これが直江状の全て!
~槍のカウントは忘れたわけじゃありません。
わざとつけてません。
言うなれば番外編です。
今回は「直江状」の全文書きました。
何が問題って、古文苦手なくせに現代語訳もしました。
もはや小説ではありません。
()の中が現代語訳です。
ですから、古文読むのが嫌いなかたは読み飛ばし推奨です。
初めてこんなことやりました。
でも、書いてて結構面白かったですよ。
すごい疲れましたけど…。
ちょっとでも読んでいただけると嬉しいです。
今回は逸話というか、手紙をそのまま書いただけに近いです。
1600年4月14日。
直江兼続は、徳川家康に手紙を書いた。
世に言う「直江状」である。
礼儀作法をあえて一切無視した書き方で、わざと家康を怒らせるために書いた手紙である。
まず、なぜ直江状ができたのか。
時は1600年。
上杉謙信の23回忌に出席していた直江兼続は、謙信の姉である仙桃院から「堀秀治(越後に新しく赴任してきた頭首)が上杉家に謀反の疑いがあるって家康に言ってたわよ」と告げられた。
その話を聞いてすぐ、家康から手紙が届いた。
「謀反の疑いがある。上洛して説明せよ」という内容だった。
上杉に謀反の気などなく、明らかに冤罪。
しかし、上洛すると暗殺の恐れがあった。
上洛しないと謀反だと決定される。
そこで兼続は、上杉に謀反の心などないということを告げるために手紙を書いた。
これが直江状である。
では、内容を見ていきたいと思う。
今朔の尊書昨十三日下着具に拝見、多幸々々。
(謀反の疑いがあるという手紙、昨日13日に読んだ)
一、当国の儀其元に於て種々雑説申すに付、内府様御不審の由、尤も余儀なき儀に候、併して京・伏見の間に於てさへ、色々の沙汰止む時なく候、況んや遠国の景勝弱輩と云ひ、似合いたる雑説と存じ候、苦しからざる儀に候、尊慮易かるべく候、定て連々聞召さるべく候事。
(我が越後についていろいろと不穏な噂が上がっているそうですねぇ。内府様(家康)は越後の国が謀反を起こすと思ってるみたいですけど、それは違う!隣同士の京と伏見くらいの距離でも噂は立つもの。ましてやここはさらに遠い越後です。景勝を弱輩と言って、言いたいように言ってるのでしょう。そのような噂に耳を貸すんじゃありません)
一、景勝上洛延引に付何かと申廻り候由不審に候、去々年国替程なく上洛、去年九月下国、当年正月時分上洛申され候ては、何の間に仕置等申付らるべく候、就中当国は雪国にて十月より三月迄は何事も罷成らず候間、当国の案内者に御尋ねあるべく候、然らば何者が景勝逆心具に存じ候て申成し候と推量せしめ候事。
(景勝の上洛を不審だというが、一昨年に国替えして上洛し、去年九月に帰国した。正月も上洛するのでは、時間が無くて何もできないじゃないですか。越後は雪国だから10月から3月は何もできません。越後の案内者に冬の様子を聞いてみてください。それでもなお景勝に逆心ありと言うのですか?)
一、景勝別心無きに於ては誓詞を以てなりとも申さるべき由、去年以来数通の起請文反古になり候由、重て入らざる事。
(景勝に謀反の心などありませんし起請文を持ってこいなど、去年から数回出している起請文は意味のないものだというんですか)
一、太閤以来景勝律儀の仁と思召し候由、今以て別儀あるべからず候、世上の朝変暮化には相違候事。
(太閤(豊臣秀吉)は景勝を律儀の人と言った。それは今も変わりません。世の中の朝変暮化とは違うんですよ)
一、景勝心中毛頭別心これなく候へども、讒人の申成し御糾明なく、逆心と思召す処是非に及
ばず候、兼て又御等閑なき様に候はば、讒者御引合せ是非御尋ね然るべく候、左様これなく候
内府様御表裏と存ずべく候事。
(景勝は謀反など考えていないが、謀反を企てているというガセネタを流しているやつがいるのです。そういうやつの言葉を信じて、ちゃんと調べないというのであれば、内府様(家康)の方こそ表裏がある人間ということです)
一、北国肥前殿の儀思召のままに仰付られ候、御威光浅からざる事。
(前田利長殿に出した命令。さすが、ご威光は浅くないですねぇ)
前田利長も、家康に謀反の疑いを掛けられていた。(後に容疑は晴れた)
