Track2.小さな世界に響くあいのうた。
地下にまで流れ込んでいた陽射は消え失せ、闇が訪れ、街が喧騒を増して輝きだしても、マーヴェラスの看板に、灯は点らなかった。
店内には、電飾の青い蝶と星が点灯して、プロペラファン付のスプートニクが微かなモーター音を立てながら、淡い飴色で辺りを照らしていた。
「八年前か……。覚えているよな?」
長く続いた沈黙を、帽子の男が、低く、破った。
「伊藤だろ、あんた」
蓮司は包丁を置いて、シンクに腰を持たせかけて男を見ていた。
「やっと思い出したのか?」
「……いや。忘れてなんかないぜ。まさかここを嗅ぎつけてくるなんてな」
「馬鹿言うんじゃねえ。この街は俺のものだ。灯台下暗しを狙ったつもりだろうが、俺は黙ってやっていただけだ」
男は肩をすくめて鼻で笑い、一瞬の不快感を一瞥に込めて言った。
「……じゃあ、何故今ごろ現れた?」
「おい、口の聞き方に気をつけろよ?若造」
男は蓮司に人差し指を向けて、厳しく諭すように言った。
「五年間、泳がせていたのは、あの娘のことがあったからだ。そして、三年前のごたごたがなければ、お前なんか、とうに消していた」
伊藤は忌々しげに言い放ち、葉巻を取り出した。
「……運の良い野郎だ」
「あんた……アゲハの……」
「アゲハだと?ふざけた名前で呼ぶな。俺は今すぐお前を殺すことも出来る。娘を売女と一緒にしやがって」
静かな低い声には怒りが満ちていて、今にも食われそうな気迫を帯びて、蓮司は胸がすくのを感じた。
「……ならどうして、あの娘を放っておいた?」
蓮司の顔の側を瓶がかすめた。身を丸めて破片は避けられたものの、始めから当てる気はないようだった。
「お前が殺した女が、あの娘を隠して俺に教えないままだったからだ」
伊藤は葉巻に火をつけて、ゆっくりと煙を口の中で転がした。
「情報屋ってのは、蝙蝠と同じだな。今じゃ、汚ねえ蠅か……。たかだか蠅一匹、俺にはどうだって出来る」
伊藤は葉巻を美味そうに含みながら、蓮司を横目で見た。
「しかし、俺がお前を殺さないでおいた訳が、一つある。
……娘がお前を慕っていたことで、お前は生き長らえていた」
伊藤は皮肉めいた微笑をたたえ、蓮司を見ていた。
「佐々木があの事故で行方知れずにならなければ、すぐにでも俺の女を殺し俺を殺そうとした野郎とお前を殺るつもりだったんだよ。狂ったのは、俺の予定と交通機関だけじゃねえ。お前は、母親を奪っただけじゃなく、幼い娘を騙して、てごめにしやがった。ようやく抗争が終わって、俺が娘の存在を知った時は、すでに立派な売春婦だったって訳だ」
伊藤は冷たく睨み据え、蓮司に重苦しい沈黙がのし掛かる。
「……なぁ、伊藤さん……佐々木って誰だ……?」
蓮司は強張った顔を無理やり笑ったように引きつらせて、伊藤に尋ねた。
「情報屋のくせに知らないのか?あの頃は、宮下 誠一郎と名乗っていたな。佐々木は、俺の右腕だった男だ」
「宮下って……、あの殺し屋か」
伊藤は葉巻を銜えてゆっくり立上がり、蓮司に向き直った。
「この街はつくづく美意識が低い。俺の街だっていうのになぁ。何故だか解るか?……お前みたいな薄汚い蠅や、殺しの作法も知らない殺したいだけの愚鈍なガキどもばかりが、のさばってまともな大人が、いないからだ」
「ケッ、お前のいう台詞かよ」
蓮司の言葉に、伊藤が片眉を顰めた。
「目上の者に対して、まともな話し方も知らないのか……。つくづく情けない。そんな振る舞いが罷り通るのは、ガキの世界だけだぞ」
「黙って聞いてりゃ好き勝手いいやがって!てめえが間抜けだから、アゲハも逃して、女も殺られるんだよ!!」
蓮司は、掌をテーブルに叩きつけて伊藤を見据えた。
「丸腰がほざくな。この中は俺の縄張りだ。伊藤、わかって……」
蓮司の声の途中で、伊藤の眼光が鋭くなった。
伊藤は一瞬にして、スーツの懐からナイフを取り出し、蓮司の手の甲に突き立てた。
「ぐぅ……ッ!!」
蓮司の胸倉をつかみ、耳元に唇を寄せた。
火種で耳朶が焼かれて、蓮司は痛みと嫌な音に眉をしかめて呻いた。
伊藤は突き立てたナイフを左右に回し捩じ込みながら、低く囁いた。
「身内でもないお前に、呼び捨てされる覚えはない。身の程を弁えろ」
「き、貴様……」
「学習能力があるなら、少しは振る舞いを考えたらどうだ?死んだ肉を捌けても、なんの役にも立たんぞ」
伊藤は蓮司を突き飛ばし、再び懐に手を入れた。
蓮司は床に尻餅をついてナイフを抜き、出血する手を庇いながら、伊藤を見上げた。
「――五百万ある。今まで娘が世話になった礼だ。これを持って、この街から失せろ。いいな。今日中にだ」
伊藤は煙を吐きながら、ゆっくりと踵を返した。
蓮司はナイフを伊藤の背中を目掛けて投げたが、それは伊藤のレザーソウルにも届かず、甲高い音を立てて床に落ちた。
「お前の愚かさには、感心するよ。俺は、たかだか蠅一匹の血で、これ以上、街を汚すつもりはない」
伊藤は再び歩み始めた。 そして、思い出したようにドアノブに手を掛けて、立ち止まった。
「……佐々木が、この街に戻っていることは、知ってるな?」
