開店準備中に店ごと異世界に転移した携帯ショップと、好奇心のつよい魔王
いったい、どこで何を間違えたのだろう。
僕は半開きのシャッターの向こう側を見つめながら、さっきまでそつなく行われていた開店準備フローを、幾度となく反芻した。
店内主電源はオンにした。ロッカーやキャビネットの鍵は全て開けたし、ファックスもシュレッダーも業務端末やレジスターの電源も入れた。あとはシャッターを開け、自動ドアの電源を入れれば開店準備は終了だ。
いつもと同じ。今まで何度となく繰り返した作業だ。僕は――少なくとも僕は――いつも通りだった。なのに。なのに、シャッターの向こうに見える景色が、どうして。
「――なあ、オサト。ひとつ聞いていいか」
人差し指を焼きつつあったタバコを、慌てて灰皿へ押しつけながらタクミ先輩が僕の名を呼んだ。
「ここは、ソフトファンク携帯ショップ新宿店だよな」
「……そうです」
「新宿って、バスケットボールと同じでかさのハエが飛んでんだっけ」
「昨日までは、いなかったです」
「そのハエを丸呑みにするカエルとかいたっけ」
「昨日までは、いなかったです」
「オサト」
「はい」
「……ここ、新宿か?」
「ちょっと自信ないです」
開店準備を終えた僕たちの目の前に広がるのは、新宿の、あの喧噪と雑踏と排気ガスと夏の薫風に塗れた街並みではなかった。むせ返るような熱帯の風と、鉄錆と生ゴミの混じった臭い。そして、視界を満たすねじくれ曲がった木々と、地を這う極彩色の草花だった。
僕もタクミ先輩も叫び出したいのを我慢しながら、何とか平静を装っていた。きっと何かの間違いだ。過労からくる幻覚か、ストレスからくる幻覚か、さもなくば幻覚のどれかだ。いやとにかく一旦シャッターを閉めよう。そしてもう一度開けば、いつもの新宿に戻っているはずだ。
そう思い自動ドアに近づいた僕の目の前で、頭が二つある蛇が、アイドルの等身大立て看板を器用に巻き取っていった。
僕らの正気はあっけなく限界を迎えた。
「なんすかここどこですかここ! 何区ですか、いったい何区なんですか赤羽から電車一本でいけるとこなんすか!?」
「知らねえよ! 交通の便を心配する状況じゃねえだろ今はよ!」
「イヤですよ僕ぜったいにイヤですからね、実家から車で二十分以上かかるとこには勤めないって決めてるんですからね!」
「とにかくいったんシャッター閉めろ! オサト、閉めろ早く!」
「僕? 僕に言ってんすか!? さっきのあの馬鹿でかい蛇見なかったんすか! ていうか店長いないんですか、いつもなら休憩室でハゲてる時間でしょ、店長にやらせましょうよ、ねえ!」
「店長は遅番だ、今ごろまだ家でハゲてんよ!」
「じゃあタクミ先輩行ってきてくださいよ、先輩だし茶髪だし足立区出身だし、おねがいしますよ!」
「まったく関係ねえし足立区バカにすんな。キャバ嬢のヒトミちゃんも『歌舞伎町よりマシ』つって褒めてんだぞ! とにかく開店準備はお前の仕事だろうが、仕事は最後まで――」
突然、身体が一瞬宙に浮くほどの震動が走った。
僕らはそろって外に視線をうつし、そのまま固まった。
自動ドアの向こう側から、ウツボカズラを頭から被った巨大なイカみたいな生き物が、こちらを覗き込んでいた。「ヒッ――」悲鳴が喉奥でくぐもった。巨大ウツボイカは、口から無数の触手を吐き出しながらにじり寄り、眼球つき触手の先端を、かすかに開いた自動ドアの隙間にねじ込んだ。ドアは、老婆の悲鳴めいた音を立てながらゆっくりと開きだし――。
「ぎ――ぎゃあああああ!」
一目散にバックヤードへ駆け込もうするも、一瞬早く触手が回り込んだ。
