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第一章-第十話

女の子同士の恋の物語です。


軽音部の処分を、不安に包まれながら待っている時、事件が起きた……


碧と悠貴子のお話、第十話です。

 Ride On!

 

 第一章 

 

 第十話                


 乗客も疎らな三時過ぎの電車。

 低い晩秋の日差しが差し込み、単調なリズムを刻む車輪の音に合わせて車内に陰が走る。

 文化祭の片付けを終えて帰る碧と悠貴子。

 並んで座る二人に会話はなかった。

 思い詰めたように黙って俯く碧に、悠貴子は掛ける言葉を見付ける事が出来ない。

 こんな時にこそ、碧の支えと成りたいのに、何も言えない自分が悔しかった。

 重苦しい空気の中、悠貴子の心はもがいていた。

 碧の心へと近付きたいのに、泥沼で足を取られ思うように進めない。

 暗然としている碧の心は分かるのに、その心を慰める事の出来ない自分。 

 碧の心に触れる事の出来ない自分。

 そして、碧の心に触れる事を恐れる自分。

 頭の中で途切れ途切れの言葉が浮かんでは消えて行く。

 言葉にならない心。

 そんなもどかしさが心を締め付けて、少し滲んだ涙を、悠貴子は隣に座る碧に気付かれないように、そっと拭った。

 駅に着いて電車を降りた二人が、無言のまま改札を通り過ぎる。

 駅の出口で、

「じゃ、また明日……」と、碧が肩越しに悠貴子を見て言った。

「うん……」

 頷いてから、歩き出した碧の後姿を見て、

「碧」と、悠貴子が声を掛けた。

 そう、思わず声を掛けてしまった。

 話す言葉など、何も思い浮かんで来ないのに。

 立ち止まり、振り向く碧に、

「元気出してね……」と、自分でも情けなく思う言葉を掛けた。

 そんな悠貴子を見て、碧は悠貴子の所まで戻って来て、

「ありがとう、大丈夫よ」と、無理に笑った。

 碧は、頭では良く解っていた。

 今の自分を慰めようとしている悠貴子の気持ちが。

 だけど、自分ではどうしようも出来ない気持ち。

 何時もなら、悠貴子が傍に居るだけでよかった。

 だけど、今は、悠貴子が見えない。

 自分が直接係わった訳では無いが、同じ部員達が文化祭を台無しにして、この日を目指して頑張って来た生徒達の思いを踏み躙った事。

 碧自身も、文化祭に強い思いを持って頑張って来ただけに、思いを踏み躙られた生徒達の悔しさが痛いほど分かった。

 そんな罪悪感が、碧の心を閉ざし、悠貴子を見えなくしていた。

 求めなくては伝えられない。

 受け入れなくては、感じる事が出来ない。

 今、一番助けてほしい自分自身が、罪悪感でそれを無意識の内に遮断していた。

 悠貴子を前に何も答えられない自分。

「じゃ……」

 悲しくて、辛くて、情けなくて……

 悠貴子の顔を見ている事が居たたまれなくなった碧は、そう言って振り向き足早に帰って行った。

 碧の後姿を再び見た悠貴子は、自分の無力を感じ、その場から逃げ出すように走りだした。

 碧が家に着いて二階へと上がろうとした時、廊下にある事務所とつながっている扉を開けて舞が入って来た。

「あっ、碧ちゃん」

 舞の言葉を聞いて碧が立ち止まった。

「あの、今日は社長遅くなるって……」

「うん、わかった……」

「えっと、それで、夕食、一緒にどう、かしら……」

 何か何時もとは違う、余所余所しい舞の言葉に違和感を覚えながら、

「ごめん、食欲無くて……」と、碧は素っ気無く答えると階段を昇って行った。

「あ……」

 何か言いたそうに呼び止めようとした舞が、言葉を止め事務所に一旦戻りかけたが、振り向きもう一度階段の上を見てから、諦めた様にドアを閉めた。

 自分の部屋に入り、着替えもせずにベッドへと倒れ込んで、横たわった碧は漫然と天井を見ている。

 自分のせいでは無い罪悪感。

 割り切れない気持ち。

 そして、三年生達に対する怒り。

「あいつ等のせいで……」

 歯を食い縛る碧の心に小さなひびが入った。

ーーー◇ーーー

 翌日。

 碧は悠貴子に心配掛けまいと、空元気を張って笑顔で悠貴子に会った。

「ああ、なんか、文化祭が終わったら一気に気が抜けちゃったわ」

 明るく話す碧を見て、それが演技だと悠貴子には判った。

「だけど、次はもう期末考査の準備でしょ、のんびりしている暇なんて無いわね」

「碧……」

 悠貴子は、明るく振舞おうとしている碧を見ているのが辛かった。

「碧、あのね……」

「ん、なに?」

 悠貴子は少し躊躇ってから、

「無理しないでね……」と、小さな声で言った。

 それを聞いた碧の顔が曇り、俯いた。

「だからって……」

「え?」

「だからって、どうしろって言うのよ……」

「碧……」

「しょうがないじゃない、自分でも分かっているけど、どうしようも無いのよ」

「……」

 辛そうな碧を見て、悠貴子は碧に寄り添うように凭れ掛かった。

「ごめんなさい……」

 か弱い震える声で謝る悠貴子に、

「ごめん、私の方こそ、ごめんなさい……」と、碧は悠貴子の頭を撫でた。

「お雪が、私の事を心配してくれている事は分かってるわ、ごめん、でも、今は……」

「うん……」

 二人は寄り添ったまま、電車の中で立っていた。

ーーー◇ーーー

 教室に入った碧に、武田達が近付いて来た。

「ねえ、その後何か分かった?」

「えっ?」

 突然尋ねられて、碧は戸惑った。

「文化祭の時の騒ぎよ、何が有ったの?」

 興味津々の目で尋ねる武田を、碧は少し疎ましく思い、

「べつに……」と、素っ気無く答えた。

「別にって、東郷さん当事者じゃないの?」

「あの時、傍に居たんでしょ?」

「やめてよ!」

 碧は武田達が遠慮無く聞いて来る事に我慢出来ず、大きな声を上げてしまった。

「確かに、私はあの時あの場所に居たけど、馬鹿な三年生達が勝手にやった事よ、私を当事者にしないで!」

「東郷さん……」

 碧の剣幕に、武田達が驚いて半歩下がる。

 怯えた顔で碧を見ている武田達を見て、碧は我に帰り、

「あ、ごめん……」と、碧は謝って武田達から顔を逸らした。

 碧は情けなかった。