「……あぁ」
蓮司は顔を引きつらせて、三回首を縦に振った。
「娘と一緒にいたのは、気づいていたか?」
「……あんたの娘の身体が良過ぎて、夢中になってたよ」
「ふん……。自分の顔を見られていると言うのに、随分悠長だな。あいつは記憶力が良い……」
伊藤はゆっくり振り返った。
「俺の気が変わらないうちに、失せろ」
冷たく、低い声が、蓮司の背中を粟立たせる。側に放られた分厚い封筒を掴み、後退った。
「わ、わかったよ……」
蓮司は冷や汗をかきながら、震えた声で答えた。 伊藤はその様子を眺めながら、ゆるりと微笑を浮かべて、ようやく、店から出ていった。
「ちきしょう……、アゲハが、俺を嵌めたのか……?」
蓮司はかすれた声で呟き、床を殴りつけた。
傷口から血がしたたり、堪えるように奥歯を噛み締めていた。
店を出た伊藤は黒塗りの車に乗り込んで、新しい葉巻を銜えた。
「総統、生かしておいて良かったんですか?」
向かいで待機していたサングラスの黒スーツの男が潜めた声で、伊藤に言った。
「……無能な輩も、使い様だ。放しておいても所詮、俺の手の中に変わりない」
「……佐々木さんは?どうなさるおつもりで?」
「あいつは有能な人材だ。もちろん取り戻すに決まっているだろう」
「しかし……どうやって。噂に依れば記憶を無くしたと……」
「あいつは記憶力もいい。今は眠っているだけだ。少々荒いやり方で叩き起こしてやるのさ」
「……?」
「待ってる間に頭の回転が鈍ったか?そんなんじゃ、この世界を変える前に置いて行かれるぞ」
伊藤は可笑しそうに、男の肩を叩いた。
「俺は手段を選ばない。決めたことはやり遂げる。この世界を手に入れる為ならば、無論、犠牲は厭わん」
伊藤は首だけを車窓に向けて、深く煙を吸い込んだ。
サングラスの男は黙り込んで、伊藤を見つめていた。
「有能な人間は、そう簡単には手に入らぬ。あいつは特に用心深いからな。だからこそ、絶望をくれてやるのさ」
「……そ、総統、あの、もしや、娘さんを……」
伊藤は鋭い目付きで男を見据えた。
「……言っただろう。犠牲は厭わん、と」
どこか甘い紫煙の匂いが、沈黙と共に重く車内に沈んでいった。
―――失われない温もりを、目覚めと共に確認できる。
太陽はだいぶ高いところにあって、今日も天気が良いみたいだ。
あたしは、セイイチロウさんの腕の中に、すっぽりと包まれながら、こっそり一人で笑ってしまった。
「おはよー……。なに一人でニヤニヤしてんの?」
「起きてたの?!」
背後から、感じるセイイチロウさんの笑う息遣いに驚いて、振り向いた。
「ちょっと前にね。寝顔を見る特権を戴いていた」
あたしは顔が熱くなるのを感じて、彼を睨みつけた。
「寝顔の方が可愛かった」
柔らかな憎まれ口も愛しいけれど、可愛さ余って憎さ百倍。あたしはセイイチロウさんの胸を押し退けた。
「いいもん。お味噌汁作ってあげないから」
あたしはわざと外方を向いた。
セイイチロウさんが苦笑しながら、あたしを抱き寄せる。
「ごめん。機嫌直して」
耳にかかる吐息がくすぐったくて、あたしは身体を捩らせた。
「いいよ。朝ご飯作ってくる。ねえ、やらなきゃなんないこと、早く済ませようよ」
あたしはセイイチロウさんの腕に戯れつきながら言った。
「……あぁ、そうだな」
セイイチロウさんは、呟く様に頷いた。
「じゃあ、お味噌買ってくるから待っててね!」
あたしはセイイチロウさんの表情が曇ったことにも気づかず、浮れてベッドを出た。
「うん。気をつけて」
あたしは脳天気に、彼に手を振って、薄手のカーディガンを羽織り、財布を持ち、玄関でヒールの高い、少し古い形のパンプスに足を突っ込んだ。ママの靴でも、あたしは早く走れるようになっていた――――
「あら、アゲハ。おはよう」
買い物を済ませてアパートに戻ると、下の階に住む同業者のマリアと、ゴミ置き場の辺りで遭遇した。
マリアは目鼻立ちがハッキリしているから、スッピンでも、明るい栗色のゴージャスな巻き毛が、よく似合う。
……まぁ、眉毛がほとんどないのが、惜しいところであるけど……。
同年代の彼女とは、仲のいい呑み友達。世間話もよくする間柄なのだ。
「おはよう、マリア!」
「機嫌いいじゃん。なんかあったのぉ?」
「んふふ。べっつにー」
「うわ。超バレバレ。お前さみーよ」
マリアはあたしの肩を無遠慮に叩きながら、いきなり腕を絡ませて、あたしの耳に唇を寄せた。
「……あんた、“マーヴェラス”の蓮くんが夜逃げしたって、知ってる?」
「えっ?」
あたしは顔を上げて、思わずマリアを見つめた。
「知らなかったのぉ?てっきりあんた絡みの事かと思ってたのにぃ」
マリアは肩をすくめて、つまらなさそうにぼやいた。
「蓮司さんが……?なんで……?あたし、そんな、一言も聞いてない……」
鼓動が、気味の悪いリズムを刻み、汗が出そうで出ないみたいな、気持ち悪さを感じる。
「あんた絡みじゃないのかぁ……。意外に闇金から追われてたとか?あ〜でも、蓮くんは有り得ないか、ね?アゲハ……」
マリアの独り言も、あたしを呼ぶ声もそっちのけで、あたしは部屋に急いだ。
