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4:ささやかなる助言
 
「……という訳で、逃げてきたの」
 アーシャの説明に聞き入っていた面々は先ほど目にした教授達を思い返した。走り回されて髪はほつれ、息もすっかり上がって汗だくになっていた姿を思い出すと誰の顔にも苦笑が浮かぶ。
 だがそれでもここまで振り切られず少女に着いて来たことは驚嘆に値する結果と言える気がして、少女の身軽さをよく知っているディーンは首を傾げた。
「経緯はわかったが……君が運動不足の教授達を振り切れなかったとは驚きだな」
「そういやそうだな。アーシャって走るの苦手だったか?」
 ジェイの言葉にアーシャはぷるぷると首を横に振った。
「走るのは苦手じゃない。けど、ずるいんだよ」
 
 走り出した当初、教授達はあっさりと本気を出してもいないアーシャに引き離され、見失うのも時間の問題と思われた。
 ところが、振り切られる寸前に頭の回る教授の一人が前を走る比較的若い教師に魔法を掛けたのだ。
 それを見た他の教授達もまだ余力のある人間に次々と補助魔法を掛けた。様々な種類の魔法で速度を増し、疲れを癒し、力を漲らせ、呼吸器を補助する。
 体力は衰えていてもそこはさすがに熟練の技だった。
 教授達の連携技によって力を得た若手達は見る見るアーシャに追いすがり、結局アーシャは魔法学部内を逃げ回り、上級学部の敷地内を大きく横切って技巧学部まで走らされるはめになってしまった。
 それでも、途中で技巧学部の造園科の生徒達が作った庭に飛び込み、複雑な幾何学模様に刈り込まれた植え込みを利用して、それらに登ったり隠れたりしたことでどうにか彼らをかなり引き離して少女はここまで辿り付けた。
 しかしさすがにアーシャと言えど、上級学部内では対角線上に存在している魔法学部と技巧学部の間を全力疾走すれば疲労も溜まる。
 どこかに隠れて休もうと思った時に、この喫茶店の窓辺に見知った姿を見つけて駆け込んだ、と言う訳だった。
 
 それらの顛末を聞いたディーンとジェイは思わずこぼれそうになった笑いをこらえ、何とも言えない表情を浮かべた。
「……それは、災難だったな」
「アーシャと爺さん連中の追いかけっこかぁ……ちょっと面白そうだな」
「面白くないよ!」
 アーシャは憤慨しているが、学園を疾走する少女とそれを追うローブ姿の教授達の姿は想像しただけである意味異様であり、さぞ面白い光景だったろうと二人は思う。
「笑い事じゃないよ、もう」
 アーシャは二人に向かって口を尖らせた。
「悪い、つい想像しちまってさ」
「まぁ、教授達も自分の学科のために必死なんだろう。生徒を巻き込むのは褒められたことではないが、そういうやる気がこの学園を支えているというのも間違いのない事実だろうしな。タウロー教授の言う通り、一つくらい妥協して選んでやれば静かになると思うが」
 ディーンの言葉にアーシャは眉を寄せた。
「そんなの、絶対やだ」
「何故だ? 君にとってどれも難しい授業ではないだろう? 何時ものように他のことをして過ごすという事もできるだろう」
「必修の科目ならそれでもいいよ。でも自分で自由に選択できる単位なら、できる限り自分の好きなのを選びたい」
 アーシャはディーンの言葉にも首を横に振って答えた。少女の中には自分なりの明確な基準があるらしい。
 
「もし教授達の言う通りの選択をしたとして、その先で私が得る結果が不本意なものだったとしたら、それをあの人たちは肩代わりしてくれる? そうじゃないよね」
「まぁ……そりゃ、そうだよなぁ」
 ジェイは予想外にしっかりとしたアーシャの意見に思わず低く唸った。
「他人の思惑に乗るなんて馬鹿馬鹿しいしね。自分で決めた事なら後悔したって構わないもの。だから、譲れないよ」
 アーシャの強い言葉に、ジェイは思わず視線を下げた。
 ディーンは俯いたジェイにチラリと視線をよこしたが、それには触れずにただ少女に頷いた。
「そういった理由なら最もだ。確かに他人に強要されるべきではない事柄だからな。だが、しばらくは煩いんだろう?」
「うん。仕方ないから当分は家に篭ってるよ。期限ギリギリになったらこっそり申請書を出しにいくことにする」
 アーシャの返答にディーンは少し考え、頷き返した。
「それなら我々の誰かがその頃に預かりに行こう。学生課の前で捕まっても面倒だろうからな」
「本当に? それすっごく助かる。ありがとう!」
 ディーンの提案にアーシャは嬉しそうに微笑み、ほっとした様子を見せた。
 
