Take1.恋に落ちたアゲハ蝶。
“ね、あいのうた知ってる?”
“んー……?知らないなぁ……”
“あたしが教えてあげる”
あたしは、上の空で、彼のことを思い出していた。その記憶には、柔らかな光の薄い衣がかかっていて、きらきらと眩しくて、とても、暖かそうだった。
夏草が生い茂る、荒んだ原っぱの真ん中に通った、線路の上を歩きながら、あたしは、胸の中に広がる痛みが、きらきらしたメロディに生まれ変わるのを感じていた。
心に響き始めたそれらが、唇から、瞳から、こぼれる。
両目から頬を伝うものは、雨なんかじゃなくて、あたしはただ泣いていた。
20xx年、経済恐慌、秩序は廃れて、世界は荒れ果て、野生の緑は一部しか残っておらず、季節が乱れ、それでも人々は生きていた。
都市部は廃墟の様で、犯罪は生きる術となり、強奪、殺人、強姦などは黙認されている。
それでも、人々の暮らしの表向きは、何気ない様に見えた。
強い者が、裕福に暮らし、弱い者が虐げられる。そんなことはいつの時代も、何十年も前から、同じだったのかもしれない。
酔っ払った老人が呟いたのを聞いたことがあったから、きっとそうなんだと思っていた。
あたしは、十二歳の頃から男達に体を売り、時々、路地裏にある“マーヴェラス”という店で歌を歌って、人々から、“アゲハ”と呼ばれて可愛がられていた。
始まりも、“マーヴェラス”だった。
“マーヴェラス”は地下にあって、青い電飾が疎らに輝く、石灰が塗られた壁に囲まれたコンクリートの階段を降りたところに古びた木製の入口がある。
中は意外に広くて、中央には、グランドピアノやドラムセット、バンドが演奏するのに充分なスペースがあり、まわりでは、観客達が腰を揺らしたり、座りながら食事したりできるほど、充実したスペースもあった。
その日、あたしは、二週間振りに“マーヴェラス”を訪れていた。
耳を劈く様な大音量で、英国製のテクノがかかっていた。
あたしは、カウンターでマスターの蓮司さんと、煙草を吸いながら、コロナを傾けていた。
熱帯夜で、人々でごった返した店内の熱気で、化繊のワンピースが汗ばんだ肌に張り付いて、気分はそれほどよくなかったけれど、自由で、一人じゃない時間が楽しかった。
あたしと蓮司さんは、今夜、歌うか歌わないかを話しながら、コロナを二本開けて、結局、歌うことになった。
馴染みのドラマーとサックス奏者とウッドベース弾きもいた。
あたしは、おだてられて、上機嫌でステージに上がった。
人々の歓声とアルコールに酔いながら、甘いバラードを歌った。
機械的な音に疲れていた人々が、ゆっくりと耳を傾けてくれるのが、わかった。
薄暗い店内の、星をモチーフにした照明や、壁に張りつけられた青いアゲハ蝶が、夢のように輝いていて、この空間だけ、別世界のように思えた。
あたしは、フロアを眺めながら、見たこともない、いたこともない恋人を思って、歌った。
とびきりの愛情と、優しさを込めて。
顔見知りばかりの観客が、皆恋人だと思いながら歌った。
ふと、目が合い、微笑みをくれたあの人には、投げたくちづけをあげよう。
目を閉じて、ゆっくりと身体を揺らしているあの人は、優しくこの胸で抱いてあげよう。
頬杖をついて、聞き入ってくれているあの人には、この肩を貸してあげる。
あたしに大きな幸福を与えてくれる人々に、愛を込めて歌を唄おう。
そんなことを考えながら辺りを見回していると、カウンターの辺りで、所在無さげにグラスを傾けている一人の男が見えた。
見たことのない顔だった。
彼は、一気に静まった周囲に、一人、置いてけぼりにされて、困惑しているようだった。
あたしより年上に見えるその横顔は、きれいに整えられた鬚と、もみあげのせいでシャープに見える。彫りの深い顔立ち、柔らかな目許に浮かぶ困惑が彼をいたいけにしていた。
髪は後ろにあげられ、肩にかかる襟足はうねっている。
あたしは彼から、目が離せなかった。
この酒場に馴染んでいても良さそうな男が、とても不慣れな感じで、酒を啜っている。
あたしと目が合うと、肩を竦ませ、ばつの悪そうな表情を見せた。
あたしは彼に微笑みをあげる。
それから、三曲唄い終わらせて、ステージから降りた。
演奏者たちと握手を交わし、親切な歓声を受けながら、あたしはカウンターに戻った。
蓮司さんも満足そうな笑みを浮かべて、スクリュードライバーの入ったロンググラスをあたしにくれた。
店内は再び、騒がしくなった。
喧騒に紛れて、あたしはさっきの彼の隣に腰を降ろした。
「ここは初めて?」
あたしが声を掛けると、彼は、一瞬、目を見開いてこちらを見た。
「……ああ」
彼は、何か人目を憚るように、小さく頷いた。
「あたしはアゲハ。あなたは?」
「……からない」
彼は呟いて、グラスを両手に挟んで俯いた。
「……え?」
あたしは、彼の声が聞き取れなくて、その顔に耳を傾けた。
「……わからないんだ。……セイイチロウ、……ミヤシタ セイイチロウだったと思うんだが……、どうやら、違うみたいなんだ」
彼は、困惑した瞳をあたしに向けた。
あたしは彼よりも困惑して、その瞳を見返した。