蹴破る勢いで、ドアを開けたものの、目に飛び込んで来たのは、お風呂上がりの彼の見開いた目と、半裸体だった。
「なにのんびりお風呂に入ってんのよー!!」
「え……えぇ?おれ、なんか悪いことした?」
あたしは勢い任せに彼の胸を殴りつけながら、部屋の奥に追いやった。
「いたい、痛いって」
ずり落ちそうなタオルを危惧しながらも、彼は必死にあたしの攻撃を防御していた。
「なんで躱すのよっ!」
「なっ、なんで殴られてるんだ?」
あたしたちはベッドで蹴躓き、バランスを崩した。
「だって……、あなた、命を狙われてるかも知れないのよ?」
あたしの言葉にセイイチロウさんの表情が強張る。
そして、そっと額に掌が当てられた。
「……なにしてんの?」
あたしは眉を顰めて、セイイチロウさんを見つめた。
「熱はないな、と……」
「どうしてそんな緊張感が萎えるようなことするの?!信じらんない!あたしは本気よ!」
あたしは、わめきながら、セイイチロウさんの肩を両手で押さえつけた。 なんだか、あたしが襲っているみたいな体勢だ。
「……このまま犯しちゃおうかな?」
「えっ……」
冗談混じりに囁いてみたものの、困惑した彼の表情をみて、本気で欲情してしまった。
あたしは目を合わせたまま、後ろ手を、ゆっくりと彼の下腹部に這わせた。
「……なーんてね、うっそー!しないって」
あたしはかろうじで理性を引っ張りこんで、
両手を上げた。
お尻に当たる硬質に、ものすごくドキドキしながら、セイイチロウさんを覗きこんだ。
「……怒った?」
何もいわず顔を逸らしたセイイチロウさんに、あたしはビビってしまった。
「……なんか、おれだけ焦ったのが……、しかも、裸だし……、最悪」
セイイチロウさんは、両手で顔を覆い、溜息をついた。
「んー……じゃあ、これで……許してくれる?」
あたしは着ていたカーディガンとワンピースを脱ぎ捨てた。
「これでおあいこ。いいでしょ?あ、パンティも脱いだ方がいいかしら?」
セイイチロウさんが目を丸くしてあたしを凝視している。
「おあいこって、アゲハ……、そんな……簡単に裸になっちゃだめだろ……」
セイイチロウさんは、首の力を抜いて宙に視線を投げた。
あたしはその肩を掴んで鎖骨の辺りに頬を当てた。
「だぁって、セイイチロウさんを怒らせちゃったかと思ったんだもん」
「……ばかだなぁ、アゲハって」
セイイチロウさんは呆れた口調で言った。
「……こんなこと、セイイチロウさんにしかしないよ?もう、セイイチロウさんにしか見せないの」
ふわりと、大きな手があたしの頭に置かれた。セイイチロウさんの唇が額の上近くにくっつけられた。
「……命を狙われてるかも知れないんじゃなかったっけ?いいのか?こんな無防備で」
セイイチロウさんの言葉にハッとしてあたしは上体を上げた。
「そうだった! こうしちゃいられないのよ!」
視線を落とすと、セイイチロウさんは、身を捩り、顔をシーツに押し当てて肩を震わせていた。
「……笑ってる場合じゃないってば」
あたしは、口を尖らせてセイイチロウさんの肩を叩いた。
「ご、ごめん……」
彼は身体を起こして、あたしを抱き締めた。
「アゲハ……」
「んー……?」
あたしは甘えていたが、耳に流し込むような小さな声は、甘い囁きではなかった。
「……記憶が少しずつ戻ってるんだ……」
「えっ――」
「お腹空いた。行きたいところがあるから、準備しよう」
彼は無理に微笑を浮かべて、あたしの身体を離した。
蘇りつつある記憶は、彼を幸福にしてくれないみたいだった。
あたしたちは服を着て、準備をに取り掛かることにした。
「……この三年間、おれはこの街を避けていたのかもしれない。この街にきてから、デジャヴみたいな感覚を感じることが多くなって、怖かったんだ」
並べられていく食器に視線を落としながら、彼は話しだした。
「おれはね、あの時、K県に向かっていた」
そして、言いにくそうにあたしを見た。
「……その時、K県のT市に、おれの帰る場所があったんだ……」
彼はテーブルに肘をつき、組んだ両手に唇をつけた。
その様子で、その相手が恋人だと思った。
あたしは黙ったまま、お味噌汁をお椀に注いだ。白ご飯をお茶碗によそって、彼の前に置いていく。
やりきれない気持ちが、胸を浸食していく。
彼に恋人がいたなら、今あたしは、なんなのだろう。その人は、彼を待っているかもしれない。 行方知れずになってしまった彼を、待ち続けているかも知れない。
「……じゃあ、行ってみようよ。K県に……」
「でも……」
「帰る場所だったんでしょ?きっと今もあなたを待ってるかもしれない。用事が済んだら行こう」
あたしは明るく言ったけれど、妙に高い声は、空回りしていた。
あたしは赤ピンクの化繊のワンピースの上から、シングルのレザーフェイクジャケットを羽織って、エンジニアブーツをという格好に着替え、タンスに入れておいた十数枚のお札を、ポーチに詰め込んで、玄関から飛び出した。
あたしの心とは裏腹の、青く澄み切った空、柔らかな小春日和。
「目立つんじゃない?」