つんのめるように立ち止まった僕らの胴体に触手が巻き付いた。
「た、助けっ、誰か、先輩! 先輩なんとかしてくださいよこのイカ触手! そうだ、空手、確か空手やってたって言ってましたよね!? 僕、前から空手やってるタクミ先輩のことそこそこ頼れるって思ってたし、まあまあかっこいいって思ってたんでお願いします!」
「お前はあらゆる褒め言葉を煽り文句にする才能があるなクソガキ。空手でどうにかなる状況じゃねえし、そもそも俺がやってたのは小学生の頃だ!」
「え、うっそマジで言ってんすか。はーもうマジ使えないんすけど」
「イカじゃなくテメェに正拳くれてやろうか?」
そうこうしているうちに、ウツボイカカズラは自動ドアを蹴散らし、その口の部分を店内に侵入させた。
細かい触手が無数に蠢くイカの口が、突如ボコボコと泡立ち始めた。
――食われる。
そう思った瞬間、イカの口から出てきたのは、鋭利な牙でも、消化液でもなく、人間だった――いや、そいつは人の形はしていたが、人ではなかった。顔は何か花びらのような物で覆われて見えず、身体には墨色の蔓がびっしりと巻き付いていた。
その怪人は、しばらく店内をきょろきょろ見回していたかと思うと、触手で身動き取れない僕の前にずいと歩を進めた。顔を覆う花びらの奥から、ホオズキのように赤い瞳が覗いている。
「あ、あの、ど、どちら様……でしょうか」
「余か」
しゃべった。
確かに男の声が聞こえた。僕とタクミ先輩は互いに顔を見合わせた。二の句が継げないでいる僕たちに、そいつは言い放った。
「余はこの樹海を統べる者――樹海の魔王だ」
樹海の魔王と名乗る怪人の来店により、タクミ先輩はとうとう限界に達したのか、何も見てないといわんばかりに明後日の方を向いてタバコに火を点けだした。
魔王は相変わらず僕をホオズキの瞳でじっと見ている。タクミ先輩が肘で僕を前に押しやった。――え、うそ、僕? 僕がこれ処理すんの?
魔王は近くの接客カウンターに腰掛け、その向かいに僕とタクミ先輩を触手で無理やり座らせた。
「貴様は――」魔王がゆっくり言う。「貴様は、何者ぞ」
僕? と指さすと、こくりと頷かれた。
「不可解な建造物に、不可解な生物がいると、余は報告を受けた。来てみれば、なるほど、余の知識の埒外のものが並んでおる。一片の病葉も踏みにじることなく、一枚の花弁も驚かすことなく、貴様らはここに現れた。なぜだ? 何者だ?」
「え、えっと、それは僕らもわかんなくて……気づいたらここに移動させられていたんです。本当に。突然に……」
「ふむ」と魔王は顎に手を当てた。「何らかの因により、本来ここに居るべきではないものが召喚された。そういうことか」
拍子抜けするほど落ち着いた口調でそう言った。
「お、驚かないんですね。よくあることなんですか……?」
魔王は僕の質問を完全に無視して、横にあった店頭用のデモ機をいじくり始めた。
「これはなんだ」撫でたり小突いたりしていたかと思うと、おもむろに口を開け端を少し噛んだ。「かたい」
「あ、ちょ、ちょっと困ります。そういう風に扱うものではないので!」
反射的にデモ機とりあげてから、しまった、と思った。魔王の紅い眼と、触手の眼球が一斉に僕を睨めつけた。しかも心なしかちょっとムッとしているように見える。このイカは魔王の側近か何からしい。
「貴様はその石の扱い方を心得ておるようだが、では、それが何かも余に説明できよう」
「はっ、はいっ……その、これはっ、携帯電話と言いましてっ……音声を電波に変換して、遠くの人とも会話ができるようにする機械なんです、けど」
「けいたいでんわ? でんぱ?」
