一章 現在へと繋がる 始まりの初夏
幸せの種
茅野 僚
プロローグ
彼女は、今。
自分の体の中に宿る、新しい命と、静かに会話する。
「私が、あなたのお父さんと知り合ったのは、もう、十二年前の事。
…あの頃の、倉真は……。」
どうし様も無い、不良少年。一つ違いの、弟の様なアイツ。
…何時から、どうして、私は彼を、愛し始めたのだろう…?
けれど、一つだけ言える事は。
「あなたは、私と倉真の、愛情の証。まだ、顔も見た事のないあなたを、私は、あなたのお父さんと同じくらい、愛している…。」
…だから、元気に生まれて来て…。
全てが始まったのは、あの街。
肉親との縁が薄かった彼女。瀬川 利知未は、まだ中学一年生の少女時代に、家族と離れて、一人。あの下宿へやって来た。
中学一年の、四月の終わりから、沢山の、姉妹のような下宿仲間と、過ごして来た約十年間。
初めて利知未を見た時。下宿の若い女性大家、野沢 里沙は驚いていた。その容姿と、口調。行動。
これは、大変な店子を引き受ける事になったと感じた。
けれど、同時に。
里沙は利知未の個性を、一つの覚悟と共に受け入れ、愛してくれた。
始まりは、その愛情。
そして、これから出逢う事になる、大切な仲間達との繋がり。
それが、今。母親になろうとする、落ち着いた一人の女性である彼女を作り上げた。
これは、今の伴侶、館川 倉真と出会う頃までの、利知未の、大切な思い出のお話。
一章 現在へと繋がる 始まりの初夏
一
それは利知未が、神奈川県にある里沙の下宿に入居して、やっと二月半を数える頃。
利知未が、この二ヶ月半を過ごして来た下宿は、私鉄線の駅まで徒歩三十分はかかる場所にあった。電車を利用する為には、バスを利用して十分。利知未の通う中学校までは、徒歩三十分。
まだ所々に緑地も残されている、暮らすには申し分のない街だ。
その年、七月初旬の、十四時頃の事だった。
下宿から西、地元民からホテル街と呼ばれている一角を過ぎ、更に西へ向かって二十分も歩いた先に、小さな川があった。河原には雑草も生い茂り、時間潰しに、ごろりと横になるには向いていた。
利知未は学校を、午前中で勝手に早退して来た。この河原迄の途中にある、公園のトイレで、私服に着替えて来た。
寝転がっている利知未の脇には、スポーツバッグが転がっている。口には火の着いたタバコが、咥えられていた。
「…かったりーなー…。」
呟く。口の端から煙が昇る。
両腕枕にしていた右腕を、頭の下から外し、咥えタバコを指に挟んだ。
深く一吸い。盛大に煙を吐き出す。
「火事じゃねーよな。」
頭の上の方から、声が降って来た。軽く上半身起き上がって、振り返る。
「何だ、お前。こんな時間に何してる?」
その起き上がった上半身を、視界に認めた、三十代半ばに見える男性が、
利知未を見て、少し驚いた様に両眉を上げた。
「昼寝してンだよ。他に何してるよーに見えンだよ?」
「俺には、年齢にそぐわない行為を、している様に見える。」
「だから何だよ。」
「一応、大人として、忠告をする義務がある。」
「で?」
「まだ中学生だろう?その行為は、憲法違反だ。」
「…変な言い方するな。」
「そうか?」
その、呑気そうな表情に、利知未は微かに笑ってしまった。
その男性は、雑草を踏んで、利知未の近くまでやって来た。
「ボーズ、学校はどうした。」
「…ボーズ、ね。」
小さく呟く。隣に立って、利知未を見下ろしている。再びタバコを唇に挟み、川の流れに視線を移す。
「行くだけ無駄だ。」
「冷めた事を言うヤツだな。可愛げの無いガキだ。」
「ンなもん、無くたって死にゃしないよ。」
「しかし若年から、そう言う物を覚えると、成人になった頃には、肺癌の恐怖と戦うハメに陥るぞ。」
言いながら、腰を下ろした。買い物袋を脇に起き、自分がタバコを吸い始める。
「同類じゃン。」
「俺は少なくとも、高校までは吸わなかった。」
「対して変わりゃしねーよ。」
「…そりゃ、そーだな。」
美味そうに一吸いする。利知未のタバコは小さくなってしまい、仕方なく、地面に押しつけて火を消した。
「中学何年だ?」
「…関係無いだろ。」
「まだ三年じゃないだろ?って事は、二年か、一年か…。どっちにしろ、余り優等生じゃ無さそうだな。」
「鋭いねー、その通り。」
バカにしたような口調で言い捨て、新しいタバコを一本出した。
「良い度胸したガキだな。普通、見ず知らずの大人に喫煙を注意されたガキは、逃げ出すモンじゃねーのか。」
「じゃ、俺は普通じゃねーンだろ。これからは、個性の時代だぜ?」
悪びれもせずに、火を着ける。
「とんでもないヤツだな。」
「ほっとけよ、通りすがりのオジさん。こんなガキ相手にしても、何にもイイ事ねーよ。」
「自分で言うか?」
男は呆れてしまった。しかし、面白いヤツだと、興味を惹かれた。
「お前、名前なんて言うんだ?」
「あんたは何者だよ?」
「おお。俺は、ここから十分くらい歩いた所にある、喫茶店でマスターやってるモンだ。お前は?」
「たんなる不良中学生だよ。」
「…そうか。」
この少年は、意外と頭が、良い様だと思った。
ただ捻くれた答え方を、している訳では無い。肝心な所は、適当に話題を反らしながら、かわしている。
「そろそろ、店に戻らないとな。…お前、これから学校に行く気も無いんだろう。珈琲でも飲みに来いや。」
「金、持ってねー。」
「珈琲の一杯くらいは、奢ってやるぞ。」
取り敢えず、このまま置き去りにするのも、問題な気がした。
「…変な大人だな。」
「そうか?」
「普通じゃねーよ。」
「これからは、個性の時代、何だろ?」
さっき面倒な話題から逃げ様と思い、自分が口にした言葉を逆利用され、『やられた』と、思った。
この男は面白い。着いて行って見ようか?という気になった。
「…ンじゃ、奢られてヤルよ。」
尻を払いながら立ち上がった。足元のスポーツバッグを担ぐ。
「おう。」
タバコを地面で揉み消して、男も立ち上がった。
「歩きタバコは、止めておけ。」
利知未の口から、タバコを摘み取った。
「分かったよ。」
そのタバコを、自分でまた取り上げ、靴の裏で消した。
「…慣れてるな。」
利知未の様子を見て、変な感心をした。そしてまた両眉を上げる。
「デカイな。百六十、あるか?」
「背?…あるみたいだな。あんただって結構デカイじゃん。」
「俺が中学一年の頃は、百六十無かったと思うぞ。」
少年の眉が、ピクリと動く。
「…何で一年だと思った?」
カマを掛けて見た質問に、どんぴしゃりと返してくれた。男は微妙にほくそ笑む。
「やっぱり、一年か。」
利知未はまた、『やられた』だ。
何となく、こんな会話に覚えがあった。今は離れて暮している長兄、裕一は、利知未の性格を良く見抜いていた。
何かを問われて誤魔化そうとして、こんな風にカマを掛けられてボロが出る。その光景にそっくりだ。
「…そーだよ。イヤな特技だな。」
「伊達にお前の倍、生きてる訳じゃない。お前がまだまだ青いんだ。」
ニヤリとされて一瞬ムカッとする。だが、その怒りは一瞬で消えた。
その男の呑気そうな表情は、どんな攻撃を受けても崩れそうに無い。
「行くぞ。着いて来い。」
買い物袋を持ち直し、男は呑気に歩き出した。
河原沿いに暫く歩き、途中を下宿方面へ曲がって行く。位置的には、あの下宿よりも、やや北西になるようだった。
道を曲がって五分も歩いた時、一軒の店の前で立ち止まる。看板には『喫茶&バー・アダム』とあった。
「この店が俺の城だ。ま、入れや。」
正面の扉を、鈴を鳴らして入って行った。
店内は、個人経営の喫茶店としては、少し広かった。L字型のカウンターに椅子が16脚。
四人掛けのテーブル席が、衝立を挟んだ向こう側に3つ。窓に沿うように並べられた二人掛けのテーブル席が6つ。道路側には、六人掛けが出来る様にセットされた席が一つあり、更に四人のテーブル席が二つ。
出入り口の鈴の音を聞いた、従業員の声がした。
「いらっしゃい…、ああ、お帰りなさい。」
二十代後半に見える、セミロングヘアの女性が、笑顔で男を迎えた。
「閑古鳥が鳴いているな。」
「この時間ですから。」
二人の会話を聞きながら、スポーツバッグを肩に担いだ利知未が、店の中に続いて入る。
「あら、可愛いお客様。いらっしゃいませ。」
利知未に笑顔を見せる。その男、アダムのマスターが言う。
「河原で拾ってきた野良猫だ。ホットミルクでも出してやってくれ。」
「苦いヤツ、頼むよ。」
利知未は二人に、ノウノウと言い放つ。
「生意気な野良だ。飲めるのか?」
「何だよ、さっきは珈琲奢るって、言ってたくせに。」
その様子を見て、女性がクスクスと笑い出す。
「面白い子ね。良いわよ。苦いヤツ、お出ししましょう?」
「話の解るお姉―さんで良かったよ。」
利知未は、ニヤリと笑った。
「本当に良い根性してやがるな。」
マスターはカウンターに入って行った。利知未も、カウンターの隅の席に腰掛けた。灰皿を見つけて、タバコを出す。火を着け、一吸い。
「あら、随分とおマセな子猫ちゃんね。」
利知未は『子猫ちゃん』と表現された事に、やや顔を顰めた。
「…猫は人間より、早くに年取るんだぜ。」
「それもそうね。」
軽く眉を上げ、目を少し見開く。珈琲を出してくれた。
「この店の従業員は、随分物分りが良―ンだな。」
カウンター内で作業をし始めていた、マスターに声を投げた。
「砂糖とミルクは、そこに在るわ。」
女性が指差して教えてくれる。
「いらねー。」
利知未はそのまま、ブラックで口に運ぶ。
「お前、何時からそんな飲み方してるんだ?胃に穴があくぞ。」
「昔からだよ。甘いの、苦手なンだ。」
「つくづく可愛げの無いガキだな。」
「そんなモンいらねーよ。無くても困らねーし。」
マスターは女性に問い掛けた。
「翠、コイツいくつに見える?」
