第九話:人でいられる境界線
「シリル兄様、そこ、気持ちいい」
俺は工房でユキノをブラッシングしていた。
ユキノは俺の膝の上で寝そべっており、ブラッシングしやすいように下着姿になっている。上はタンクトップのような薄い肌着で、下は尻尾を通すためかローライズ気味で両サイドを紐で結ぶタイプのいわゆる紐パンだ。白いお尻が半分ぐらい見えていた。
銀色のふさふさの尻尾は手触りがよく、撫でいているだけで幸せな気分になってくる。
「ユキノの気持ちいいところは覚えているよ。ほら、ここをこうすると」
ユキノの弱点、尻尾の付け根の裏側そこを小刻みに攻める。
「はふぅ、シリル兄様ぁ」
すると、ユキノがびくりと全身を震わせ、その震えが俺の手に伝わってくる。
ユキノは敏感で反応がすぐに返ってきておもしろい。
「もっとして欲しいところがあったら言ってね」
「大丈夫。これ以上、気持ちいいとユキノはおかしくなる」
声に艶がある。すこしだけ、どきりとした。
「ごほんっ、そう言えばユキノ、クウの様子はどうだった」
ずっと気になっていたクウのことを問いかける。俺の居ない間、体を壊していなければいいが……
「体調は問題ない。でも、クウ姉様、最近食欲がなくて心配」
「そっか、今は妊娠三ヶ月だしね。そういう時期か」
この時期になると、妊娠による体の変化が明確に現れ始める。一番妊婦が不安になる時期でもあり、つわりのピークもこの時期に重なる。
こんなときに留守にしたことに罪悪感がわく。
「今のクウでも食べられるあっさりして消化に良くて栄養のあるものを考えないと」
ユキノの尻尾にブラシをかけながら、俺はクウの食事について考える。
やっぱり、汁物がメインだろう。ちょうど、シカの赤身で作ったシカ節がいい具合に熟成している頃だし、それで出汁をとれば美味しいものができそうだ。
「今のクウ姉様でも食べてくれる料理があるから、あとでシリル兄様にも教える。頑張って作ったレシピなの。チーズを作った時にできる透明なヤギのお乳にクランベリーの果汁とメープルシロップを入れて、ジャガイモの粉で固めて冷やすの。そしたら冷たくてぷるぷるして美味しくなる」
「それなら美味しそうだし、栄養がありそうだ」
ユキノの言った料理を分析する。
透明なヤギのお乳というのは乳清のことだろう。
チーズはヤギの乳の脂肪分を固めて作るものだ。残った乳は脂肪分が抜けて透明になる。
乳清には、タンパク質とカルシウムがたっぷり含まれているし、脂肪が抜けることで獣臭さと癖がなくなって飲みやすい。
そこにクランベリーで酸味、メープルシロップで甘みを入れて味を整える。
仕上げに、ジャガイモの粉……片栗粉をゼラチン代わりに使って液体を固める。
そうすることで、栄養たっぷりで、さっぱりした甘酸っぱいゼリーが出来上がる。妊婦のクウでも楽しめる最高のごちそうだ。
「ユキノはすごいよ。よくそんな料理を思いついたね」
「クウ姉様が苦しそうで、ユキノはなんとかしてあげたくて、今までシリル兄様に教わった料理全部思い出して、材料とか調理法とか、いっぱいいっぱい考えてたらできた」
素直に感心する。料理の応用ができている。
応用ができるということは、料理をただ覚えているわけではなく、ちゃんと調理手順の意味や、材料の性質を理解しているということだ。
「ユキノ、クウに作った料理を今度俺にも作ってくれないかな。聞いてたら、食べてみたくなったんだ」
「シリル兄様が食べてくれるの? ユキノ頑張る!!」
「ありがとう。期待しているよ」
ユキノは料理でも俺の弟子だ。
その成長が気になる。がんばりやな彼女のことだ。俺の居ない間にかなり上達しているだろう。
「あとね、シリル兄様」
「なんだい?」
「クウ姉様のことはちゃんと話したいと思う。でも、今はユキノのご褒美の時間。クウ姉様や、ルシエ様の話はしないでほしい。今はユキノのことだけを考えて」
「そうだったね。今はユキノの時間だった。ごめんね。ユキノのことだけ考えるよ」
「うん」
言葉は端的だが、よほど嬉しいのか尻尾がぶんぶん揺れる。
そして、当然ブラッシングをしていた俺は突然の動きに反応できずにブラシを落としてしまった。
「ユキノ、尻尾を振るとブラッシングができない」
「ごっ、ごめんなさい。シリル兄様」
ユキノは尻尾の動きをぱたっと止めるが、喜びを隠し切れないのかこんどは先っぽが黒い銀色の狐耳がぴくぴく動いている。
