僕はふと思った。そういえばいつも側に居てくれる。僕の右側は美優の指定席だった。
「だいたいアンタはさ、ずぼらなのよ。」
「ずぼらねぇ…。」
「はぁ、それが簡単に治ったら私は苦労してないけどね。」
美優の嘆く声が今朝も聞こえて来た。まだ覚醒しきっていない僕の頭には少し重く感じられてしまう。今、美優は僕の部屋に居る。別にそのことに関して驚きはしない。僕にとってそれが普通だし、日常な訳だからむしろ美優が僕の部屋に居ないことの方が驚いてしまうだろう。
「ねえ、慧。」
「ん?」
「アンタの右は渡さないから。」
「はい?」
「そこんとこよろしく。」
美優は勝ち誇った顔を浮かべ、僕にその細く長い、しなやかな指を向けている。
「あむ。」
だから僕は美優の美味しそうな人差し指に噛み付いた。
「ひゃう!?」
噛み付いたと言うよりは甘噛みしたというのが適切だろう。美優はなんとも奇妙な声を出した。ただ、僕にしてみれば今の美優の奇声よりも、先の美優の吐いた言葉の方がよっぽど奇妙であった。
「け、慧一郎!な、何してるのよ!?」
美優が僕を略称ではなく慧一郎と呼んだので余程驚いているようだ。
「いやさ、おいしそうだったからね。」
「ば、ばっかじゃないの!噛むな!」
「はいはい、もうやんないから。」
僕がそういうと何故か美優は残念そうな顔をしていた。
「うぅ…た、たまには噛んでもいいよ。」
さらに今度は微妙に目を潤ませているようで、ついさっきとは真逆のことをいっている。まさに朝令暮改だ。
「今流行りのツンデレだね。」
「ツ、ツンデレ言うな!」
怒鳴りながら美優は僕に突撃して来た。そう来ると粗方予測していたが、美優の勢いが想定の範囲外だったので押し倒される格好となった。柔らかい美優の香りが僕の鼻から脳天へと抜けていく。華奢な身体を壊さないように優しく包んでやろう。
美優は何も話さない。僕は美優を離さない。
「意外と分かってるじゃない。」
先に話したのは美優であった。僕はまだ離さない。
「まあね。他にリクエストは?」
「ばか…。」
本当に僕らがこうなれると思うには余りにも大きな傷があった。美優の言葉は深い。
「アンタの右は渡さないから。」
この言葉の意味に僕は正直気が付いてた。
2ヶ月と3日前のことになる。その頃も高校生をしていた。あれは僕が元親友の黒澤透から美優を呼び出して欲しいと言われた日であった。元々黒澤が美優に気があったことは知っていた。当時は親しい仲であったので黒澤の要求を、僕は快く承諾していた。
「ねえ美優。」
「何?」
「透が帰りにちょっと用事があるから教室に残っててくれだってさ。」
黒澤からの言伝てを美優に伝えた。
「ふーん、って何アンタは帰ろうとしてるわけ?」
あまり興味がなさそうに返事を流した美優だったが、僕が帰ろうとしていたことに反応している。
「少し野暮用がね。」
察しは着いていると思うが別に用なんてなかった。気を利かせたと言えばそれまでなのだが、あまりその場に居合わせたくなかったのかもしれない。美優はもちろん納得していなかった。
「アンタは私を差し置いて帰るつもりなの?」
「ごめん。わりと急用なんだ。」
「少しぐらい待っててよ。」
尚も美優は食い下がっている。何か必死さを感じたが僕は適当に誤魔化した。
「また明日帰ろう。」
「…っ!?もういい、わかった。」
急に美優は大人しくなって、あからさまに暗くなっていた。そろそろ帰らないと黒澤が来る時間なので僕は然程気にせずに教室を後にした。
ふと家に帰る途中で、学校に去年美優から誕生日に貰った銀製のシャープペンシルを忘れたのを思い出した。明日でもいいだろうと思ったが、美優から貰った物なので無くしてしまうと不味い。それにどうしても美優が気になった。既に僕の足は来た道を戻っていた
