第七話 奔流
とりあえず、海がある南を目指そうと思う。地図上では最短距離である。だが実際のところ、本当にそうなのかはかなり疑わしい。
目の前にそびえ立つのは、高い山。この山を越えて平原を歩き、森を抜ければ海に出る。そうすれば後はずっと船旅になり、徒歩よりずっと早いのだ。この山を越えさえすればあとは簡単といっても過言ではないとクライドは思う。
しかし、ここで一つ大きな問題がある。思わずため息が出るぐらい高い山にたどり着くためには、大きな川を越えていかなければならない。川幅は裕に七メートルくらいはあるだろう。絶対に、走り幅跳びの要領で越えるという考えは捨てた方がいい。
グレンなら越えられるかもしれないが、問題はアンソニーやノエルだ。自分だって越えられるかどうか解らない。というより、こんな川を跳び越えるのはグレンでさえ無理かもしれない。轟音を立てて流れるこの奔流の中に落ちたら、もう命はないだろう。
「遠回りした方がいいとおもう。僕、山登りはちょっと」
日ごろから運動不足のノエルがそう言った。彼も運動不足とは言えど十六歳の男子である。登山くらい、やってできないことはないとクライドは思う。
「うーん、俺は平気だけどな」
かく言うグレンは、体力テストで全校トップクラスの成績を誇るスポーツマンである。クラスでレクリエーションをやるときなど、チームにグレンがいれば無敵だとさえ言われている。この学年に、グレンの名を知らない者はいないだろう。体育大会などで学年対抗の種目などがあれば、グレンは上級生からも恐れられている。彼にとって山登りなど散歩と同じようなものなのだろう、きっと。
一方、体育の教師から『恐るべき運動神経』と評価されているクライド。体力はグレンほどではないと思うが、運動神経のよさにかけては人に誇れる部分がある。そのため運動は結構好きなので、山登りは別に苦痛ではない。
アンソニーはというと、長距離走ができないらしい。学年が違うので一緒に授業をしたことは無いが、序盤で体力を使い果たしてしまうので長距離よりも短距離向きだと本人は言う。体力の温存は大の苦手らしい。だから、彼は山登りには向かないだろう。最初のうちは走ったりする元気があるが、頂上に差し掛かるにつれて疲れてきてそのうち止まってしまう。持久が苦手な彼だが、それにもまして今回の場合山が大きい。山の傾斜もきついし、荷物も重いので、アンソニーの場合は山登りが絶望的に無理だ。
「僕はやだなー、山登りって嫌い」
不服そうに言うアンソニー。大荷物のアンソニーと体力不足のノエルがいるため、急な山は避けた方がよさそうだ。クライドはそう思い、町長から預かった地図を広げた。アンソニーは重たい荷物を地面に降ろす。そして、痛そうな表情で肩を摩った。
「じゃあ、迂回しようか。もう少しなだらかな山をみつけて、そっちを登ろう」
広げられた地図には等高線がちゃんと書いてあった。それを手がかりとして、この辺りの大体の地形を知る。一番なだらかな山の方を行くと、海とは正反対の北へ向かうことになってしまうようだ。どうしたものか、とクライドは嘆いた。
「クライドの想像で何とかならないの?」
小首を傾げるアンソニー。クライドは何とかしようとしているのだが、上手く想像ができない。それに、何か想像すると鐘楼を元に戻そうとしたときに感じた頭痛が酷くなる。こころなしか、足元がふらつくように感じる。これは貧血の症状だろうか。
「それが、なんとかならないんだ。トニー、どうしてもここを登るのは無理? 西の方から回り込むと海に出られるけど、そっちにもこの山と変わらないぐらい標高の高い山が沢山あるんだ。この街って、よく考えてみると山脈に囲まれちゃってるんだよな。つか、山の中で孤立してるっていうか。今までこんな辺鄙な場所でよく生きてこれたな。金があったらヘリか小型機で隣町に行けばいいんだろうけど」
そう言って、クライドは陰鬱に笑った。ああ、早くも八方塞だ。体調もあまり良くないし、これはちょっと幸先の悪いスタートではないのだろうかとクライドは思う。
クライドが地図をぼうっと眺めていると、徐にノエルが歩いてきて、地図を覗き込みながら言った。
「もし仮に僕とアンソニーにこの山を登れる体力があったとしても、まだ問題が残ると思うよ。僕たちは休みながら行けばいい。野宿だってできるし。問題は、この川をどうやって越えるかだよ。流れが急すぎて、泳いで渡るのは自殺行為だ。勿論歩いても行けないと思う。どうするんだい?」
そうなのだ。ノエルの言うとおり、川をどうやって越えるのかが問題だ。目の前でごうごうと流れる奔流を目にし、アンソニーがリュックをがさがさと探っている。中に何か使えそうなものが入っているようだ。
「あった! ねえ、クライド? これをあの木に結び付けて、ターザンみたいに行けばいいと思うよ!」
彼がリュックの中から取り出したのは十メートルぐらいあるという長いワイヤーだ。ワイヤーといっても釣り糸のようなものではなく、建築現場で使うような鉄鋼のものだ。結構太さがあるので、強度的には何の問題もないだろう。
ワイヤーを調べるクライドの隣で、あの木だよ、といってアンソニーは川の向こうに聳え立つ山を指差した。
山肌から木が突き出るように生えている。そのうちの何本かは枝がかなり多い。ワイヤーを絡めても折れないぐらい太い枝は、たくさんありそうだ。そこなら高さがあるので、ぶら下がれば振り子のように向こう側へ着地できるだろう。
しかし、そんなに高いところにどうやってワイヤーを結わえ付けるのだろう?