一、増右・大刑少御出頭の由委細承り及び候、珍重に候、自然用所の儀候へば申越すべく候、榊式太は景勝表向の取次にて候、然らば景勝逆心歴然に候へば、一往御意見に及んでこそ侍の筋目、内府様御為にも罷成るべく候処に、左様の分別こそ存届けず候へども、讒人の堀監物奏者を仕られ、種々の才覚を以て妨げ申さるべき事にはこれなく候、忠信か、佞心か、御分別次第重て頼入るべく候事。
(増田長盛・大谷吉継が出頭したそうですね。珍重に思います。自然と用があればその二人に言います。榊原康政は表向きの景勝の取次ぎですが、どうして景勝に謀反の疑いがあるなどと言うのでしょう。一往意見を聞いてこそ武士の筋目であり、榊原がちゃんとした情報を内府様(家康)に届ければ誤解は招かなかった。密告者である堀秀治のウソを鵜呑みにされた。どうして榊原が取次ぎなのか)
一、第一雑説ゆえ上洛延引候御断り、右に申宣べる如に候事。
(第一噂は上洛を断っているから起きるだけですよ)
一、第二武具集候こと、上方の武士は今焼・炭取・瓢べ以下人たらし道具御所持候、田舎武士は鉄砲弓箭の道具支度申し候、其国々の風俗と思召し御不審あるまじく候、不似合の道具を用意申され候へば、景勝不届の分際何程の事これあるべく候や、天下に不似合の御沙汰と存じ候事。
(武具を集めていることを不審に思っているそうですが、上方(都会)の武士は今焼・炭取・瓢(ヒョウタンのこと)など人たらしな物を集めるが、田舎武士は鉄砲や弓の道具を集めます。それぞれの国の風習であり、不審なことはありません。景勝に似合わないものを集めているわけではない。そんなことを気にするのは天下人っぽくないですよ)
一、第三道作り、船橋申付られ、往還の煩なきようにと存ぜらるるは、国を持たるる役に候条此の如くに候、越国に於ても舟橋道作り候、然らば端々残ってこれあるべく候、淵底堀監物存ずべく候、当国へ罷り移られての仕置にこれなきことに候、本国と云ひ、久太郎踏みつぶし候に何の手間入るべく候や、道作までにも行立たず候、景勝領分会津の儀は申すに及ばず、上野・下野・岩城・相馬・正宗領・最上・由利・仙北に相境へ、何れも道作同前に候、自余の衆は何とも申されず候、堀監物ばかり道作に畏れ候て、色々申鳴らし候、よくよく弓箭を知らざる無分別者と思召さるべく候、縦とへ他国へ罷出で候とも、一方にて景勝相当の出勢罷成るべく候へ、中々是非に及ばざるうつけ者と存じ候、景勝領分道作申付くる体たらく、江戸より切々御使者白河口の体御見分為すべく候、その外奥筋へも御使者上下致し候条、御尋ね尤もに候 、御不審候はば御使者下され、所々境目を御見させ、合点参るべく候事。
(道路を作り、船や橋を渡して交通を整備するのは国を持つものとして当然である。前国主の堀監物(堀直政)が何もやってないから大変です。本国の、久太郎(堀秀治)を踏みつぶすのは造作もないことです。景勝が会津に行った事業は言うに及ばず、上野・下野・岩城・相馬・正宗領・最上・由利・仙北に道をつなぎました。土地の者も何とも言ってません。しかし、堀監物(堀直政)だけが道を作るのを恐れ、色々言ってくる。武道を知らないから慌てているのだろう。本当に逆心があるというなら、道を作ったりしないで封鎖するでしょう。不審な点があれば、使者をください。全てを見せて合点いかせます)
一、景勝事当年三月謙信追善に相当り候間、左様の隙を明け、夏中御見舞の為上洛仕らるべく内存に候、武具以下国の覚、仕置の為に候間、在国中きっと相調い候様にと用意申され候処、増右・大刑少より御使者申分されは、景勝逆心不穏便に候間、別心なきに於ては上洛尤もの由、内府様御内証の由、迚も内府様御等間なく候はば、讒人申分有らまし仰せ越され、きっと御糾明候てこそ御懇切の験したるべき処に、意趣逆心なしと申唱へ候間、別心なきに於ては上洛候へなどと、乳呑子の会釈、是非に及ばず候、昨日まで逆心企てる者も、其行はずれ候へば、知らぬ顔にて上洛仕り、或は縁辺、或は新知行など取り、不足を顧みざる人と交り仕り候当世風は、景勝身上には不相応に候、心中別心なく候へども、逆心天下にその隠れなく候、妄りに上洛、累代弓箭の覚まで失い候条、讒人引合御糾明これなくんば、上洛罷成るまじく候、右の趣景勝理か否か、尊慮過すべからず候、就中景勝家中藤田能登守と申す者、七月半ばに当国を引切り、江戸へ罷移り、それより上洛候、万事は知れ申すべく候、景勝罷違い候か、内府様御表裏か、世上御沙汰次第に候事。