「そうね…、十四、五歳にも見えるけど…。」
「中学一年だそうだ。」
マスターから、翠と呼ばれたその女性は、今度こそ驚いた。
「うるせーな。イイだろ、ンなこと。」
「まー…、上手がいるモンね。私が中学の時に付合っていた彼も、随分マセていたけど…。」
片手を頬に上げ、目を丸くしていた。利知未は、やはり少年に見えているらしい。まぁ、イイか。何時もの事だ。と思った。
咥えタバコで片頬杖をつき、何となくメニューを手に取って見た。
ぱらりと捲る。珈琲の名前が沢山、並んでいる。興味を持った。
「なぁ、これは、オリジナルブレンドってヤツ?」
翠が表情を変え、ニコリと答える。
「そうよ。興味あるの?」
「ああ。俺はもう少しコクって言うか、苦味が強い方が好きだ。」
「生意気な事を言うな。」
マスターが口を出してきた。驚きと、少し嬉しそうな響きがあった。
「生意気で悪かったな。…一ヶ月くらい、散々、珈琲入れさせられてた時がアンだよ。」
この四月、ホンの一月半程の間、ニューヨークの母親の所にいた時の事だった。夜中まで仕事を持ち込んでいた母親に言われて、必ず一晩に二、三回はドリップ式の珈琲を入れさせられていた。
マスターが、作業を中断して近くに拠って来た。
「お前、もしかして、もう酒も飲むのか?」
「…飲まないように見えるか?」
「いいや、見えん。」
「ちょっと、マスター。何考えてるのよ?」
「高校入ったら、バイトに来い。美味い珈琲の淹れ方、教えてやるぞ。」
「何、勧誘してるの?」
「こんな閑古鳥鳴いてンのに、バイト雇う金、あるのかよ?」
「今日は、時間が悪かったんだ。普段は結構、忙しいんだぞ。」
「そーなの?」
「まぁ、そうね。本当に忙しい時間は中と外、五人居てもテンテコマイしてるわよ。…でも、マスター…、」
「有望な人材を発掘せにゃ。これから大変だろ?」
「って言っても、まだ中学一年なんでしょ?この子。」
「コイツが高校に入る頃には、店はもっと忙しくなる見込みだ。」
「…お気楽な店主だな。あんたも大変だね。」
利知未の言葉に、翠が吹き出した。
「本当、面白い子ね。マスターが気に入る訳だわ。」
「何だよ、それ。」
これ程、『面白い子』と連発されるのも始めてなら、従業員勧誘を受けたのも始めてだ。まだ中学一年なのだから、当然ではあるが。
「お前、中学を出たら、高校くらいは、行くつもりがあるんだろう?」
「学校は嫌いだ。…けど、まぁ、そうなるんだろうな…。」
「だったら、真面目に学校へ行っておけ。成績がどうでも、生活態度さえ問題無ければ、入れる学校くらいある。」
「…お言葉だな。で、高校入ったら、ここへ来いって事か?」
「そう言う事だ。流石に中学生は雇えん。」
「当たり前だろ。労働基準法違反だ。」
「…お前、中一の癖に、良くそんな言葉がポンポン出てくるな。」
「耳年増ってヤツなんだよ。どーでもイーだろ、ンな事は。」
冷めてきて、飲み頃になった珈琲を、一気に喉に流し込んだ。
空になったカップを嬉しそうに見て、マスターが言う。
「お前好みの、もうチョイ、コクのある珈琲、ブレンドしてやるよ。」
空いたカップを、下げて行った。
「お前が、それを飲んで納得したら、今の話、ちゃんと考えろ。良いか?」
「…俺が納得したらな。真面目に学校行く事も、考えてやるよ。」
「よし、約束だ。男に二言は無いな?」
『男、ね…。』
心の中で、呟いてから答えた。
「ああ。約束するよ。」
「よっし、待ってろ。」
「あーあ。マスターに火が着いちゃったわ。」
翠が肩を竦めて、笑って見せた。
それから一時間ほど掛けて、マスターが一杯の珈琲を出した。
「出来たぞ。自信作だ、飲んで見ろ。」
何本目かの煙草を揉み消し、水を飲んで口を洗ってから、利知未はその珈琲を口にした。良い香りだった。
「…。」
「どうだ?」
「…美味いじゃん。」
「当たり前だ。俺が腕に拠りをかけて、ブレンドしたものだ。」
腕を組んで、胸を少し反らす様にして、微笑んだ。
「…解ったよ。学校、明日からちゃんと行くよ。」
「約束だ。」
「ああ。二言は無いよ。…基本設定が、間違ってるけどな。」
後半の呟きは、マスターには意味が解らない様だった。利知未はニヤリと笑う。今度、制服姿で来てやろう。そう思った。
「翠、メニューが一つ増えたぞ。」
「名前は?」
「オリジナル・モカ・ブレンド。」
「はい。メニューに書き込んでおきます。いくらにするの?」
「…そうだな。」
利知未を見た。
「お前なら、いくら払う?」
もう一口飲んで見て、考えた。
「…五八〇円くらいだな。」
利知未の値踏みに、満足げな微笑をみせ、翠に言った。
「五八〇円だ。」
「解りました。」
「そんなんで決めて、良いのかよ?」
「いいんだよ。サブタイトルは『野良猫のホットミルク』だな。」
「何なんだよ、それは。そう言って注文したら、コイツが出てくるのか?」
「内輪の合言葉みたいなもんだ。今度は、小遣い持って来い。」
「一ヶ月に二、三回くらいしか飲めねーな。」
マスターは、ニヤリとして答える。
「合言葉で注文したヤツは、三八〇円に負けてやる。」
「そんな約束して、良いのか?」
「構わんさ。どうせ、お前と翠しか知らない事だ。な?」
「そうですね。私が店に出てる時に来たら、レジを受けると言う事で。」
ニコリと、利知未を見た。利知未も、小さく笑ってしまう。
「…変な店。」
「良い店だと思うが?」
マスターが、自慢気な笑顔を見せた。利知未は、この店が気に入った。
「…また、来ても良いのか…?」
「勿論だ。高校入るまでに、この店の味を知り尽くせ。」
「そんな金掛かる事、無理だよ。」
「出世払いでも構わんぞ。」
「何年間、ただ働きさせられるんだよ。」
「そうさな…。これから約三年間通い続けて貰って、その後一、二年は掛かるかもしれないな。」
「気のナゲー話しだ。」
「そうだな。」
それから暫くして、利知未は席を立った。
翌日から、以前よりは確りと、学校にも行く様になったのだった。
二
翌朝、何時もより、余裕を持って食事へ下りて来た利知未に、里沙は半分、驚いたような表情で、挨拶を交わした。
「今日は早いわね。」
「早く起きちゃ、マズイかよ?」
「私は、手間が省けて助かるわ。…それにしても、また制服が、随分、皺だらけね。」
昨日、スポーツバッグの中にメチャクチャに突っ込まれたまま、長時間放置された制服が、抗議行動に出たらしい。
「どーせ今に夏休みだし、ほっといても平気だろ。」
さっさと席に着く。玲子が早速、睨みを効かせる。
「あんたって、本当にいい加減ね。もう少し、周りの迷惑を考えて行動して欲しいわ。」
「俺が皺だらけの制服着て、誰に迷惑が掛かるって言うんだよ?」
「その事じゃない!昨日、また無断で、早退したでしょう!?同じ家に住んでるって事で、私が、あんたの担任に、呼び出されたの!」
利知未は両肘をテーブルに付いた姿勢で、パンを口へほおりこむ。
「…変なセンセーだな。本人に確認すりゃ済むものを。」
玲子が両手でパン!と、テーブルを叩いた。
「学校にも居ない、何処に居るかも解らない人に、直接話しを聞く方法があったら、教えて欲しいわ!」
「恐ぇ顔。」
「里沙さん!どうにかして下さい!この人!!」
玲子から訴えられ、里沙が、やや困った様な顔をした時、朝美がダイニングへ入って来た。
「おはよう、朝っぱらから、また、やってんの?」
「ああ、朝美。おはよう。」
「今回は何?」
「瀬川さんが昨日、無断で早退した事で、私が迷惑したんです。」
朝美が自分の席へ着きながら、利知未に言う。
「成る程ね。あんたが原因みたいなんだし、素直に頭下げたら?」
「何だよ、朝美まで。…判ったよ、悪かったな。」
玲子は、その利知未の態度に、またカチンときてしまう。
「本当に反省してる様には見えない。」
「じゃ、どーしろって?」
「もう少し真面目になるか、さも無きゃ別の学校へ行ってくれない。」
吐き捨てるような玲子の言葉に、朝美が言った。
「真面目にってのは、イイとして、学校変われってのは、ちょっと言い過ぎだね。…解ってるよね?」
朝美は、玲子が賢く、普段はかなり冷静な性格である事を理解している。ただ、利知未が相手となると、ついつい、感情的になってしまい、言い過ぎてしまう傾向にある事も。
「…そうですね。悪かったわ。」
チラリと利知未を見て、小さな声で玲子が言った。
利知未は、里沙が作ったスクランブルエッグを、レタスにソーセージと一緒に巻き込みながら、口へほおりこむ。ゆっくり租借し、呑込んでから朝美に言う。
「…別に。俺がそんな事で傷付くよーなタマに見える?」
「言い過ぎた言葉ってのは、相手がどう思おうと、言った本人が後で、後悔するような事があンのよ。素直に頷いときな。」
「…ウィーっす。」
牛乳を飲み切り、食べかけのパンを口に咥え、立ち上がった。
「じゃ、俺、もー行くよ。」
「早過ぎじゃない?」
黙って三人の会話を聞きながら、朝食を取っていた里沙が聞く。
「早めに行って、センセーに詫び入れとくよ。じゃーな。」
「そう。行ってらっしゃい。」
利知未がダイニングを出て行く。玲子は落着いて、食事の続きを進めた。
「…イイお姉さんね。」
里沙が、笑顔で小さく呟いた。朝美は、変わらず平静な表情で、パンを契って口に運ぶ。
「血の繋がらない弟妹と仲良くやるのは、経験あるから。」
玲子が微妙に、顔を上げた。それに気付いた朝美が言う。
「あたし、義母の連れ子の弟が居るんだよ。利知未は、その弟を相手にしてるみたいな感じがするんだ。妹は居なかったから、玲子はあたしの新しい妹みたいなモンよ。」
「…そうなんですか。」
「そ。だから、敬語止めてよ。堅苦しいから。あんた、実家でもずっとその言葉使いだったの?」
「そんな事は無いけど。」
「まぁ、急ぐ事も無いのじゃない?どうせ、まだまだ、一緒に暮らして行くのだから。」