「……どういうこと?」
あたしが、尋ねると、ミヤシタ セイイチロウは、ためらったように口をつぐんだ。
大音量の機械音が、鼓膜の中を暴れ回る。
その中に、彼の低く、寂しげな声が浮かぶ。
“どうやら、違うみたいなんだ”
あたしは、彼のグラスを掴む手に自分の手を添えた。
彼はあたしに視線を向けて、首を傾げた。
「……どこかで、会ったこと……ないか?」
彼の言葉に思わず、吹き出してしまった。
「……場所を変える?話を聞くわ」
彼があたしを見た。
灰色がかった黒い瞳が、困惑を浮かべたまま、すがるように揺れた。
どうやら、よくあるナンパとは、違うようだった。
“マーヴェラス”を出たのは、二十三時すぎで、激しい雨が、街を包んでいた。
付近のビルの、どぎついネオンが乱反射して、霞む明かりが、猥雑な花畑みたいに見えた。
あたしの赤や濃いピンクの花柄のワンピースとセイイチロウの黒いティシャツは、あっという間にぐしょ濡れになって、膚にはりついた。
鮮やかな色をしていたあたしのワンピースは、くすんだ色になって、その下が透けて見えている。
セイイチロウは相変わらず、困惑していて、きょろきょろと辺りを見回していた。カーキ色のラフなカーゴパンツは黒っぽく変色して、まとわりついて、歩き難そうだった。
熱帯夜の雨は心地よかった。
生暖かいけれど、汗が流れていく。
「雨に歌えばって、知ってる?」
あたしはスキップして、水溜りを蹴散らした。
「知らないよ」
投げやりな声が返ってきた。
不機嫌な原因は、多分、撫でつけていた髪が、濡れて、くるくるとうねってしまったからだろう。 あたしはステップを踏みながら、彼の腕に自分の腕を絡めて、覗きこんでみた。
「ねえ。さっきの話の続きはぁ?」
得意の甘えた声をだす。男のほとんどは機嫌を直してくれるのに、彼は表情を曇らせたままだった。
眉間と目頭の間が深い。きれいな二重、でも、切れ長で鋭い垂れ目ってところがいい。
あたしはそんなことを考えながら、彼に魅入っていると、その眼差しが動いて、あたしを捕らえた。
「……三年前に、記憶を無くした」
彼の声は雨に紛れるほど低かったけれど、はっきりした口調で言った。
「記憶喪失ってやつねえ〜。聞いたことあるよ。テレビとかで」
あたしは彼の腕に指を引っ掛けたまま、前を歩いた。
「作り話じゃないんだ」
「嘘だとか、言ってないし、思ってないよ?」
あたしが振り向いて首をかしげると、彼は少し、苛立ったように唇をうごめかしていた。
「……三年前に、K県でARの脱線事故があっただろう。おれはあの列車に乗っていた。どこかに向かう途中だったんだ。奇跡的に助かったけれど……」
ゆっくりと腕を振り払い、彼は立ち止まった。
「ふぅ〜ん……。まったく何も覚えてないの?病院行ったんでしょ?家族は?来てくんなかったの?」
あたしの問いに彼は首を横に振った。
「家族どころか、誰もこなかった。おれだけ、身元不明のまま」
「……名前は?どうしてわかったの?」
「医者に名前を聞かれた時に、頭の片隅に浮かんだんだ」
「……警察には?てか、いたでしょ?」
「体調が優れないっていって逃げたさ。記憶喪失にもなっていたから……。構われずにすんだ。それに、いきたくないんだ。身体が拒絶する」
彼は自嘲めいた微笑を浮かべた。
「わかるわ。警察ってみるだけで、イラつくもんね。あ、どうしてこの街に来たの?何か手掛かりでも?」
「……わからない。でもこの街が、何故か懐かしい。見覚えがあるし……でも、なんだか気味が悪いんだ。嫌な胸騒ぎがして、落ち着かない」
彼は微かに震え出す。
決して寒いわけではないんだろうけど、あたしは彼に寄り添ってみた。
「この三年間どうやって?」
あたしは彼の手を握りながら尋ねた。
「中華街の飯店で住み込みで雇ってもらえたんだ。言葉もよくわからなかったけど、どうしてか親切にしてもらえた」
彼は微笑して肩を竦めた。あたしも笑い返す。
「一ヶ月前にそこを出て、記憶を捜しにきた。どうしても、気になって……、おれは何か重要なことを忘れているような気がするんだ」
彼はあたしの指を弄びながら言った。
「今はどこに寝泊まりしてるの?」
「ん?公園とか、カプセルホテルとか、ネットカフェだよ」
「行きずりの女の部屋は初めて?」
あたしが愛嬌を込めた横目で見ると、彼は視線を泳がせた。
「……実を言うと、二度目だ」
彼は照れ笑いを浮かべて、あたしは肘で脇腹をつついた。
「……でも、手を繋いで歩くのは初めてだ」
「記憶喪失だから?」
「……うん。最初は何もかも怖かったな。……だけど、きみは怖くないな。さっき、歌ってただろう?優しくていい曲だった」
「よさこい節っていうのよ。あの歌」
「へぇ、変わった名前の歌だな」
「嘘よ!」
彼があまりにも素直に信じたので、あたしは慌てて暴露した。暴露した後にすごく笑えた。
爆笑するあたしを、彼は不思議そうな顔をして見ていた。
一旦、駅に向かい、コインロッカーに彼の荷物を取りに行った。
さほど大きくない黒いボストンバックを抱えた彼は、こ慣れた旅行者にみえなくもない。
