第六十九話 覚醒
[J]
ここはどこだろう。おそらく、一ヶ月ぐらいここにいるのではないかと思う。時間の感覚が消えるほど、自分は長らくここで生活していた。
見渡す限り植物が生い茂る、果てない森。それ以外に何があるかといわれても答えようが無いぐらい、深い森だった。空は生い茂った木にさえぎられて見えず、あたりには獣の気配すらない。
あの日、俺は港町を歩いていたはずだった。イノセントやジャスパーと別れ、あのクライドとか言う小僧を探すために歩いていたはずだった。
そう、そこで男に声をかけられた。その男に声をかけられたあたりから、記憶が少しずつあやふやになっていく。
男は若い漁師の格好をしていた。染料のような嫌な色の目に、小ばかにしたような笑み。俺は最初から、奴を信用してなどいなかった。だが、男の話に応じてしまったことが全てを悪い方向に変えた。
奴は、喧嘩が好きだといっていた。イノセントのことを訊ねられたが、俺は奴に何の情報も与えなかった。
そのことがいけなかったのかもしれないし、イノセントのことを抜きにしても、奴は最初から俺で遊ぶつもりだったのかもしれない。
気づけば、俺は男の蒼い目を見つめていた。いや、見つめさせられていた。その時の記憶で残っているものはただひとつ、奴の目の底知れない青さだけだった。じっと見ていると、吸い込まれそうになる……
その後の記憶は断片的だが、俺はクライドから血を奪う魔法を使っていたと思う。十年以上前にも同じ魔法をクライドの父親にかけた覚えがある。
俺は、結局クライドの血を使いこなせなかった。覚えていたのはそこまでで、気づいたらここにいた。数日間は、酷い痛みと疲労で身体が動かなかった。
ここはどこだろう。どうしてここにいるのだろう。
とにかく、歩き出さなければ。風を頼りに、海のあるほうへ。そして、イノセントとジャスパーに合流するのだ。早く、一秒でも早く。
幸運にも、俺はその森から抜け出ることが出来た。俺は浜辺につけてあった小船を盗み、ひたすら南へ向かって漕いだ。行き先は、勘でわかる。ジャスパーもイノセントも、おそらくあの小僧の近くにいる。
[M]
暇な日が続く。暇で暇でどうしようもない。
イノセント=エクルストンはどこかに行方をくらましたし、ブリジット=スタイナーの店も閉まっている。腹立つな、全く。まあ、邪魔者がいないといえばそれまでだ。
俺は人間で遊ぶのが好きだ。クライド=カルヴァートを見つけた夜も、街の人を使ってみた。心をのっとられた人間ってのは弱いもので、俺がやれといえばどんな酷いことでも平気でするようになる。そういう弱い人間の頂点に立つのが俺。
かなり愉快だ。俺は、王者なんだから。
そういえば、イノセント=エクルストンの仲間はどうなっただろう? 俺が魔法で操って、ウルフガング=フローリーに処理された奴。
あいつは完全に潰しておくべきだったのに、ウルフガング=フローリーに消されちまった。クソッ。
まあいい、とりあえず帝王の仲間よりもクライド=カルヴァートを追おう。“ボス”もあいつを欲しがってるし、俺も個人的にあいつを服従させてみたい。どんなに強い奴でも、どんなに抗っても、俺がちょっと見つめてやれば皆すぐに意思を手放すから。
ついでにグレン=エクルストンも操ってみよう。そうして、二人を殺し合わせる。
そのときには、イノセント=エクルストンに観賞させてやろう。あいつにも俺と同じ思いをさせてやる、絶対にだ。楽しみだな。
そういえば、最近仲間とも会ってないな。配置につかされてから、もう一週間もたつのか。まあ、クライド=カルヴァートを見つけたら捕獲するってだけの単純な作戦だし、連絡がなくても仕方ないのかもしれない。
とはいえ、何の思念もなしに行動してへまをやらかしたら困る。久しぶりに、アイツのところによっていこうか。そして、どうやってあの子ネズミを生け捕りにするか聞いておく。俺たちなら、連携プレーも可能だしな。
狙った獲物は絶対にしとめる。横取りしようとする帝王の一味なんかには、負けてられない。
勝者は俺だ。それはもう決まっていることだから、変えようが無い。
[I]
体中が火を噴くような痛みに襲われている。