「それもそーだね。」
里沙の言葉に、朝美が頷いた。
「でも、そう言われたら、私は瀬川さんと、姉妹にならなければいけないって、事ですか?…それは、ご免です。」
俯いて、少し膨れた玲子を見て、朝美と里沙は小さく笑った。
「玲子の弟、優等生なんだってね。そりゃ、利知未が相手じゃ、敬遠もするか。」
「智紀君だって、優等生だったでしょ?」
「智紀は、昔からそうだった訳でも無いから。って言っても、利知未程のヤンチャモノでもなかったけど。」
「ヤンチャは、朝美よね。」
「あははは!そーだね。だから、利知未の事も少しは解るよ。」
笑顔で会話をしている二人に、玲子は憮然とした表情で言った。
「お二人とも、随分、お心が広いんですね。」
「玲子は、もう少し肩の力抜いても、イーンじゃない?」
「…そうでしょうか。」
「そーだよ。」
それから直ぐに、三人は朝食を終えた。里沙は二人を送り出し、一日の雑務に取り掛かった。
玲子と利知未が通う中学校の職員室。まだホームルーム迄には三十分以上もある時間だった。
利知未は、担任の体育教師、松田の前にいた。
「昨日は、済みませんでした。」
ペコリと頭を下げる。
「自分から謝りに来るとは、中々、感心な態度だな。」
この男性教師は、まだ四十代前半で、頗る元気が良い。利知未は中学一年。この頃には、まだ存在していた、必要とあらば愛の鞭も飛ばす様な教師だった。しかし一度厳しく叱咤し、生徒も聞き分けさえ良ければ、その後は、その事について、ぶり返すような事もしない。
利知未は他の生徒より、やや遅れて、この学校に入学し、通い始めた訳だが、既に職員室の常連となっていた。頭をコズカれた事も、両手の指では足りないくらいだ。
「同居人に、朝っぱらから、嫌味を言われたからね。」
口も悪い。しかしそんな事にいちいち目くじらを立てれば、この生徒とまともな会話をするのは、不可能だと言う事も、既に解っていた。
「お前は、テストの成績だけは良いんだ。もう少し真面目な生活態度を心がければ、良い高校に進む事も出来るんだぞ。勿体無いと思わんか?」
「まだ一年だよ。そんな先の事、考えた事ねーもん。」
「困ったヤツだな。どうして、そんなに学校に来るのを嫌がるんだ。」
「来てもツマラねーから。」
二人の会話を、離れた席から、厳しい事で有名な教頭が、仏頂面で眺めていた。利知未の言動に対して、口を差し挟みたくて仕方が無い。
「運動部に入って、大きな大会目指して、打ち込んで見たらどうだ?」
「また、それかよ。バレー部の勧誘なら、前も言ったけど、お断りだよ。」
バレー部の顧問は松田だ。つまらなそうな顔をして、松田が言った。
「折角の長身を生かさない手は、無いと思うがな。まだまだ伸びそうだ。」
椅子に座ったまま、腕を組んで、横に立っている利知未を見上げる。
「瀬川は、何でも良いから、何か学校生活での生活目標を立てる必要があると思うぞ。」
「生活目標ねー…、取り敢えず、担任に呼び出される回数を減らすってので、どー?」
松田は、軽く両眉を上げ、感心した様な表情を見せた。
「中々、良い目標だな。それなら先ずは、無断欠席、遅刻、早退を減らして貰おうか?」
「…いーよ。その代わり、同居人に自分の事で、探り入れるの、止めて下さい。」
「お前が問題を起こさなければ、その必要も無い。」
利知未は少し、仏頂面をした。
「結局、ソレかよ。…分かったよ。気―つける。」
「生活態度が改まったら、今度は、その言葉使いを直さないとな。」
松田に言われ、利知未は口をへの字に曲げ、目線を外して言い直す。
「解リマシタ、今後、気ヲツケマス。」
「何だ、敬語、使えるんじゃないか。」
松田は利知未の言葉遣いに、豪快な笑顔を見せた。
「デハ、失礼致シマス。」
頭を下げながら、担任教師を睨みつけた。松田はニヤニヤしている。
「大人しく教室に居ろよ。」
「ハイ。」
後ろを向いて、舌を出した。利知未が職員室を出て行くと、教頭が松田を呼び出した。
それから利知未の無断欠席、遅刻、早退は減った。変わりに保健室の常連となり、養護教員の顔馴染となってしまう。ついでに、問題児と称される学校の顔役とも、馴染み深くなってしまうのだった。
七月中旬、平日の十五時頃。アダムはいつも通りの暇な時間帯だ。
「この前の子猫ちゃん、あれから一度も、顔を出しませんね。」
翠が、カウンターの隅に座り、賄いを食べながらマスターに言った。
「そーだな。しかし、あのブレンドは中々、評判が良いぞ。」
「そうですね。味覚は、良いみたいだったわ。」
利知未の為に作った、オリジナル・モカ・ブレンドは、メニューの中でも、やや高めな金額設定だった。
しかし、あれから約十日経った今、何人かの常連が注文をしており、中々良い評価を残してくれている。
「ま、猫は気紛れだからな。その内また、ひょっこり現れるだろう。」
「本当に、野良の子猫みたいな顔をしていたわね。」
翠が思い出して、クスリと笑った。
翠が食事を取り終わり、再び客が入り始めた店で立ち働いていると、入り口の鈴が鳴り、一人のセーラー服姿の少女が現れた。
「いらっしゃいませ。」
店の中に踏み込み、席の埋まり状態を眺めている横顔を見て、翠が言う。
「貴女、下校途中?先生に見つかったら、大変なんじゃない?」
「私服だったら、良いのかよ?」
声を聞き、首を傾げる。少女が顔を翠の方に向け、ニヤリとして言った。
「『野良猫のホットミルク』」
「…!あなた?!」
「そー。こないだはどーも。瀬川 利知未。城西中学一年、手の着けられない不良女子中学生。よろしく。」
「…女の子だったの…。」
「男だって、言ったか?」
「…俺、何て言ってるんだもの。判らなかったわよ。」
「翠、ブレンド上がったぞ。」
カウンターからマスターが声を掛けた。カウンターからこの店の出入り口は、死角になっていた。
「ハイ、ただいま!…マスター、子猫ちゃんが来ました。」
ブレンドをトレーに載せながら、翠が小声で伝えた。そこに、セーラー服姿の利知未が、現れた。マスターが振り向き、咥えタバコを落としてしまい慌てた。その様子を、利知未はニヤリとして眺めた。
カウンターの、この前と同じ片隅に腰掛けて、利知未が言った。
「やっと金、送られて来たんだ。『野良猫のホットミルク』頼むよ。」
「…お前、女だったのか…?」
落としたタバコを拾い上げ、灰皿で揉み消しながら、マスターがやっと口を開く。
「同じ事、二回も言わなきゃならないのかよ。」
小さく溜息をして見せ、改めて自己紹介をする。
「瀬川 利知未。城西中学一年。手の着けられない不良女子中学生…。因みに、この前会った時に男だと言った覚えは、一度も無い。」
「…あんな調子じゃ、言われなくてもそう思うだろ。」
マスターが呆れ顔で言った。
「だから、基本設定が間違えてるって、言ったんだ。」
「そう言う意味だったか…。」
「俺が女だと、何か不都合な事でもあるのかよ?」
「いや、無い。…ホットミルクだな?」
「野良猫のね。」
「畏まりました。」
マスターが、店主らしい笑顔で頷いた。
例の珈琲を出しながら、マスターが言う。
「学校には真面目に行ってる様だな。」
「約束は約束だからな。」
「義理堅いヤツだ。」
小さく笑う。利知未は出された珈琲を口にした。
入り口の鈴が鳴る。店内は今、四割がたの客席が埋まっている。店の奥から制服姿の従業員が現れる。
「おはようございます。」
「おう、ご苦労さん。…そろそろ五時か。」
「結構、客入ってくるじゃん。」
「だから言っただろう。この間は時間が悪かったんだ。これから夜に向けて、結構、繁盛するぞ。」
「メニューも増えてるんだな。」
「夕方四時半から、ちょっとしたディナーメニューを出すんだ。夜は、アルコール中心のメニューに変わる。」
「…成る程ね、喫茶&バーな訳だ。…ビジネスホテルの客が夕飯を食い、ラブホテルの客が酒を飲む訳だな。…いい立地条件じゃねーか。」
利知未の言葉を聞き、マスターは感心したような顔をする。
「お前、意外と頭が良いンだな。洞察力がある。」
「そんなご大層なもんじゃねーよ。この辺りの土地鑑があれば、誰でも気付く事だろ?」
「もう少し、大人ならな。」
「どーせ俺はガキだからな。」
「捻くれるな、誉めてるんだ。…何か食っていくか?」
「…良いよ。夕飯入らなくなる。」
「そうか。お前、何処に住んでいるんだ?」
もう一口、珈琲を飲んでから答えた。
「…この店は、学校と下宿の間にあるんだよ。」
マスターが、またびっくりした顔をした。
「下宿?中学生がか?」
「色々、事情ってヤツがあんだよ。同い年の女と、高校二年の女も同じ下宿に住んでる。…大家が、まだ若い女性なんだ。」
「成る程な。」
「そーゆー事。」
珈琲を飲む。流石に制服姿の時は、タバコは吸わないようにしている。
「そろそろ、夏休みだな。」
マスターが話題を変えた。
「そーだな。」
「実家に帰ったりするのか?」
「実家なんて言える物はねーンだよ。…どーだって良いだろ、ンな事。」
「…そうだな。」
会話の中で、この利知未と言う少女が、何故、こんな風に捻くれてしまったのか感じ始めていた。どうやら、家庭の事情が複雑らしい。
また一人、従業員が現れた。挨拶を交わす。
「翠、ご苦労さん。コイツの会計、先にしてやってくれ。終わったら上がって構わんぞ。」
翠が拠ってきて、伝票を見せた。
『ノラH.M…三八〇』そう、書いてあった。
夕方六時頃に下宿へ戻り、服を着替えて、取り敢えず宿題を先に済ませた。『担任からの呼び出しを減らすため』だ。面倒臭いが仕方無い。
それから、夕食へ降りて行き、先に食事を終わらせていた玲子と入れ違いに、ダイニングキッチンの椅子へ座る。
夕食を出してくれながら、里沙が言った。