荷物はほとんどないようで、ボストンバックには随分余裕があるようだった。
「実は、あたしもワケありで……。まぁ、この街に集まる人間は皆、傷持ちなんだろうけど……」
駅を出て、大通りを歩きながら、あたしは言っておかなければならない事を切り出した。
「あたし、売春やってるの」
これを言うと大半は、金を取らないかとか、後ろに誰かいないか、など警戒する。
そして、あたしを買うか思案し始める。あるいはタダでヤれるか期待する。それか路地裏に連れ込まれて臨時の仕事をするはめになる。
彼は何も言わなかった。
「部屋に客を連れ込むこともあるけど、仕事部屋と、わけてあるし、あなたが良ければ、しばらくいても……」
あたしはそこまで言って口をつぐんだ。
こんなことを言ったら、寂しい売女と利用されるだけ。
わかっているけれど、彼になら、そうされてもいい気がした。
彼は手を握り直して、視線だけであたしを見た。
「ありがとう。邪魔にならないように気をつけるよ」
「…………」
あたしたちは沈黙のまま、歩き続けた。自らの告白が、胸に影を落とした。彼に言わなければよかったと後悔したが、すぐにバレることだったし、彼になら抱かれてもいい、というより、抱かれてみたいと思った。
相手が売春婦なら、抱くか、敬遠するかのどちらかだ。
“していいよ”とも言えず、あたしの住む古い鉄筋の建物が近くなった。
板張りの部屋に玄関の境目はない。厳密に言うと、リビングもダイニングも境目がない。水の中をイメージしたビーズカーテンで、中が見えないようにしている。
「シャワー使っていいよ」
玄関で立ち尽くしている彼の背後から、覗きこんで、あたしは言った。 ずぶ濡れになった黒いジャックパーセルをどうしていいのかわからないみたいで、また、彼は困惑した眼差しをあたしに向ける。
迷子の子供みたいな、あたしにすがるような、目をするから、必要とされているかも知れないと錯覚してしまう。
「そのままで、いいよ」
あたしは微笑って、彼の背中を軽く押した。眼差しを向けられたままでは、錯覚をそのまま焼きつけられそうで、見ていたくなかった。
「左が浴室、トイレは隣ね。お腹空いてない?」
あたしは浴室にいって、浴槽にお湯をはる準備をした。
背後に彼の気配を感じたが、きづかないふりをした。
「アゲハ、」
彼の、低いかすれた声が浴室に小さく響いた。
「なに?」
あたしは軽い笑顔を浮かべて振り向いた。
「きみには過去がある。おれには、ない。おれは今まで、どう生きて来たかわからない。きみはおれが怖くないのか?」
「怖くないよ。あなたは、優しい眼をしてる。怯えた眼をしてる。可哀相で可愛いもの」
「……でも、おれは忘れているだけで、本当にまともな人間がわからない」
彼はとても小さな声で話すので、蛇口が吐き出すお湯の音に負けそうだ。あたしは、お湯の勢いを緩めて、彼に向き直った。
「……何か手掛かりでもあるの?」
あたしが首をかしげると、彼はためらいがちな眼差しを床に這わせながら、ボストンバックに手を当てた。
「……驚かないでくれよ。できれば、大声も出さないで欲しい」
「……わかった」
あたしはそう答えたけど、彼はためらったまま、床を見ていた。
バックに手を当てて、ジッパーの中に入れるのを迷っているみたいに、その手を握ったり、開いたりしていた。
「……なに?」
「いや……、」
あたしは彼の様子が滑稽で思わず吹き出してしまった。
「……約束するわ。驚かないで、大声も出さない。あなたを信じるから、あなたも、あたしを信じて」
あたしは彼の頬に手を伸ばした。暖かな体温と、伸びかけてきた髭のざらつきを手のひらに感じた。
「……追い出さない?」
蚊の鳴くような声と、弱々しい視線が、あたしの目と心を鷲掴みにした。
可愛い。本気でそう思ってしまった。
なんていたいけな男なんだろう。胸がぎゅっと締まって、鼓動が早くなるのがわかった。
「約束する」
あたしはバックの上で彷徨っていた手をとり、うなだれた小指に自分の小指をかけた。
「ゆびきりげんまん……知ってる?……嘘ついたら……はりせんぼんのーます、ゆびきった。って……」
あたしが、うたいながら彼を見ると、彼はきょとんとした顔であたしを見ていた。
「もともとはねぇ、遊女の唄なのよ。げんまんって、一万回殴るって意味で、誓いを破ったら、一万回殴って、針千本飲ますわよっていう脅し?愛する男と誓いを立てるの。小指を切ってね」
彼は呆然とあたしを見つめている。あたしは冗談めかした笑みを作った。
「やだぁ、大丈夫よ。本当にやらないって。そんくらいの気持ちで約束するってことよ」
そう言ったものの、あたしがいうと、洒落にならないことに気づいた。
「……大丈夫だってば。ねえ、ビビった?ビビった?」
あたしが、首を左右に傾けて彼を覗きこむと、彼はゆっくりと破顔した。
「いや……、何でも知ってるんだなって、思って……」
くつくつと笑う彼を見てあたしはホッとして一緒に笑った。
「……おれの手掛かり」
そう差し出されたモノを見て、あたしは笑えなくなった。
彼の手に握られていたのは、浴室の飴色にも黒光りする拳銃だった。