そういえば、クウは狐耳を甘噛みすると喜ぶが、ユキノはどうだろうか。
一度気になると、狐耳が気になって仕方ない。
試してみよう。
「はむ」
軽く唇をつかってユキノの狐耳を噛む。
するとユキノの頭の先から震えが始まり、尻尾の先まで震えが伝わってきた。
少し、面白い。
「きゃっ」
小さく悲鳴を上げて、ユキノが俺の膝の上から飛び退き、涙目で耳を抑えて睨みつけてくる。
「シッ、シリル兄様。いきなり何?」
涙を浮かべた恨みがましい目で見てきた。
相当怒っている。
「ごめん。そこまで驚くとは思ってなかった。クウがこうされるのが好きだったから。ユキノも喜ぶと思ったんだ」
予想はハズレ、ユキノは本気で嫌がっている。ちゃんと聞いてからやるべきだったと反省する。
「ユキノは耳を噛まれても気持ち悪いだけ……シリル兄様、ひどい」
「本当に悪かった」
「シリル兄様は、耳噛んで楽しい?」
ユキノがおそるおそるといった様子で聞いてくる。
楽しいかどうかと聞かれれば……
「楽しいかな?」
俺はクウやユキノのキツネ耳を可愛いと思っている。その耳をいじるのは楽しい。
「そう。……シリル兄様だったら何をされても我慢する。ユキノの耳噛みたいならどうぞ」
ユキノが両手で肌着の裾を握ってぷるぷる震えながら頭を差し出してくる。よほど嫌だったのだろう。
さすがに、ここまで嫌がられれば、好奇心よりも罪悪感がまさる。
「俺はユキノの嫌がることはしない。本当にユキノがこんなに嫌がるとは思ってなかった。この通りだ許してほしい」
「耳、噛まない?」
「噛まないよ。だから、こっちにおいで」
「わかった。シリル兄様」
そして再び俺の膝の上に乗る。
「ユキノ、お詫びに何かしたいけど何がいい?」
「……ふぉっくすして。ふぉっくすしたら許す」
「それじゃ、お詫びにならないよ。俺もしたいしね」
「でも、ユキノふぉっくすしたい」
「そっか、じゃあいっぱいふぉっくすしようか」
「うん、シリル兄様!!」
その後、ユキノが腰砕けになるまでたくさんふぉっくすした。
◇
工房では予定の三十分を越え一時間ほどユキノと過ごしてしまった。
ルシエと俺の家に向かう。
「ただいま、ルシエ」
家にたどり着き、声をかけて入る。
エルシエについたとき以上に懐かしさを感じる。
家に一歩入った瞬間にルシエの匂いがして安心する。今まで、ずっとこの匂いに囲まれて暮らしていたんだなと、今更ながら気づく。
「おかえり、シリル」
ルシエが玄関まで来てくれた。
そして、やさしい抱擁。
ユキノのときと比べて落ち着いた恋人の抱擁。
ルシエが爪先立ちになって上を向く、自然と唇をあわせてキスをした。
数秒してから口を離す。
「やっぱり、ルシエと会ってはじめて、本当の意味で帰ってきたって思える」
「なにそれ」
ルシエが可笑しそうにくすくす笑う。
「俺が帰ってくるのは、エルシエじゃなくてルシエのところだからかな。だから、ルシエに会うまで帰ってきた気がしないんだ」
「ちょっとシリル、そのセリフは臭いよ」
ルシエはそう言いつつも口調は笑っている。
「セリフがくさいのはいつものことだろ」
「確かにそうだね。……それで、帝国を見てきた甲斐はあったの?」
「あったよ。本気で奴らは攻めてくるつもりだった」
「……そう、また戦争なんだね」
「悲しいけど、避けようがない」
あれだけ憎しみを煽って兵を集めた以上、もうあとは戦争まで一直線だ。
戦いを止めることはできない。
「シリル、どうするの?」
「そうだね。エルシエの兵を今まで以上に鍛える。それだけじゃ足りないから新しい武器も色々と用意するよ」
例えば、地雷。
数で劣るこちらは、奇襲をメインにするしかない。アシュノの存在によって、優れた目と射程を奪われた以上、罠に比重を置く必要がある。
その点地雷は条件にピッタリだ。
地中にあり、探知が難しく、それでいて安価かつ大量に生産できる。
例えば、電気変換の魔石を使用したコイルガン。
アシュノの能力の影響範囲はせいぜい300m。その外からの攻撃であれば妨害できない。
クロスボウ程度の火力なら、あっさり対応されるだろうが、コイルガンの火力なら運用次第で、優位を保てる。
空気抵抗ゼロの状態で発射できる俺たちなら超遠距離射撃でも精度を保てる。