「今日、手紙が来ていたわよ。お兄さんから。レターボックスに入れておいたから、後で持って行ってね。」
このダイニングキッチンの片隅に、二階の部屋数と同じ数に仕切られたレターボックスが置いてある。結構しゃれたデザインだ。インテリアデザイナーの里沙がデザインし、何時も仕事で利用している近所の工場で、形にして貰った物だ。
「どっち?」
「裕一さんから、だったと思うけど。」
利知未の表情が、やや明るくなる。里沙はその表情を見て、笑顔になる。
「サンキュ。」
利知未は少しソワソワして、何時もよりも早くに、夕飯を腹に収めた。
急いで食事を終え、手紙を持って自室へ引き取ったのだった。
利知未が、そんな態度を取る事は、滅多に無い。何時もは、嬉しい事があっても、態と捻くれた様な言動で、誤魔化してしまう。
里沙は利知未が素直に、喜びを隠そうとしない、こういう態度を見ると、いくらかホッとするのだった。
三
夏休みに入った。
下宿の店子達は、保護者代りの里沙に一応、成績表を見せる。里沙は、教師から問題点などを指摘されている時は、それを頭に入れて、両親に宛てて簡単な手紙をしたためる。
店子達は、その手紙と成績表を持って実家へ帰る。長期休みの一定期間を、親元で過ごす為だ。必ず帰らなければならない事も無いが、玲子と朝美は、間の一週間から二週間程度を、親元で過ごす事になっていた。
「八月の中頃までには、戻ります。」
里沙に挨拶をして、玲子が実家へ戻って行ったのは、七月の終わりだ。約二週間を実家で過ごす事になる。朝美は八月の始めから一週間程を、名古屋の親元で過ごす事にしていた。
朝美は、父親の仕事の都合で、引っ越す事になった時、実の母親との思い出あるこの土地へ、一人で残る事に決めた。下宿の店子、第一号だ。
この広過ぎる一軒家の留守を、一人で預かっていた里沙が、空き部屋を有効活用する事を理由にし、下宿を始める切っ掛けの事件が起こったのは、朝美がまだ、高校一年生だった去年の事だ。
明日には、親元へ帰郷?する朝美が、リビングのソファで寛ぎながら、里沙と話をしていた。
「あたしは、来週には戻ってくるから。」
「もっとゆっくりしてくれば良いのに。智紀君と、何処かへ遊びに行く計画は無いの?」
「智紀は、あたしが戻ってくるのと同時位に、剣道部の合宿でいなくなっちゃうの。タマには、夫婦水入らずにしてあげないと気の毒じゃん?」
「また、そんな捻くれた事言って。朝美は本当に利知未と姉妹みたいよ。」
「捻くれ方が似てるって言いたい訳?あたし、利知未ほど酷くないよ。」
「言ぃたい放題、言ってくれんじゃん。」
ダイニングから出ていきながら、利知未が言った。手にはアイス珈琲を持っている。
「何よ、気が利かないね。ついでにあたしと里沙の分、持って来てくれたっていいじゃん。」
「朝美と里沙は、紅茶党じゃねーのかよ?」
「あら、どうしてこの家にあんな立派な珈琲メーカーが置かれているか、気が付かなかった?」
里沙も笑いながら聞く。
「里沙の、仕事相手の為じゃねーの。」
「それだったら、インスタントでも構わないと思わない?」
「…そー言うモンか?」
「そう言うものよ。入れて来てくれるのかしら?」
「…しゃーねーな。タマにはサービスしてやるよ。」
そう言って、再びダイニングに引っ込んで行く。
「珍しい!利知未が素直に言う事聞くなんて。」
朝美が里沙に、目を丸くして見せた。
「利知未、今日は午後から大事な人とデートの予定があるから。機嫌が良いのよ。」
里沙が小声で教えてくれた。
「まさか彼女って事、無いでしょうね?」
「利知未も一応、女の子なんだから。」
クスクスと笑いながら、里沙が言った。
「じゃ、まさか彼氏とか?!生意気じゃん。」
「あの子にとっては、彼氏よりも大切なお兄さんが今日のデート相手よ。あの子に彼氏がいるような気配は、全く無いでしょ?」
「…なーんだ。お兄さんね。ま、そりゃそーか。」
ダイニングから声が飛んできた。
「ホット?アイス?」
「ホットで良いわね?」
里沙が朝美に聞き、朝美が大声で答えた。
「ホット二つ、よろしく!」
「了解。」
利知未の声が聞こえ、珈琲の良い香りが流れてきた。
暫く話しを続けていると、トレーに砂糖とミルクも一緒に乗せ、二つの珈琲カップを利知未が運んでくる。
「お待たせ致しました。」
喫茶店のウエイターよろしく、軽く礼をしてテーブルの上に並べ置く。
そんな風に、ちょっとした茶目っ気を現す利知未は珍しい。二人は少し驚いた顔を見合わせる。
「冷めない内に飲めよ。」
トレーを小脇に抱え、立ったままで利知未が言った。砂糖とミルクを、それぞれ自分の前の珈琲に入れ、掻き混ぜて口に運ぶ。
「…あら。」
「…結構、イケル。」
里沙と朝美が目を合わせた。美味しかった。
「当然だろ?誰が入れたと思ってんだよ。」
利知未は自慢げな表情だ。
「意外な特技ね。」
「本当。」
「珈琲のプロのお墨付きだぜ。」
「何、それ?」
「秘密。」
夏休みに入って直ぐ、利知未は開店前のアダムへ遊びに行っていた。
突然、朝から表れた利知未に驚きながらも、マスターと翠と、その日朝からバイトへ入っていた女性は、笑顔で迎えてくれた。利知未はアダムの従業員一同と、すっかり顔馴染みになっていた。
試しに、ドリップ式で利知未に珈琲を入れさせたマスターが、出て来た珈琲を一口飲み、感心して頷いた。
「俺の見る目は確かだったな。早く高校生になれ。バッチリ鍛えてやる。」
そう言った。
「だから、気が早過ぎだって言うんだよ。」
利知未は照れ臭さを、いつも通りに捻くれた態度で誤魔化したのだった。
「里沙、俺、今日は昼飯いらねーから。」
「デートは午後からじゃなかったの?」
「チョイ遅くなっても良いんなら、飯、奢るってさ。兄貴が。」
「そう。判ったわ。じゃぁ、朝美と二人だけだし、おソーメンでも湯でましょうか?」
「良いよ、それで。」
「じゃ、そーゆう事で。」
リビングを出かけて、振り向いた。
「なぁ、今度、違うマメ買ってきても良いか?」
「珈琲豆?良いけど、お小遣いで足りる範囲にしてちょうだいね。」
「当たり前。じゃーな。」
踵を返し、廊下に続くリビングの、扉の影に消えて行った。
その日の昼過ぎ。
下宿最寄りの駅前で、利知未は時計を眺めながら、兄貴を待つ。軽く鼻歌交じりで上機嫌な様子だった。十分後、改札から一人の青年が、利知未の姿を認めて、大きく手を振りながら現れた。
「裕兄!」
利知未も手を振って、改札へ向かって走り出す。約、四ヶ月ぶりの再会だった。普段の利知未を知っている者が見たら、驚いて動きが止まるかもしれない。それ位、明るい、良い笑顔を兄に向けていた。
「利知未!元気だったか?…お前、また背、伸びたか?勉強はちゃんとしてるか?学校、行ってるんだろうな?」
「そんなに一気に、聞かないでくれよ。」
ちょっと怯んでしまいながらも、笑顔で利知未が答えた。裕一も、自分の矢継ぎ早の質問に、少し照れ臭い様に笑う。
「悪い。そうだな。」
「元気だったし、学校にもちゃんと行ってるよ。勉強も、一応やってる。背は、あれから七センチくらい伸びたみたいだ。去年買ったばっかりの夏物のパンツが、ツンツルテンだよ。」
「ははは!それで短パンか。珍しい格好してると思ったよ。」
今の利知未の服装は、ジーンズの短パンにタンクトップ。その上に白いヨットパーカーを羽織っていた。
タンクトップのお蔭で、どうやらちゃんと少女らしくは見えていた。
「仕方ないから、自分で切った。だから裾上げなんか、して無いだろ?」
「そうだな。じゃー、これから服でも見に行くか?」
「その前に昼飯!腹ぺこだ。」
「そうするか。何が食いたい?」
「何でも良いよ。どこ行こうか。」
「そうだな…。ちょっと商店街眺めて見るか。」
「だったら、こっちよりも、反対の駅前の方が、色々あるよ。」
利知未が先に立ち、踏み切りのある方へと歩き出した。
裕一にとって、歳の離れた妹は、何よりも大切にしたい可愛い存在だ。ただ、昔からどうも、その外見に流されて、男のような言葉使いと行動が身に付いてしまっている様子が、ちょっとした悩みの種だった。
「裕兄、今年は幾つくらい山登ったんだ?」
「ン?ああ、今年はまだ一つだ。」
「へー。その割に、真っ黒だな。」
「登山訓練は、やっているからな。お前は相変わらず真っ白だな。」
「こんな炎天下で、スポーツするヤツの気が知れないよ。」
「海とか、プールは行かないのか?」
「金掛かるじゃん。節約してんだ。」
裕一が、趣味としている登山も、通っている医科大学も、金が掛かる。
利知未達の母親は、かなり稼いでおり、子供達が大学を出るまでは、多少なりとも、母と離婚した父親も、養育費を払ってはいる。それでもやはり節約は大切だ。勿論、裕一も、普段はアルバイトをしている。全寮制の高校にいる次兄、優も、長期休みはバイトをしている筈だ。
「あーあ、早く義務教育、終わらねーかな…。」
踏み切りが上がるのを待ちながら、利知未が呟いた。
「お前、高校はどっちにするんだ?」
母親とアメリカで暮すか、日本に残るか?そう言う意味だった。
「…こっちで行きたいな。一応、その約束だよ?」
「…まぁ、そうだけどな。」
「あのヒト、裕兄に、なんか言って来たのか?」
「あのヒトって言うのは、止めろよ。母さんだろ?」
「…そんな呼び方、虫唾が走る。」
頑なな様子に裕一が小さく息を吐く。電車が通り、その音は聞こえない。
「…まだ中一だからな。先の事は、ゆっくり考えれば良いよ。」
「ソーするよ。」
遮断機が上がった。再び歩き出す。
駅向こうの商店街に着き、店を探した。
「冷やし中華も良いな。」
ラーメン屋の前で、利知未が言う。
「折角、奢ってやるんだから、もう少し違うの選んだらどうだ?」
「って言われてもなー。あ、じゃー鰻!」
丁度、炭火で焼かれている蒲焼の、美味そうな匂いがする。