(景勝は、3月に謙信を追悼するために暫く時間を空け、夏に上洛する気でした。在国中に国の情勢を整えるつもりでした。増田、大谷から使者が来て言うには、景勝に逆心の噂あり。違うなら上洛してそう申せと言うことだ。逆心が無ければ上洛せよなど、乳飲み子の考えで是非に及ばず。昨日まで謀反を企てるものも、世の中の流れが変われば知らん顔で上洛する。そういうのは景勝には似合いません。景勝家中の藤田能登守という者が、家をでて上洛したことがありました。景勝を攻めるより、密告者を処罰してください。景勝が裏切り者か、内府様(家康)に表裏があるのか、世間が判断してくれるでしょう。)
一、千言万句も入らず候、景勝毛頭別心これなく候、上洛の儀は罷成らざる様に御仕掛け候条、是非に及ばず候、内府様御分別次第上洛申さるべく候、たとえこのまま在国申され候とも、太閤様御置目に相背き、数通の起請文反故になり、御幼少の秀頼様へ首尾なく仕られ、此方より手出し候て天下の主になられ候ても、悪人の名逃れず候条、末代の恥辱と為すべく候、此処の遠慮なく此事を仕られ候や、御心易かるべく候、但し讒人の儀を思召し、不義の御扱に於ては是非に及ばず候間、誓言も堅約も入るまじき事。
(どれだけ言っても耳に入りませんよね。景勝に逆心はありません。内府様(家康)が物事を分別できるようになったら上洛します。もしこのまま在国したら太閤様(秀吉)の意志に背き、数通の起請文に背くことになります。幼い秀頼様を見放すことになりますが、仕方なしです。こちらから戦を仕掛けると悪人の名は逃れられませんし、末代までの恥となりますので、やりません。しかし、不義だと言われては、誓言も堅約もありません)
一、爰許に於て景勝逆心と申唱え候間、燐国に於て、会津働とて触れ廻り、或は人数、或は兵粮を支度候へども、無分別者の仕事に候条、聞くも入らず候事。
(隣国で堀が景勝逆心と唱えているのは既に知ってます。会津が動くと言いまわって、人や兵糧を支度してるそうですが、無分別者の仕事です。耳を貸さないでください)
一、内府様へ使者を以てなりとも申宣ぶべく候へども、燐国より讒人打ち詰め種々申成し、家中よりも藤田能登守引切候条、表裏第一の御沙汰あるべく候事、右条々御糾明なくんば申上られまじき由に存じ候、全く疎意なく通じ、折ふし御取成し、我らに於て畏入るべきこと。
(内府様(家康)へ使者を送って話をしようと思ってましたが、隣国では堀が騒ぎ、家中からは藤田能登守であります。裏表のあるものばかりで意志が通じません。)
一、何事も遠国ながら校量仕り候有様も、嘘のように罷成り候、申すまでもなく候へども、御目にかけられ候上申入れ候、天下に於て黒白御存知の儀に候間、仰越され候へば実儀と存ずべく候、御心安きまま、むさと書き進じ候、慮外少なからず候へども、愚慮申述べ候、尊慮を得べきためその憚りを顧みず候由、侍者奏達、恐惶謹言。
(何事も遠いので、推測するしかありません。言うまでもないと思いますが、世間は白黒を知っています。事実を教えてください。気ままに思うままに書きました。文章に考慮せずに書きました。)
慶長五年。
四月十四日。
豊光寺。
直江山城守兼続。
ああ~…疲れた…。
本当に疲れました…。
訳、どこか間違ってたら教えてください…。
参考までにいろんなサイトは覗きましたが、大まかなものしか出てこなくて…。
最後の方、結構ハショッタのは内緒です。
許してください…。
分からなかったんですよ…。
今回直江状について調べたのはここまでです。
因みに、直江兼次直筆の直江状については現存していません。
今あるのは全て写本で、内容もバラバラだったりと不明な点も多いです。
条数まで14条~16条までと様々です。
ついには後世の創作と言う話まで…。
しかし、この時期に家康を怒らせる手紙を兼続が書いたことは間違いないそうです。
現存しないのが惜しいです!
次は普通に逸話書きます。
明日にでも書けるといいなぁ…。