 その様子から見ても少女が書類の提出時の心配をしていた事は明らかで、ディーンは少々複雑な気分を胸の内に抱いた。
 ディーンは昨年の夏以来、教授達に転科を薦められては断るのに苦心しているアーシャの姿を何度か見ている。
 一つ二つ教科の選択を妥協するだけで少女がそれらの悩みから開放されるなら、そうする道もあるのではないかと彼は密かに思っていた。
 
 次年度の授業の選択は確かに大切なことではあるが、それで己の人生の全てが決まってしまうわけではない。本当はもう少し気楽に考えてもいいはずなのだ。
 頑なに己の意志を貫こうとするアーシャも、散々考えてなお自分の選択に迷いを残して決められないジェイも、方向は違えど結局はこうして同じように頭を悩ませるている。
 二人の仲間に、己が納得するまで悩み戦う道を勧めていいものか、適当なところでの妥協を提案すべきか。
 だがディーンにはアーシャが納得する妥協点は今のところ思いつきそうにない。
 それに、ジェイを悩ませているのはどうやら授業の選択とは別の事柄のような気がした。しかしジェイが話さない限りその内に踏み込むのもためらわれる。
 
 最近ディーンは以前よりも遥かに積極的にこの友人達と関わりを持つようになってきている。
 だが交友関係の狭さから来る彼の対人スキルの低さはそう簡単には解消されるものでもない。
 論理的な会話で話を先に進める事はできても、相手の感情や雰囲気といったものの流れを掴み動かすような事は苦手なままだ。
 
(こういう時、もっと芸風に幅があればいいのだろうが……)
 多少大げさな演技でも交えればまた違った流れが作れるだろうに、とディーンは考えたが、それはどうあっても彼には出来そうにもない芸当だった。
 そういうことはジェイやシャルの担当だ。
 だがその当人がこうして何か悩み事を抱えているとなると、それを上手く喋りやすい雰囲気に持っていくような事はディーンには難しい。
 友人として出来る助けはあるのかどうか、ディーンは目の前でこくこくと美味しそうにお茶を飲んでいる少女と、その隣でぼんやりしている友人を見ながら考えていた。
 
「話し中に悪いんだが、また爺さん達が戻ってきたみたいだぜ」
 しばしの沈黙を不意に破ったのはダリオの声だった。
 彼は驚いて顔を上げた三人に、布巾を持ったままの親指で窓の外を指し示した。
 技巧学部の校舎から飛び出すように作られている喫茶店は三方の壁が窓になっているため外の様子が良く見える。
 ダリオが指差した窓の向こうに三人が顔を向けると、教授達がきょろきょろと辺りを見回しながら歩いてくるのが大分遠くに見えた。
 どうやら技巧学部内の探索が失敗に終わり、別の方向にある学部入り口から出てきたところらしい。まだ距離はあるが彼らは真っ直ぐにこの店に向かってきている。諦めて戻る前にもう一度ディーン達から情報を得るつもりなのだろう。
 アーシャはカップに僅かに残っていた香草茶をぐいと飲み干すと、ポケットから硬貨を取り出してテーブルに置いた。
「もう行くね。見つからないルートを探して真っ直ぐ家に帰るよ。二人とも、またね」
「ああ、気をつけて」
「捕まんなよ、アーシャ」
 二人の励ましに頷くと、アーシャは身を低くしながら席を立った。
「出て行くなら技巧学部内を通って裏庭に面した窓から抜け出した方がいいかもな。そこから医療学部の方に回れば、かなり歩く事にはなるが多分見つからないだろ」
 助言をくれたダリオに頷くと、アーシャは素早く店内を横切り言われた通りに技巧学部へと通じる扉をそっと開いた。
「どうもありがと。お茶、美味しかった」
「おう、毎度」
 アーシャは閉じかけた扉からひらりと手を振ると、カラン、という小さな音を残して姿を消した。
 
 また静かになった店内にディーンとジェイの小さなため息が同時に落ちる。
 ジェイは黙ったままテーブルの上の紙を手元に引き寄せ、またそこに目を落とした。
 アーシャの妥協のない答えが多少の刺激になったらしく、その視線は先ほどよりも真剣だった。
 ディーンはそれを見て少しばかりの安堵を覚えた。
 