魔王は皆目見当もつかないという様子で、目を細めた。
「あの、簡単にいうと、離れたところにいる人とも会話ができるものです」
「離れたところ? それは、大声を出すのと何が違うのだ」
「大声すら聞こえないぐらい離れてても大丈夫なんです。もっと、ずぅっと遠くです。山の向こうでも、海の向こうでも」
「その石が……? にわかには信じられん。やってみせろ」
「えっ。あ、はい……じゃあ……これ、持っててください」
恐る恐るデモ機を魔王に渡した。「あ、噛まないでくださいね!」「承知した」
僕は自分の携帯を取り出し、デモ機に発信した。
果たしてこの異世界で携帯が通じるのか? という疑問が脳裏をよぎったが、デモ機からは、当然のように軽快な着信音が流れ出した。
「なっ―――」デモ機を持った魔王が椅子を蹴散らして立ち上がった。
「なんだ、なんだこれは! 鳴いた、鳴きだしたぞ! 貴様、どうすればよいのだ!?」
「とって、とってください! 電話とってください!」
「とる? とるとはなんだ!? 殺せばいいのか! なるほどこやつ赤く光っておる、余を警戒しているということか、よかろう! 神樹を統べる紅蓮の焔、その眼に焼き付けて灰燼と化せ!」
「わーちょっとダメです紅蓮の焔は困ります! 店内での紅蓮の焔はご遠慮ねがいます! ここです、ここ押せばいいんです!」
拳を振り上げる魔王の横から手を伸ばし、受信ボタンを押した。
「鳴きやんだぞ……」
「耳に当ててください」自分の携帯を耳に当てながら言う。一瞬、魔王の耳はどこにあるのだろうと思ったが、同じポーズを取ったところを見ると、人間とさほど変わらない位置にあるようだった。
「じゃあ、その格好のまま俺から離れてみてください」
「離れれば良いのか? どのぐらい離れれば良いのだ?」
「試しに、僕の姿が見えないぐらいのところまで離れてみてください」
「承知した」一言そういうと、魔王は何事か低い声で呟いた。途端、巨大な花弁が魔王を包み込んだかと思うと、掛けていた椅子ごとその姿が消した。
「へっ――?」
驚きの余り携帯を落としかけ、慌てて両手で押さえた。
さっきまで魔王が居た位置には微かに光の粒子が舞っているだけだった。
『――貴様、聞こえるか。聞こえているのか』
通話口からややノイズの混じった声が聞こえた。「あ、はい! 聞こえます! 聞こえております!」返答すると、向こうから、おお……と感嘆の声が薄く聞こえた。
『ここまで離れても聞こえるぞ! なんと、驚いた。凄まじいな、この石は!』
朗らかな声がテンション高く耳朶を打った。
『貴様一つ聞いても良いか? この石――』魔王の後ろで激しい爆発音『――すれば、もしかして余の后や――』続けて何か猛獣の咆吼のような音『あるいは配下の者どもなどに――』咆吼と爆発音が交互に鳴り、その度に通話に激しいノイズが乗った。『ええい、くそ、やかましいなここは!』
「……あの、魔王様……失礼ですが、どちらにいらっしゃるんですか?」
『ギネ火山にある竜裔どもの巣だ。捕らえた小鳥をどちらが喰うかで、姉妹喧嘩を始めおった』Gyyyyyyrrrrr!『あ、こらやめろ、溶岩を掛け合うな! 身体についたら洗っても中々落ちんのだぞ!』GyyyyyrrrRRR! Jayyyyyygggyrrrrrr!!『バカこら! これは餌ではない! 余の石だ! 余のけいたいでんわ石だぞ、こら! ――』
唐突に通話が切れ、やや間があって、再び目の前の巨大な蕾が現れた。
ゆっくり開いた蕾の中から、憮然とした表情の魔王が出てきた。