イノセントは、ひたすら痛みに耐えていた。ジャスパーはというと、甲板で太った身体を横たえて眠っている。こんな中年男が帝王の臣下としてやっていけているなんて、最初は嘘だと思っていた。
そろそろ方向転換して、ブリジットの待つあの町に帰りたい。そう思ったイノセントは、痛む身体に鞭打って操舵室へ向かおうとしたが、ふと足を止めた。
小船が一艘近づいてくる。乗っているのは一人で、髪が黒いこと以外に特徴はわからない。視力はかなり良いほうだと自分で思っているが、目標が遠すぎて見えないのだ。
だが、見覚えのある風体をしていると思う。そしてその人物は、真っ直ぐこちらに向かっている。
イノセントは、短剣を投げつける準備をした。だが、近づいてきたその人物が誰かわかったとき、短剣を握る手をゆっくりと下ろした。
「イノセント」
弱りきった声で、彼はイノセントを呼んだ。イノセントは、黙って短剣を懐に仕舞う。
小船の上からイノセントを見上げているのは、他でもないジェイコブだった。港町で行方不明になってからというもの、一度を姿を見ていないジェイコブだった。
「遅かったな、ジェイコブ」
ジェイコブが生きて戻ってきて、正直なところ嬉しかった。普段は隣にいて当前で、なおかつ邪魔だとも思っていたが、今はそう思わない。
別に、ジャスパーを起こそうとは思わなかった。長い間タッグを組んでいた仲だから、互いの存在を勘で探し当てることも可能なのだと前にジャスパーは言っていた。だからきっと彼は、起こさなくても自分でジェイコブの存在を確認しに行くだろう。
予想通り、イノセントが起こすまでもなくジャスパーはおきてきた。そして、ジェイコブに声をかけられて嬉しそうに返事をした。
二人の馴れ合いがまだ終わっていなかったが、イノセントは激痛に耐えながら船を止めて、ジェイコブの方へロープを投げた。
ジェイコブはそのロープを引っ張って、自分の小船をイノセントとジャスパーの船へ着けた。そしてそのまま、ロープをよじ登って船にあがってくる。
「ジェイコブ、無事だとわかってた」
ジャスパーは笑みを浮かべ、ジェイコブの肩を手探りでみつけ、叩く。
ふと目を留めると、ジェイコブの肩は最後に見たときと比べると、大分骨ばっていた。これはよく見るまでもないことだが、頬もげっそりとこけていて、見るからに生気の無い顔だ。
おそらくジェイコブは、クライドが言ったとおりどこかの密林でさまよっていたのだろう。そしてその間、ほとんど食べ物を口にしていなかったに違いない。
「なら迎えに来い。気の利かない男だな」
ジェイコブはいつもどおり冷淡な声でそういうが、顔は穏やかだった。
気のきかないジャスパーの代わりに、イノセントは船室の奥に保存してあった菓子パン(ジャスパーの間食用)をジェイコブに渡してやった。ちなみに、賞味期限が二日前に切れていることは言わなかった。
ジェイコブは凄い速さで菓子パンを平らげたが、直後に酷く咽た。パンが痛んでいたせいではないと思うが、明日ジェイコブが腹痛で苦しんでいたら素直に謝っておこうと思う。
「ガキはどうなった?」
ようやくおちついたジェイコブは、そういってイノセントとジャスパーを見つめた。
その問いに、ジャスパーから答えてくれることは無かった。ジャスパーは事情を知っているはずなのだが、ジェイコブと争いたく無いらしく黙ったままでいる。
イノセントは痛みで普通に立っていることが困難になったため、船室の壁に身を預けながら言った。
「俺はあいつらを守ることにした」
「今、なんと言った?」
信じられないとでも言いたそうな顔で、ジェイコブがつぶやく。イノセントは今、罪悪感を感じていた。
イノセントが闇の世界に足を踏み入れた理由は、家族からうけた酷い裏切りだった。裏切りは、人を殺すよりも残酷なことだとイノセントはずっと昔から考えていた。
それなのに、今イノセントはやっとできた仲間とよべるものたちを裏切ろうとしている。殺すよりも残酷な仕打ちをしようとしている。
「俺は生きる目的を見つけた。今まではグレンを殺すことが出来ればそこで自分が果てても良いと考えていたが、今はそう思えない。帝王に仕える理由はもうなくなった」
裏切り。それは最も残虐で非道な仕打ち。解っていても、イノセントの中で決心はもう固まっていた。