「鰻も良いな。」
「…やっぱヤーメタ。折角だから、デザートも食える所にしよう。」
「甘いもの、苦手だろ?」
「かき氷は別。」
「成る程。暑いからな。」
ニコリとして、裕一を引っ張って定食屋へ向かった。確かに、かき氷は置いてある。だが、利知未が裕一をそこに連れて行った理由は、味と量、何より値段だった。節約をしなければ大変なのは、裕一の方だ。趣味に金と時間が掛かる。勿論、大学にも。
勉強と登山訓練の合間に、一生懸命バイトをして溜めたであろう金を、自分の為にあまり使わせたくなかった。
利知未のその思いは、裕一には判っていた。だが、気付かない振りをして、引っ張られるままに、その定食屋へ入る。
食事を終え、利知未がかき氷をスプーンで突き崩す様子を眺めながら、裕一は最初に出された麦茶を飲んだ。庶民的な良い店だった。味も量も値段も、文句無しだった。幼い頃から、おふくろの味に親しむ機会が無かった二人には、何となく嬉しい味でもある。
利知未も満足そうに、氷を口に運んでいる。
「裕兄、食わない?」
スプーンですくった氷を、裕一の口元へと腕を伸ばして差し出す。裕一は素直に口を開いて、一口貰った。
「やっぱ、夏はコレだよな。」
ニコリとした利知未の顔を、笑顔で見ている。仲の良い兄妹だ。店主の奥さんと思われる、お運びをしている女性が、微笑ましい気分で二人を見ていた。
「後で、大家さんの所へ挨拶に行かないとな。」
「今日は、夕方じゃないと居ないよ。午後から出るって言ってたから。」
残り少なくなったかき氷を平らげながら、言った。
「じゃぁ、その前に、お前の服を見に行くか。」
「いいよ。適当に着回してるから。最初っから切ってないジーパンは、まだ大丈夫だし。」
「上着も小さくなってるんじゃないか?」
「優兄の古着があるよ。また、着なくなったの送ってもらう。」
「お前、一応、女なんだぞ。俺や優の古着ばっかり着てるのも何だよ。」
「気に入ってるの、多いぜ?」
「…全く。」
呆れて笑ってしまう。その呆れ顔が、アダムのマスターに何となく似ていると、利知未は思った。へへ、と、小さく笑ってしまった。
「何か面白い事でも、あったのか?」
「何でも無い。」
「そうか?思いだし笑いはムッツリ助平がするって、昔、言われた事があったな…。」
「何だよ?それ。」
「小学校の頃、そんな事を言ってる時期があったんだよ。思い出した。」
「何だよ、それ言ったら、俺が助平って事になるのかよ?クダラネー。」
笑い出す。裕一が軽く咎める。
「まだ、俺って言ってるのか?何時になったら治るんだ。」
「一生治らないかもな。」
「困った妹だな。」
「ビョーキなんじゃねーの?裕兄が医者になったら、特効薬作ってくれよ。それ、待ってるから。」
「それは、診療医の仕事じゃないだろ。」
「あはは。そっか。じゃ、諦めてくれ。」
また、呆れた笑顔を見せた。利知未はやっぱり、マスターを思い出す。
「あー、食った食った!そろそろ行こう。」
「本当に、何時になったら、もう少し女らしくなってくれるのかな…。」
呟いた裕一に、笑って見せた。
「何時かなるかもしれないじゃん?何時になるかは解らねーけど。」
「早く見て見たいよ。」
立ち上がる。利知未も笑って立ち上がった。
店を出て、駅の南北、両商店街を探索した。途中の衣料品店で、裕一は利知未にジーンズとサブリナパンツを一本ずつと、Tシャツと半袖の綿シャツ、それと、女の子らしいデザインのキャミソールを一枚ずつ買ってくれた。本当はワンピースを買おうと思い、試着室に押し込めて見たが、利知未が嫌がったので没になった。
その代りで、キャミソールになったのだ。
ワンピースを試着した時、利知未を見ていた店員も、裕一も酷く残念がった。中々、可愛らしく似合っていたのだ。
その後、裕一が本屋で医学書を探した。その間、利知未は雑誌を立読みして時間を潰した。
夕方四時ごろ、そろそろ里沙も戻っただろうと、下宿へ向かった。
「ただいま。」
「お帰り。早かったじゃん。」
大荷物で帰って来た利知未と、連れの裕一を迎えてくれたのは、朝美だった。里沙は夕食の材料を買いに出かけたと言う。
リビングで、利知未が入れた珈琲を飲みながら三人で話していると、里沙が帰宅した。
「始めまして。利知未が、お世話になっております。兄の、裕一です。」
立ち上がって、キッチリと礼をする。一応、手土産を持参していた。
「まぁ、ご丁寧に、どうも済みません。管理を任されております、野沢里沙と申します。」
お互いに挨拶を交わす。
里沙は話している内に裕一の人柄を感じ、好印象を持った。
その後、里沙に勧められるままに、下宿で夕食をご馳走になり、八時過ぎ頃、利知未の事をしきりに気遣いながら、裕一は帰って行った。
「どうしようもないヤツですが、これからも、宜しくお願い致します。」
そう言って、何度も、何度も頭を下げて行った。
里沙と朝美は、裕一の前での利知未を見て、今朝の茶目っ気を持った利知未の行動と、その理由を理解する事が出来た。
あれは、本来、利知未が持っている、素の部分であるらしいと思った。
朝美は智紀と居る時の自分を思い出し、里沙はその時の朝美の雰囲気を思い出した。
そして二人は、利知未の、その普段からは想像できない、驚きの素顔も知る事が出来た。
利知未には、良く気が付く、世話焼きな顔があったのだ。
例えば、裕一が調味料を探していると、直ぐに気が付いて手渡す。
飯茶碗が空になれば、直ぐに立ち上がり、お代わりを注ぐ。空いた食器は直ぐに邪魔にならない様に脇へ避ける。そして食後に、さっと茶を出す手際の良さ!
それは、利知未が本当に兄を慕っているからこその、行動であったのかもしれない。兄を良く見て知っているからこそ、直ぐに反応出来る。
もしそれだとしても、普段の利知未からは、中々想像できない姿だ。
もしかしたら将来、意外と良いお嫁さんになる素質を持っているのではないか?…そんな感想を、二人は持ったのだった。
四
朝美が名古屋へ行き三日、玲子も、下宿に戻ってくる迄には、十日もある八月の一週目。
利知未は面倒臭いながらも、学校で指定された体育の水泳実習、五日間を、さっさと片付けてしまおうと、二日続けて学校へ行った。
午前と午後、両方解放されているタイミングが、夏休み前半から中盤に掛けては、この二日だけだった。指定日数中の四日を、一気に消化してしまった訳である。
今日で消化しきれると言う最終日。利知未は学校へ向かう途中の道で、ある面倒事に引っ掛ってしまった。
それは、プールの解放時間の十時迄には、まだ三十分程の余裕がある、九時半過ぎ。丁度一ヶ月ほど前、アダムのマスターに声を掛けられた、河原沿いの道を通りかかった時だった。
「…ンだー?しけてやがんな。これっぽっちかよ?」
「…返せって、言ってんだろ!?」
河原から、柄の悪い声と、負けん気だけは強そうな、声替り前の少年の声がした。
「なんだ?」
そう呟いて、声のした方を覗いて見た。
顔も身体もボロボロになりながら、自分より二、三十センチは上背のある相手に、必至になって飛び掛って行く、少年の姿が在った。
「カツアゲー!?ダサい事ヤってンな!」
つい、大声で叫んでしまう。少年の攻撃を面白がりながらかわし、更にその鳩尾辺りへ蹴りを入れ、少年を転がしてから、柄の悪い男が利知未に睨みを効かせてきた。
「ダサいだと?テメー、良くそんな口利けるな?」
「ダサいからダサいって、言っただけじゃん?大体あんた、その転がってるのまだ小学生じゃねーの?」
「だから何だってンだよ?金持ってりゃ関係ネー。」
「…アッタマくんな、そー言うの。自分より小さい子やお歳よりは大切にしろって、教わらなかったのかよ?」
「イイ度胸してんじゃねーか、お前もボコられテーのかよ?!」
転がっている少年は、本格的に気を失っている様子だった。口から血を流している。早く手当てをしないと、もしかしたら内臓がどうにかなっているかもしれない。
そんな不安を感じ、利知未は河原へ滑る様に降りて行った。
その場に降り立ち、少年を庇う様に立ちはだかった。バッグを軽く斜め後ろへ投げ捨てる。男がバカにした笑いを向ける。
「何だ?女かよ?へ、イイ根性してるじゃねーか。」
利知未は学校へ向かう途中だった。セーラー服姿だ。
「女だから何だよ?言っとくけど、喧嘩だったら負けねーよ?」
小学校二年の頃から、ニューヨークで暮す事に成るかもしれないと言う前提の元、護身術として、合気道を習い始めていた。
そして、小学校を卒業するまでに、既に修了免書を貰っていた。
男は本格的にバカにし始め、高笑いをする。ニヤついた顔面のまま、利知未に撲りかかって来た。
「上等じゃねーか!」
自分よりも十センチは小柄な、セーラー服姿の女に負ける訳は無いと、思っていた。軽く脅してやれば、その場で座り込み、泣き出すんじゃないかとさえ思っている。隙だらけだ。
利知未は軽く左足を引いてその男の拳を交わすと、勢いが付いているその右腕を掴んで、力の流れに逆らわない様に弾みをつけてやった。
呼吸モノである。この際、利知未側の力の強さなど関係無い。
男は自分の勢いと体重に押され、そのまま前へつんのめってしまった。
不様にすっ転ぶ。利知未は男の首を、後ろから手刀で打ち据えた。急所だ。小さくうめいて、そいつはそのまま気絶をしてしまった。
「だーから、負けねーって言ったじゃねーか。」
気絶している男に吐き捨て、そいつの身体を仰向けに転がし、ポケットから少年が奪われた財布を抜き取った。
踵を返して、少年の脇に跪く。軽く、頬を叩きながら声を掛けた。
「おい、大丈夫か?目、覚ませよ?」
「…う…ん…。」
小さくうめいて、少年の瞳が微かに開いた。
少年は、焦点のボヤけた視力を、回復させようと努力した。
心配そうな表情が自分を見つめている。自分よりも年上の、少年…?