身体中に泥のようなものをくっつけた王は、カウンターに、上部を丸ごと何かに食いちぎられ、半分だけになったデモ機を放り投げた。
「こわれた」
「……食べられてますよね」
「何もしてないのにこわれた」
「いや、まあ、いいんですどね。デモ機だし……」
ウエハースのように食いちぎられたデモ機を廃棄ボックスに入れ、同型機をカウンターに出すと魔王が目を輝かせた。
「この石は一つではないのだな? そういえば貴様も持っておった。たくさんあるのか? そこな赤土色の頭の男がいじっておるのも同じものか? 答えよ、赤土頭の男!」
急に声を掛けられたタクミ先輩は、壊れたおもちゃみたいに何度も頷いた。
「なんと、なんとなんと! 色が違うのもあるのだな、大きさが違うものもあるぞ。この全てがけいたいでんわなのか? 生まれ落ちて幾星霜、これほど驚いたのは初めてかもしれぬな! つまりこれらは、そこらに転がる石に貴様らが一種の……魔術的錬金……そういったものを施して、会話を可能にしたものなのだな。心得た。であれば、ひとつ、その……折り入って頼みがあるのだが……」
こちらに容喙する余地を与えずまくしたてていた魔王が、ふいに声をひそめた。
「この石を、けいたいでんわを、一つ余に譲ってはもらえんだろうか?」
「いや、それは――」そう言われた瞬間、僕もタクミ先輩も固まった。
「ダメか? やはり貴重なものなのか?」
「そういうわけじゃない、ん、ですが、その……携帯電話を実際使えるようにするには、契約を行って頂く必要がございまして、魔王様では失礼ながらそれが不可――ぐぇえ!」
タクミ先輩に後ろから襟首を掴まれ、僕はヒキガエルのような声を漏らした。
「バッカ、お前何断ろうとしてんだよ」
ヘッドロックのような形で僕の首を抑えながら囁いた。
「ここであいつの機嫌損ねてどうすんだ。見たろ、あのワケわかんねえ力! あいつなら俺たちをここから元の世界に戻す方法も知ってるかもしれねえ。あいつはこの狂った世界でおそらく唯一話が通じる生き物だ。絶対に逃がすな。俺たちが生き延びるためのルールその一、あいつの言うことには全部『イエス』だ、いいな!」
「……どうした? 余は何かまずいことを言ったか?」
「あーいえいえ! 全然大丈夫でございます魔王様! 今私どもで話していたところなんですよ、是非とも王様に携帯電話をお持ちになっていただきたいと!」
「そうか! 譲ってもらえるのか!」
「ちょっと先輩、そんな勝手に話進めないでくださいよ!」
「うるせえバカ、魔王様がせっかく携帯に興味をお持ちになられたのに、それをむげに断れんのかよ、テメェ心がサバンナかよ。全身全霊で適当な修理代替機をお渡ししてお茶濁せばいいんだよこんなもん!」
「荒んでいるって意味なら先輩の考え方の方が数倍サバンナですよ!」
「話しているところ悪いが、石の形は選べるのか? 選べるなら余はこの形が良いぞ」
そう言って魔王はパンフレットを開いて見せた。
そこには、防塵。防水。耐衝撃を謳う最新機種が載っていた。
「こ、これを、ご希望で、ございますか?」
「うむ。質感は黒檀のように滑らかで、形も勇壮で申し分ない」
「い、いや、でもこれは――ぐぉえ!」
再び襟首を引っ張られた。
「『答えは全部イエス』だっつってんだろ! 魔王様がご所望あそばされてんだから、素直に従うのがショップ店員ってもんだろうが! テメェ心が札幌の激安デリヘル嬢かよ!」
「醜いって意味のたとえならもっとマシなの絶対あったでしょ! だって、この機種先月出たばっかで、修理代替機はおろかデモ機やモックすらウチに入ってきてないじゃないですか! どうするんですか!?」
「契約させろ」
――……は?