 何も武田達が悪いんじゃない。

 確かに今、自分は落ち込んでは居る。

 だけど、そんな自分をコントロール出来ずに、無関係な武田達に怒鳴ってしまった自分が情けなくて辛かった。

「ううん、私達の方こそ、悪かったわ」

 武田が椅子に座っている碧の横にしゃがんで、

「やっぱり、落ち込んでる?」と、尋ねた。

 無言で頷く碧。

「じゃ、早く立ち直りなさいよ、誰も貴方を攻めたりはしていないわよ」

「うん、ごめん……」

 今の碧には、そう答える事が精一杯だった。

ーーー◇ーーー

 その日の放課後。

 音楽室には重い空気がよどんでいた。

 誰も喋ろうとはせず、動こうともしない固まった空間。

 そんな触れてはいけない様な空間が、ドアの開く音で崩れた。

「鈴木」

「鈴木先輩」

 ドアの前に立つ鈴木を見つけて、部員達が駆け寄った。

「生徒会、どうだった?」

 川崎が鈴木に迫って尋ねた。

「うん……」

 暗い鈴木の顔を見て、皆の顔も不安に曇った。

 音楽室に入り、椅子に座った鈴木の周りに皆が集まる。

 鈴木の話を皆が待っていると、

「はぁ、まいったぁ……」と、鈴木は机に倒れ込むように肘を付いた。

「吊るし上げだよ……」

「鈴木……」

 疲れたように項垂れる鈴木の肩に、川崎が心配そう手を置いた。

「責められても仕方ないよ……演劇部の部長、泣きながら怒ってたな……」

「すまんな、やっぱり俺も行くべきだったな」

「いや、これは副部長の俺の仕事だ、川崎が気にする事無いよ」

 恐らく生徒会で、鈴木は周りから責められ、直接自分が係わった事ではないのに、皆に謝ってばかりいた事が碧には容易に想像出来た。

「まぁ、生徒会の方でも、当事者の処分が決まるまでは、軽音部に対する処分は決めかねるって」

「当事者って、三年生の?」

「うん、だから、三年生達の処分が決まるまで、活動は自粛するようにって」

「そっか……」

 暴れた三年生達と、関係ないとは言い切れない現実。

 事実、軽音部として三年生達は発表の場で事件を起こした。

 迷惑を被った周りの生徒達から見れば部員達は同じに見える。

 だから部員達には、三年生達と同一視される悔しさがくすぶっている。

「なにも、鈴木先輩が責められる事無いのに……」

 碧は悔しそうに拳を握り締めた。

「そう言うな、お前の気持ちは嬉しいけど、やっぱり軽音部として起きた事だし、ここは大人しく従うしかないよ」

「でも、三年生達の処分が決まったら、軽音部、どうなるんですか?」

「それは……」

 碧の質問に二年生達が辛そうに俯いた。

「まさか……」

 二年生達を見て、碧の脳裏に最悪の事態が思い浮かんだ。

「何年か前、ラクビー部が同じ様な事で廃部に成ったらしいよ」

「廃部……」

 聞きたくない言葉を言った川崎に、

「じゃ、軽音部も……」と、碧が不安な顔で尋ねた。

「分からない、最悪の場合って事だよ」

 碧の不安が膨らむ。

「大丈夫だ、心配するな」

 何の保障も根拠も無かったが、今の鈴木にはその言葉しか思い浮かばなかった。

「楽天的と言われるかも知れないけど、俺は大丈夫だと思いたい」

「先輩……」

「すまんな、お前達を安心させる言葉が見付からなくて」

「そんな……」

 寂しそうに笑顔を浮かべる鈴木に、碧は何も言えなかった。

ーーー◇ーーー

 事件が起きた日曜日から四日が過ぎた木曜日。

 事件の事を既に忘れかけている無関心な生徒。

 強い拘りを持って忘れられない生徒。

 生徒達の色々な思いが織り成して日常は繰り返される。

 この日の授業が終わって、クラブ活動が始まった頃。

「ごめんね千鶴、付き合わせちゃって、部活あるのに」

「別にいいよ、これから行くし」

 旧校舎と第二校舎に挟まれた中庭を、智子と千鶴が歩いていた。

「ほんと、委員長には、もっとしっかり仕事して欲しいわ」

「ははは、代議員もたいへんだね」

「なんとか、明日の代議員会で使うアンケートがまとまったわ」

「今日が締め切りなのに委員長ものんびりしてたね」

「そうよ、集めるだけじゃないのよ、まとめる私の事も考えて欲しいわ」

 愚痴る智子に、

「そう言えば、今日の生徒会、部活会儀だね」と、尋ねた。

「うん、碧のとこの軽音部に付いて話し合ってるはずよ」

「大丈夫かな……」

 心配そうに見ている千鶴に、

「分からない、あんな事があったから……」と、智子も心配そうに顔を曇らせた。

「ところでさぁ……」

 立ち止まり好奇心に目を光らせて智子を見る千鶴に、

「な、なによ……」と、智子は嫌な予感がした。

「上杉先輩の事、好きなんでしょ」

 何時もの千鶴の直球に、

「そ、それは、前にも言ったでしょ」と、一瞬で赤くなった顔を逸らした。

「先輩に好きな子が居るって事?」

「……うん」

 顔を曇らせた智子に、

「でも、好きなんでしょ?」と、千鶴が更に直球を投げつける。

「……」

 そして、顔を赤くして俯く智子に、

「でも、何で先輩に好きな人が居るって知ってるの?」と、尋ねた。

「クラスの川上君が、言ってた……」

「ああ、あの毬栗いがぐり坊主」

「毬栗って……」

「あいつ、テニス部だと坊主の方が目立つって、それだけで坊主にしてんの、まぁ、女子の先輩達からは可愛いって人気あるけど」

「割と軽いのね……」

「うん、上杉先輩とは中学の時からテニス部で一緒だったらしいよ」

「ええ、そんな事も言ってたわね……」

「えっ?なになに?」

「えっ、あっ、とっ、な、何でも無いわよ」

 智子は顔を赤くして千鶴から顔を逸らした。

 気に成る上杉の事を、同じテニス部員の川上から、智子はそれとなく情報を仕入れていた。

 恥かしそうに顔を赤くしている智子に、

「でさ、碧に言われてから考えたんだけど、なんか変なのよね、先輩……」と、千鶴が小首を傾げて記憶を探る。

「上杉先輩、自転車通学してたんだけどなぁ」

「え、そうなの?」

「うん、足腰の鍛錬に成るからって、なのに最近はバスで来てるし、私達の乗ってるバスで会うって事は、先輩、結構早い時間に乗ってるって事だよ、だってさ、先輩、出身は南中だから、バスより電車の方が便利なのに、なんでバスなのかなって」