「……驚いた。まぁ、驚くのは当然か。おれが警察から逃げた理由は、これだよ」
彼は肩を竦めて、あたしをみた。
「……本物?」
あたしは喉が締まり、うまく声が出せなかった。声が震えているのが、自分でも、わかった。
「よく、ばれなかったなって不思議だったよ。バラバラにしてあったんだけどね。組み立て方を、この手がちゃんと覚えていたんだ。他に何もろくに覚えてなかったのに」
彼は苛立ったように吐き捨て、忌々しそうに黒い拳銃を見つめていた。
「ミヤシタ セイイチロウなんて、存在しない。あるのは、この拳銃と空っぽの身体だけだった」
怒鳴る彼にあたしはとっさに抱きついていた。
「……大声出さないって約束よ……?」
あたしは耳元で呟いて、彼の濡れた髪を指で梳いた。互いの身体が震えているのがわかった。
濡れた服から、微かな体温が伝わるのも。
「お湯が沸いた。ゆっくり浸かって、たいしたものはないけど、何か作るわ。お腹空いてない?今日はゆっくりしましょ」
「……眠りたい」
彼の腕が、あたしの腰に巻き付いた。
ぎゅっとしめつけられて内蔵がよれそうだったけど、その感触が、すごく心地よかった。
あたしは頷いて、彼から離れた。
「まずは、お風呂ね」
あたしの言葉に彼は、自分の腕の辺りを嗅いでみせた。あたしは笑って、浴室からでた。
眠るなら、あたしの職場の方が、断然、広いし寝心地も良い。
けれど、あたしは彼を小部屋のほうに案内した。 あたしが眠る、パイプベッド。
そこには、あたしの匂いしかない。あたししか使わない。彼には、そこを使って欲しかった。
あたしは、台所で、薄くスライスした玉葱を、オリーブオイルをひいたフライパンで炒めていた。
弱火で、四十分。キツネ色になるまで。
もう一つ深い鍋で、小さくサイコロ切りにした鳥肉と人参とジャガ芋をニンニクと生姜の匂いを付けたオリーブオイルで炒める。
頃合を見て、深い鍋に角切りにしたトマト三つ分をいれる。
水を加えて、キツネ色の玉葱も、加える。
塩と黒胡椒で味を調えてしばらく煮込む。
固形スープを使わなくても充分味が出る。
沸騰する前にウィンナーを入れて火を弱めてさらに煮込む。
あたしは眠れずにいた。
ソファに腰を降ろして、彼のいる小部屋を眺めた。 一人で眠るのには、広すぎて、彼と眠るのには、汚れている。
壁に掛けた時計を見ると、もう一時を指している。
あたしはトマトスープを皿によそって、ソファで食べた。
美味しくできたので、朝になったら、彼に食べてもらおうと思った。
「……寝ないの?」
微かな物音がして、彼の声がした。
「ううん……なんだか、眠れないから」
あたしは皿をテーブルに置いて、彼に向き直った。
薄暗い室内に佇む、彼の眼球の白い部分に、街灯が反射して青っぽく光っていた。
相変わらず、その目は、戸惑いや、ためらいをたたえてあたしの胸を締めつける。
「隣に座ってもいい?」
彼はゆっくり歩きながら、あたしに近づいた。
「もちろん」
あたしは場所をつめて、彼を見上げた。
「……混乱したんじゃない?その……、おれのせいで……」
彼はあたしの隣に腰を降ろして、膝の上で手を組んで、俯いた。
「大丈夫よ」
あたしは彼の肩に、手を伸ばそうとして、少し、躊躇した。
結局、肩に手を置いて、その背中を撫でた。
「……一緒に記憶を捜してあげる。必要なら、側にいるわ」
彼の肩が、一瞬震えた。あたしはそこに頬を当ててみた。
「……おれの過去が、わからないのに?」
「大事なのは、今よ。そして、たぶん、未来とか、これから。それに……、昨日も、今この瞬間も、次の瞬間には、過去になってるよ」
彼が、首をこちらに向けた。
吐息がかかるのが、わかった。
余計なことを言ってしまったかしら。なにも知らないくせに。
あたしは、おずおずと、彼を見上げた。
穏やかな眼差しが、あたしを見下ろしている。
「……ありがとう」
彼はそう言って、あたしの肩を抱いてくれた。
あたしたちは、パイプベッドで、一緒に寝た。 初めて、男とベッドに入ってキスもしなかった。彼の腕の中で、あたしは久しぶりに深い眠りについた。
誰かの寝息が、髪をくすぐり、朝日で目覚めて、笑顔がこぼれたのは、初めてだった。
身体を丸めて眠っている彼の腕から、抜け出して、寝顔を眺めた。
眉間と目頭の間が深くて、閉じられた瞼と、長い睫毛がきれいだと思った。
あたしは彼のうねった黒髪を指の背で撫でて、また頬が緩むのを感じた。
シーツに落ちた朝日が、暖かくて、眩しい。
弾んだ気持ちで、窓を開けると、電車が通過した。空は晴れ渡り、目が痛くなるほどの快晴だった。
「おはよう……」
まだ眠そうな声がして、振り向くと、眩しそうに顔をしかめて、目をこする彼がいた。
「おはよう。ごめんね。起こしちゃって」
「ううん」
彼は微笑って、口を手で覆い、欠伸をする。
「ね、せっかく天気良いし、あとで散歩しない?」
濡れてしまった服は洗濯機にほうり込んで、彼は、持っていた替えのシャツとジーンズに着替えているけれど、寝苦しそうだった。
外されたホックから覗く素肌から目を逸らしてあたしは、部屋から出た。
「ご飯用意するから、待っててね」