足早に学校に戻り教室へと向かっていた。教室に近付くにつれ声が漏れて来た。
「美優ちゃんってさ、付き合ってる人とかいるの?」
「いない。っていうかそれぐらい慧から聞いてるでしょ。言いたいことあるならさっさと言って、私早く帰りたいの。」
丁度黒澤が告白しようとしているところだった。声だけなので美優の顔は見れないがかなり不機嫌な声である。二人の会話は続いた。
「実はさ、俺美優ちゃんのことずっと前から好きだったんだよね。だから付き合って欲しいんだ。」
「そう。無理ね、私はあなたとは付き合わない。」
「どうして?」
「嫌だからよ。」
黒澤は美優に振られたようだ。
「ふはははは。」
どういう訳か黒澤は笑い出していた。気でも狂ったのだろうか。
「くくく、アイツの言う通りだな。」
「アイツって慧のこと?」
「ああそうさ。アイツに言われたよ、今お前が言ったことと同じようなことをな。流石は相思相愛の幼馴染みだな。他の男は眼中にないってか?」
確かに僕は黒澤に大方美優は誰とも付き合わないだろうと口にしていた。
「さあ?それより、一つだけ…一つだけお願いがあるの。」
「やっぱり付き合って下さいだろ?」
美優は黒澤の嫌味など気にも掛けずにこう言い放った。
「黒澤透。今後一切慧と関わるな。」
「はぁ?」
「アンタと慧とじゃ格が違うの。アンタと関わってたら慧が汚れる。」
「くくく、あははは!」
美優はいつになく語気が強かった。それに対して黒澤は大袈裟に笑った。とても耳障りな笑い声だった。
「アイツの方が格上?逆だろ、俺の方が格上だろ。」
「御目出度い人ね。アンタなんか慧の足元にも及ばないのに。」
「笑えねえ冗談だな。あんなクズが俺より上だと?目障りなんだよ!あの見透かすような目、安っぽい偽善、上辺だけの言動、そして何よりお前だけに向けられてる愛情がよ!」
今度は黒澤が声を荒らげた。僕に対しての罵声だろうがあまりどうも思わなかった。一向に教室に入るタイミングを見失った僕はまだ廊下に突っ立っていた。
「はぁ…、だからアンタは慧の足元にも及ばない。」
美優のわざとらしい溜め息が静かな教室に響いた。
「慧の見透かしたような目は何の為?あれは真実だけを見抜く目。慧はどうして偽善者なの?それは誰かが偽善ぶらなければこの世は崩れてしまうから。慧が上辺だけの言葉しか吐かないのは?きっと慧は言葉の、それも人の心が籠った言葉の力を知ってるのよ。だから安易に言葉を使わない。アンタには分からないと思うけど。」
初めて聞いた美優の僕に対する印象は十分な程に僕を驚嘆させた。美優は完璧だった。
「買い被り過ぎなんだよ!俺はアイツを苦しめる。その為だったら俺は何だってしてやる。その為にお前を呼んだんだからな!」
机が倒れる音がした。
「きゃっ。」
同時に短い悲鳴が漏れた。僕は慌てて教室のドアを乱暴に開けた。そこには美優が押し倒され、黒澤に馬乗りにされている光景があった。
「何やってんだ…何やってんだよお!!」
「け、慧!?」
「よお、元気か親友?」
僕の怒声に美優は驚いていた。黒澤は逆に冷静だった。それが僕には頭にきた。
「美優から離れろよ!」
黒澤の胸ぐらを掴み、無理矢理黒澤を立たせて窓の方へと押しやった。
「美優、大丈夫?」
「うん。」
倒されていた美優に駆け寄り声を掛けた。美優は既に立ち上がっていた。怪我はないようである。
「それより慧が何でここにいるの?」
「ちょっとね。さてと…黒澤、どうして美優に手を出した?僕が気に食わないなら僕にやればいいだろ。」
美優の前に立つように黒澤と対立する。少しだけ空いた窓からは肌寒い風入って来ていた。