「……おい」
 ジェイの様子を観察していたディーンに、横合いから静かに声がかかった。
 ディーンは観察を中断して声の主のダリオへと向き直り、彼に手招きされ、席を立ってカウンターへと近づいた。
「余計なお世話だけどよ」
 ダリオは磨き終わったカップを丁寧に棚に並べながら、ディーンの方を見ずに独り言のように小さく呟いた。
「さっきはお前らに真剣に選べっつっておいてなんだが……あの嬢ちゃんによ、できればもう一度妥協を勧めたほうがいいと思うぜ。今年の爺さんたちは多分しつこいぜ」
「……理由は?」
 窓の外の教授達の姿はまだ少し遠い。彼らもさすがに疲れが出てきたらしく、歩みは遅いようだった。
 ダリオは窓の外にちらりと視線を投げて苦笑をこぼすと、言葉を続けた。
「ここは結構色んな学部の連中に、年代問わず人気があるのは知ってるだろ。まぁその関係で色んな話も入ってくる」
「ええ」
「噂……っつっても信憑性はかなり高いらしいが、次年度から魔技科の運営費がかなり増えるって話なんだ。新しい研究やらなんやらも始まるらしいしな。その理由は、お前の方が詳しいだろうが」
「……なるほど」
「魔技科の生徒が熱心に技巧学部にも出入りするようになったからな、こっちでも恩恵を受ける学科が幾つかあるらしいっていう話もある。その発端があの嬢ちゃんだってんなら、落ち目の精霊魔法関係の学科としては必死にならない訳がねぇだろ」
 
 確かにそれでは教授達はアーシャの事を簡単に諦めはしないだろう。多少大げさではあるが、少女の存在は科や学部の盛衰に関わってくる話になりかねないからだ。
 けれどそう言う事ならますますアーシャが妥協する可能性は低いとディーンには予想できた。
「しかし……彼女は頭がいい。恐らく己の好き嫌いだけではなく、そういう教授陣の思惑を理解したうえで拒絶しているのだと。そうなると、妥協点は見つかりそうにありません」
 先ほどの会話での少女の言葉の中にも、他人の思惑に乗りたくないという言葉が確かにあった。
 困ったように眉を寄せたディーンを見て、ダリオはくすくすと笑いをこぼした。
「お前が他人のことでそんな顔をする日が来るとはな。全く、ここの責任者をやってると退屈しないのが困りもんだよ」
 
 ディーンは普段は常にほぼ無表情で、あからさまな快も不快も顔に表さない。その彼の――不快とはいえ――貴重な表情の変化を間近で見れたダリオは実に楽しそうだった。
 ダリオに笑われ、ディーンは更に面白くなさそうに口を引き結んだ。
「ははは、そう面白くなさそうにすんな。もう一つ面白い話があるんだって。
 なんでも急な話なんでまだ公になってないらしいが、次年度から教師が二人増えて、精霊魔法関係の学科が一つ増えるらしいって話だ。知ってるか?」
「いえ……初耳ですが、教師の入れ替えなど別に珍しくもない話では?」
 訝しげなディーンの言葉にダリオはにやりと面白そうな笑みを浮かべた。
「それがな、何でもこの春休暇に急に湧いた話で、しかも学園長のお達しで決まった事らしい」
「学園長の?」
「ああ。だからまだ誰もその新しい教師も、どんな学科が増えるのかも知らないんだとよ。それもあって余計にあの教授達は恐々としてるのさ。自分達の立場が危ういんじゃないかってな」
 
 なるほど、と頷くとディーンはそれらの話について考えを巡らせた。
 学園長の推薦した新しい学科ならば、既存の精霊魔法関係の学科の教授達の思惑とは縁が薄いと見ていいだろう。
 それならばアーシャの妥協も引き出せない事もないかもしれなかった。
 新設でも一応精霊魔法関係の一学科だということなら、他の教授達をどうにか黙らせる事も出来るかもしれない。
「どうせ寝ていたり内職している学科が多いんだから、成績次第では必修を幾つか免除する方向に持っていけるかもしれないな……その辺は交渉するか」
 ぶつぶつと呟くディーンの様子に、ダリオはまた面白そうにけらけらと声を上げて笑った。
「そうそう。そうやって悪巧みしてる方がお前らしい。青春の憂いみたいな顔は似合わないから他の奴に任せてろ」
 
 ダリオの失敬な言葉に苦笑を浮かべながら、ディーンは窓の方を振り向いた。
 ジェイは相変わらず手に持った紙とにらめっこをしていたが、それでも手元の用紙は少しずつ埋まってきているようだった。
 仲間達の悩みの一つには解決の目処が立ちそうだが、もう一つの方はその原因もまだわからない。
 彼が黙っている事を無理に聞き出すのはディーンの信条に反するが、このまま放置するのも気が引ける。
(悩むのは本人に任せて、何かあったときに動けるようにしておくか)
 何事もなければいい、と胸の奥で呟きながら視線を店の入り口へと向ける。
 カラン、とゆっくりと扉が音を立てた。

(まずは爺どもを追い払うか)
 疲れた顔をした教授達を上手に言いくるめる言葉を考えながら、ディーンは薄く笑みを浮かべた。