鍋に火を掛けて、あたしはトイレに向かった。
本当はご飯がよかったけれど、パンを焼いて、コーヒーも淹れよう。
そんなことを考えながら、用を足していると、電話が鳴った。
嫌な予感がする。もし、仕事だったら、断ろう。そう決めて、あたしは後始末をしてトイレから出た。
電話の相手は、蓮司さんで、案の定、仕事のことだった。
受けるか受けないかは、その日の気分と相手による。それが、あたしと蓮司さんとの約束だ。
蓮司さんは、あたしを助けて、この仕事をくれた恩人だった。
――八年前、ママが目の前で殺された時、ママの友達だった蓮司さんがあたしを助けてくれた。あたしは私生児で、行く当てもなかったけれど、せっかく命拾いしたから、どんなことがあっても生き抜こうと決めた。
渋る蓮司さんを言い負かしてこの仕事を始めた。ママもこの街で、売春婦をしていたから、手っ取り早い稼ぎ方を他に知らなかった。
あたしの初めての人は蓮司さんだった。
『……アゲハ?』
受話器越しの蓮司さんの声で、我に帰る。
「あ、なに?」
咳払いが聞こえた。少しの間が空いて、蓮司さんが話し出した。
『昨晩ウチに来てた男、わかる?』
「いっぱいいたよ?」
『お前が歌い終わった後隣に座った、オールバックの奴だよ。新顔だった』
「あ……ああ、あの人?」
蓮司さんのひそめた声に、妙な胸騒ぎがする。
「あの人がどうかしたの?」
『いや……、なんか、見た顔だったから……』
「なに?なんかあるの?」
いつもと違う蓮司さんの口振りに、あたしはもどかしくなった。
何かある。何か手掛かりになりそうだ。
『……まさか、一緒じゃないよな?』
蓮司さんの低い指摘に、胸がすくんだ。嫌な予感が、じわじわと身体中を浸食する。
脳裏を黒光りする拳銃がかすめた。
「途中で別れちゃった。どこかにいっちゃった」
『……そうか。なら、いい……。じゃあ、今回はキャンセルな』
蓮司さんの声が、いつもの明るい調子に戻って、あたしは胸を撫で下ろした。
「うん。ごめんね……」
『……アゲハ、』
「なに?」
『……久しぶりに、お前を抱いてもいいか?……金なら、払う』
意外な申し出にあたしは困惑した。
でも、今、断るのは良くないと、何かがあたしに告げている。
もしかしたら、彼のことが聞き出せるかもしれない。
「いいわ……。夜の八時くらいに店に……」
『今から、お前の部屋に行きたい。……ダメか?』
もしかしたら、蓮司さんはあたしを探っているのかも。
直感的に感じて、息を飲んだ。
「どうしたの?いつもの蓮司さんらしくない」
あたしは冗談めかして言ったが、蓮司さんは無言だった。
『お前を抱きたいんだ。俺は……』
「わかった!わかったわよ!いいわ!支度するから、一時間後に来て」
あたしはそう答えて、電話を切った。
彼が、小部屋の入口に立って、こちらを見ていたからだ。
鍋も沸騰している。
「ごめん。仕事入っちゃった」
あたしは笑って見せたが、彼は無表情なまま、俯いてしまった。
「ご飯食べたら、どっかに行っとく?あーねぇ、このスープ、上手く出来たんだけど」
いそいそと鍋に触れようとして、あたしは熱いところを触ってしまった。
「あっつ――」
払いのけた手を、彼に掴まれた。
いつの間に背後に来てたのかと、尚更驚いてしまった。
「……あの部屋にいるよ。行く場所がわからないから……」
彼は蛇口を捻り、流水で、あたしの指を冷やした。
なんとなく、無言のままの彼が怖くなって、あたしは蛇口から流れる筒状の水と、散らばる滴を見つめてやり過ごした。
「……もう、大丈夫だよ」
指先の感覚が鈍ってきた。重ねられた指も白っぽく変色している。
「ねえ、ご飯食べようよ。トマトスープ、上手くできたの」
空いた手で、彼の腕を揺さぶる。
「ああ……」
ようやく感情を取り戻した彼の眼差しは、悲しげに曇っている。
これは、あたしの勝手な期待なのだろうか。
彼に悲しんで欲しいと言う、願望なのだろうか。 知りたくない答えから目を逸らすように、あたしは朝食の用意をした。
静かな朝の食事。落ち着かないのを隠しながら、あたしはスープを啜った。
「……美味しい」
彼は一言そういって、黙々と食事を終わらせた。 開け放した窓から、飛行機雲が、真っ青な空に白い線を伸ばしているのが見えた。
カーテンが風に靡いて、暖かな風が、巡る。
こんな天気がいいのに、どこにも行けないなんて。
あたしは外を恋しく思った。
「遠くに行きたいなぁ」
遠くなっていく飛行機のエンジン音を聞きながら、あたしは呟いた。
大好きな酒場も、住み慣れた街も、知った人もない、今日以上に青い空の下で、広い原っぱで、お気に入りの靴も脱ぎ捨てて、お気に入りのワンピースを着て、駆け出す自分を思い浮かべる。
目の前で、陰鬱な表情を浮かべている彼も、微笑んであたしを見てる。 そんな空想をかき消すように電話のベルが鳴った。
あたしは、とっさに彼を見た。
彼は無言のまま、後片付けをした。
そして、小部屋に入ってしまった。
無人になった目の前の席を見て、どうしようもないくらい、胸が痛んだ。 あたしは気を取り直して、電話に出た。