「聞こえなかったのか、契・約・さ・せ・ろ! 申込書書かせて契約センターに送って、携帯を開通させんだよ! いつも死ぬほどやってんだろうが!」
「で――できるわけないじゃないですか! 相手は魔王ですよ、魔王!」
「さっきから何をこそこそ話しておる、この石がないなら余は別に無理にとは――」
「あーいえいえ! 全っ然問題ございません! そちらは我々の取り扱うものの中でも特に機能――じゃなくて魔力、が高いものでございまして! さすがお目が高くいらっしゃる! ただですね、魔力が高すぎる故に少々、お渡しするのに、その……儀式が必要ございまして……携帯電話を司る神々にお伺いを立てる必要が……」
「なるほど……かような奇跡を可能にする錬金術であれば、さぞ高位な一柱の神威が示現したものと思ってはおったが……。その神というのは、もしかしてここに描かれておる、この者のことか?」
そう言って、パンフレットの表紙で微笑む暴力ヤバ芽の顔を指さした。
「ご明察でいらっしゃる。その者、名をボーリキーと申しまして、携帯と闘争を司る女神でございます!」
「やはりな。この不敵な笑み、ただものではないと思っておったわ」
「では早速儀式にうつらせて頂きたいと思います、詳細はこちらのオサトくんからご説明いたしますので――」
言って、タクミ先輩は全てを僕に押しつけた。くそ、もう野となれ山となれだ。
僕は半ばやけくそな気持ちで、キャビネットから複写式の申込書を一綴り取り出した。
「では、契約を行いますので、魔王様こちらに記入を……」
「なんだこれは」
「契約を行うための申込書です。ここにお名前と、ご住所と印鑑、あとこの下はプラン内容を記入する項目です。お使いになる携帯電話がスマートフォンの場合でしたらLTEプランをオススメしておりますが、あ、その場合オプションとしてwifi-homeboxというものもございまして――」
「む、むう? むうう、む?」
魔王の頭から伸びた枝葉が見る見るねじくれ【?】の形になった。
「さらにソフトファンクスマートパスなども――ぐぇえ!」
タクミ先輩にまたしても喉元を引っ張られヘッドロックをかけられた。
「天下一のバカかお前は。んなこと説明したってわかるわきゃねえだろうが! お前がそんなだからウチは毎回精査ラインギリギリなんだよ! どいてろ!」
タクミ先輩は僕を椅子からおしのけると、代わりにそこへ座った。
「魔王様たいっへん失礼いたしました! ただいまオサトくんが申し上げましたのは、契約を履行するための、そのう、呪文みたいなものでして! 必要な部分は私めが書いておきますので、魔王様はお名前とお住まいを教えて頂ければ結構でございます!」
「む? そうなのか。名か。様々あるが、親しい者は余をセフィロトと呼びおる」
「セフィロト・魔王様ですねー素敵なお名前ですねー。お住まいはどちらになりますか?」
「ケテルの頂きだ。たまに今日のようにマルクトに降りることもあるが」
「ケテル、ケテル……ああ、はいはい。広島の辺りにそんな地名があっ……たような気がしてきました。今、してきました! なので広島にしておきますね。じゃあ次は――」
調子よくまくしてたててた先輩が急に動きを止めた。
口元は、しまった、というように歪んでいる。
「どうした? 赤土頭の男よ。続けぬか」
「ええと、その。つかぬことをお聞きしますが魔王様……免許証……というか、ご本人様であることを証明する書類は、お持ちでいらっしゃいますか?」
「証明? 現にこうして相見えておるのに、これ以上の証明があるものか」
「え、えっと、実際に契約を行うのは魔力を持つ神々の仕事でございまして、その神々に対して魔王様の存在を証明する必要があるのです、ですから……」
魔王がぽん、と膝を打った。
「なんだ、そういうことか。それなら今ちょうど持っておる」
そう言って魔王の指しだしたのは一枚の葉っぱだった。
「え、っと、こちらが、魔王様の証明書類、ですか?」
「左様。この世に生を受くるまで、余を包んでおった神葉だ。その葉相には余の過去、現在、未来、そして力の所以全てが記されておる。問題なかろう?」
「あー……はい! 問題ございません! 全くもって問題ございません、な! オサト、な! というわけで後は頼んだ」
タクミ先輩はごく当然のように僕に葉っぱと申込書を手渡してきた。
「この二枚を契約センターにファックスしろ。何か言われてもゴリ押せ、いいな」
「いやちょっと待ってください先輩。無理ですよ、いよいよ無理。どう考えても通るわけないじゃないですか。葉っぱですよ葉っぱ。こんなもん不備で返ってくるに決まってるでしょ。どうゴリ押せっていうんですか!」
「タヌキに化かされて、とでも言えば良いだろ」
「自覚がある時点で全く化かされてないんですよ」
「いいから送れ。そして祈れ。この案件を処理する担当者がこの葉っぱに書かれてることを読める可能性に賭けろ」
「こんなもん相当ヤバいクスリキメてないと読めるわけないじゃないですか」
「じゃあ担当者がヤバいクスリキメながら仕事してる可能性に賭けりゃいいだろ」
「間違いなく俺がヤバいクスリキメながら申込書送ったって思われるのがオチですよ!」
「んなこと言ったってお前、じゃあどうすれば――」
言いさして、何かを思いついたように顔を上げた。しばらくしきりに指を動かしながら何かを思案しているようだったが、そのうち、口角が見る見る吊り上がっていった。
「ある。あるぞ。くそったれ、なんで気づかなかったんだ。魔王様が使える免許証が、一枚だけある!」
口元に肉食獣の笑みを浮かべながら、今さっき記入したばかりの申込書を破棄して、もう一つづり、まっさらな申込書を取り出し魔王の前に置いた。
「魔王様、ご証明の神葉、確かに確認いたしました! ですが、その、もう一つ、この度の儀式を完遂するにあたって、女神ボーリキーが……生贄を所望しておりまして……」
「なんだと……。どこまでも理不尽な神よの。しかし生贄と言われてもな」
「ご安心下さい! その生贄は、このオサトが立派につとめますので! 魔王様はしばしお待ちくださいませ!」
タクミ先輩が弾けんばかりの笑顔で僕の肩をたたいた。いやいや? いやいやいや?