「……」

「何でだろうね」

 千鶴の話を聞いて、智子は少し戸惑った。

 千鶴は、あくまでも状況を言っているだけ。

 そこには上杉の事情が入っていない。

 確かな物が見えない状況で、もしかしてと思う夢と、夢が破れた時との落差。

 クラスの川上に聞いたのも、誰が好きだと具体的に聞いた訳では無い。

 曖昧な事に期待する自分と、期待する事に臆病になっている自分。

 切ない想いの中、智子は、夢が破れて悲しい思いをするくらいなら、憧れているだけでも良いと思っている意気地なしの自分が情けなかった。

「そんなの、私が分かる訳無いでしょ」

「そりゃそうだけどぉ……」

 歩き出した智子を追って千鶴も歩き出した。

「もしかして、上杉先輩も、智子の事好きなんじゃない?」

「なっ!」

 歩き出した智子は驚いたように立ち止まり千鶴の方を向いた。

 上杉がバス通学に切り替えた事を聞いて、智子自身も少し夢見て思った事を、千鶴がど真ん中直球のストライクを決める。

 千鶴の、嬉しくも恥かしい期待させる言葉に、智子は顔を真っ赤にした。

「な、なに、言ってんの、あは、あは、そんなわけ、あ、あ、ある、わけ、無いでしょ、ははは、ははは……」

 日頃は強気な智子も、動揺を隠せない。

 全く馬鹿げた事だと言わんばかりに、無理に笑っていた智子が、千鶴を睨んで、

「それに、なによ、上杉先輩“も”って、私は上杉先輩の事、好きだ何て一言も言ってないでしょ!」と、自分は潔白だとアピールする。

 が、そんな事を言っても、分かりやすい智子の態度を見て、

「いや、見てたら分かるよ」と、千鶴があっさりと言った。

「なぬっ!」

「バスの中で楽しそうに、いや、嬉しそうに話してるじゃない」

「……」

 千鶴の言葉に言い返せない智子は、顔を赤くしたまま再び歩き出した。

 生徒会がある実習棟へと向う二人の前に、五人の男子生徒の姿が見えた。

「あ……」

 その五人を見て智子が足を止めた。

 智子に気付いて此方を向いた五人は、一度しか会っていないのに、智子は既に天敵認定している戸田達だった。

 戸田達と距離を取るため、智子は態と円を描く様に戸田達の前を通り過ぎ様とした時、

「おい、鶏がら、先輩の前を通るのに挨拶もなしかよ」と、戸田が声を掛けた。

 その声を無視して智子は通り過ぎて行くと、

「おい!」と、戸田が立ち上がって智子の前で立ちはだかった。

「何ですか、何か用ですか?」

 黒縁眼鏡の奥から、鋭い目付きで智子が睨み付けると、

「なめてんじゃねぇぞ……」と、戸田が小さな目で睨みながら智子に近付いた。

「あんな騒ぎを起こしておいて、気楽なものですね」

「何だと」

「今、部活会儀やってるんでしょ、先輩、確か部長でしたよね、部長の癖に出席しないんですか?」

 戸田に続いて他の四人が取り囲む中、智子は怯まずに戸田を睨み付ける。

「あんな、かったるいだけのに出るかよ」

「怖いんでしょ」

「何!」

「皆から責められるのが怖いんでしょ」

「きさまぁ……」

 戸田は智子の胸倉を掴み、

「なめんなよ……」と、凄んで見せた。

「ほんと、学習しない馬鹿ですね、先輩って」

「言わせておけば……」

 拳を握り締めて威嚇する戸田に、

「また、大声出しますよ」と、智子も負けじとブラウスを掴んで威嚇する。

「せんぱぁい!こっちです!」

 何時の間にか居なくなっていた千鶴が、第二校舎の角で手を振って叫んでいる。

 その直後、千鶴の横を上杉と川上が走り過ぎて智子の方へと向かって来た。

「おい!おまえら!」

 叫びながら走って来る上杉を見て、

「ちっ……」と、舌打ちをして戸田が智子から手を放した。

 智子が乱れた襟元を直している所へ、

「何やってる……」と、目に怒りを浮かべた上杉が到着した。

「笹山さん、大丈夫?」

 智子の姿を見て、上杉が心配そうに尋ねた。

「あ、はい、大丈夫です……」

 今度は大声を上げる寸前で上杉に助けられた事で、智子は急に恥かしくなって来た。

 もし、タイミングがずれて、上杉が見ている前で、前回同様にブラウスを引き破り叫んでいたらと思うと、智子は気が遠くなるくらい恥かしかった。

 引きつった笑顔を向ける智子を見て上杉は、

「そっか、よかった」と、安堵の笑顔を浮かべる。

 戸田と智子の間に分け入って、

「笹山さん、あっちへ……」と、手で合図を送る上杉を見て、智子は戸田達の囲みを出て校舎の方へと下がった。

「またお前らか、女の子相手に、何やってんだよ……」

「なんでもねぇよ、話してただけだ」

「嘘付け」

「何だと、この野郎、それが先輩に対する言葉か!」

 戸田の仲間達が、上杉達を睨みながら取り囲む。

「あの、ほんと馬鹿ですね先輩達」

「何だと!」

 軽い口調で坊主頭の川上が挑発する。

「さっさと逃げれば良い物を、何やってんすか?俺達とやる気ですか?」

 にやにやしながら川上は戸田を挑発している。

「五人で俺達二人より多いと思って強がってんでしょうけど、そこの校舎の向こうに、いったい何人のテニス部員が居ると思ってんすか?算数出来ます?」

「……」

「おい、川上、それぐらいにしておけ」

 川上の肩を引いて止める上杉に、

「ウッす」と、返事して川上は素直に従った。

 上杉は、戸田に一歩踏み出し、

「いい加減にしろよな」と、戸田を睨み付けた。

「今度こそ、先生に報告するぞ」

「なんだよ、ただ話してただけだろうが……」

「女の子を取り囲んでか」

「それがどうした……」

 睨み付ける上杉から顔を逸らして、気不味そうにしている戸田に、

「今度は逃がさないからな」と、上杉は更に一歩踏み出す。

「うるせぇんだよ」

 吐き捨てるように言うと、戸田は上杉に背を向けて、 

「ちっ、しらけちまった、行こうぜ」と、他の四人とその場を離れようとした。

「おい、まてよ」

 追いかけようとする上杉に、

「待ってください」と、上杉の前に立って智子が止めた。

「何でだよ、あいつ等、このままにしておいて良いのか?」

「ええ、今は……」

「どうして、このままにしておいて、君に万が一の事があったらどうする」

 上杉の言葉を聞いて、智子の脳味噌は沸騰しそうになった。

「あっ……」

 自分の事を心配してくれている、智子はそう思うと、地面から足が浮いた様な感覚を覚えた。

「あいつら、か弱い女子でもお構い無しの卑劣な奴らなんだぞ、放っておけないよ」