黒いシャツにジーンズのセイイチロウさんは、不安そうにあたしを見た。
「デートしてるみたいで自然だよ」
本当は沈んだ気持ちを誤魔化したくて、好きな服を寄せ集めただけだ。
「じゃあ、」
セイイチロウさんが、あたしの手を取って歩き出す。胸がチクリとして、さっきの言葉が引っ掛かった。
「……どうして、手なんか、繋ぐの」
あたしは、立ち止まって、目にかかる前髪の向こうのセイイチロウさんを睨んだ。
「デートしてるみたいで自然だろ?」
困った様な微笑みを浮かべて、振り向いた彼が、眩しくかすむ。
あたしは俯いて、その手を握り返した。
「……すきだよ。セイイチロウさん。短い間だけど、ほんとなの」
「……うん。おれも」
セイイチロウさんは、あたしの手を引いて歩き始めた。
ごめんね。
あたしは、無言で彼の背中を見た。
でも、帰る場所に辿り着いたら、もう会っちゃいけないでしょう。
「いい天気だなぁ……」
空を見上げながら、のんびりと言った彼の言葉にも、答えずに、あたしはそんなことを思っていた。
セイイチロウさんは、言葉通り、記憶を取り戻してきたらしく、どんどんあたしを引っ張って歩いていく。
「この街に来て、地図の見方さえわからなかったのに」
苦笑しながら、セイイチロウさんは、小さな路地に迷いもなく足を踏み入れて行く。
「どこに行くのぉ?」
あたしは横から彼を覗きみた。
「ちょっと、買い物」
「じゃあ、あたしも」
あたしはコンビニに行くつもりだったけれど、セイイチロウさんの目的地は違うようだったので、先にコンビニに寄らせてもらった。
「セイイチロウさんのお買い物、時間かかる?」
「うん。もしかしたら」
「そっか〜」
あたしはカゴの中にサンドイッチや、ペットボトル紅茶や、おにぎりを適当に放り込んだ。
「セイイチロウさん、いるものとか欲しいもの入れてって」
「遠足みたいだね」
「うん。そう。ほら早く入れてって」
あたしは、暇潰しに、とたまたま見つけたシャボン玉セットも追加した。板チョコレートとチェルシーとガムも入れた。
セイイチロウさんは、ペットボトルの烏龍茶と缶コーヒー、そして、赤い箱の煙草を入れた。
「煙草、吸うの?」
「思い出したら、どうしても吸いたくなった」
「なら、ライターも買わなきゃ」
あたしは赤い透明のライターをカゴに放って、レジ台に置いた。
会計を済ませ、外に出て、再び小道に入る。
表通りと違って、狭くて薄暗い。冷えた空気が湿っている。
ビルとビルの間を通りすぎて、少し道幅が広くなった。
雑草が伸び放題の空き地に出た。突き当たりには、手入れのされていない庭木に囲まれた、いつ建てられたのか解らないような古びた民家があった。
「あそこが秘密のショップなの?」
セイイチロウさんは、緊張した面持ちで頷いた。
「ちょっと休憩しよ。買い物の間はあたしここで待ってるけど」
「あぁ……」
セイイチロウさんは、袋から煙草を取りだし、どこかぎこちない動作で火を点けた。
あたしは隣でシャボン玉で遊ぶことにした。
セイイチロウさんは白い煙を空に飛ばして、あたしは虹色の球体を風に流した。
休憩は小春日和に相応しいのんびりした時間になった。
やっぱり、青い空には、シャボン玉が似合う。
「なんか懐かしいね」
セイイチロウさんが、微笑んだ。あたしも笑い返して、緑のプラスチックの筒にゆっくり息を吹いた。
シャボン液が、ゆわゆわと揺れながら膨らんで、表面に虹色が、ぐにゃぐにゃと渦巻く様な絵を描いた。
あたしは夢中になって、それをもっともっと大きくしていこうと、息を込め続けたのだけど、大きくなりすぎたそれは、一瞬にして弾けてしまった。
「あ〜あ、やっ、ちゃっ、た!」
あたしは草むらに座り込んで、小さいシャボン玉をいっぱい飛ばした。
「仕方ないよ」
セイイチロウさんは、二本目の煙草を銜えて、いっぱい飛んだシャボン玉をみていた。
あたしたちは無言のままシャボン玉を、眺めていたのだけれど、セイイチロウさんは二本目の煙草を、爪先で踏み消すと、あたしに視線を移した。
「そろそろ行く」
「うん。いってらっしゃい」
あたしはセイイチロウさんの頬に唇をくっつけた。
彼は照れくさそうに微笑して、あたしの髪を撫でて、行ってしまった。
買い物って言ってたけど、お金持ってたのかな、なんて考えながら、一人でシャボン玉の続きをした。
セイイチロウさんの背中をめがけて、いっぱい飛ばしたら、なんだか夢の中みたいに、メルヘンチックで、行く先があのボロい民家だなんて、思えなかった。
暖かい風が、ワンピースの裾を遊ぶように通りすぎる。
あたしはしゃがみ込んで、空を見上げた。
彼はもう、戻ってこないかも知れない。
そう思うと、広く澄み渡った青空の青さに、底知れぬ心細さを覚えた。
見送る時にちゃんと、帰ってきてね。と言えば良かったかなと思いながら、袋の中から、チェルシーをとった。
あたしは最後のチェルシー・バタースカッチを舌で転がしながら、草むらに寝転んで、雲が流れているのを眺めていた。
人の気配がして、足音が近付いてくるのが聞こえた。
随分長い時間待たされていたような気もするけど、意外とそうでもないかも。