「え、ちょっと? 先輩? まさか? まさかですよね?」
「察しがいいな。そうだ。お前が契約するんだよ。お前の名義と、お前の個人情報と、お前の免許を使ってな」
「い――イヤですよ何言ってんですかバカじゃないんですかバカだとは思っていましたけど!」
「お前ひとりが我慢すれば魔王様は晴れて携帯をお持ちになることできんだぞ、免許証の一枚や二枚安いもんだろうが。テメェ心がディズニーに歯向かった者の末路かよ」
「終わってんのは先輩の性格ですよ! なんと言われようと免許は絶対渡しませんからね」
「安心しろ。もうお前の財布から抜いた」
勝ち誇った笑みをうかべた先輩が、いつの間にか抜き取った僕の免許証を指先でもてあそんだ。
「い、いつの間に……返して、返してくださいよ!」
「ガタガタうるせえな、今回だけ、一人だけだから許せ。契約者名義はお前なんだから、元の世界に戻ったらしれっと解約しちまえばいいんだよ」
「う……本当に、本当にこれっきりですからね?」
「こんなこと何回もあってたまるか。絶対今回限りだ、約束する――」
突如、衣を裂くような音が鼓膜をつんざいた。見ると、店内の窓ガラスがぼろ切れのように裂かれ、そこから上半身裸の女が覗いていた。
「ティファ、どうしてここに!」
女は意味深な笑みを浮かべながら魔王の隣の座った。女の下半身は蛇だった。
「セフィ、帰りが遅いから心配して来てみれば……ここはなに? 外は暗いのに随分明るいのね」
「あ、あのう……魔王様、そちらの女性は……?」
「余の妃だ。城で待っておれとあれほど言ったのに」
「あなたがいなくて寂しかったのよ。ああ、そうそう、そういえばギネの王が――」
蛇女が言いかけたその時、飛び上がるほどの大轟音と共に店の壁がぶち抜かれ、もうもうたる土煙の中から、全身が鱗に覆われたトカゲ男が現れた。
「ここにいたかセフィロト。我が娘に何を食わせた、答えろ」
「ギネ、いや、違うのだ。それはお前の娘たちが勝手に――」
「ぽんぽんを痛がるから、ぺっぺさせてみたら、こんな石が出てきた。匂いを辿るとここにお前がいた。この石はなんだ? 返答次第ではいくら貴様といえど容赦せん」
ぶち抜かれた壁からまた別のウツボイカが顔を出し、その口から多数の植物怪人どもが姿を現した。
「魔王様! ここにいらしたのですか! マルクトにクサバエが大量発生しまして、我ら駆除隊百名にて作業にあたっておったのですが、どうにも数が多く――ん? ここは、いったい? この石は? 魔王様?」
「説明してもらうぞ、セフィロト」
「私も知りたいわ、セフィ」
「いや実を言うとな……それはけいたいでんわと言って、遠くの者と会話が……ああ、そうだ、オサト、タクミ、こやつらにも一つけいたいでんわを用意してやってはくれまいか? このすばらしい石を目の当たりにすれば、納得するだろうて!」
店内を埋め尽くす怪人の集団に、僕は顔が蒼くなった。
冗談じゃない。魔王一人でも手に余るのに、こんな人数絶対に無理だ。タクミ先輩も僕の免許証を握ったまま固まっている。しかしその口には、妙なうすら笑いが浮かんでいる。まさか、この人。
先輩は、突如背筋を伸ばし、満面の笑みを広げた。
「はいもちろん、喜んでー!」
「は――話が違うじゃないですか! 一人だけって言ったのに!」
「うるせえこうなりゃ一人も百人も一緒だろうが!」
「だいたいなんで僕のなんですか、先輩の免許証でやればいいじゃないですか!」
