ち、意味を持った私が見たから、意味が現れ、それ以前は無意味、私の有用性からではなく、根源的意味、私の意味において現れた石の意味、始原の意味、この意味は発見であり、私の意味であり、世界はこれら無数の私によって、意味づけられて成立し、この石は誰々のもので、この木は誰々のものでと、無数の私と対応し成立していて、この一日、この犬、この石と、すべて意味をもって存在し、世界と私は意味で結ばれ、残された時間と私、私の意志、私の喜び、私の希望、私の存在においての意味が世界との関係に、
私は私の意志をもって世界に存在し、世界内存在としての私の意志が意味で、あと十年と決めた時間が、私の存在意味、見、聞き、語り、私の意味で、私の喜びで世界を、世界は私においてしか成立せず、私の意味は、ここに於いて誕生し、これこそが私の残された存在の、意味と、意志、
一九九六 三 二十二