第二十九話 イノセント、意味は純潔
走っていると、道端に包帯が捨ててあるのが見えた。何となく見覚えがある。どこかで見たような気がするが、包帯なんてどれも一緒だ。見覚えがあるのはそのせいかもしれない。
包帯に気をとられていると、クライドは誰かとぶつかった。それは身体の質感からすると男性のようで、クライドは弾き飛ばされて地面に転んだ。肩を打ちつけて、鈍い痛みに襲われる。
起き上がると、冷たい目をした男が居た。一瞬、全ての動きを放棄してクライドは彼を凝視してしまう。この男のことは忘れもしない。クライドは、彼をあやうく焼き殺しそうになったことがあるからだ。
そう、この男は鐘楼塔に忍び込んだ若い金髪の泥棒だった。あの日と同じ嘲笑を浮かべ、男はクライドの胸倉を掴み上げた。
そうか、勘は正しかった。敵はここにいたのだ。そして、残る二人はきっと廃墟にいる。しかし、喜ぶのはまだ早い。この男にやられてしまっては意味が無いのだ。クライドは男の逃れようと暴れたが、男は手を緩めない。
クライドが諦めて魔法を使う覚悟をしたとき、男は不意にその手を離した。手を離しただけではなく、後ろに吹き飛ぶようにして倒れたのだ。
何が起こったのかわからなくて、クライドは一瞬呆然とした。振り返ると、ノエルやアンソニー、そしてグレンがいた。グレンが拳を正面に突き出して、男を睨んでいる。そうか、グレンが見えない手でこの男を殴ったのか。
こうやって敵を倒した後、いつもならグレンは笑ってくれるはずである。してやったりと笑みを浮かべるはずなのだ。しかし、今回は違った。無表情に、男を見つめている。
何があったのかはわからないが、グレンの様子は尋常ではなかった。この表情は、普段の楽天的なグレンが浮かべているそれではない。いうならば、全ての感情が死んだような表情だ。
「久しぶりだな、兄貴」
何の感情も篭っていない声で、グレンは言った。まるで、物でも扱うような言い方だった。
クライドは唖然とした。グレンの態度もそうだが、その発言に驚いたのだ。
――兄貴?
グレンに兄なんて居ないはずだ。アンソニーは目を丸くしていたし、ノエルは軽く疑問の声を上げた。不審に思い、クライドはグレンを見る。隠し事なんて、しないで欲しかった。何故だか、頭を殴られたように頭痛がした。
「この間はおまえを護るのに精一杯だったから説明できなかったんだ」
ごめん、とグレンは呟いた。相変わらずの無表情だ。謝罪はいいから、詳細を聞きたいとクライドは思った。
男は冷たい目でグレンを見ていた。彼もグレンのことをちゃんと認識しているようだ。嘲笑する感情さえ消えたようである。彼はただ無表情に、その場から起き上がる。
形の良い唇に血が滲んでいるのは、グレンに殴られたせいだろう。グレンが彼を見つめ返したときに、ほんの少しだけ男の目つきが変わった。今まで感情が消えていた男のその目に、強烈な負の感情が垣間見えたような気がする。
無感動な声で、グレンは語りだした。誰に語るともなく、ただ単純に渡された台本を棒読みしているような口調だ。
「俺の兄貴。名前はイノセント=エクルストン。俺がまだ小さかった頃に、兄貴は人を殺した。そのときの兄貴は、まだ十歳にも満たない子供だった。親父が鍛えた短剣で、兄貴は見ず知らずの子供を刺した」
ひっ、とアンソニーが悲鳴を上げた。ノエルがグレンを見て、その後どうなったのかを話すよう目線で促している。
隠し事をしないで欲しい。ついさっきまでそう思っていたクライドは、複雑な気分だった。いくら親友でも、こんなに悲しい事実まで包み隠さず話すなんて辛いだろう。
それなのに自分は、隠し事をするなんて酷いと思っていた。グレンの心の傷を広げようとしていた。不甲斐ない。自分が愚かしく思えてたまらない。
「その後、俺の一家は散々非難を浴びた。でも、町長が町の人に何かしたらしいんだ。あるときを境にして、世間の風当たりは全く通常通りになった。何も無かったかのように。兄貴は孤児院に預けられた。もう十年以上もあってなかったけど、一度も忘れた事は無かった」