「あの木に手が届けばなあ」
グレンはそう言って、宙に手を伸ばした。届くはずもない大木。見えているのに手は触れない。何とも歯がゆい状態だ。木の枝を掴もうとするかのように、グレンは何もない宙を掴んだ。
すると、グレンの表情が変わった。明らかに、何かに驚愕している様子だ。まさか、何かまずいことを発見したのだろうか?
「ど、どうしたんだ?」
慌てたクライドは、グレンの肩を掴んで揺する。するとグレンはひきつった笑顔を浮かべ、ワイヤーを持ち上げた。
「な、なあ。見ててくれよこれ……」
何をするのかと思い、クライドは真剣にそれを見つめる。グレンの手によって、ワイヤーはクライドの胸辺りの高さまで持ち上げられた。そこで、グレンはゆっくり手を離す。しかし、ワイヤーが落ちてこない。不可解な顔をするノエルとクライド。そして、面白そうに見つめるアンソニー。
次に起こったことに、クライドは思わず声を上げた。何と、クライドの見ている前でワイヤーはするすると宙へ伸び、一本の木にしっかりと結びついたのだ。
クライドは唖然とした。アンソニーの口から、驚喜の声が漏れる。
「信じられるか、クライド。俺がやったんだ」
そういうと、グレンはクライドをそっと見つめた。すると、何もないのにクライドの髪が誰かの手で撫でられた。温かみは感じられない空疎な感覚だったが、この撫で方は明らかに手だろう。
「え、どういうことだ?」
気味悪く思い、自分の髪を触るクライド。一体何が起こったのだろう?
自分でも何が何だかわからないんだ、といってグレンは説明をはじめた。
「最初は何にもない所に手を伸ばしただけのつもりだった。けどなんか、手を伸ばしたら届くようになってたんだよ。普通になにか掴もうとするだろ? そうすると意識だけで手を動かせるようになるんだ。現実にある手と意識だけで動かしてる手、両方一緒に動かすのは難しいみたいだけどな。なあクライド、これって魔法の一種なのか?」
再び、クライドの頭が撫でられた。今度は、グレンがやっているのだと実感できた。グレンは困ったように笑っていた。
これが魔法なのかどうかは、クライドが断定できることではない。しかしこれは、どう考えても魔法である。そうでなければ、一体どういう説明がつけられよう?