「それじゃ意味がない。お前を苦しめるには一番効果があることをしないとな。だが邪魔が入ったから…まずはお前を動けなくしてからだ!」
黒澤はポケットに忍ばせておいた刃渡り12cm程のナイフを取り出した。銀色のそれが夕陽を受けて鋭く光った。
「てめえうぜぇんだよおぉ!!」
喉元に血管を浮かべた黒澤はナイフの刃先を僕の胸元目掛けて突っ込んで来る。一瞬、ほんの一瞬僕は避けようと直感的に考えてしまった。しかしそれは自己防衛という生物本来の本能だった。それを直ぐに理解し頭から切り捨てた。僕の存在価値とは何だ。安い自愛か…それとも―――。
「僕は美優の為に生きてんだよ!」
黒澤の狙いは初めから美優だった。僕が少しでも体を反らせば美優に被害がでただろう。だから僕は逃げなかった。美優を蔑ろにして自分を守る為に逃げることは死ぬことと同義だ。僕の存在理由を忘れるな。
「うぐっ…!?」
現実は真っ赤だった。右腕はナイフで深く抉られ、血が行き場をなくして流れていた。全身が熱かった。喉が乾く。当たり前だ。僕は特段格闘技や体を鍛えてはいない。武器を持った男に勝る訳はなかった。勝る訳はなかったが…。
「でも僕の勝ちだ。美優は生きている。僕の勝ちだ。へへへ…。」
そこからは僕は知らない。ただ美優の声が聞こえたきがした。
「慧ぃ!!」
「ねえ慧…、慧の右腕大変なことになっちゃったね。でもね、心配しないで。私が慧の右腕になるから。だから、だからねずっと私を慧の右側にいさせてね。」
後日談になるが、黒澤はいつのまにか学校からいなくなっていた。僕の怪我は一応ナイフで遊んでいて起きたということにした。今回黒澤が何故このようなことを仕出かしたかについては、あまり触れないでおこう。ただ一つだけ言えることは、もし黒澤と僕がまた違った出会い方や違う価値観を見出だせていたならば親友になれたかもしれない。それでも黒澤がしたことを許すつもりもないし、例えどんな親しい友達だろうと美優と同じ天秤には掛けられない。全てを蹴落としてでも美優を優先するだろう。それはこの身朽ち果てるまで不変だ。
美優を抱き締めてどのくらい経っただろうか。その間2ヶ月と3日前のことが頭を巡っていた。美優はじっとしていたがおもむろに僕の右腕のシャツを捲り上げた。
「酷い傷。」
完全に綺麗には治らなかった。それと右手の握力が以前より弱くなりあまり重い物が持てなくなった。
「ちょっとかっこいいでしょ?」
僕はちゃらけて見せた。
「………。」
その無言が僕には恐かった。悪ふざけはよそう。
「もう痛くはないの?」
「ああ、痛みはほとんどないよ。」
「ほとんど、か。」
少し悲しそうな顔をする美優。美優は言葉にはしないが責任を感じている。美優はそういう女だ。たぶん自己嫌悪と呵責との螺旋階段を抜け出せずにいるのだ。僕は言葉を掛けてやろうと思う。
「何を落ち込んでいるか知らないけど、…大丈夫君は完璧な女だから。」
「意味が分からないのだけど?」
「それでだ、完璧な美優様にご褒美をあげようじゃないか。」
そう完璧な僕の愛している美優に捧げよう。
「ご褒美?」
「僕の右側にいなくちゃいけない権利をね。」
僕の心からの懇願を君に………。
「美優にあげるよ。」
「慧、あの時の聞いてたな?」
「さあね。」
余談、2ヶ月と3日前は僕の誕生日だった。その為美優はプレゼントを用意していて僕に渡そうとしたが、僕が帰ろうとしたので頭に来たらしい。だから急に素っ気なくなったのだ。ちゃんとプレゼントは貰ったが機嫌を取るのに一週間は掛かった。
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