あたしは上体を起こそうとして、やっぱり止めて、かわりにうつぶせになって、草の陰から足音のする方を盗み見た。
足音は複数で、苛立ったような、知らない男の声がしたからだ。
「木嶋、はやくしろ」
「す、すみません。総統」
グレイのスーツに渋いお洒落な帽子の偉そうなオジサンと、背の高いサングラスの黒スーツのお兄さんが、ボロ屋に急いでいるところだった。
「佐々木さんが今ここに来てるのは確かなんですけど、支払いにわざわざ総統が出向かれなくても……」
サングラスのお兄さんの情けない声が、妙にコミカルだ。
佐々木さんはそんなにスゴい人なのか。
誰?佐々木って。
しかし、あのボロ屋はなんなのだろう。
あたしは欠伸をしながら、ボロ屋に入っていく二人の背中を見送った。
「遅いなぁ……セイイチロウさん」
あたしは手持ち無沙汰で、またシャボン玉で遊ぶことにした。
シャボン玉にもすぐに飽きてしまい、することがないので、あたしは頬杖をついて“あいのうた”を口ずさんだ。
「こんなところでお昼寝か?お嬢ちゃん」
いきなり目の前に先の尖った革靴が現れて、あたしはその上を見上げた。
さっきのサングラスのお兄さんが、煙草を吹かしながら、あたしを見下ろしている。
「歌ってっから、起きてるよな。あ〜、シャボン玉とか、すっげ久しぶり見たぜ」
お兄さんは一人で笑いながら煙草を吸っていた。
「あんた、だぁれ?」
あたしは草を千切りながら尋ねた。
「お前こそ誰だよ。それにこんなところで、何してんだ?」
鼻で笑い飛ばすようにお兄さんは言った。
「彼を待ってるの。だけどなかなか戻って来ないから、こんなところで退屈してるの」
「えらい奇特な場所に置いてかれたな。捨てられたんじゃね?お前」
不躾な物言いには慣れているけど、妙にムカつく。
「違うもん。彼はあそこに行ったの」
あたしは口を尖らせて、ボロ屋を指差した。
お兄さんは煙草を落としそうになりながら、あたしとボロ屋を交互に見た。
「お前……、佐々木さんのコレか……?」
お兄さんは小指を立てて、信じらんねえ、と言った。
今時、小指を立てて“コレ”なんか言ってる方が信じらんない。
あたしは、侮蔑を込めて、お兄さんから目を逸らした。
「佐々木さんじゃないもん。セイイチロウさんだもん」
「馬鹿だな。セイイチロウってのは、佐々木さんの事だろうがよ」
あきれたような口調でお兄さんは肩をすくめた。
「あんた何言ってんの?セイイチロウさんは、ミヤシタ セイイチロウよ」
あたしは身体を起こして、お兄さんを睨んだ。
「アゲハ!!」
慌てたセイイチロウさんの声に呼ばれて、あたしは飛び起きて、サングラスの隣をすり抜けた。
「セイイチロウさん!」
あたしはセイイチロウさんの胸に飛び込むつもりだったけど、その後ろにさっきのグレイのスーツの偉そうなオジサンがいたので、思わず立ち止まった。
オジサンは、愕然とした眼差しで、あたしを見ていた。
「佐々木さん……、そのお嬢ちゃん……」
黒スーツのサングラスも口を開けて、あたしの方を見ていた。
あたしは何がなんだかわからなくて、セイイチロウさんのシャツの胸を掴んで、二人を見た。
「大丈夫だよ。アゲハ。この人達はおれの知り合いだから」
セイイチロウさんは、優しくあたしの髪を撫でながら言うけれど、二人の尋常じゃない雰囲気が、なんだか怖かった。
「……佐々木、その娘は」
帽子のオジサンが、あたしを指差した。
「この娘はおれを助けてくれたんです」
セイイチロウさんは笑いながら答えていたけれど、あたしは混乱していた。
セイイチロウさんはセイイチロウさんじゃなくて佐々木さん?
そしてこの人達は誰なんだろう。
「伊藤さん……?」
セイイチロウさんが、オジサンを呼んだ。
伊藤さんと呼ばれたオジサンは、ハッとして、あたしに視線を移した。
「いや……。なんでもない。それより、記憶は戻ったようだが、調子はどうなんだ?」
オジサンはサングラスに目配せをして顎をしゃくった。
「木嶋、その娘を車に乗せておけ。佐々木、話がある。少しいいか?」
「あ……はい。アゲハ、もう少し待っててくれ。怖くないから、車にいってて」
「え……?やだ。離れたくない」
「大丈夫。すぐ終わるから」
あたしは本気で嫌だったけれど、セイイチロウさんが、大丈夫だと言ったので信じることにした。
サングラスのお兄さん、木嶋さんがあたしの肩に手を置いて、行くぞ、と言った。
セイイチロウさんは、踵を返して伊藤さんの方に行ってしまう。
あたしは木嶋さんに連れて行かれながら、セイイチロウさんの背中を何度か振り返った。
セイイチロウさんが振り向いてくれることは、一度も、なかった。
「……泣くなよ?」
映画でしかみたことない広い車の中で、泣きそうになっているあたしとウンザリした顔の木嶋は向かい合っていた。
こんな奴に“さん”付けなんてしなくてもいい。そんなことを思いながら、あたしは木嶋を睨んだ。
「泣いてないわよ、バカ」
木嶋は組んだ足に頬杖をついて、サングラスを外した。
「可愛くねえな。お前」
「あんたに可愛いとか言われても嬉しくないし」