「俺の写真うつり悪いからあんま見せたくないんだよね」
「鬼かアンタは! ――……」
「おお、すばらしい! これが余のけいたいでんわなのだな! おお、おお!」
「なんと、セフィロトの妄言かと思っておったが、まことであったか」
無事申し込み審査も通り、開通を果たした新品の携帯電話を、魔王たちは撫でたりさすったり頬ずりしたりしている。感嘆の声をあげるたび、魔王の頭の蕾が、ぽむ、ぽむ、と桃色の花弁を開いた。
タクミ先輩はニコニコしながら、携帯の使い方を彼らにレクチャーしている。
僕はといえば、もう立つ気力も無かった。
申込書が送られるその一瞬、ファックスに、どうか通じないでくれ、と願うも叶わず、ただ今はもう元の世界に戻りたい、そのことだけを考え、カウンターに突っ伏していた。
「随分と苦労をかけたな。礼を言うぞ、オサトとタクミ。余に何かできることがあればよいのだが……」
その言葉に僕は顔をあげた。タクミ先輩は待ってましたと言わんばかりに指を鳴らした。
「であれば、魔王様! ひとつ折り入って魔王様にお願いしたいことがあるのです!我々は先ほども申しましたとおり、本来この世界の住人ではないようでございまして……できれば、元の世界に戻りたいと思っているのですが……」
魔王は少しの間、タクミ先輩のことを見ていたが、ふいに呵々と笑いだした。
「なんだ、そんなことで良いのか。造作もないわ」
「ほ、本当ですか!?」
「無論。余の力をもってすれば、崩れ牡丹を摘むより容易いことよ」
「じゃ、じゃあ、どうかお願いします!」
「よかろう。では少し目を閉じておれ」
言われるがままに僕とタクミ先輩は目を閉じる。突然、ふっと身体が浮いたようだった。無限に落下するエレベーターの中にいるような感覚を、カウンターにしがみつきながら必死に耐えた。
「――楽しき時であった。何かあれば余のけいたいでんわとやらに連絡をするがよい。貴様らであれば、余はいつでも歓迎するぞ」
魔王の声が鼓膜の奥で反響する。
そして全くの静寂が訪れ、身体から浮遊感が消えた。
泥のような微睡みのあと、僕はゆっくりと目を開けた。がらんとした店内が目に入った。魔王も、蛇女も、トカゲ男も、植物怪人たちもいない。そして、そして!
「あ……ああ、ああああああ!」
ウツボイカカズラにこじ開けられた自動ドアの向こうに広がる景色は、まぎれもない、うるさくて、うすぎたなくて、ろくでもない新宿の街並みだった!
僕と先輩はわき目もふらず外に飛び出した。
「戻ってきた、戻ってきた、戻ってきましたよ、先輩!」
涙を流しながら互いに抱き合い、小刻みに飛び跳ねた。通行人が珍妙な眼差しを向けて、ある者はカメラのシャッターを切り、ある者は悲鳴をあげたが、それも一切気にならなかった。このままキスしてもいいぐらいだった。
「新宿、新宿だ、俺たちの街だ! 見ろ! やかましくて、反吐みたいな匂いのするガード下だ! クッソ鬱陶しいキャッチの群れだ!」
「見えてます、見えてますよ先輩! アホみたいな人の多さも、いつもイライラしてる交差点も、全部、全部新宿です! ぜったいに、まちがいなく新宿ですよ!」
「――ほう、シンジュクという名の国なのか。それにしても、うす汚いところだのう。こんなところが恋しかったのか?」
――えっ?
「セフィ、でも面白いところだわ。見て、みんな発情期のような色をしている」「少し寒いな、ここに火山はないのか?」「魔王様、クサバエ駆除のご指示を――」
あっ。