第八話 無事でいて
昔から、海に行くにはこの山を越えるという習慣があったという。本当はあの川にも橋があったようだが、大雨で何度も流されるため、もう復旧作業は断念されていると聞いたこともある。
だから山にも、遥か昔から歩かれ続けて踏み固められた獣道があった。その道は、蛇行しながら頂上に向かって続いていた。これに沿っていけばきっと頂上につける。どれぐらいの日数がかかるのかは解らないが、とにかく登らなければ。
そうして歩き出してから、数十分後。早くもアンソニーが音を上げた。
「ねえ、休もう? 疲れたー!」
そう言うとアンソニーはその場にどっかりと座り込み、肩や腰をさすっている。疲れなど微塵も感じていない様子のグレンは、呆れたようにそれを見下ろした。そして、どうしたものかと首を捻っている。呆れ果てるグレンの隣で、ノエルはアンソニーを励ました。
「ほら、まだちょっとしか来てないでしょ。頑張って、アンソニー」
彼の穏やかな声を聞きながら、クライドは辺りを見回す。丁度、すぐそこに湧き水が流れていた。ここで少し休むのもいいかもしれない。
クライドは疲れていなかったが、アンソニーがこの状態では先に進めない。隣で必死でアンソニーを励ますノエルにも疲労の色が見えた。しかもクライドは、疲れてはいないが頭痛に悩まされていた。歩くたびに激しく揺れる視界。眩暈も最高潮に達していた。
「休もう、俺も頭痛がひどいし」
休憩を取るということを肯定したクライドを見て、ノエルはアンソニーに「よかったね」と言った。早く山越えをしたいという意見のグレンは、渋々だが納得してくれる。
クライドは、そばに流れていた湧き水を一口飲んでみる。冷たくておいしい水だ。
水を飲むときに、首からあのお守りがするりと出てきた。それを、じっと見つめてみる。不思議な石に不思議な文字。雫型のデザインは、クライドの好みに良く合っている。ひと目見たときから気に入った石だ。それを眺めているうちにふとあることに思い当たり、クライドはそれを外してノエルのところにもっていった。
「ノエル、ここになんて書いてあるか解るか?」
五ヶ国語を解するノエルならば、きっとこの文字を読んでくれるだろう。一体どういう意味なのか知りたい。父が自分に遺してくれた唯一のものなのだ。父は、自分にどんなメッセージをくれたのだろう。
「これかい? 僕が知る限り、こんな文字は世界中どこを探したって使われてないよ。もしかすると古代文字かもしれないし、山奥で発達した文明とかそういうのかもしれないね。象形文字の一種かも」
がっくりした。もしかすると、父からの言葉を受け取れたかもしれなかったのに。ノエルには父のことを話したことがなかった。実は、アンソニーにも話したことがない。二人には話さなかったのに、グレンにだけは父のことを話した。ふとしたことが原因で、話すことになってしまったのだ。
「グレン、これは父さんから貰ったんだ。父さんがばあちゃんに預けてたらしくて」
そう言って、クライドは微笑んで見せた。父からの初めてのプレゼントだ。この中で唯一父のことを打ち明けたグレンになら、見せる価値があるだろう。しかしグレンはどんな顔をしていいか解らないようだった。気まずそうにクライドを見つめ、彼は哀しそうな顔をする。
「寂しくないのか? お前の父さんから何か貰ったのって、それが初めてだろ?」
グレンは悲しそうな顔をしたまま、そう言った。グレンは自分の父親をかなり嫌っているが、クライドが父のことを話したときには嫌そうな顔はしなかった。
「全然寂しくない。だって、父さんが死んだなんて思ってないし」
明るく笑うクライド。それを見て、アンソニーがノエルの方をちらりと見やる。二人には事情がわかっていないのだ。しかし、ことがことだけに聞きにくいのだろう。まあ、どうせ後からグレンが教えるに違いない。クライドはそう割り切ることにして、その場に座った。
「大分日が傾いてきたね」
ノエルはそう言うと、クライドを見た。木々の間から見えるオレンジ色の夕日が、西の空を茜色に染めていた。そろそろ日が落ちる。そうすれば、登山の続行が難しくなってくる。
ノエルはクライドの頭痛をとても心配してくれているようだ。そして、今夜の宿などについても深く思案しているらしい。確かに、早く森から抜け出してテントを張らないと野宿が出来ない。
様々な思考をめぐらすクライドの隣で、冷たい水を飲んで元気になったアンソニーがまた歩き出す気になったようだ。重い荷物を背負い、テントを抱えるアンソニー。
「今夜、テント張れないよなあ?」
グレンがそう言って、アンソニーが抱えたテントを見る。この年代の少年なら五人ぐらいは余裕で寝れそうな、とても大きなテントだ。広さなら何の問題も無いが、そんなものを張れるところはこの斜面には存在しない。もう少し上ったところに開けた野原があるのだが、そこまではこの急な斜面が続いている。陽が落ちる前にそこまでいけるかどうか、微妙なところだ。
心配をかけたくないので皆には言えないのだが、クライドの頭痛はどんどん酷くなってきていた。どうにかたどり着けたとしても、皆に迷惑がかかるかもしれない。何だか、絶望的な気分だ。
「困ったなあ……」
大きなため息をついて、クライドはすぐ傍に生えている樹木にもたれかかった。上を見上げると、天に届くかと思われるぐらいの木の高さを実感できる。