「か〜〜〜〜ッ!!本当、生意気。他のガキだったら許せねえ」
「一体なんなのよ。あんた達」
「伊藤さんはこの街の頂点、俺は伊藤さんの舎弟、佐々木さんは一応、伊藤さんの右腕だから、俺の兄貴分。どぅーゆーあんだすたん?」
「……ヤクザなの?」
「ちょっと違う。なんて言ったらいいかなぁ……。お前、頭悪そうだしなぁ……」
「あんたに言われたくない」
あたしと木嶋は同時ににらみ合った。
「伊藤さんは、この街を、この世界を変えるつもりなんだよ。なんつーの?革命家?」
「わかんない」
あたしの答えに木嶋が両手をあげた。
「これが、あの人の娘とは……」
「……なんの話?」
あたしは木嶋の胸倉を掴んで詰め寄った。
木嶋は少し驚いた様にあたしを見た。
「お前……、本気で何も知らないのな」
木嶋は哀れむような目をして溜息を吐いた。
「なんなのよ!!あんた達、一体なんなの?!佐々木って誰?!セイイチロウさんはセイイチロウさんじゃないの?!なんか知ってんなら説明してよ!」
あたしは木嶋の胸倉を揺らしながら喚いた。
視界がぼやけて、余計に悔しくなった。
木嶋は黙ってあたしを見つめて、再び、口を開いた。
「……佐々木さんが、殺し屋をしていたのは知ってるか?」
木嶋の静かな口調にあたしは黙って頷いた。
「宮下 誠一郎っていうのは、佐々木さんが当時名乗っていた偽名だ。敵対する組織の頭を殺る為に正体を隠していたからな。
三年前、計画を実行する何日か前に、佐々木さんはARに乗ってK県に向かった。
……多分、最期だと覚悟して、その時の女に会いに行ったんだろう。
……その列車が脱線事故を起こして、運悪く、佐々木さんは巻き込まれて、記憶も失って行方知れずになってしまった訳だ」
木嶋は煙草を取り出して火をつけた。
「佐々木 愼一、これが宮下 誠一郎の本名だ」
「……じゃあ、彼は、どうなるの……?失敗したから……、消されちゃうの?」
「……いや、その心配はない。伊藤さんは佐々木さんを必要としている。戻ってくるのを望んでる」
あたしと木嶋の間に、紫煙と沈黙が流れる。
「……そして、お前は、伊藤さんの娘だ」
沈黙を破った言葉に、あたしは衝撃を覚えた。
「……俺が教えられることは全部教えたぞ」
木嶋は煙を吐いて、呟いた。
「悪いことは言わねえ。……お嬢ちゃん、今すぐここから遠くに行け。このままだと、お前、死ななきゃなんねえぜ」
木嶋は今までで一番低い声であたしに告げた。
「……勝手なこと、言わないでよ……。どこに行けって言うの?あたしには、行く宛なんか何処にもないのよ」
「……まだ伊藤さんも、南の方には、手は出せねえ。今のうちに、姿をくらませておけ。あの人はお前だって、犠牲にしかねない」
そういって木嶋は懐から拳銃を取り出すと、無言のまま、運転席に座っていた男の脳天を打ち抜いた。あたしは小さく叫んで、目を瞑り、崩れ落ちた運転手から顔を逸らした。
「これは俺とお前だけの取引だ。いいか?今すぐこの街を出るんだ。佐々木さんは俺がなんとかする」
木嶋はあたしを抱き寄せ、小さな声で続けて、懐から今度は、厚みのある茶封筒を取り出した。
「これを持って逃げろ」
「どうして……?どうして、あんたがそこまでするの……?」
「……伊藤さんを尊敬してるからだよ……。あの人を見損ないたくない。あの人の為なら、なんだってやる。だけど、実の娘まで殺すような人間になって欲しくねえんだ。……わかってくれよ」
木嶋はあたしの背中を撫でながら言った。
あたしに反論する理由はなかった。
それに、たとえ、この先セイイチロウさんとあたしが一緒にいる事が出来ても、未来は決して、明るくないだろう。
離れ離れになっても、元々あたしはほとんど一人で生きて来た。
どんなに辛い夜でも、“あいのうた”を歌っていれば、朝は来た。
あたしは、顔を上げて木嶋を見た。
差し出された茶封筒を受け取って、バックにねじ込んだ。
「彼によろしく伝えてね」
あたしがそういうと、木嶋は目を伏せて、頷いた。
「木嶋……、さん。ありがとう」
あたしは木嶋から離れて、車を降りた。
「これも持って行け」
木嶋は車窓から、小さな拳銃を差し出した。
「衝撃も少ないし、威力はそんなにないけど、女でも使えるだろう。でも、気をつけろよ」
木嶋は安全装置の外し方を手短に教えてくれた。 あたしは、とりあえずそれを受け取ってバックにしまった。
アゲハが見えなくなったのを確認して、木嶋は携帯電話を耳に当てた。
「……木嶋です。総統に言われた通り、お嬢さんに封筒を渡しました……」
通話をしながら、開いた手で運転手の肩を叩いた。
「はい……」
運転手は血糊を拭いながら身体を起こした。
「……総統、本当に、これでよかったんですか?」
木嶋は煙を深く吸い込みながら、アゲハの去った場所を見やった。
「多分、ARの中央線に向かっているかと……」
吐き出した煙が顔面を覆う、木嶋は眉を顰め、目頭を指で押さえた。
「……総統、やっぱり俺は、貴方為なら死ねます」
木嶋は俯いて、座席に額をこすりつけた。
“ね、あいのうた知ってる?”