そして今に至るのだ、とグレンは言う。そこで初めて兄の方が口を開いた。お前なんてもう見たくもない存在だった、とグレンの兄は呟く。
こんなに憎みあった兄弟が他にいるだろうか? クライドは、胸を締め付けられるような悲しさを感じた。
「貴様はただの他人だ。馴れ馴れしく兄貴と呼ぶな」
そう言って、兄はグレンを見つめた。深い悲しみと、深い怒りがみてとれる視線だ。その目を見て、ノエルが微かに悲しそうな顔をした。考えている事は、きっとクライドと同じだろう。
「血染めの俺にかけた貴様の第一声は一生忘れない。貴様を殺すまで、一生」
その一言を聞いて、わずかにグレンが怯んだのが見て取れた。アンソニーが唇をかみ締め、グレンを見上げる。アンソニーのその目が何を語ろうとしているのか、結局クライドにはわからなかった。しかし、アンソニーのあんなに苦しそうな表情は見たことがなかった。
グレンの兄が、淡々と続けた。よくみれば、その顔立ちはグレンとよく似ていた。あまりにも二人の雰囲気や表情が違いすぎるため、すぐに気づけなかったのかもしれない。最初に会ったときには気づかないが、言われてみれば気づくというやつである。
グレンの兄は、今にも殺しそうな目でグレンを見つめたまま微動だにしない。
「何もわかっていないようだな、裏切り者が。一番の裏切り者である貴様が、その事実すら忘れてのうのうと生きているだと? 長い間俺を忘れて平凡に暮らしてきて、ある日突然思い出してその態度か。自分は両親の元でぬくぬくと一人息子として育っておいて、孤児院で世間の白い目と戦いながら育った俺のことは数年で記憶の外か。貴様は俺の何を知っている。堂々と兄だと言えるほど俺を知っているつもりなのか? あの日、誰も俺の話など聞こうとしなかっただろう。貴様とて例外ではない。冷血だ、殺人鬼だ、と蔑まれた。貴様にもだ。覚えていないだろうがな」
吐き捨てた彼のこめかみの辺りには、青筋が浮いている。口調こそ冷静で無感情だが、心の中は煮えたぎっているに違いない。グレンはただ呆然と兄の話を聞いていた。そして、何度も首を横に振る。何かを否定するように、何度も。
「違う、兄貴」
「必要とされることなど二度とないと知った。だが、我が帝王は貴様らのようなつまらない輩どもとは違った」
「帝王?」
愕然と呟くグレンに、イノセントは冷たい目を向ける。
「まあいい、長く喋りすぎた。俺はこんな話をしにきたわけではないからな」
そういい終えると、イノセントは紺色のシャツをめくり上げて、腰の辺りに隠していた何かを取り出した。短剣だ。それを見て、グレンは苦しげに呻いた。
その短剣は、古びた銀色をしていた。所々さび付いているようだったが、刃先はしっかり煌いていた。クライドはグレンを見やる。グレンは束の間、苦悩に満ちた顔をしていた。
「貴様を殺す」
冷たく硬い声で、イノセントは言った。グレンが一歩ひいて、斜め下の地面を見下ろした。
「兄貴……」
俯いたグレンの声は弱弱しかった。
グレンに向かってイノセントが短剣を振り下ろした。迷いの無い一撃だ。当たれば死は免れないだろう。咄嗟に庇いに入ろうとしたとき、
「駄目えっ!」
アンソニーが金切り声を上げた。その甲高い大声に驚き、イノセントの動きに一瞬だけ隙が出来た。どうやら兄は、アンソニーやクライドたちを視野に入れていなかったらしい。
イノセントが一瞬だけ動きを止めたその隙に、グレンは魔法を使っていた。見えない手を使ってイノセントの手から短刀をもぎ取り、その身体を突き飛ばしたのだ。倒れた彼は、起き上がらない。腰を強く打ったようで、呻いている。そんなイノセントを悲しげに見て、グレンはクライドを振り返った。
「アン…… じゃない、トニー。助かったぜ。クライド、頼みたいんだけどいいか?」
グレンは、兄に魔法を掛けてくれるようクライドに頼んだ。そして、奪い取った短刀を握り締める。この短刀はもう絶対にイノセントには返さないつもりだろう。
震えるようにため息をつき、グレンは倒れたイノセントを振り返って言った。