 か弱い、今の今まで戸田達に怯む事無く向かっていた智子には、聊か不釣合いな言葉ではあったが、その言葉で智子の足は更に地面から離れた。

「あぁ……」

 ふわふわと浮いている自分に気付き、我に帰った智子は、

「あ、あの、今、騒ぎを起こす訳には行かないんです」と、上杉に言った。

 散々戸田達に逆らっていた智子だったが、ある事を思い出した。

「今、軽音部の処分の事で、部活会儀が開かれているんです」

「ああ、知ってる、部長も行ってるよ」

「あの、今、騒ぎを起こすと、特にあいつ等の事で騒ぎが起きると、軽音部にとっては不利なんです」

「ああ、そうだろうな、でも、あんな奴らの部活なんて、潰れても良いだろ」

「そんな事、言わないで下さい!」

「えっ?」

 上杉の目から見て、大人しそうなか弱い女の子である智子が、大声を上げた事に上杉は少し驚いた。

「私の親友も軽音部なんです、あいつ等が居るのに、我慢して頑張っているんです!」

「笹山さん……」

「あいつ等なんて退学でもなんでも成ったら良いんです、でも、他に頑張っている部員達が居るのに、潰れたら良いなんて言わないで下さい!」

 戸田達への怒りで、つい口を滑らせた上杉が、

「ごめん……」と、気不味そうに智子に謝った。

 外野の観客、いや、野次馬として、千鶴と川上が二人の様子をハラハラしながら見ている。

「すまなかった、潰れて良い部活なんか無いよな」

「はい……」

 気落ちして恥かしそうに頭をかいている上杉を見て、正論を言ったはずなのに、智子は何故か少し罪悪感を感じた。

 それに、嫌われたかも知れないと、心配にも成って来た。

「あ、あの先輩」

「なんだ」

「その……ありがとう、ございました……」

「えっ?」

「また、助けてもらって……」

「あ、ああ……」

 恥かしそうに礼を言う智子を見て、上杉に笑顔が戻った。

「あの、さっきは私も迂闊でした、あいつ等には二度と近付かないように気を付けますから、あの、今日の事は言わないで下さい」

「でも……」

「お願いです!」

 真剣な目で訴える智子を見て、

「……うん、わかった言わないよ」と、上杉は仕方なく承諾した。

「おい、川上」

「ウッす」

「聞いたか、お前も言うなよ」

「了解っす!」

 おどける様に敬礼する川上を見て、智子と千鶴は、

「軽いやっちゃなぁ……」と、呆れた。

「それと、笹山さんはこれからどうするの?」

「えっと、このアンケートを生徒会に持って行って、明日の代議員会の資料を作りますが、なにか?」

 不思議そうに尋ねる智子に、

「時間掛かるの?」と、上杉が尋ね返した。

「え、ええ……」

「どれ位?」

「下校時刻、までには終わりますけど……」 

「じゃ、今日は一緒に帰ろうよ、やっぱり心配だし」

「えっ……」

「笹山さんが、友達の事を思う優しい子だって事は分かるけど、あいつ等、何するか分からないから、俺、心配なんだ」

 智子の脳内に花びらが舞っている。

「部活が終わったら迎えに行くから、生徒会室で待っててよ」

 そう言って笑顔を浮かべる上杉を見て、智子の頭から花火が打ち上がった。

“迎えに行く”その言葉の持つ破壊力は、智子にとっては絶大であった。

 智子の脳内で『迎えに行くから』と言う、上杉の台詞が山彦の様にリフレインする。

 今まで好きになった男子もいなかった、夢だけを見ていた智子にとって、彼氏に迎えに来てもらう、なんてシュチュエーションは憧れの一つだった。

「迷惑かも知れないけど、心配だから、お節介だなんて思わないでくれよ」

「い、いえいえいえいえ、とととと、とんでもない!おおおおっお節介だ何て……」

 目眩がするくらい首を振って否定する智子を見て、

「面白い……」と、普段見れない智子の生態を、千鶴は好奇の目を持って観察していた。

「あの、ありがとうございました、それじゃ、これで……」

 智子が顔を真っ赤にして頭を下げると、

「うん、じゃ、迎えに行くから」と、上杉は笑顔を浮かべた。

「はい……」

 再び上杉に頭を下げて、

「じゃね、千鶴、川上君……」と、顔が赤いまま智子は小さく手を振ってから、地に足が着いていないかの様な足取りで生徒会室へと向かった。

「おい、木下、お前も早く着替えて来い」

「はぁい!」

 元気に返事をしてから、千鶴は部室のあるプレハブ棟へと走って行った。

「なぁんだ、先輩の好きな子って、笹山だったんすか」

「なにっ!」

 興味深々な目で見ている川上を上杉が睨み付ける。

「おい、川上……」

「ウッす」

「余計な事言うなよ……」

「ウッ、くっ、くるしっぃ、す……」

「誰にも言うなよ……」

 川上の首を絞めながら殺気の篭った目で睨み付ける上杉に、言葉が出せずに無言のまま、口にチャックを閉める様なジェスチャーで答える川上を見て、

「よし……」と、上杉が手を放した。

「おい、行くぞ」

「う、ウッす」

 少し顔を赤くした上杉の後を追って、川上はグランドへと向かった。

ーーー◇ーーー

 この日、騒ぎを起こした三年生達の処分が決まった。

 事件当初に他校生と乱闘を始めた三人は一ヶ月の停学。

 後で乱闘に加わった戸田達軽音部の三年生三人と、他四名には処分は無かった。

 学校の判断は、後で加わった戸田達の扱いは喧嘩を止めようとしたとされた。

 警察沙汰には成ったが、怪我人も軽い擦り傷と打撲程度で第三者に怪我人はなかったと言う事と未成年者である事も加味して、当事者の保護者同士の話し合だけで事件としては送検されなかった。

 結局は受験を控えた三年生である事を考慮しての結果だった。

「なにそれ、甘過ぎ……」

 放課後、部室で生徒会から帰って来た鈴木の報告を聞いて、碧が呆れた様に言った。

「だけどな、その御かげで軽音部は廃部を免れたんだぜ」

「でも、退学に成っても良い位の事をしたんですよ」

「だから、滅多な事じゃ退学なんかには成らないよ」

 廃部は免れたが、戸田達に処分が無かった事に碧は憤りを感じていた。

「でも、来年4月まで活動禁止だなんて」

「しょうがないよ、その程度で済んでよかったよ」

「鈴木の言う通りだよ、先輩達に処罰が無かったから、本来なら無罪なんだろうけど、それで周りが収まる訳無いだろ、多少理不尽だと思っても受け入れるしかないよ」

「そうだな、先輩達が騒ぎに加わった事は事実だし、止めようとしただなんて誰も信じて無いしさ、生徒会として周りを納得させるには、その辺が妥当だと判断したんだろ、俺としても大人しく承諾するしかなかったよ」