さらに、火薬と電力の反発の双方のハイブリットで作った大型のものなら、音速の二倍を超える。
アシュノのセンサーに引っかかってからの到達時間が短すぎて、おそらく彼女でも反応できない。自身を守るぐらいはできるだろうが、友軍を守ることは不可能。
例えば、毒ガス。
風上から無味無臭の毒ガスを流す。一部のレシピを【俺】が解禁したのでそれを利用する。
アシュノにばれれば、一瞬で風の魔術でふきとばされるだろうが、潜伏期間のある毒で、さすがのアシュノも気づくまでに時間がかかる。
発症がはじまったときには手遅れという状況を狙う。
「でも、たくさんの兵隊が来たら、いくら倒しても追いつかないかも」
「そのために、みんなで頑張って防壁を作ったんだ」
こちらは少数である以上、正面衝突はできない。ゆえに、ゲリラ作戦で削って、消耗させてからの籠城戦になる。
ただ、アシュノのマナ支配領域、300m以内には入れないのでゲリラ作戦の効果は、地雷とコイルガンを使用しても前回よりも落ちる。
確実にエルシエでの籠城戦がメインになる。
それを見越して、食料の自給自足を諦め、今年の食料をすべてエリンからの購入に依存してまで防壁に注力した。
「シリル、いつも以上にずっと慎重だね。そんなに厳しい戦いになるの」
「そうだね。たぶん、今回の戦いが一番つらい」
間違いなくもっとも厳しい戦いになる。それと同時におそらく最後の戦いにも。この戦に勝てば、帝国はエルシエを絶対勝てない敵と認識するだろう。
「だからね、戦いの前に打てる手を全部打つんだ。明日、作戦会議を開くつもりだよ」
目的は、偽札と麻薬の量産を提案すること。
防壁の工事が終わる時期に、大量の大麻がベル・エルシエから送られてくる。
大麻の種子や葉は麻薬の原料になる。
そして、大麻の葉や茎は上質な紙の材料ともなるのだ。その紙を偽札の生産に回す。
戦争までの間はこの二つを可能な限り作る。
作った偽札と麻薬を作ったあとのことまで今回の偵察で調整してきている。
帝国周辺の反帝国の連中にばらまいてもらうのだ。
偽札で、食料と、貴金属を大量に買い占める。
それと同時に麻薬を売りさばく。その際には紙幣ではなく支払いは硬貨に限定して。
偽札で、経済は崩壊し、買い占めにより食料不足はより深刻にできる。
そんななか、麻薬の誘惑に負け人々は次々に麻薬にのめり込み壊れる。
非人道的な作戦。そんなことはわかっている。
だが、そこまでしないと勝てない。
それが本気の帝国とハイ・エルフを相手にするということだ。
まだ、不安だ。他にできないか? 帝国につながる水脈すべてに毒を流して汚染して……
いや、毒ガスなんてものは、それこそ戦時中に使わずに街で使用したほうが……
いっそのこと、天然痘のウイルスがたっぷりついた毛布を貧民街にばらまいて……。輪廻回帰で、あいつを呼べば、血液を体験した毒に変換する固有魔術がある。エルシエの民にはあらかじめワクチンを打っておけば……周辺国も巻き込むがそんなこと言っている余裕があるのか?
「シリル、怖い顔してるよ」
「あはは、ちょっと気合が入りすぎちゃったみたいだね」
ルシエに声をかけられて正気に戻る。
少し、思考が過激になりすぎた。あきらかにやりすぎだ。
「ねえ、シリル。今日ぐらいゆっくりできるんだよね」
「うん、本格的に動くのは明日からだよ」
「そう。なら、今日は家事も、お仕事も全部、いっさい禁止。休憩するのがシリルの仕事。いい?」
有無を言わさない様子でルシエが指を立てて、迫ってくる。
俺は、思わず頷く。
「よろしい、今日はごちそう作るね。それに、一緒にお風呂はいろう。それから、夜も、久しぶりにね」
顔を赤くして、それでも楽しそうにルシエは笑う。
それを見て俺は気づいた。
そうか、彼女がいるから俺は最後の一歩を踏み外さずに済んでいるのか。
「ルシエ、ありがとう」
自然と口から漏れた。
俺が立ち上がれても、こうして戦い続けていられるのも、そして正気でいられるのも。彼女がいるからだ。だから、どうしてもお礼が言いたかった。
「どういたしまして。それから、私もありがとう」
そう言ったルシエが綺麗で、俺は言葉を失った。
彼女が居る限り、俺は俺のままなんでもできる。心の底から本気でそう思えた。
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