視点を瞳だけで動かす…。セーラー…服!?
一気に目を見開いた。身体中が悲鳴を上げる。
「…イ…、痛てっ、つ、つ……」
「おい、大丈夫か!?何処が痛むんだ?腹は、大丈夫か?頭はハッキリしてるか?!」
腹は、痛い。口に鉄の味が広がっている。歯が一本、グラグラしてるみたいだ…。それでも、何とか動けるかもしれない…。
頑張って起き上がろうとした。腹は痛いけど、どうにかなってしまった様な感じはしなかった。
少年は、何度か小さな悲鳴を上げながら、やっとで上半身を起き上がらせた。利知未は手を貸してやった。
体が起き上がると、直ぐそこで伸びているヤツに気が付いた。驚いてビクリとする。その拍子にまた身体が悲鳴を上げる。…声も上がる。
『…こいつ…、もしかして…?』
自分を助け起こしてくれた、セーラー服姿の少女を見る。
「ほら。お前の財布、これか?」
自分の財布を、顔の前に持ち上げて、問い掛けられた。
「…うん。そうだよ。」
歯が一本ぐらついているから、普通に言葉を発し難かった。少女は財布を、シャツの胸ポケットに押し込んで寄越した。そしてニコリと笑う。
「お前、結構、根性あるじゃん?」
少年は、恥かしくなって俯いてしまう。
『頑張って向かって行ったのに、アッサリやられて気絶しちゃったよ…。…そんで女に助けられた。』
恥かしいのと、口惜しいのとで、何も言葉が出なかった。
少女が立ち上がり、スカートの汚れを軽く払った。
「立てるか?」
前屈みになり、手を差し出す。少年はその手を取るのを躊躇っている。自分で手を地面につき、立ち上がろうと踏ん張った。
暫くその様子を、黙って見守った。男が自分で頑張ろうとしているのを、直ぐに見かねて手を出しちゃ、傷つけてしまいそうだ。
利知未は少年が、何とか途中まで自力で立ち上がるのをじっと見守っていた。腰が地面から上がり、確りと立ち上がろうとし、ヨロケて再び転びそうになるまで。
絶妙なタイミングで、少年の身体を支えた。
「良く、頑張ったじゃねーか?」
「…へへ。」
少年がやっと笑顔を見せた。少年の身長は低かった。一四〇センチちょっとと、言う所だろうか?小学校四年生くらいかと思った。
「…有難う、オネーサン。」
利知未は、ちょっとくすぐったい気分になった。これまでも、制服姿で男に間違えられる事は流石に無かったが、年下の少年から「オネーサン」と呼ばれるのは慣れていない。今まで住んでいた場所の、近所の子供達からも、利知未の事は「利知未!」と、そのまま呼び捨てにされていた。それが普通だった。
少年に肩を貸し、空いた肩にはバックを掛ける。
「送って行くよ、家、遠いのか?」
「ここから、三十分は掛からないけど…。」
「どの辺りだ?」
「…駅北商店街の、北側の外れなんだ。」
「そうか…。」
利知未は考えた。それなら、アダムへ連れて行った方が、早いのでは無いかと思った。そこで怪我の手当てをしてから、送って行った方が良いだろうと、結論を出す。
「じゃ、先ずは手当てが先だな。それから送る。近くに知り合いの店があるんだ。…十分くらいなら、歩けるよな?」
「…大丈夫だと思うよ。」
背負って行った方が、楽だろうとは思ったが、きっと、この少年は嫌がるだろうと感じた。それなら、歩かせた方が良いかも知れない。
河原から、やっとの思いで道へ出て、ゆっくりと歩く。
「そー言えば、お前、名前は?」
「手塚 宏治。オネーサンは?」
「瀬川 利知未。…オネーサンっての、止めてくれないか?」
「どうして?」
「…言われなれてないんだ。何か、変な感じがする。」
「ハハハ、変なの。」
笑った拍子に、腹筋が刺激されてまた痛む。「イテテ…」と声が漏れた。
「オネーサンじゃなくて、瀬川さん、城西中学?」
「ああ。」
「おれ、来年から後輩だ。」
「…六年か?」
少し驚いた。少年が、傷が痛むのとまた違う所が痛いような顔をした。
「背が低いから、何時も三、四年と間違われるんだ。そう思ってた?」
「…悪い。…逆だな。」
「年上に見られるの?」
「大体ね。」
「じゃ、二年か一年なんだ。少なくとも一年間は学校で会う事になるね。」
「そーだな。」
「…中学に入ったら、喧嘩、教えてくれよ。」
いきなり真面目な顔をして、少年、宏治が言った。
「…お前は充分、強いと思うけどな。」
「どうしてさ?さっきだって…、」
俯き、口惜しそうな顔をする。
「…解ったよ。考えとく。」
「…頼むよ。」
利知未が言いたかったのは、喧嘩ではなく、心の強さの事だった。この少年は決して弱くなど無いと、利知未は思っていた。
体が小さく、力も余り強くない様だが、ボロボロに成りながら、自分よりも大きな相手に立ち向かって行く事が出来る。強い心を持った少年だ。利知未の中では、充分、賞賛に値する。
アダムに着いたのは、十時半を少し過ぎた頃だ。店は開店前。
利知未は、この前、来た時に教えて貰った裏口から、店へ入って行った。
傷だらけの少年を支えた、制服姿の利知未に、開店準備をしていたマスターが気付いた。
「…!いったい、どうしたんだ?」
「悪い。救急箱あったよな?貸してくれよ。」
カウンター近くのテーブル席に、宏治を座らせた。
「それは構わんが…。何処から連れてきたんだ?」
休憩室へ救急箱を取りに行きながら、利知未が言った。
「マスターと、始めに会った河原。」
「…何があったんだ?」
店からマスターの声が聞こえる。
休憩室では、翠が出勤して制服に着替えていた。利知未を見て驚いた。
「あら、どうしたの?こんな早くから制服姿で。」
「怪我人、運んで来た。救急箱、この上だよな?」
上下二段ロッカーの、一番隅の上の段を開けた。目的の物を持ち、すぐに店内へ取って返す。
「怪我人って?」
不安になった翠が、急いで着替えを済ませて、利知未の後を追いかけた。
宏治の手当てをしながら、心配そうにしているマスターと翠に、事情を話して聞かせた。
「俺、あーゆーの大嫌いなんだよ。」
話している内に、段々と腹が立ってきて、一頻り文句をぶちまける。宏治は利知未の言動に、少々ビビッてしまった。
「もう良いよ。…おれが、弱いのがいけないんだ。」
「お前は弱くなんか無いって、言っただろ?あーゆーバカが、力任せに暴れ捲ってんのが、強いって事だと思っていたら、大間違いだ。」
手当てを終え、利知未に例の珈琲と、宏治にホットミルクを出してくれたマスターが、カウンターの中で呆れたような顔をした。
席は、カウンターの隅、トイレに近い三席へと移っていた。左に宏治、右に翠が座っている。後五分もしたら、店を開ける時間になる。
従業員も、ランチタイムパートが出勤して来ており、顔馴染となった利知未の剣幕に目を丸くしていた。
「まぁ、利知未の言う事にも、一理あるわね。」
翠が、利知未を宥める様に言う。
「しかし…。お前が、喧嘩ね…。」
マスターは、普段のやや捻くれて冷めた様な利知未が、そう言った事に熱くなっている事の方が、意外だった。そして、懸念も浮かぶ。
「…制服姿で立ち回ったんだ。休み明け、登下校には十分注意した方が良いかもな。」
「返り討ちにしてやる。」
ぼそりと呟いた利知未の言葉に、ますます不安が募ったのだった。
「お前な、多勢に無勢って言葉、知ってるか?」
「知ってるよ。」
「そう言うヤツらは、仕返しにどんな手を使ってくるか、解らないんだぞ?一人で来ると思わない方が良い。」
マスターが諭す様に話し出す。元々は、頭も働く利知未だ。考えは直ぐに追い付いて行く。
「…そりゃ、そーだけど。」
「それに、もしかしたら敵は、そいつ等だけじゃ無いかもしれない。」
いくらか落着いた様子の利知未が、冷静さを取り戻してきた。
「どう言う事だよ?」
「…色々さ。同じ学校にも、お前の目立った行動に立てつくヤツも出てくるかもしれない。それだけじゃないぞ?学校側だって、あんまり騒ぎが大きくなれば、どんな処分をするか…。」
「…、三年の内申書は、メチャクチャだろーな。」
しかし、それ程ショックな様子は無かった。珈琲を口に運ぶ。
「それだけで、済めば良いけどな。」
「ま、成るよーに成るだろ?」
ニヤリと、笑った。それまで、黙って会話を聞いていた宏治が呟いた。
「もしも、何か大変な事になったら、おれの所為だ…。」
マスターと利知未は顔を見合わせた。
マスターは、宏治に労わり深い笑顔を見せる。
「大丈夫だ。手の着けられないジャジャ馬相手に、ちょっと脅しを掛けて見ただけだよ。」
利知未も、少し肩を竦めて、ニヤリと言う笑いを、宏治に向けた。
「お前の所為なんかに、なりゃしねーよ。…元々、結構、睨まれてるんだ。それに、今回は正当防衛だろ?」
「…。」
俯いてしまった。翠が、優しく宏治の肩へ手を置いた。
「心配しないで。きっと大丈夫だから。」