「まさか、グレンまで魔法が使えるようになったっていうのかい?」
目の前で起きた光景に目を奪われて立ち尽くしていたノエルが、そういってグレンを見つめた。グレンは頷いた。そして、ノエルの眼鏡を取ってみせる。クライドからすれば、眼鏡は宙に浮いているようにしか見えない。しかし、グレンはその眼鏡を掴んでいる感覚だと言っている。
ずっとワイヤーを握っていたグレンだが、結わえ付けたワイヤーが向こう岸に行かぬようにノエルにワイヤーの端を握っていてもらうことにしたようだ。
「ほら、返すよ」
そう言って、グレンはノエルに眼鏡を返した。もちろん、実際に手は使っていない。クライドと同じように、ノエルも気味悪そうに眼鏡の縁を触っていた。
「どうやらそうみたいなんだ。ちょっと特殊な魔法だと思うけどな。クライドみたいに、想像すれば何でもできるわけじゃないんだ。何かを取りたいとか動かしたいとか、そう言う風に思えばすーっと物が移動するって訳でもない。あくまで、手なんだ。手だけ幽体離脱したみたいに、遠隔操作ができる。普通に手を動かしてる感覚と変わりないんだけど、動いてる手が実物じゃない」
グレンは、ノエルの問いにそう答えた。アンソニーには理解できていないようだったが、クライドはこの言葉で何となく理解できた。多分、ノエルもそうだろう。グレンにも魔法が使えるようになった。クライドにとって、これはかなり良いことだ。
「えんかくそうさって何?」
きょとんとした声で、アンソニーが言う。クライドとグレンが顔を見合してどちらが説明するのか相談しようとしたとき、すでにノエルが説明してやっていた。ついでにグレンの能力についても簡単な説明を加えてやっている。その説明で実にあっさりとアンソニーは納得した。
もしかすると、ノエルには教師の才能があるのかもしれないとクライドは思う。ノエルは大学で医学を学んでいたらしいが、教師になってもやっていけるのではないだろうか。
「とにかく向こう岸に渡ろう。俺が最初に行く」
そういって、グレンがノエルからワイヤーの端を受け取った。グレンは握っているうちに手からワイヤーが抜けてしまわないように、手首から腕にかけてを二、三度まいてからワイヤーをきつく握っている。
しかし、このままだと川面とワイヤーが垂直になったときに着水してしまうだろう。もう少し上の方を握らなければいけない。そのためには踏み台が必要だ。クライドが辺りを見回すと、丁度良いぐらいの大きさの岩があった。グレンに声をかけると、彼はそこに登って手首にワイヤーを巻きなおした。
「じゃ、いってくる! 荷物はあとから俺が運んでやるから心配すんな」
爽やかな笑顔でそういい残すと、グレンは颯爽と飛んだ。長い金髪がさらさらと風に靡いていて綺麗だ。後姿にも美しさを感じる。
数秒で川を渡り終え、グレンは実に見事なフォームで向こう岸に着地した。そしてワイヤーを手から離した。だがワイヤー自体が軽いのか、もしくは長すぎるのか、振り子のようにこちら側の岸ににワイヤーが渡ることはなかった。
こういうときこそ、グレンの出番だとクライドは思った。見えない手を使って、グレンはクライドにワイヤーをパスしてくれる。
クライドも、グレンがやったのと同じ方法で渡ろうと思った。岩の上に立ち、ワイヤーのなるべく上の方を腕に巻きつける。深呼吸をして気分を落ち着けて、次の瞬間ワイヤーに全体重を預けた。
全身を風がかすめていく。すぐ下に流れる川が、底なしの激流に見える。いいや、実際に激流なのだが。またあの頭痛が酷くなった。がんがん痛む頭を抱えようとするが、手にはワイヤーを握っているため頭は抱えられない。
太めとはいえ、ワイヤーのような細いものを腕に巻きつけているのは痛かった。手に流れる血流が止まるかと思った。
もう限界だと思って手を離そうとすると、丁度向こう岸に着いた。タイミングよくワイヤーを腕から離す。今回も、グレンがワイヤーを向こう岸に送った。
痛い手首をさすりながら、クライドは向こう岸の二人を見た。今度は、アンソニーが挑戦するようだ。
「クライド、グレン! かっこよかったよ!」
そういって、岩の上で飛び跳ねているアンソニー。グレンは呆れたように、早くこいよと呟いた。その呟きが聞こえているはずはなかったが、アンソニーはすぐにこちらに渡ってきた。
途中で手がすべって川に落ちそうになったが、彼はどうにか落ちずに川を渡りきった。そして、手を離して着地する。しかし落ちそうになったときのせいで大きく軌道が変わっていたため、バランスを崩して地面に投げ出された。
うつ伏せに倒れたままのアンソニーを見て、クライドとグレンは駆け出す。対岸では、ノエルが青ざめた顔でそれを見ていた。アンソニーは顔面から地面に突っ込んだのだ。
「トニー、トニー! 大丈夫か!」
小さな少年の身体を揺すり、グレンが叫んだ。クライドも必死にアンソニーの名を叫ぶ。揺すられたアンソニーはうう、と唸り、起き上がった。彼が頭を上げたとき、地面に何か滴った。不思議な顔をして、アンソニーはそれに触れている。それは、血だった。