“んー……?知らないなぁ……”
“あたしが教えてあげる”
あたしは、上の空で、彼のことを思い出していた。
その記憶には、柔らかな光の薄い衣がかかっていて、きらきらと眩しくて、とても、暖かそうだった。
夏草が生い茂る、荒んだ原っぱの真ん中に通った、線路の上を歩きながら、あたしは、胸の中に広がる痛みが、きらきらしたメロディに生まれ変わるのを感じていた。
心に響き始めたそれらが、唇から、瞳から、こぼれる。
両目から頬を伝うものは、雨なんかじゃなくて、あたしはただ泣いていた。
南の方を目指そうと思っても、そこに何があるか、なにをして生きていこうか、全く見当もつかなかった。
あたしはもう、身体を売って暮らすなんて出来ないと思った。
街の中心では、空にスモッグが掛かっていて、全てが汚れている様に見えた。
こんな世界で、あたしの胸の中に渦巻く悲しみなんて、取るに足らないものだろう。
ふと、雑踏の中で、見たことのある顔を見つけた。
すこし、やつれているようだったが、間違いない。
―――あれは、
蓮司さんだ―――。
一見廃墟のような民家は、拳銃や弾丸を取り扱う専門の場所だった。
伊藤と佐々木はその奥の客間で話をしていた。
「それは……、本当なんですか?」
薄暗い室内の、革張りのソファで、佐々木は愕然として伊藤を見た。
伊藤は苦味走った笑みを浮かべて、横目で佐々木を見返した。
「……ああ、本当だ。アレは俺の娘なんだ」
伊藤が頷いた所で、無機質な電子音が響いた。
佐々木は表情を強張らせて、親指の爪を噛んだ。
「……ああ、木嶋か。……そうか、ご苦労だったな……ああ……」
伊藤は、受話器を当てたまま、床に視線を落とした。
「……木嶋、あの娘が何処に向かったか……、わかるか?」
伊藤の言葉に、佐々木が顔を上げた。
伊藤は、掌を佐々木に向けて、耳を傾けた。
「そうか。中心線か、わかった……。木嶋、どうやら俺も親であることには違いないようだ。情けねえけどな……」
少しの間のあと自嘲的な表情が、和らいだ。
「なに言ってんだよ。馬鹿野郎。急ぐぞ、じゃあな」
伊藤は電話を切って、佐々木に向き直った。
「あの娘を、追ってくれ。ARの中央線だ。俺は最大の過ちを犯そうとしていた。佐々木、今度はしくじるな」
伊藤の言葉に、わからないながらも、佐々木は立上がった。
「これを持って行け」
伊藤は佐々木に携帯電話を投げて寄越した。
彼は携帯電話を受け取ると、伊藤を見た。
「……伊藤さん、アゲハは、とても歌が上手なんです。戻ったら聴いてあげてくださいね」
佐々木は軽く頭を下げ、すぐに部屋を飛び出した。
「ああ……違いねえな」
伊藤の脳裏に、女の微笑が過ぎった。
そして、蓮司が浮かんだ。
「……こうしちゃいられねえな」
伊藤も立上がり、目の前のテーブルに札束を投げると、足許のアタッシュ・ケースを手に、佐々木の後を追った。
外にはすでに佐々木の姿はなかった。
伊藤は舌打ちをして、車に乗り込んだ。
「総統……」
木嶋が、顔を綻ばせて伊藤を見上げた。
「話は後だ!早く車を出せ!!AR中央線だ!」
車は慌ただしく急発進した。
「総統、最高っす!」
「ガキみてえな喋り方すんじゃねえ。大体てめえが撒いた種なんだ。てめえで始末しなきゃだろ」
伊藤はぶっきらぼうに言い放ち、顔をしかめて窓の外に目をやった。
「佐々木を見つけたら、拾うぞ」
「お嬢さんの居場所は?中央線駅のあの界隈に入り込まれちゃ……」
「あの封筒に探知チップを仕込んである。抜かりはない、ただあの娘が、捨ててなきゃいいがな」
佐々木の姿は、見当たりそうになかった。
伊藤は、リモコンを操作した。運転席と助手席の裏にはめ込まれた液晶画面に、地図と丸い点滅が映し出された。
「……捨てちゃないようだな。急いでくれ」
あたしは人込みを掻き分けながら、蓮司さんの背中を探した。
いったい何があったのか、話を聞いてあげようと思ったのだ。
ずっと、蓮司さんにはお世話になりっぱなしだったから、セックス以外で、あたしが役に立てたらいいなと、思った。
数十メートル先の角を曲がって行く蓮司さんを見つけた。
あたしは見失わないように、歩幅を広げた。
だんだん街から離れて、人通りも、一気に減った。どうやら、蓮司さんも、駅に向かっているようだった。
ARの中央線の線路の両脇は草むらが広がっていて、少し離れた所には、傷だらけのビルや、落書きで埋め尽くされた塀が密集した怪しげな場所もある。
「蓮司さん!」
路地裏に入っていく彼の背中に向かって叫んだ。 蓮司さんは、身体を強張らせて、ゆっくりと振り向いた。
「……ア、ゲハ?」
蓮司さんは警戒する様に短く四方に目配せをして、あたしを見た。
「偶然だねー……、って本当は追いかけて来たんだけど……」
あたしは笑いながら頭を掻いた。
「佐々木も一緒なんだろ?あぁ?俺を嵌めて、消すつもりなんだろ?」
蓮司さんは額に汗を吹き出しながら、じっとりとあたしを睨んだ。
「……なんの、こと?」
あたしはみたことない蓮司さんの様子に、身体が竦んで、後ろに少しよろけた。
「とぼけてんじゃねぇよ。佐々木はどこに潜んでやがる?」
あたしは首を横に振った。
「あたし……一人だよ?」
「ハッ、歌だけじゃなく演技までお上手だな?それは親父ゆずりか?」
蓮司さんは鼻で笑うと、あたしの方に早足で向かってきた。
一瞬足がすくんだけれど、あたしは逃げなきゃと思い直して、踵を返した。
「逃げんなよ!!あの時の仕返しに来たんだろ?!」