本当に、困ったことがたくさん増えすぎてしまった。こうしている間にも、頭がどんどん痛くなる。そして、どんどん西日が消えてゆく。あの消え行こうとしている茜色を、どうにかとどめる方法はないのか。そんなもの、あるはずがない。まずいことになった。
痛さのため無意識に頭に手をやったクライドを見て、アンソニーが心配そうな顔をする。
「クライド、顔色悪いよ? 大丈夫?」
そういわれて、クライドは仲間を安心させるために微笑んだ。しかしその笑みは、仲間達に安心どころか不安を与えてしまったようだ。笑っては見たものの、自分で上手く笑えていないと思ったくらいなのだから。グレンもノエルも、心配そうにクライドを見ていた。
「大丈夫だ、心配すんな」
大丈夫とは言ってみたものの、クライドの体調はかなり悪かった。大丈夫だと思いたいが、このまま歩き続けたらきっとクライドは倒れるだろう。それでも歩みを止めるわけには行かなかった。もう少しで開けたところに出るのだから。そうすれば、テントで休める。だから頑張ってあるかないと、皆が困る。
「嘘だ、絶対大丈夫じゃないだろ」
そう言うと、グレンはそっとクライドの腕を自分の肩に回してくれた。クライドは大人しくグレンの肩に凭れる。そして、二人三脚のように歩き出した。その後ろを、ノエルとアンソニーが歩いてついてくる。
気を利かせて、ノエルはクライドの荷物を持ってくれる。彼は自分の荷物だけでも精一杯だという感じだったのに、自分の荷物と同じぐらい重みのある荷物を引き受けてくれた。クライドは遠慮して、ノエルに荷物をもたなくても良いといいたかったが、酷い頭痛がそれを許さなかった。
「クライド、無理はしないで。歩けないなら休んだっていいんだよ」
不安げな声でノエルは言った。頼りなげな顔で笑って答え、クライドは歩いた。皆に迷惑をかけたくない、その一心で足を動かす。
と、そのとき。
クライドは、足元に違和感を感じた。右足を踏み出すと、左足が大きく沈む。あっ、と思ったときには遅かった。落ち葉と腐葉土に埋もれて解らなかったが、そこは大きな穴だったのだ。
樹海には天然の落とし穴が無数にあるという。この森も例外ではなかったようだ。クライドと一緒に、グレンも落ちてゆく。
「ああっ!」
「うわあ!」
真っ暗な奈落の底へ、引きずり込まれるようにクライドは消えた。
◇◆◇◆◇
二人の叫び声がくぐもって聞こえ、その後どさりと落下音が聞こえた。この穴はかなり深いようだ。落下の衝撃で二人が怪我をしたかもしれない。ノエルは荷物を放り出し、急いで穴へと駆け寄る。
「クライドー! グレーン!」
アンソニーが二人の名を呼んでいるが、返事はない。ノエルも、穴に駆け寄って大声で叫んだ。しかし、結果は同じだった。
落ちていった二人の声はせず、あたりには風の音が響くだけだ。西日は殆ど消えている。暗がりの中で、ノエルはアンソニーと顔を見合わせた。
(もしかしたら、二人はもう……)
いや、そんなはずはない。ノエルは自ら立てた仮定を必死に否定する。彼らは絶対に生きている、だから助けに行かなければ。
(でもこの高さから着地に失敗したら、僕らは生きていられないだろう)
様々な意味で恐怖心が湧いてくる。ひとつは、クライドたちの死に対する恐怖。もうひとつは、自分とアンソニーの死に対する恐怖。更に、このまま何も出来ずに時がすぎていく恐怖。
下手に動けない。決断力が鈍る。飛び込んだその先にクライドがいるとしても、ノエルが彼の上に着地してしまったなどということになったら笑い事では済まされない。
「どうしよう?」
隣で穴を覗き込んでいる不安そうなアンソニーを見て、ノエルは決心した。
何もせずここにいるのは時間の無駄だ。時は一刻を争うのだ、四の五の言わずに飛び降りなければ。
キャリーカートを引っ張り、穴の縁に立つ。暗がりの中で見ると、この穴は底なしに思えた。ノエルは、彼らの後を追って飛び降りるつもりだ。その先をどうするかという考えはない。生きて戻れる保証もない。それでも、二人を追ってここに飛び込んでみる必要があるとどこかで感じていた。理屈ではなく、本能でそれを感じている。いつでも理屈で固めた心で生きてきたノエルにしては、珍しいことだった。
「僕はいくよ。アンソニー、君も来るかい?」
つとめて冷静に言いながら、キャリーカートの取っ手を握って深く深呼吸をする。怖くないわけがなかった。だが、先ほどの奔流と違いこの穴の中には大事な親友がいる。ここに飛び込み、彼らの安否を確認するのが一番正しいことに思えた。
死への恐怖に必死で耐えるノエルの後ろで、重たい荷物を再び背負ってアンソニーが穴の縁を見つめていた。勿論アンソニーにも恐怖心はあるだろう。けれど、彼には大好きな二人のためにここから飛び降りる勇気もあるようだ。
「勿論だよ」
いつもの可愛い顔とは打って変わって、アンソニーは真面目で凛々しい表情をしていた。死ぬかもしれない。しかし、死を臆していては二人を救えない。大丈夫、飛び降りたならすぐに助けに行ける。
ノエルはそっと目を閉じ、リラックスしようと試みる。だがその行為は無駄に終わり、緊張感はまだ抜けない。隣のアンソニーを見やると、静かに頷いてくれた。もう迷うことなんかない。
「お願い、二人とも無事でいて」
小さく呟いた。アンソニーは目を閉じて、ノエルのシャツをぎゅっと掴んだ。彼の手をちょっと握ってやりながら、ノエルも目を閉じる。
――覚悟を決めた二人は、跳んだ。
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