店は既に開店していた。早めの昼食を目的に、何人かの客が入り始めている。利知未は、これ以上忙しくなる前に、店を出ようと思った。
「…送るよ。もう、一人で歩けるよな?」
宏治が頷いた。それを確認して席を立つ。
「じゃ、開店前から、悪かったな。」
「送って行くんだな?…気を付けろよ。」
「解ってるよ。翠さんもサンキュー。」
「どう致しまして。また、いらっしゃい。」
「勿論。また来るよ…。じゃーな。」
宏治を促して、静かに裏口から出て行った。
宏治の家までは、何事も無く辿りついた。
宏治は、『バッカス』と言うスナックを一人で切盛りしている母親と、七歳違いの兄との三人暮らしだった。
店は、自宅から五分ほど歩いた場所に、在ると言う。
手当てをされた、傷だらけの次男を連れてきた、制服姿の利知未を見て、母親は当然驚いた。しかし、利知未も驚いた。
その母親は、驚いた次の瞬間、宏治の姿を見て、笑い出したのだ。
「まー、随分と良い男になってきたじゃない。箔がついて丁度良いかも知れないわね。」
笑いながらそう言った。そして利知未には、深深と頭を下げた。
「迷惑を掛けちゃったようね。ごめんなさい。…ありがとう。」
「…そんな頭、下げないでよ、おばさん。」
当惑した利知未の言葉に、笑顔でもう一言。
「おばさんって呼ばないで。老け込んじゃうから。」
「?」
「息子以外には、美由紀と呼ばせているのよ。客商売だから、若々しくいたいでしょう?」
利知未は目を丸くした。その様子を見てクスリと笑う。
「可愛いお嬢さんね。お名前は?」
「…瀬川です…。」
「下の名前は、何て言うの?」
「…利知未です。」
何となく敬語になってしまった。その自分に驚いた。変な感じだった。
「そう、利知未さんね。よく覚えておくわ。…本当にどうもありがとう。こんな弱っちいのでも、大事な息子だから。…もうちょっと鍛え直さないといけないわね。」
コロコロと笑った。利知未は、美由紀に興味を持った。
「今度、店を覗かせて下さい。」
「あら、スナック何かに興味あるのかしら?…良いわ、今日のお礼に、今度、開店前にでも見にいらっしゃい。北商店街外れの『バッカス』ってお店だから。夕方四時頃から五時頃までなら、開店準備してるわ。」
「分かりました。じゃ、失礼します。」
普段の調子が出ないまま、利知未は、手塚家を辞去したのだった。
五
八月も中旬を過ぎ、実家へ戻っていた玲子も、再び下宿に帰っていた。
二十四日の朝、朝食の席で玲子が言う。
「瀬川さんが居ないと、私もストレスが溜まらなくて、清々します。」
「本当は逆に、発散する相手が居なくて、寂しいんじゃないの?」
朝美がニマリと笑う。
利知未は昨日から、二泊三日の予定で、裕一が一人暮らすアパートへ行っていた。
「勝手に想像して、変な事、言わないで下さい。…私、本当にあの人を見てると、イライラするんです!」
「ハイハイ、そう言う事にしておきましょ?」
少し、ムッとしたような顔をする。だが玲子は、直ぐに何時もの冷静さを取り戻して、止まっていた手を動かし、朝食の続きを取り始める。
「…そう言う事に、しておいて下さい。」
朝美は、少し笑顔だ。玲子はそう言う態度を取りながら、意外と利知未の事を、心配もしている様だった。
数日前。利知未は、顔に傷を付けて帰って来たのだ。
玄関を入った利知未を、最初に見たのは玲子だった。
「瀬川さん?!どうしたの、その顔…!」
何時もらしからぬ、素っ頓狂な声を上げた玲子を、利知未は口端の血をTシャツの肩で拭いながら、小さく笑って見た。
「どーって事ねーよ。…転んだだけだ。」
「転んだって、何処で転んだらそんな怪我をするの!?」
まだ、驚いている。利知未は靴を脱ぎながら、そっけなく答えた。
「河原。…里沙!救急箱!!」
廊下へ上がりながら、奥に声を掛けて、リビングへ行きかける。
横を通り抜けて行く利知未の腕を掴んで、玲子は言った。
「里沙さんは、朝美さんと外出中よ。…全く、仕方のない人ね。」
利知未を引っ張って、自分からリビングへ入って行く。
「そんな怪我じゃ、自分で手当てなんて出来っこないでしょ?」
ソファに、利知未の肩を押して座らせた。棚の救急箱へ手を伸ばす。
「…ヤサシーじゃん?」
利知未が、ニヤリとして呟いた。
「…煩いわね。…私一人しかいない所に、自分で手当て出来そうもない怪我をした同居人が帰って来たんだから、仕方ないでしょ。義務よ。」
乱暴に消毒薬を、頬の傷に吹き掛ける。
「…イテッ…!傷に凍みるンだけど…、もうチョイ、優しくしてくれねー?…テテテ…、」
「贅沢言わないで!手当てして貰ってるだけでも、感謝して欲しいわ。」
手の甲にも、怪我をしている。剃刀傷のようだった…。玲子はそれを見てまた驚く。…いったいこの同居人は、何処で、如何して、こんな変な傷を作って来たのだろう…?
そこにも、容赦なく消毒液を吹っかけた。
「イテ!…こー言う傷は、擦り傷より凍みるんだよ…。丁寧に頼むよ?」
玲子は、利知未の顔をチラリと見て、絆創膏を、ペチっと張りつけた。
「イッテ!!…乱暴だな…、」
利知未がぼやく。玲子は、無言で傷の手当てを続けた。
「はい、終わり!…女の癖に、何で、平気で顔に傷なんか作って来れるのよ?…呆れちゃうわ。」
救急箱を片付けながら言った玲子に、利知未は、またニヤリとして返す。
「仕方ねーだろ?顔からコケたンだから。」
本当は、喧嘩傷である事は、最後まで黙っていた。
アパートの最寄り駅へ、利知未を迎えに来た裕一が、傷だらけの妹を見て目を丸くした。
「お前、何したんだよ…?」
「イー女に成ってんだろ?」
ニヤリとする利知未に、呆れた顔を見せる。
この妹は、昔から近所の悪ガキと喧嘩をして、何時も傷だらけだった。
それほど驚く事でもない。それよりも、スポーツバックを肩に担いだ妹の、その服装を見て、微かに笑顔が漏れて来た。
「それ、着て来たんだな。」
「折角、買って貰ったんだからね。…一応、着て来ないと。」
「良く似合ってるじゃないか。…顔のバンソーコーが無ければ、もっと良いんだけどな?」
「知らねーの?こーゆーファッションが流行ってンだぜ?」
そっぽを向いて、笑いながら舌を出す。
「初耳だよ。」
笑ってしまった。利知未も笑顔で歩きだす。
「優兄は、いつ来るんだ?」
「優は、明日一日だけ、遊びに来るよ。」
利知未は、ちょっと下を見て、少し残念そうな笑顔になる。
「そっか。…折角、久し振りに三人揃って、過ごせると思ったのにな。」
「そうだな。…仕方ないよ。年末年始は、一緒に過ごせるだろう。」
「…うん。…年末か。まだまだ、先だな…。」
「あっという間だよ。たったの四ヶ月だ。」
寂しそうな妹に、優しい笑顔を向けた。
裕一達は、両親の離婚、約二年後。母が仕事でニューヨークに行ってしまってからの八年間を、兄妹で親戚の家に暮した。
始めの二年は、父方の親戚で過ごし、正直肩身の狭い思いをしていた。
その後、母方の大叔母に預けられた。
母の母。つまり、祖母の妹で、裕一達の母親にとっては叔母に当たる。その老夫婦は、この三人を大層可愛がってくれ、三人は、その夫婦が亡くなってしまった去年の冬まで、その家で暮らした。
兄妹が、一番幸せでいられた五年間だった。
その後、ホンの三ヶ月間をまた別の親戚の家に預けられ、…その家には、世間一般から煙たがられるような、どうしようもない息子が居た。
それが原因となり、兄妹で話し合った。…その結果、四月から裕一はアパートで暮す事にし、次兄の優は全寮制の高校へと編入した。
そして利知未は、一端はニューヨークの母親と暮して見る事にし、約一月半、母の元に居たのだった。
しかし、母娘はどうしても折り合いが悪く、利知未から泣きの連絡を受けた裕一が、勉強の合間にあの下宿の存在を探し当て、そして利知未は、他の生徒に遅れる事、約一ヶ月。今の城西中学へ、転校生として通い始めた。
そんな過去があり、この兄妹は長い間、支え合って生きて来た。
利知未が今、「久し振りに三人揃って過ごせると思ったのに」と言った言葉の裏には、そんな事情が在った。
母親の元から戻った利知未の様子が、それまでと微妙に違っていた事に、裕一は気が付いた。
どんな事があり、何が妹に影響してしまったのかは、推測する事しか出来ない。ただ、裕一は妹に、昔のような笑顔が戻る事だけを祈って、この約四ヶ月間を過ごして来た。
その意味で、あの下宿に利知未を預けた事は成功だったと思っている。
裕一のアパートは、六帖一間、キッチンが三帖分ほどしかない、風呂無し、トイレ付きと言う、本当に質素な物だった。荷物も少ない。
勉強机と本棚。それに箪笥が一竿と小さなテレビ、一応、電話は在る。
ベッドは返って邪魔になるからと、夜は布団で眠っている。登山道具は、押入れの下半分と、三帖しかないキッチンの片隅にあるダンボール箱に入っている。