あたしは、怖くて振り向けないまま走り続けた。 足が竦んでエンジニアブーツが、重くて、うまく走れないけれど、それでも、必死に走り続けた。
「追いかけっこか?!すぐに捕まえるぜ?!」
蓮司さんは笑い声を上げながら、あたしを追いかけてくる。
「逃げんなよ!お袋の敵を打ちに来たんだろ?」
足が止まって、振り向いた。
間髪いれず、頬に鈍い衝撃が入って、あたしは地面に叩き付けられた。
「黙って俺のモンになってりゃ良かったのによ……。この馬鹿女、お袋の後を継いで売春婦なんてしやがって」
蓮司さんはあたしに馬乗りになって、何度も、頬をぶった。
痛みと恐怖に、次々と涙が溢れて、蓮司さんの顔がよく見えなかった。
痛みと絶望で、蓮司さんの言っている意味がよくわからない。
「佐々木がいるのか?」
あたしは嗚咽で答えられなかった。
「佐々木はどこだ!!」
拳で思い切り殴りつけられて、顎が、あまり開かなくなった。蓮司さんの指にはめられたシルバーリングに血が付いていたので、頬が切れたみたいだ。頬の内側の肉も、歯に当たって切れて、血の味が広がった。
「……い、ない……。あたしは……始めから……一人だ、よ……」
胸倉を引き寄せられ、興奮した蓮司さんの荒い鼻息が、顔にかかる。
無理やり立ち上がらせられて、腕を引っ張られた。
身体の何処にも、抵抗する力も、気力さえも残ってなかった。
顔中が痛くて、熱い。口の中も痛い。涙が溢れてよけいに痛んだ。
路地裏の、袋小路に連れ込まれ、あたしは壁際に突き飛ばされた。
「……佐々木は、そんなによかったのか?」
蓮司さんは薄ら笑いを浮かべて、あたしを見た。
「この前、俺が抱いてた時も、いたんだろう?そんなプレイが好きなのか?……それとも、俺とあいつを比べてたのか?」
蓮司さんはベルトを外しながら、あたしに近付いて来た。
「俺の方がいいってこと、思い出させてやるよ」
そう言って笑う蓮司さんは、気が狂っているみたいだった。
あたしは、朦朧とする意識の中で、セイイチロウさんの笑顔を、思い出していた。
蓮司さんはあたしに覆いかぶさって、服をたくしあげていく。
――好きだよ、と言ってほしかった。
――暖かな腕の中で感じた喜びを思い出す。
もう、他の誰にもあたしに触れさせないと決めていたのに。
背中にアスファルトの冷たくて固い感触が擦れる。
「やだ……、やめて……、やだあああぁぁッ――」
あたしの叫び声は、頬への強打と共に途切れた。
「佐々木はいないんだろ?喚くんじゃねえよ。黙って集中してろ」
横腹に、冷たい金属が突き付けられた。
渇ききった両足の間に、鈍い痛みと異物感が侵入した。
あたしは、目を閉じて、歯を食いしばった。
――ふと、瞼に影が落ちて、カチリ、と小さな音がした。
「……アゲハから離れろ」
聞き覚えのある低い声がして、目を開くと、見たことのない、冷たい眼光をしたセイイチロウさんが、蓮司さんを見下ろしていた。
後頭部に突き付けた手には、拳銃があるのだろうか。
蓮司さんは身体を強張らせて、視線を背後にやった。
「……撃つなら撃て。女も道連れだ」
引きつった笑みを浮かべて、蓮司さんは言った。
「このまま貴様を殺しつもりはない。早くアゲハから離れろ」
セイイチロウさんは、銃を持つ手に力を込めて、蓮司さんを促した。
「……この女は、俺のモンなんだよ。八年前、そうしたってのに……」
蓮司さんは苦々しく顔を歪め、ゆっくりと上体を起こした。
「……渡さねえ」
蓮司さんは小さく呟くと、あたしのお腹にナイフを突き立てた。
「アゲハ!!!」
セイイチロウさんは、蓮司さんを思い切り蹴り飛ばして、あたしから、逸れた瞬間、立て続けに弾丸を撃ち込んだ。
痛みも、朦朧とする意識の中で滲んでいく。
「アゲハ……」
セイイチロウさんが、あたしの顔の横に手をついて、あたしを覗きこんだ。
「セ、イイチロ、さん……」
「……大丈夫か?遅くなってすまない。すぐに病院に行こう」
弱い微笑を浮かべて、携帯電話を取り出した彼の手を、制した。
「……セイイチロさん、ごめんなさい……。約束破っちゃったみたい」
「……いいから、喋っちゃ駄目だ」
「……キス……して」
途切れそうな意識を、どうにか引き止めながら、あたしはセイイチロウさんをみた。
セイイチロウさんは、震える唇で、あたしにキスをくれた。
「……そだ、K県、行かなきゃね……」
あたしは笑ってみたけど、セイイチロウさんは、笑わないで、首を横に振った。
「……愛してるのは、きみだけだ。だから……」
あたしは、涙が、頬に伝うのを感じた。
「……あたしも、愛してる」
セイイチロウさんから、落ちた涙が、暖かくて、くすぐったい。
「……抱きしめて」
セイイチロウさんの胸があたしの顔を覆う。
「アゲハ……」
「ナイフを抜いて……」
「駄目だ」
「ちゃんと抱きしめてほしいの」
あたしは身体を起こしてナイフに手を掛けた。
セイイチロウさんは、唇を噛みしめながらあたしを見つめた。
「お願いよ」
あたしは、セイイチロウさんの胸に背中をもたれて、腕の中であいのうたを口ずさんだ。
足音がして、伊藤さんと、木嶋が現れた。
「佐々木!」
セイイチロウさんは、あたしを抱き締めたまま、人差し指を唇に当てて、二人を制した。
“あいのうた”が日の差さない、灰色に囲まれた辺りにか細く響く。
セイイチロウさんの腕は、どんな日だまりの中よりも、暖かくて、心地よかった。
“あいのうた”――終。 |