「兄貴だって、俺のこと何もわかってない。俺は兄貴を忘れてなんてなかった。ずっとずっと、謝りたかったから」
グレンを睨みつけて起き上がろうとしているイノセントの動きが一瞬止まった。グレンは哀しげにイノセントを見下ろし、目を伏せてクライドの方を振り返った。そして、軽く頷いた。その合図を見て、クライドは目を閉じる。次の瞬間、イノセントはぱったり動かなくなった。眠らせたのだ。追いかけて殺しにくる可能性が高いから。
大きくため息をついてグレンは眠った兄を見下ろし、その腕を肩に回して支えながら木陰に連れて行った。そこでなら、眠っていても通行人の邪魔にはならないだろう。
「悪いな、皆」
「謝る必要なんかないだろ」
「俺、事件直後の兄貴にひどい事言っちまって。それで」
「いいよ無理に話さなくて。解ってるよ。お前が恩をあだで返すような奴じゃないことぐらい、知ってる」
数年とはいえ生まれた時から一緒にいて、一緒に遊んでくれた人を、拒絶したり裏切ったりするようなことはグレンには出来ない。クライドはそう思っている。確かにグレンには短気で軽率なところもあるが、彼はちゃんと筋の通った情に厚い人間なのだ。
「ほら、エディがまだでしょグレン! エディはきっと、この先に居るんだから」
アンソニーがグレンの袖を引っ張る。決して気遣いの足りない声ではない。グレンの性格を解っていて、その扱いをよく解っているからこその言葉だった。ノエルが心配そうにグレンを見上げた。その視線に気づいて、グレンはどこか吹っ切れたような笑みを浮かべる。
「大丈夫」
明るい声だった。表情も明るかった。しかし、何故か安心感は与えてくれない声だった。クライドは何か言おうと思ったが、かける言葉は見つからなかった。
哀しすぎる兄弟だ。互いの想いは一方通行だし、今はそれが疑いに変わっている。いや、もう一方通行でさえもないかもしれない。二人の間には、いまや残酷なまでに深い溝がある。
ノエルがそっとクライドの服を引っ張った。それ以上考えるな、という意味だろう。それもそうだ。グレンと兄の問題は兄弟間の問題である。即ち、いくら親友であろうと助けを求められるまでは干渉してはならないのだ。誰よりも理性的なノエルは、最初からそれに気づいていたようである。
「はやく、エディを救出しないと!」
廃墟を指差し、アンソニーが叫ぶ。クライドは頷き、廃墟を見据えた。そして、用心深く踏み入ってみる。
崩れかけた廃墟は、もとは屋敷だったものらしい。だからかなり広い。しかし、大部分が損傷しているため、隠れ場所にできるような部屋は少ない。
「二手に分かれよう。とりあえず……」
そう言いながら、クライドは目の前に足を踏み出した。
しかし、中央の通路は朽ちていた。全く無意識のうちに足を踏み出したら、床は大きな音を立てて崩れた。土やほこりが舞い上がる。
危うく落ちそうになって、クライドは思わずアンソニーの右腕をつかんだ。それにいち早く気づいたグレンが、アンソニーの左腕を引っ張る。そして、二人とも無事に引き上げてくれた。朽ちた床を良く見て、なるべく丈夫そうな箇所を探し出してそこに身を落ち着けるクライドとアンソニー。
「ありがとうグレン、ごめん、トニー」
舞い上がる埃に咽ながら、クライドは言った。隣でアンソニーも何か言おうとしているが、ひどく咽ているためうまく言葉になっていない。
まだ魚のうろこが落ちていないため、埃とうろこで体が凄いことになった。自分や親友の格好を見て、クライドは眉を顰めた。ノエルは自分の腕にした時計を見ている。あの人ごみから抜け出てきたときから既に二十分が経過していると、彼は言った。
「気にするな。それとノエル、まだエディは大丈夫だろう。そのうち、ジャスパーとかいうメタボな泥棒が動き出すかもしれないけど」
二人を見て、苦笑いしながら答えるグレン。そしてグレンは、クライドに手を伸ばした。彼の手を握り、クライドは立ち上がった。先ほどの言葉の続きを言おうとすると、ノエルがクライドを止めた。