相手はやはり、蓮司さんだった。
もう、下に着いた、とわざわざ連絡を入れてくれた蓮司さんに感謝しながらも、あと三十分くらい待って欲しいと告げた。あたしは食器を片付けて、シャワーを浴びて、化粧を施す。
彼の靴を棚に隠して、あたしは蓮司さんを迎えに、下に降りた。
これが、あたしの仕事だからと言い聞かせている自分が滑稽だった。
蓮司さんは、部屋に着くなり、あたしを抱き締めた。彼の気配を危惧しながら、あたしはそれを受け止める。
ゆっくりとついばむような口づけを受けながら、恋人のようだと思った。
「アゲハ……」
耳元にかけられたかすれた声で、蓮司さんがひどく欲情してくれているのがわかった。
あたしは、蓮司さんの顎や首に舌を這わせて、それに応えた。
まだ明るい部屋に、あたしの短い甘ったれた嬌声が響く。
蓮司さんの律動に合わせて、あたしはだんだんよくなって、されるがままに身体を捩らせた。
隣の部屋に彼がいる。そう思うと、声がうまくだせなくなった。
蓮司さんはあたしのよくなる場所を知り尽くしているから、あたしは、再び声を上げた。
没頭することは出来なかったけれど、感じないこともなかった。
随分長い時間が経って、ようやく蓮司さんの動きがいっそう早くなり、あたしは蓮司さんの茶色い髪に指を食い込ませながら、彼との行為の中で初めて演技をした。
蓮司さんは短く呼吸を繰り返しながら、あたしを抱き締めた。
汗ばんだ膚に隠れて、あたしは泣きたいような気持ちになった。
でも、彼の手掛かりを探るなら、これからだ。
あたしはそう思いながら、蓮司さんの背中に手を這わせた。
「なにか、飲む?」
「……水が、欲しい」
あたしはベッドを抜け出して、裸のままで台所に向かった。
通り過ぎる時に、横目で、小部屋を伺ったが、気配すら感じなかった。
あたしはコップに水を注いで、ベッドに戻った。
「昨日の男……」
蓮司さんは水を一口飲むと、思い出したように呟いた。
「……どうしたの?やけに引っ掛かってるみたい」
あたしは素知らぬ振りで、本当は、はやく聞きたいのに、蓮司さんの言葉を待った。
「……本当に、なにもなかったんだよな?」
「え?……うん。なによ?ヤキモチ?」
「ばぁか」
蓮司さんがあたしの髪をくしゃくしゃにして、少し笑った。
「ね、どうしたの?そんなに気にするなんて、珍しいじゃん。あのオールバックの人となんかあったの?女の取り合いしたとか?」
「違うよ……」
蓮司さんは苦笑して、床に脱ぎ捨てたジャケットから煙草を取り出した。 あたしにも一本くれて、火を点けた。
「じゃあ、なによ」
あたしは口を尖らせて、蓮司さんに寄り添う。
「聞きたいのか?」
「気になる」
あたしは無邪気さを装い甘えた声で蓮司さんを見つめた。
「……行方不明になったはずの殺し屋に似てた」
蓮司さんの言葉に、あたしの思考回路は凍りついた。
「な……なんで、……蓮司さんが……そんなこと」
「昔は、俺もいろいろあったんだよ。まぁ、三年そこらしか経ってないけど、知り合いに頼まれて情報屋をしてたんだ。その時に、奴を見たことがある」
あたしはどう反応していいか解らずに、ただ蓮司さんを見つめていた。
「今はもうマーヴェラスのマスターで収まってるよ」
蓮司さんは笑って肩をすくめた。
「その頃には、奴は足を洗うとか噂が流れてたけどさ。あの時期に脱線事故あっただろ?あれに巻き込まれて死んだとか。まぁ、政治家の間でも活躍してたらしいから、消されちまったんじゃないかな」
蓮司さんは、枕元のコップに煙草を落として、寝そべった。
「少し、眠ってもいいか?」
「う、うん。今日お店は?」
「ここから行くよ」
蓮司さんはそう言って目を閉じる。
あたしを腕の中におさめて、彼は寝息を立て始めた。
彼が、殺し屋?
あたしは蓮司さんの話を思い出しながら、天井を眺めていた。
ママが殺された時の光景が、フラッシュバックした。
砕け散った窓ガラス。
幾重もの銃声が刻むリズム。
ママは白いワンピースの裾を翻し、くるくると踊っていた。
血飛沫と肉の破片のライスペーパーの中、ピストルサウンドのダンスホール。
静寂と共に、糸の切れたマリオネットは、崩れ落ちた。
白い無地だったワンピースには、赤や黄色の花が咲いていた。
あたしは、押し入れの隙間から、それを見ていた。
ママは今のあたしと同様に家で客を取り、ある時期に、とてもお金持ちの、すごい人と付き合っていた。
蓮司さんとはその頃からの友達だった。
あたしは、ママの仕事中は、いつも隣の部屋で、ヘッドフォンをして小声で歌っていた。
ママも歌が好きで、ときどき一緒に歌った。 ママがあたしに教えてくれた“あいのうた”。
ママはすごく綺麗だった。
その時よりも、若い時は、バンドで歌っていたこともあると言っていた。
“あいのうた”はその頃バンドのみんなで作ったと、教えてくれた。
その日も、あたしとママはその歌を歌ったはずだ。
ママを殺した男は、三人いた。 その男達は、何ごともなかったかのように、すぐに部屋を出ていった。
そして、すぐに蓮司さんが、来てくれた。
押し入れの中のあたしを見つけて、連れ出してくれた。