「そうだな、此処で逆らっても、他の部から反感買ったら、来年から遣り難いしな、政治的には正しい判断だよ」

 諦めた様に笑う鈴木達に、

「でも、先輩達、次は三年生だから……」と、碧が寂しそうに言った。

「そうだな、二年生の内にやりたい事もあったけど」

「うん、来年は受験だしな」

 活動禁止で自分達の時間を奪われたに、何処と無く嬉しそうな鈴木と川崎に、

「だったら、悔しくないんですか!」と、碧は大声を上げてしまった。

 鈴木と川崎が黙って碧を見ている。

 順子と千佳は不安そうに碧を見詰めている。

 本田と葉山は少し笑顔を浮かべて碧を見ていた。

「うん、だけどな……」

 鈴木が微笑みながら碧の前に立った。

「そんな事より、俺達の後に東郷達が居て、来年、新しい一年生が入って来る、そうやって軽音部は続いて行く、俺はそれでいいんだ」

「うん、ほんと、廃部に成らなくてよかったわ」

「そうね、東郷さん達が居るんですもの、私達は安心して引退出来るわね」

「でも、先輩達は……」

「お前、さっきから“でも”ばっかりだな」

 そう言って笑う鈴木達を見て、碧は少し苛立った。

「東郷、ありがとう、俺達の事を思ってくれて、でも、俺としては、軽音部を守れた事の方が嬉しいんだ」

「まぁ、とにかくだ、活動禁止は決まった事だし、大人しくしているしかないよ」

「そうだな、真摯に受け止めて、大人しくしているか、東郷、お前達もだぞ」

 此処で何か軽音部として問題を起こせば、結果は火を見るより明らかだ。

 鈴木の言う事はもっともだが、何か割り切れない物が心につかえている碧は、

「はい……」と、素っ気無く答えた。

 そして、碧は鈴木達の方を見ずに

「それじゃ、失礼します……」と、ギターケースを担いだ。

「おお、お疲れ」

「部活休んでる間に、来年の一年生勧誘する事でも考えてろ」

 明るく見送る鈴木達に、釈然としない物を感じながら、碧達一年生は音楽室を出て行った。

「くそっ!」

 碧達が出て行った後、鈴木が座っていた机を殴り怒りをぶつける。

「悔しく無いわけねえだろ……」

「鈴木……」

 廃部を求める声が多い中、部活会儀で鈴木は必死で周りを説得した。

 そして、文芸部からの援護もあり、何とか廃部の声を抑え込んだ。

 肩を小さく震わせながら、

「廃部に成る事に比べたら、ずっとましだよ……」と、歯を食い縛った。

「そうだな、何とか後輩達に軽音部を残せたな」

 川崎が俯いている鈴木の肩に手を置いて、

「ご苦労様、副部長、お前は十分頑張ったよ」と、微笑んだ。

 鈴木が顔を上げて川崎の方をゆっくりと向いて、

「……うん、ありがとう」と、微笑んだ。

ーーー◇ーーー

「じゃ、また明日、って言うのも変かな」

 中途半端な時間に部活が終わった碧達は、旧校舎の出口で立っていた。

「ふぅ、そうね、まぁ学校では会うけどね……」

 来年四月まで活動が禁止されて、碧達の顔は暗かった。

「でも、来年からは出来るんだから、前向きに考えましょう」

 そう言って、少し笑顔を浮かべる順子を見て、

「そうね……」と、碧も少し笑顔を浮かべた。

「それじゃ」

「うん」

 手を振って順子と千佳を見送った碧は、鞄から携帯電話を取り出して、

「お雪、まだ部活よね……」と、携帯電話を見詰めた。

「どうしようかな……」

 携帯電話を持ったまま、夕暮れの空を見詰める碧に色々な事が思い浮かんで来た。

 軽音部に入部してから、今までの思い出。

 三年生達の事は意識的に記憶から除外して来た碧だったが、今回の事は除外出来なかった。

 そして、鈴木の考えや行動を思い返して見れば、鈴木は三年生達相手に良く頑張って来たと思い、自分自身、鈴木に色々な物を貰った気がした。

「うん、お雪が居なかったら、惚れてたな、私……」