「クライドとグレンは離れた方がいいね。僕とアンソニーはきっと戦力にならないから」
そう言って、ノエルはアンソニーを見た。アンソニーは彼に言われた事を自覚しているようで、悲しげに頷いた。確かに、二人は体力的にあまり戦力になってはくれないだろう。
しかし、頭脳戦でいくならノエルが役立つだろうし、観察力でいったら視力の魔法を使えるアンソニーの右に出るものは居ない。ここは、彼らの希望で決めよう。
「トニーとノエルはどうしたい?」
クライドがそう言うと、ノエルは徐にポケットに手を突っ込んだ。ポケットの中からは、一枚の硬貨がでてきた。
ノエルはそれを指先で弾き飛ばした。コインは回転しながら垂直に宙にあがり、すぐに落ちてきた。
回転しながら落ちてくるコインをすばやく右手で押さえると、ノエルは右手を左手の甲に伏せた。
「この手をどけて、コインの表裏を見て決める。表が出たら君と、裏が出たらグレンと行動するよ。何か、異議はあるかい?」
皆は首を横に振った。それを見て、ノエルは手の甲にかぶせていた手をどける。彼の手の上に乗ったコインは、裏だった。そっとグレンに目配せし、ノエルはクライドに手を振った。彼らは、正面から見て右側の通路を行くようだ。
クライドはアンソニーを促すと、左の通路を行く。この道の先にどんなことが待っているかなんて、今のクライドには全く見当もつかなかった。しかし、行くしかない。待っているのはハプニングや悲劇ではなく、エディなのだ。
朽ちた床を踏み抜かないように注意しながら、クライドは歩いた。後ろからアンソニーも追ってくるが、まるで酔っ払いのような千鳥足だ。苦笑し、また前を向く。
足を踏み出すたびに木の軋る音が響いた。ここにはもう誰もいないのか、そう思ったときに声がした。
静かに振り返ると、クライドは唇に人差し指を当てる。アンソニーに向かって、「少し黙っていてくれ」と念じた。この言葉が届いたかどうかは解らない。クライドは、そっと折れかけた柱の陰に隠れて様子を窺う。
「……ったく、うるせえガキだなあ。ジェイク、殺しちまってもいいか」
苛々したような声が聞こえた。殺す、という単語に寒気を覚えた。耳を澄ますと、唸る声も聞こえる。きっとエディの声だ。
口を塞がれているのだろうか? くぐもった微かな唸り声意外には、彼のものと思しき声は聞こえない。アンソニーが息を呑む気配がした。クライドは振り返ると、再び唇に人差し指を当ててみせる。
「愛称で呼ぶなと言っている。そいつは人質だぞ、殺すのは待て。それより、イノセントはどこにいきやがったんだ? ジャスパー」
相変わらず冷酷そうな声が聞こえた。彼らが歩き回っている音がする。木が軋んでいるのだ。
ジャスパーが歩いていたら、きっといつ床が抜けてもおかしくない。思わずクライドは、ジャスパーが床を踏み抜いて地下に落ちるところを想像してしまった。
途端に、物凄い音がした。重量を感じさせる、鈍い音だ。ジェイコブが埃で咽ているのが聞こえる。
どうやら魔法が働いてしまったらしい。うかつだった。
「やべっ」
思わず囁くと、アンソニーがくすりと笑った。しかし、ジェイコブとジャスパーは物音をかなり立てているので、クライドたちの声はかき消されて二人には届いていないようだった。
ぎしぎしと木が軋む音がし、それがみしりと折れる音もする。上から埃が降ってきているのか、ジェイコブがしきりに咽る声がした。
「げほっ…… おいっ、大丈夫かジャスパー!」
きっとジェイコブは、床にあいた穴を覗き込んでいるのだろう。その下で呻くジャスパーは、腰を痛めて動けないはずだ。
よし、どうせやるならとことんやってやろう。ジェイコブも落としてしまえ。想像する。ジェイコブが足元をふらつかせ、穴に落ちるところを。
「うわあ!」
情けない声が聞こえた。後ろに居たアンソニーと一緒に、思わず笑ってしまう。よし、突入だ。
アンソニーに向かってひとつ頷くと、クライドは柱の陰から軽やかに躍り出た。
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