はっとした様子で、アンソニーは自分の鼻を触った。彼は顔から地面に突っ込んだのだ。だからクライドにも十分予想できる事態ではあったが、実際に見るとその赤にくらりとした。結構な量の血が出ているらしく、彼の手のひらを伝って鼻血が手首の方にまで垂れている。
「うっわ、鼻血っ! どうりで鼻が痛いわけだよ」
嘆きながら、アンソニーは服の袖で乱暴に鼻を擦った。白かった服の袖はすぐに汚れ、赤黒く染みになった。
「ああっ、そんな所で拭くな! ハンカチもってたのに」
アンソニーが鼻を擦るよりも一瞬遅く、クライドはハンカチを差し出しながらそう言った。鼻血だけですんだことに安堵を覚えたのか、グレンはいつもどおりの優雅な動作で長い髪をかき上げている。
一方、アンソニーの着地失敗を見てノエルは怖気づいたようだ。ワイヤーを握る手が震えているのが、対岸からでも見て取れた。確かに、ノエルよりも運動神経のいいアンソニーが失敗したのだから、怖気づくのも無理は無いと思う。
今のこの調子でノエルがあの岩を蹴ったら、次の瞬間から彼は冷たい水の中で空気を求めてもがいているような気がする。彼が川面を眺める表情は、明らかに恐怖に満ちていた。ノエルがあんなに何かを怖がっているところなんて、見たことが無い。
川を眺める顔を上げ、ノエルは前を見た。目が合ったので、クライドはノエルを手招いた。しかし、彼は首を横に振る。
「ノエル、跳べ。跳ぶんだ! でも『飛ぶ』気持ちで構わねえよ!」
訳の解らないことをわめきながら、グレンは見えない手を使うかどうかクライドに判断を迫ってきた。背中を押しさえすれば、ノエルは嫌でも川を渡ることになる。だが、今の状況でノエルを押したら絶対にワイヤーを離してしまうだろう。震えた手でどんなに力を込めたとしても、きっと意味がない。
クライドはグレンに、やめた方が良いと告げる。グレンは黙って納得して、ノエルに声をかけ続けた。
「だめだ、僕は跳べない」
数分間説得が続いたが、ノエルはあきらめてついにワイヤーを離した。しかし、このワイヤーを使わなかったら川を越えられない。一体どうするつもりだろう?
「大丈夫だ、ノエル。手首がちょっと痛くなるけど、やってできないことはないから!」
クライドはそう言って、何とかノエルの川越えを助長しようとする。だが、ノエルは一向にワイヤーを掴もうとしなかった。ただ黙って首を横に振るばかりである。死を怖める。この川を臆す。当然のことだと思う。こちら側に来たい気持ちは山々だろうが、彼にそんな勇気はないのだ。
「僕、ひとりで遠回りする。君達は先に行って」
「ああ、もう! 馬鹿いうな! ノエル、後で怒るんじゃねえぞ!」
何故か急に、グレンが叫んだ。そして次の瞬間、ノエルの身体が宙に浮いた。驚いて声も出せないノエルは、徐々にこちら側の岸に近づいてくる。
一瞬遅れて、クライドにはこれがグレンの見えない手の力なのだと理解できた。ごうごうと轟く川を越え、ノエルはついにこちら側に渡ってきた。彼を運んだグレンは腕をさすっている。重さを感じるのは実際にある彼の腕なのだろう。
流石に、十六歳の少年をずっと高い位置に抱き上げ続けるのには骨が折れただろうとクライドは思う。ノエルは軽いのでまだ良いだろうが、もっと筋肉質な少年だったらきっと抱き上げるのなんて無理だったに違いない。
「さて、荷物もこっち側に運ばないといけないだろう?」
そういうと、グレンは笑顔を取り繕った。そして、一番軽いだろうと思われるクライドの荷物から順に向こう岸から運んでくる。アンソニーの大荷物にはさすがに苦戦したようだが、ようやくこちら側に人と荷物が全部集まった。良かったあ、とアンソニーが呟く。
「グレン、ありがとう」
ノエルはそう言って微笑を浮かべた。少し照れているようでもある。グレンは軽く笑って彼の肩を叩く。二人のやり取りを見て、クライドは深く安堵していた。よかった、一時はどうなることかと思った。
「礼なんて言うなよ」
そう言って、グレンは楽しげに笑った。クライドはそんなグレンを見て、何となく一緒に笑いたくなって微笑んだ。今頃になってようやく鼻血の止まったアンソニーは、大きな荷物を持って山のてっぺんを仰ぐ。
「ああー、疲れそうだねノエル」
山登りが苦手な彼らは、顔を見合わせて苦笑する。
「そうだね、でも大丈夫だよきっと」
そう言うと、ノエルは山を見上げた。彼がそういうなら、きっとやってできないことはないとクライドは思った。ノエルの言うことは、いちいち信憑性が高い。
グレンは見えない手を操ってワイヤーを木からはずしていた。そしてそれを丸めると、アンソニーに渡した。重たい荷物にさらに重たいワイヤーが戻ってきたので、アンソニーは渋面を作った。
「さて、行こうか」
挑戦的な視線で山を睨み、クライドは山への一歩を踏み出す。その後に続き、仲間達もはじめの一歩を踏み出した。
少しゆっくりとしたペースで始まる登山。クライドたちが山の向こうを見られる日は、いつになるのだろう。
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