帝王だけが真実ではない。孤独ならばブリジットのそばにいれば良いのだし、ブリジットのおかげでクライドやグレンがイノセントを見る目が変わったように思う。
彼女のそばならやりなおせる。彼女のそばだったら、もう一度太陽の下で生きることが出来ると思う。
勿論、今まで犯してきた罪が消えるわけではないだろうから、刑務所に入ることにもなるだろう。それでも、イノセントは再び日の光の下で生きたかった。
「貴様は、俺達を裏切るのか」
ジェイコブは、静かな声で言う。裏切り、それはイノセントが一番嫌いな言葉。ジェイコブに言われて、あらためてイノセントはそれを実感した。胸を刺すような、抉るような、最悪の言葉。
「それでも良い。貴様がまた情に溺れて裏切られる道を選ぶというのなら、俺は文句など言わない。しかし、帝王に殺されることを覚悟しろ」
ジェイコブは、イノセントのほうをみようとしなかった。今まで健康だったジェイコブの横顔にはよくみれば皺が増えていたし、目の下には酷いくまができていた。ジェイコブのそんな変化が、ここまで来るためにいかほど体力を衰えさせたかを物語っていた。
そんな身体で、よくここまでたどり着けたと思う。やはり、ジャスパーに会いたかったのだろう。そしてもしかすると、自分にも。
イノセントはそう思って、ほんの少しだけ罪悪感を覚えた。長らく大変な思いをさせた上に、裏切るなんて。
「孤島に着くまで黙っていて欲しい。帝王が闇の世界を作ってしまったら、罪のない人が犠牲になる。幸せな家庭がひとつ、またひとつと壊れていく。絶望はこれ以上見たくない。家族に会えなくなる孤独な人間など、俺一人で十分だ」
解っている。ジェイコブとて昔は家族思いの父親だったのだ。だが一人息子の事故死をきっかけに妻との仲が険悪になり、妻と別れて今に至るのだとジャスパーから聞いた。
「だからなんだ、それで善人になったつもりか」
そう答えるジェイコブは、今の一瞬でほんの少しでも自分の家族のことを想っただろうか? 幸せだった過去を思い出して、自分たちが帝王の下でしようとしていることを少しでも考え直しただろうか?
この問いの答えは、イノセントにはわからない。
「貴様が偽善というならばそれで良い。偽善だろうが何だろうが、俺は絶望を少しでもなくしていきたいと思っている。それだけが事実だ。死んでいく人々の中に、きっと俺達を必要としてくれる人がいるはずだ。孤独だからといって、帝王にしがみついて悪事を働くのはもうやめる」
自分の意見をここまで押し通そうとしたことなど、過去の十数年間にはなかった。
自分の意志に人を従わせようと思ったことすらなかったし、自己主張をしてその末に捨てられるのが怖かったのもあった。
「……イノセント、貴様は変わった」
ジェイコブは壁によりかかったまま、ずるずるとその場にへたり込んだ。いよいよ身体がもたなくなってきたようだ。
いつもは同じぐらいかそれより上にある視線が、下からイノセントを見上げている。
ジェイコブは、狂ったように笑った。ジャスパーが不安そうにそんなジェイコブの方を向いている。向いてはいるが、目が駄目になっているので見えてはいないだろう。
やがてジェイコブは、腹を抱えながらイノセントを見上げていった。
「貴様は変わった! どうしようもない馬鹿になった! いいだろう、その馬鹿につきあってやる! だが、貴様が帝王に殺される時、巻き添えを食らうのはごめんだ。そして俺は、直接あのガキを助けるつもりなど毛頭無いからな!」
どうやらジェイコブは、まだ仲間でいてくれるらしい。よかった、まだここに居場所がある。
イノセントは柄に無く安堵し、自分もその場にへたり込む。傷の痛みが酷くなった。今夜は石鹸で身体を洗えないと思う。
「ああ、承知している」
イノセントは、痛みに耐えながらそれだけそっと呟いた。
そして、船の進行方向を変える。もと来た道をたどるように、あの島国へと再び向かうのだ。
主人公の登場シーンがないのは初かもしれません。
クライドたちも帝王サイドのメンバーも、少しずつ『覚醒』しています。
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