とっさにつっ掛けた、ママの靴で、速く走れなかった。
ママが目の前で死んで、あたしは蓮司さんに助けられて、命拾いした。 その時、あたしはなにがあっても、何をしてでも生きたいと、思った。
ママが殺された理由は未だによくわからない。
蓮司さんにも、なんとなく、聞けずにいた。
過去があることが、それを知ることが、幸せなのかあたしにはわからない。
けれど、彼は、必要としている。
過去も、未来も、現在も、人にまつわる総ては、その人それぞれのものだから、完全に共有することは出来ないけれど、関わることは、出来る。 なるべくなら、傷つけたくないし、力になりたい。
あたしはミヤシタ セイイチロウの事についていろんな事を知りたいと思った。
これは、たぶん、好奇心だけじゃない。
他の男の腕の中は、ひどく居心地が悪い。
小部屋の扉の奥が気になって仕方がない。
すぐにでも、シャワーを浴びて、皮膚を張り替えて、小部屋に行って彼と眠りたいと思った。
馴染んだ蓮司さんの腕の中で、あたしは窒息しそうな気がした。
蓮司さんが帰ったのは、十七時過ぎで、太陽もだいぶ傾いていた。
あたしはシーツの上で、ただ呆然と、暮れなずむ空を眺めていた。
枕元には、壱万円札が五枚、置かれていた。
唇が乾いて、上下が触れ合うと、カサカサと固い感触がした。
あたしは、ママの“あいのうた”を口ずさんだ。
静まり返った部屋に、自分の声と、電車の音が響いていた。
彼は、いないのかもしれない。
そう思うくらい、静かだった。
光が、視界の中で乱反射している。
「ねえ〜……、いるのぉ? セイイチローさぁん」
あたしの声は情けなく震えていた。
「……終わったよぉ……。もう終わったの……」
あたしは上体を前に倒して、シーツの上で、丸まった。
「……セイイチローさぁん……」
あたしの声は電車にかき消された。
ふと、影が落ちて、顔を上げると、彼が、あたしを見下ろしていた。
その顔は、明らかに苦痛を浮かべて、閉じた唇を歪ませていた。
「……手掛かり……、捜しにいこ?あたし、ここにいたくない」
今まで、生きるためにしてきたこの仕事を、恥じた事も、後ろめたく思った事も、なかった。
なのに、今、この人の存在が、あたしを脅かす。
他の男に抱かれて、喘ぎ、他の男の匂いをつけた自分が、汚いと思った。
「……アゲハ」
彼は、ゆっくりとあたしの髪を撫でた。
「……おれがいると、迷惑をかけてしまう」
苦味走った笑みを浮かべて、彼は視線を床に落とした。
「迷惑なんかじゃ……ない……」
“だから、側において。あたしと一緒にいて”
そう言いそうになって、口をつぐんだ。
代わりに彼のシャツの裾を握った。
あたしが言えるセリフじゃない。
「邪魔をしないように気をつけると、約束した」
彼が、ぽつりと呟いた。
「……だけど、自信がない……。さっき、ずっと、あの部屋から、飛び出して、この銃で、相手の男を殺したいと、思っていた」
彼は膝を折り、シーツに額をつけた。
「……出会ったばかりで、親切にしてくれたきみの仕事の邪魔を、したくはないけれど……、次に……また、我慢していられる、自信が、ない」
電車が通れば、一発でかき消されてしまいそうなほど、か細い声で、彼は言った。
あたしはたまらなくなって、彼の上に覆い被さるように抱きついた。
あたしたちって、バカみたい。
そう思いながら、あたしは彼の震える背中を撫でた。
彼はあの間、ずっと、パイプベッドの上で、拳銃を解体しては、組み立てる、を繰り返していたらしい。
その様子を思い浮かべると、小さな男の子が、積み木でお城を作っているような姿がダブり、微笑ましい気持ちになった。
あたしはシャワーを浴びて、夕飯の買い物に行くことにした。
彼は一緒に行くと申し出てくれたが、もし、一緒にいることが、蓮司さんにバレたら、何が起こるかわからないので、あたしはやんわりと断った。
何を作ろう。
いろいろメニューを思案しながら、踏切で立ち止まった。
目の前を電車が通過していく。
“……三年前に、K県でARの脱線事故があっただろう。おれはあの列車に乗っていた。どこかに向かう途中だったんだ。”
彼の言葉が、脳裏を過ぎった。
K県はこの街の隣にある。行ったことはないけれど、海が近くて、建物は随分前に崩壊して、ほとんど野原のような場所だと聞いたことがあった。
ARは、K県とこの街に直通している。
三年前の脱線事故。
緻密ダイアが引き起こした大惨事だった割に、今では、ほとんどの人々の記憶から、失われている。
あたしはテレビをあまり見ないから、ほぼ知らなかった。
なんとなくそんな事件もあったような気がする程度だ。
三年前の脱線事故を調べて見たら、何か手掛かりが掴めるかも知れない。
でも、どうやって調べたらいいのだろう。
下手に聞き回って、蓮司さんに勘づかれるのもマズい。
それに、セイイチロウさんはすでに調べているかもしれない。
あたしは滅多に使わない脳みそを使って、少し疲れてしまった。
それより、まず、今は夕飯をなんにするか。あたしはそちらに集中することにした。
“マーヴェラス”
18:12P.M.