 そんな冗談交じりの事を考えて、今の気持ちを少しでも紛らわそうとしたが、

「くそっ!」と、怒りが収まらず、碧は校舎の壁を殴った。

 碧の心のひびが少し広がる。

 苛々が胸に支える碧は、無性に悠貴子に会いたくなった。

「お雪……」

 自分の我侭で悠貴子の部活を邪魔する事には気が引けたが、押さえ切れない思いが込み上げて来て、碧は携帯電話を開いた。

 そして悠貴子に、自分は部活が終わって待っている事をメールで伝えた。

 暫くして悠貴子から、もう少ししたら帰るとの返事に、碧は第二校舎の出口で待っている事を知らせた。

 部活が禁止された原因を作った戸田達への怒り、軽音部として演劇部や他の生徒達に迷惑を掛けた負い目。

 そんな思いが混ざり、碧は胸に鉛の様な重さを感じていた。

 それは、とても不快で、苦しく、痛かった。

「あいつ等のせいで……」

 そんな思いを、怒りとして戸田に向ける。

 どうして、もっと早い時期に戸田達を排除出来なかったのか、いや、しなかったのか。

 それは、碧にも分かっている。

 戸田達を排除しようとして騒ぎを起こせば、今年の文化祭にも出られなかっただろう。

 それは分かっている、だけど……。

 碧の心を、割り切れない後悔が締め付ける。

 そんな碧は、第二校舎の出口に立ち、

「お雪……」と、悠貴子を求めた。

 罪悪感から、心に張られた障壁で悠貴子が見えなくなっていた碧。

 閉ざされた心が乾き、悠貴子を求める。

 第二校舎の出口で待っていた碧の視界に、第一校舎から出て来た戸田達の姿が映った。

 戸田達の姿を見た瞬間、碧の頭に血が上った。

「あいつ等……」

 碧に気付いた戸田達に、碧は怒りを目に浮かべたまま近付いて行った。

「なんだ、デカ女……」

 睨み付ける戸田を碧は見下ろし睨み返す。

「貴様、何だその態度は!」

「黙れ……」

「何だと……」

 碧は冷たい怒りの目で戸田を睨み付けている。

「謝れ……」

「なに?」

「軽音部全員に、鈴木先輩に謝れ」

「なんで俺が謝らなくちゃいけねぇんだよ、馬鹿かお前は」

「馬鹿はどっちよ、あんな騒ぎを起こしておいて」

「喧しいわ、あれは、俺達が他校の奴らから、学校を守ってやったんだぞ、礼を言われて当然なんだぞ!」

「はぁ、守った……」

 戸田の自分勝手な言い分に碧は呆れた。

「そうだよ、俺様の縄張りで勝手しやがった奴らを締めてやったんだよ」

 自慢げに言う戸田に、

「呆れるほどの馬鹿ね、お前は……」

「何だと!」

「最低の屑だって言ってんのよ、このゴミが!」

「きさまぁ!」

 行き成り戸田が拳で碧を殴った。

「くそ、どいつも、こいつも馬鹿にしやがって……」

 智子や上杉に遣り込められて、悔しい思いが溜まっていた戸田は、碧の言葉で怒りが爆発した。

 殴られた碧は、殴られた事を気にする様子も無く、冷たい怒りを浮かべた目で戸田を睨み続けていた。

 そんな動じない碧を見て、戸田達の怒りは益々高まった。

 春に戸田が殴った女子は、その場で戸田を怖がって大声で泣いたのに、碧は動じない。

 それどころか、挑発する様に睨んでいる。

 戸田に殴られた事で、碧の精神は怒りに支配されていた。

 戸田達が憎いと言う気持ちで心が奪われ、他の事を考える事が出来なかった。

 色々な思いと、怒りが入り混じり、何が正しいのかさえ分からなかった。

「誰もお前達なんか怖がって居ないわよ、殴るんなら殴りなさいよ」

「きさま……」

「屑共なんかに負けないわよ!」

「このやろう!」

 戸田の仲間の一人が碧に突進して殴ろうとした瞬間、碧は沈み込む様に姿勢を低くして相手の拳を躱し、半歩前に出て相手の懐に入り体を勢いを付けて伸ばすと、殴り掛かって来た相手の顎に頭突きが決まった。