利知未は、着替えを詰めてきたスポーツバックを勉強机の脇に置き、外で待っている裕一の所へと取って返した。これから昼食を取りに行く。
「お待たせ!」
借りていた鍵を裕一に手渡して、並んで歩き出す。
「裕兄の部屋、相変わらず何っにも無いよな。ツマラなく無いのか?」
「寝に帰るだけ、みたいな物だからな。テレビがあれば時間は潰せるよ。」
「ソー言うモンか?」
「ああ。それに、勉強も忙しいからな。」
「そーだな。…ついていってんのかよ?勉強。」
利知未の言葉に、笑ってしまう。
「お前に心配される様じゃ、どうしようもないな。」
「何だよ、一応、心配してやってんのに!」
ムッとした表情で言った、妹の顔を見て、また笑えた。
「大丈夫だよ、今の所は。本当に大変なのは、これからの三年間だ。」
「そーなのか?」
「ああ。」
「ふーん。」
見合わせていた顔を反らし、前を向いて歩く。
「何が食いたい?」
「ラーメン!」
「また、お前はそう言う物を選ぶ。成長期何だから、もうチョイ、栄養のバランスが良いもの食えよ?」
「栄養バランスは、いつも里沙が考えてくれてるよ。里沙の料理、美味いんだ!裕兄もこないだ食ったじゃん。」
「そうだったな。そうだ、お前、言葉使いはこの再、後回しでも良いから、料理、教えて貰って来いよ。」
いきなり提案されて、利知未はやや面食らった。
「ばあちゃんから、習ってたよ?」
「レパートリー、増やしておけよ。俺が大学出て、何処かの病院で働き出したら、一緒に住むんだからな?」
利知未は、目をぱちぱちさせて、驚く。
「…アメリカ、行かなくても良いのか…?」
「どっちにしろ、高校は日本で行くんだろう?三年後じゃ、まだ、お前は高校二年だ。二年間は、一緒に暮らせるよ。」
利知未が顔中で笑顔を作る。弾んだ声を出した。
「そーだな!そしたら、もしかして、優兄も二年くらいは一緒に居られるかな?だって、三年後ったら、優兄もまだ大学三年だろ?」
「そうなるな。…だから、お前が俺達の胃袋、支える事に成るんだ。美味い物、作れるようになってくれよ?」
「ソー言う事なら、任せておけよ!里沙に色々、教えて貰っておくよ!」
「お前は器用だからな。期待してるよ。」
「ああ!」
明るい表情が戻った利知未を、裕一はホッとした気持ちで見た。
それから利知未の希望通り、ラーメン屋へ入って昼食を済ませると、薬局で、利知未の怪我処置用に消毒液、銭湯に持って行く為、携帯用のシャンプーやボディソープ、歯ブラシなどを買い込む。
そこそこの荷物を抱えて、書店で立読みをして時間を潰した。最後に夕食の材料を買い込んで、夕方、アパートへ戻った。
夕飯は、利知未が作った。昔、大伯母に教わって覚えた料理だった。
夕飯を終え、八時前に銭湯へ向かった。その道すがら、裕一が言う。
「ちゃんと、覚えていたんだな。」
「何を?」
「おばあさんに教わった料理だよ。…懐かしい味だったな。」
「俺も中々、やるだろ?料理実習の時間とか、面倒臭くて。」
「どうしてだ?」
「だって、昔、覚えた事ばっかり、ヤラされるんだぜ?クラスの女子に全然、料理とかやった事、無いヤツがいてさ、フォローしてやンのが、大変だよ。」
少し、ふて腐れたような言い方をする。
「安心したよ。…上手くやってる様じゃないか。」
「学校?」
「ああ。お前はどうも、捻くれ過ぎてるからな。上手く行かないんじゃないかと思って、心配していたンだよ。」
「…面倒事、起こしたくないからね。」
マスターの事を思い出したが、言わずにおいた。
『世話好き親父がいてさ、色々、煩く言われるんだよ。』
心の中だけで、言っておいた。
風呂から戻り、利知未の絆創膏の後を処置し直す。
裕一は、利知未の、右手の甲に付いた剃刀傷を見て、驚いた。
「お前、いったいどんなヤツらと喧嘩したんだ?」
「ン?…あー、これは草で切ったんだよ。葉っぱの鋭いヤツ、あるだろ?」
本当は違う。しかし、黙っている事にした。
宏治を助けた時の柄の悪い連中に、最近、良く喧嘩を吹っかけられていた。その中に、剃刀を持ったヤツもいた。
「…本当だろうな?」
「裕兄に嘘、言ってどうすんだよ?」
「…なら、良いけどな。」
探りを入れて見ても良いが、取り敢えず、本人から何か行って来るのを待つ事にした。
その夜、一組の布団で兄妹は眠った。利知未にとって裕一は、兄であると同時に、親のような存在でもあった。
寝付くまでに色々と話をして、利知未から安らかな寝息が聞こえ出したのは、深夜二時近くの事だった。
翌朝、八時近くに利知未が起き出すと、裕一がキッチンで、朝食の準備をしていた。裕一も一人暮らしをしてから、自炊をしている。山に入った時などは、飯盒を使って何かしら作るのだから、全く出来ないと言う事は、元々、無かった。
「やっと起きたか?飯にしよう。」
顔を洗いに出てきた利知未に、声を掛ける。
「はよ、裕兄。何作ってんだ?」
寝ぼけた目を、擦っている。背だけは高いが、そんな様子を見ていると、まるで小学生の様だった。
「昨日、炊いた飯が、まだあるからな。味噌汁と目玉焼きで良いだろう?」
バシャバシャと、流しで顔を洗っている利知未が、水浸しの顔を上げてブーイングを起こした。
「エー!?なんか、野菜はないのかよ?」
「昨日の残りの煮物くらいなら、あるぞ?」
「…仕方ネーな。それで勘弁してやるよ。」
手で顎に滴ってきた水を払って、肩に掛けていたタオルを使う。
朝食を終え、暫くした頃、玄関をノックする音が聞こえて来た。
「あ、きっと優兄だ!!」
嬉しそうに玄関を開けた利知未の目の前に、ひょろりと細長い体形をした少年が立っていた。顔の、利知未と同じ所に絆創膏が付いている。顔立ちは、裕一よりも利知未に似た感じだ。
「オッス。…お前、相変わらずだな…。」
利知未の顔の、絆創膏を眺める。
「優兄こそ、同じトコにくっついてンじゃん?」
「オレのは部活でついたんだ。寸止め下手な奴がいてさ。」
言いながら、靴を脱いで利知未の前を通過する。
「よう、良く来たな。お前も、相変わらずそうだな。」
部屋から出て来た裕一が迎えた。隣に立つ。
「…お前も背、伸びたな。」
やや、上を見る。
「成長期だよ。」
この兄弟は、背が高い。裕一も181センチあるが、優は、どうやら185センチには、成って来たようだった。利知未も、女にしては背が高い。どうやら瀬川家の血筋らしい。そう言えば、ニューヨークの母親も164センチはある。
「折角、三人揃ったんだから、どっか遊びに行こうよ!」
利知未が、二人の兄に声をかけた。
「麦茶の一杯ぐらい、出してくれねーのかよ?」
優が言った。裕一は、その様子を笑って見ている。
「分かったよ、一杯だけな。」
利知未が答えて、冷蔵庫から麦茶を出して優に渡した。
「サンキュ。」
「な、何処行こうか!?」
まだ、麦茶に一口も付けていない優を、急かす様にせっつく。
「あー、煩いヤツだな。もう少し落着かせろ!」
と、利知未の頭を、優が小突く。
「ってーな!暴力兄貴!」
「へ、お前はそれ位でどーにか成るようなか弱い女じゃネーだろ?」
「お蔭様でね!」
利知未が舌を出した。裕一は相変わらずの二人の様子を、穏やかな笑顔で見守っていた。
それから、煩い利知未に背中を押され、三人で電車を乗り継いで、大きな自然公園へ向かった。昼は何処かで食べる事にし、利知未と優は、公園のアスレチックで競争をした。裕一も付き合った。
裕一は登山で体力があり、優は空手部で、いつも鍛えている。その兄達と、小さな頃から転げ回っていた利知未も、中々、素早い。
お互いに罵倒を浴びせながら、風の様にアスレチック施設を掛け抜けた。ゴールした時、その様子を眺めていた見物人が、拍手をしてくれた。
楽しい一日を過ごし、アパートへ戻った。夕食はまた利知未が作った。
夕食の席で、裕一の卒業後の話しをした。
「イーンじゃねーの?そう言う生活も楽しそうだ。」
優が頷いた。狭い六帖の部屋で、座卓を囲んでいた。
「じゃ、優兄も賛成、何だな!?」
利知未は、嬉しそうな声を上げる。
「お前の料理の腕も、まぁまぁみたいだしな?精々、美味いモン作れるようになっておけよ。」
「任せろよ!」
明るい食事が終わり、夜八時ごろに、優は帰って行った。寮の門限が十時と言う事だった。
それから、今夜も銭湯へ行き、昨日と同じ様に、一組の布団で休み、翌日、昼過ぎに利知未は下宿に帰って行った。
本当は、もう少し裕一と過ごしたかったが、明日からまた、裕一のバイトが始まる。ただ、三年後の約束が出来た。それが楽しみだった。
利知未の気持ちは、晴れやかだった。
幸せの種 第一章 了 (まだまだ、続きます。)
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