まだ暗い店内に、扉が開く音がして、店の主である茶色いパーマヘアの男が、カウンターの中から顔を上げた。
「まだ、準備中だけど……ビールくらいなら……」
無言のまま歩み寄る男の顔は、夕暮れの逆光で見えない。鍔のひろい山折帽だけが、特徴だった。
静けさの中を、じわじわと這う得体の知れない冷たい気が、短くなる距離と共に、迫って来るのがわかる。
「……何の用だ?」
怪訝に眉を顰めて、蓮司は相手の男に、側にあった、刃渡り二十センチはある肉切り包丁を向けた。
「探し物をしている……。お前なら、知ってるはずだ」
包丁の反射が、男の顔を半分照らした。
その顔を確認するなり、蓮司は目を見開いた。
「……お前は」
「……情報屋なんだろ?」
「元、だ。今は、ただのしがない酒場の店主だ」
「……表向きは、な。酒場なんて、恰好の場所じゃないか。情報屋」
「なにが言いたい?」
男は近付くのを止めずに、カウンターに腰を下ろした。
「栓抜きと瓶ビールをくれ。グラスはいらない」
蓮司は包丁を構えたまま男を見据えていた。
「蠅なんか殺さない。俺はただお前に聞きたい事があるんだ。話を、しよう」
男は帽子をテーブルに置き、煙草に火を点けた。蓮司は顔をしかめて、クーラーから、コロナを取り出して、栓抜きと一緒に男の前に置いた。
ゆらりとたゆたう紫煙が、男の歪んだ口許を不気味にみせていた。
「ねえねえ。セイイチローさん。好き嫌いある?」
両手いっぱいに抱えたビニル袋をテーブルの上に置きながら、結局、献立を決められないままでいるあたしは、リクエストを受け付けることにした。
「いや、食べられる物なら何でもいい」
「それはそれで、良いことなんだけど、なんか味気無いなぁ……」
「あ、サザエの内蔵とかあんきもとか、苦手かな。絶対、食え!って言われたら食べるけど」
「いや、そんなん出さないし、出ない。あたしが、嫌いだから」
どこかマヌケな答えに、お互い吹き出してしまう。
「何か食べたいもの、ある?」
あたしが彼を覗きこむと、視線だけ宙を見上げ、少し考え込んだ。
その表情が、どうしても可愛くて、あたしは思わず、唇で、無精髭が伸びた頬をつついた。
彼はぎょっとして、あたしを見て、すぐに照れたようにはにかんだ。
「……味噌汁、が食いたい。白飯と、味噌汁。あと、焼き魚もあったらいいな」
予想外の答えに、今度はあたしがぎょっとする番だった。
「ちょっと、待って。出汁昆布買ってくるから。あとお味噌も」
そう言って焦るあたし、彼は笑い出した。
あたしは慌てすぎて、乱雑に積まれた玄関の靴箱と空き缶の袋に蹴躓いてしまった。
耳障りな物音と、開け放たれた窓から、電車の通る騒音が、飛び込んで来た。車線変更して、すぐ側を通ったから、いつもより、近く、大きく聞こえた。
視界の隅に、真っ赤な夕焼けの中で、身体を弓なりにして顔を上げた彼が映った。
「う、うぁ……、あぁあ……」
苦痛に顔をしかめて、その額には、一気に汗が吹き出している。
「セ、セイイチロ……さ、ん?」
彼は片手で顔を覆い、テーブルにもう片方の手をついた。
「……ア、ゲ、ハ」
視線だけで、あたしを見る。その眼光に違和感を感じて、あたしは彼に駆け寄り抱きついた。
「……大丈夫?……大丈夫?どこか痛い……?」
彼があたしの胸で大きく息を吸い込むのを感じた。
「……おれが、殺し屋だって……あの男が、言ってただろ?聞きたくない声ほど、耳に入る……」
「……セイイチロ、さん……」
熱い吐息に、胸元が湿った。
「それが……、おれの過去なんだ」
「……何か、思い出したの?」
彼は黙り込んで、あたしの胸に顔を埋めた。
眉をしかめたのが、わかった。
「……どこか痛む?」
「……頭が、少し。……あとは、胸が、痛むよ」
あたしは腕を緩めて、彼の頭に頬をこすりつけた。
「セイイチロウさん、だいすき。すごく、すき」
“愛してる”が言えなくて、あたしは“すき”と“だいすき”を繰り返した。
塵のようなこの言葉が、たくさん重なれば、大きな意味を持ってくれるような気がして、あたしはうわ言の様に繰り返した。
「ね、あいのうた知ってる?」
「んー……? 知らないなぁ……」
「あたしが教えてあげる」
すっかり暗くなってしまった小部屋のパイプベッドの上で、あたしたちは、服を着たまま、シーツの上に横たわっていた。
セイイチロウさんは腕にあたしの頭を乗せて、指先で髪を撫でたり、弄ったりを繰り返していた。 あたしはママの“あいのうた”を口ずさんだ。
「……その歌、初めて見た時に歌ってた曲だ」
「せいかーい!なんだ。セイイチロウさん、記憶力良いんじゃない」
あたしは笑いながら、彼の鼻を指先で押さえた。
「こら。やめなさい」
彼は苦笑しながら、あたしを押さえつけた。
「やだ。やめない」
あたしは笑いながら、セイイチロウさんの鼻をめがけて指を伸ばした。
あたしたちはシーツの上で戯れ合いながら、静かに興奮していた。
安らいでいるのに、興奮している。
戯れ合いながら、絡み合いながら、笑いながら、触れ合うのを楽しんだ。
ふと、セイイチロウさんの動きが止まり、戯れは静寂で途切れた。
「……やだ。やめないで……」
あたしの震えた唇に、セイイチロウさんが、口づけを落とした。
ずれたストラップと、はだけた胸元を、元に戻す優しい指先が、あたしの髪に移動した。
「してよ。して。……あたしを抱いて」
あたしは駄々をこねる子供みたいに、彼の首に抱きついた。
「アゲハ……、おれは、この過ぎていく時間を、忘れない。忘れたくない。この先も、きみを失いたくない。そのうち、言われなくてもきみを抱くよ。でも、まだ今は……」
「……あたしが、他の男に抱かれてるから?」
「違う。そうじゃない」
彼の瞳は、哀しみと優しさに溢れていた。
それらが零れて、あたしの瞳に落ちるから、あたしは泣きそうになった。
「生きる為に、誰かを騙したり、殺したり、自分の身を売ったり、この世界で当たり前になってるけど、おれはその生き方以外で、きみを幸せにしたい。だけど……、」
彼の眼差しが、あたしから逸らされた。
「……その前に、終わらせておかなきゃならないことが、あるんだ……」
彼はそう言って、もう一度、口づけを落とした。
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