「がっ!」

 殴り掛かって来た戸田の仲間は、そのままコンクリートの床へと倒れた。

 中学の時、男子と何度か喧嘩した碧は戸田達よりも喧嘩慣れをしている。

 床に倒れて気を失っている仲間を見て、戸田以外の連中は完全に戦意を喪失してしまった。

「このガキ……」

 五人で取り囲んでも怯まず、仲間の一人を倒した碧に、戸田の怒りは頂点に達した。

「ぶっころす……」

 戸田は碧を睨んだまま、ズボンのポケットに手を入れて、何かを取り出した。

 戸田が取り出した物を見て、

「お、おい、やめろよ……」と、仲間達は一歩下がった。

「やかましい!このままで終われるか!」

 戸田は取り出したナイフを広げて刃を出し、碧の方へと突き出した。

「覚悟しろよ……」

 碧に刃を向けたまま、戸田は碧へと近付いた。

「そんな物で、怖がるとでも思ってるの」

「なに……」

 ナイフを突き付けられても、碧は恐がる事無く戸田を睨んでいる。

「どうせ、刺す度胸も無いくせに、恰好付けんじゃないわよ!」

「何だと!」

 碧と戸田が睨み合っている所に、鈴木達が第二校舎を抜けて連絡路の所へとやって来た。

「えっ?」

 鈴木達が碧達に気付いた時、碧は戸田を見下ろす様に見て、

「虚勢を張る事しか出来ないゴミに人が刺せるの?」と、挑発する様に蔑んだ笑みを浮かべた。

「こ、このぉ!」

 次の瞬間、戸田は無茶苦茶にナイフを振り回しながら、碧へと切り掛る。

「おい!」

 何事が起こっているのか分からなかったが、不味い状態である事だけは理解出来た鈴木達が、碧達に向かって駆け出した。

 碧がナイフを避けようと下がると同時に、ナイフが碧の左頬から耳へと走った。

「くっ……」

 痛みを感じた碧は反射的に身を翻す。

 そこへ、戸田が足をもつれさせバランスを崩して碧へと倒れ込んだ。

 戸田が衝突した衝撃で碧もバランスを崩し、二人は縺れ重なり床に倒れた。

「東郷!」

 戸田は碧の下敷きと成って、コンクリートの床に頭を打って気を失っていた。

「きゃあぁぁぁ!」

 血を流して倒れている碧を見て立ち竦んでいる鈴木達の横を、悲鳴と共に悠貴子が駆け抜け、碧の傍らにしゃがみ込だ。

「な、なによ!どうしたのよ!碧ぃ!」

 碧の体を激しく揺さ振り悠貴子が叫んでいる。

 頬と耳から流れた血が、コンクリートの床に流れて血溜まりを作る。

「碧、碧、碧!」

 碧の怪我を見て錯乱している悠貴子に、

「ごめん、大丈夫だよ……」と言って、碧は体を起こした。

「だ、大丈夫じゃ無いじゃない!」

「ごめん……」

 立ち上がった碧は、抱き付いて泣いている悠貴子を抱き締めた。

「お雪、ごめん……」

 悠貴子の温もりを感じて、冷静さを取り戻した碧は、自分が大変な事をしてしまった事に気付いた。

 軽音部で再び騒ぎを起こした事、悠貴子を悲しませた事。

 後悔に苛まれる中、悠貴子の温もりで、傷の痛みが少し和らいだ様に感じた。

 戸田の仲間達は、この場に居てはいけない事を悟って既に姿を消していた。

「と、とにかく、保健室へ、早く!」

 碧に抱き付いて泣いている悠貴子に、鈴木は慌てて声を掛けた。

 そこへ騒ぎを聞き付けた生徒達に混じって教師もやって来た。

「な、なんなんだこれは!」

 男子生徒が二人倒れ、左頬を真っ赤な血で染めている碧を見て、

「救急車だ!」と、錯乱気味に自分の携帯電話で百十九番を押した。

 保健室で軽い処置をしている時、救急車がやって来た。

 碧は担任の教師と一緒に救急車に乗り込もうとすると、

「わ、私も行きます!」と、悠貴子も乗り込もうとした。

「待ちなさい、天道は残りなさい!」

 担任が止めるが、

「嫌です、私も行きます!」と、泣きながら訴えた。

「駄目だ!」

「お願いです!」

「お雪!」

 碧の声で、悠貴子が我に帰る。

「私は大丈夫よ、心配しないで」

「でも……」

「治療が済んだら、直ぐにメールするから、家で待ってて」

「碧……」

 微笑んでいる碧を見て悠貴子は冷静さを取り戻し、

「うん……」と、諦め切れない自分を押え付けるように頷いた。

 救急車は、悠貴子が離れると病院に向かって走り出した。

ーーー◇ーーー

 救急車は総合病院のエントランスに入り、碧と担任の教師が下りた。

 碧は直ぐに処置室へと入れられた。

 看護師に消毒をしてもらっている間、碧は不安に包まれていた。

 自分の怪我の事より、軽音部の事を考えると不安で押し潰されそうになった。

 傷は思った以上に酷く、無茶苦茶に振り回したナイフは斜めに走り、碧の耳をえぐっていた。

 そのため、頬の傷は普通に縫い合わされたが、耳は端が少し欠けた状態で縫い合わされた。

 結局、頬の端から耳に掛けて、五センチほどの傷だった。

 治療が終わって碧が処置室から出て来ると、叔父と舞が既に来ていた。

「碧ちゃん!」

 ガーゼを押さえる為、頭に包帯を少し斜めに巻いた碧の姿を見付けると、二人は碧に駆け寄った。

「大丈夫か?」

 叔父が心配そうに尋ねると、

「うん、大丈夫……」と、碧は申し訳無さそうに答えた。

「ごめん、心配掛けて……」

「とにかく、帰ろう」

 叔父はそう言ってから、担任の教師に、

「後日、詳しく聞きますから」と、硬い口調で言った。

「あ、はい、どうもすみません、学校でこんな事になって」

「貴方に謝ってもらった所でどうにも成りませんから、気にしないで下さい」

「はぁ……」

 冷たい目で睨み付ける叔父に、教師は返す言葉もなく頭を下げた。

 帰りの車の中で叔父は終始無言だった。

 碧は車の中で、大した事無かったと悠貴子にメールで報告した。

「碧ちゃん、傷、痛む?」

 後ろの席で隣に座る舞が心配そうに尋ねると、

「大丈夫よ、今は麻酔が効いているから」と、碧は舞を心配させないように笑顔で答えた。

 家に着くと、叔父は無言のまま家へと入って行き、碧と舞がその後を追う。

 そして、三人はダイニングへ入りテーブルに着いた。

「何があったんだ」

「あ、うん……」

 硬い表情で尋ねる叔父に、碧は何処から話せば良いのか迷っていた。

「傷はどうなんだ?」

「うん、五センチほどの傷……」

「五センチも」

「十四針縫ったって先生が言ってた」

「酷い傷じゃないか、女の子なのに……」

 叔父の声が震えていた。

「碧ちゃんが治療中に警官が来て、犯人は逮捕されたって言ってた」

「えっ、戸田が」

「知ってる奴なのか?」

「うん……」

「詳しく話してくれ」

「うん……」

 何時もとは違う叔父。

 小学校の時から親代わりに育ててくれた叔父を碧は始めて恐いと感じた。

 碧は一通り、戸田の事と軽音部の事を説明して、文化祭での事件から今日までの事を叔父に説明した。

「まったく、なにやってんだよ……」

「ごめん……」

「馬鹿やろう!そんな傷で済んだからまだ良かったけど、お前に万が一の事でもあったら、俺は姉さんになんて言えばいいんだ!」

「真樹夫さん、落ち着いて!」

 テーブルを叩いて立ち上がった叔父を、舞が諌める。

「頼むから、こんな馬鹿な事は二度としないでくれ……」

「馬鹿な事って……」

「馬鹿な事だろう、屑みたいな奴らを挑発して、結局最後は怪我して」

「そんな事、分かってるけど、あの時は仕方がなかったのよ!」

「だから、馬鹿だって言ってんだよ、もう高校生なんだから、それくらい分かるだろ、碧ちゃんに万が一の事でもあってみろ、俺は姉さんにどうやって謝ればいいんだよ!」

 目に涙を浮かべて怒鳴る叔父を見て、

「なによ、姉さん姉さんって……」と、碧が吐き捨てる様に言った。

「叔父さんは私なんかより母さんの方が大事なの!」

「なに!」

 碧はそう言って二階へと走って行った。

「おい、待て、碧!」

「待って、真樹夫さん!」

 追いかけようとする叔父を舞が抱き付いて止めた。

「落ち着いて」

「だけど……」

「碧ちゃんは怪我して、精神的にも参っているの、今は落ち着くまでそっとして置いてやって」

「……」

「お願い……」

 叔父は舞の顔を見てから諦めた様に椅子に座り、

「わかった……」と、呟くように言った。

 碧は自分の部屋に入って、ベットへと倒れ込んだ。

 何故か涙が止まらない。

 馬鹿な事。

 そんな事は言われなくても自分でも良く分かっていた。

 でも、改めて指摘されると、自分の愚かしさが情けなかった。

 子供の時から優しかった叔父。

 両親が居た頃、何時も来る度にプレゼントを持って来てくれた叔父。

 親代わりに育ててもらって、感謝してもしきれない叔父。

 何度も、何度も、叔父から母親の事を聞かされていた碧。

 叔父の気持ちは痛いほど分かっているはずなのに、追い詰められた様な精神状態で心にも無い事を言ってしまった後悔。

 そんな思いが入り混じり、碧の涙は止まらなかった。

 どれ位の時間が経ったのか、碧がうとうととしかけていた時、ドアをノックする音が聞えた。

「碧ちゃん、入るわよ」

 遠慮気味に、そっとドアを開けて舞が入って来た。

「寝てるの?」

 舞の問い掛けに、碧は答えずにいた。

「おなか空いてたら食べてね……」

 舞は小さな声で言って、サンドイッチを机に置いて静かに出て行った。

 今の碧に食欲等は無く、碧はそのまま眠りに付こうとしていると、一階から叔父の怒鳴り声が響いた。

 途切れ途切れに聞える叔父の怒鳴り声から、どうやら戸田の両親が謝りに来たみたいだった。

 そんな事も、今の碧にはどうでも良い事だった。

 疲れた。

 ただ、疲れた。

 そして碧は、何時しか深い眠りへとついた。

最後まで読んで下さってありがとうございました。m(__)m

感想等いたたけましたら幸いです

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