逃走劇1
「土屋様。助けていただき、感謝の言葉もありません」
感激のあまり瞳を潤わせているバッタ族の女性が俺の手を握り、感謝の言葉を口にしている……走りながら。
絶賛逃走中で、かなりの速度で走っているというのに、バッタ族は誰一人として息を切らしていない。身体能力が人の数倍に跳ね上がっている俺が、かなり本気で走っているというのにだ。
バッタ族の特徴である跳躍力を最大限に生かした走法は、歩幅がかなり広い。ああいうのを飛ぶように走るというのだろうか。一歩が俺の三歩分はあるだろう。
俺の直ぐ脇を並走する女性の呼吸が乱れていない声は、澄んでいて耳触りが良く、聞いているだけで穏やかで優しい性格が伝わってくるようだ。
「こら、ショミミ。そんなにくっつくんじゃありません!」
ジョブブが怒ったような口調で注意をしている。どうやら、この子がショミミらしい。
肩にかからない程度に短く切りそろえられた黒髪。頭から飛び出た二本の触角。大きく丸い目に小さな瞳。
鼻筋の通った小さな鼻に、柔らかい笑みを湛えている唇。
目元を手で隠せばかなりの美人に見える。その目も触覚も愛嬌があると言えなくもない。権蔵なら余裕でOKを出しそうだ。
「お兄ちゃん、私に無断で勝手に婚姻させようとした癖に。何で怒るの?」
「うっ、い、いや、でもな。それとこれとは……」
妹を差し出すと勝手に申し出たことは、ブールルが既に伝えている。
事の真相を知った妹に軽く睨まれ、畏縮していたジョブブだったが、妹が誰かと親しく話すのは気になるらしい。
おずおずとだが、口を挟まなくてはいられないようだ。
何だかんだ言っても、妹の事が心配なのだろう。
「兄や仲間がお世話をかけました。我々も含め、本当に感謝――」
「もう、それはいいから」
助け出して……あれを助け出したと表現していいかは迷うところだが、少なくとも彼女たちは、そう思ってくれている。まあ、それから、ずっとショミミは俺に感謝の言葉を述べている……何故か時折、彼女の趣味や特技の話を絡ませてくるが。
何度も聞いているのでいい加減覚えてきた。
趣味は花を育てることで、特技は料理や裁縫、家事全般だそうだ。
「あの、あの、もしよろしければ、土屋様のご趣味をお伺いしても……」
「ちょっと、ショミミ抜け駆けは無しよ!」
「そうそう、わたし達も話に混ぜてー」
俺と寄り添うように距離を詰めていたショミミとの間に、二人の女性が割り込んできた。
紺色の長い髪をなびかせる、ショミミより少し背が高い――俺の身長を上回っている、口調が少しきつめの女性。
それと、胸部がオーガの女性並に盛り上がり、深緑の髪を後ろで束ねている女性がもう一人。
もちろん、全員バッタ族なので、どうしても異質な目と触覚に視線が向いてしまう。顔ではなく髪形と体格で区別をしている。
権蔵のように鈍感系主人公タイプではないので、今自分が置かれている立場は理解しているつもりだ。どうやら、バッタ族の女性に俺は大人気らしい。
基本的にバッタ族の女性は同族の男性よりも、人間の顔に近い相手に惚れやすい。とブールルが言っていたのは本当のようだ。
それに加え、強い者へ惹かれる気持ちが本能的にあるらしく、強ければ強い程、モテるとの説明もあった。
更に、今の時期が関係している。バッタの遺伝子が組み込まれているからなのか、夏場になると男女年齢問わず軽い発情期に入るそうで、通常よりも異性を求めるようになる、とのことだ。
それにしても彼女たちは肉食系女子というべきか、何と言うか発情期だとしても必死過ぎないか。バッタ族では当たり前の求愛行動なのかもしれないが、ここまで積極的に迫られると、若干引いてしまう。
異世界物の定番であるハーレム展開が望めそうなのだが……なのだが。何かが違うだろ、と天に向かって文句を言いたくなる。
「今は逃走中だから、そういう話はまた今度」
「えーーっ」
三人が同時に声を発したが、それに対して苦笑いを浮かべるしかなかった。
「そうだぞ。今は逃走中だ。もう少し緊張感を持ってだな」
「お兄ちゃんは黙っていて」
「あ、はい」
どうやら、兄妹の立場としては妹が圧倒的上位にいるようだ。
「この調子だと、集合場所まであと10分程度かな」
バッタ族の脚の速さが想像をかなり上回っていたので、かなり短縮できている。
このまま、全力で走って逃げられるならゴブリンの追手も軽く振りきれるのだが……。
「でも、土屋さん凄いですね。人間でバッタ族の走りについてこられるなんて」
「鍛えているからね」
実は足に装着している『韋駄天の靴』の能力を発動している。そういや、この靴、贄の島ではあまり活躍の場がなかったな。まあ、それはいいか。
実際、この靴を使わなくても同程度の速さで走れる自信はあるが、呑気に会話する余裕はなかっただろう。
彼らにとって全力で走りながらの会話というのは当たり前の行為であり、やはり基本的な体のつくりが人間と違うようだ。
「この先に仲間が隠れている。ここまで来たら一安心だ」
ジョブブの言葉に女性陣に漂う張り詰めた空気が緩んだのを、気により感じ取った。
こういう状況が一番危険だというのは、嫌と言うほど思い知らされてきたので、俺が警戒を解くことは無いが。
『捜索』にダークゴブリンはなし。バッタ族の反応はある。数も減っていない。妙な動きをしているポイントも存在していない。
気を感じ取りにくくなってはいるが、周辺に巨大な気は感じられない。
バッタ族の男性たちは木々が生い茂っている小さな森に隠れているようで、見た感じでは誰もいないように見える。
「大丈夫そうだな」
救出、合流。順調に事が進んでいる。だが、ここからだ。
逃亡。これを成功させなければ意味がない。
「おーい! 帰ったぞおおおおっ! みんな、無事だああっ!」
ジョブブの生還を伝える大声に応じて、隠れていたバッタ族が次々と飛び出してきた。
彼らを全員昆虫人の国へ運び終わるまでは、気を抜いてはいけない。警戒をし過ぎて損は無い。それが贄の島で学んだ大事なことだ。
「全員乗ったかい?」
「ああ、走れない者は全員乗せておいた」
バッタ族の女性はこれといって怪我もなく健康体だったのだが、男性はそうはいかない。
荷運びと雑用も任されていた者は、まだよかったのだが、ガレー船の漕ぎ手をメインで受け持っていた数十名が酷い有様だった。
船の動力源としか見られてなく、寝食以外はガレー船に入れられ、日夜ただ漕がされ続ける日々。自慢の脚は見る影もなく痩せ細り、歩くことが精一杯という状態。
皆と全速力で駆けることなど、不可能だった。
これが怪我なら『傷薬』で治せるのだが、弱った体はどうしようもない。
そこで俺はレベルを5まで上げ、かなりの容量を詰め込めるようにしたアイテムボックスから巨大な大八車を取り出し、彼らに渡しておいた。
ちなみに、この大八車はミトコンドリアの本体である、巨大な大木を運んだ時に利用した逸品に改良を加えた物である。
乗り込んだ面子と比較的元気な男性。それと助け出した女性陣を見比べて、あることに気づいた。
バッタ族の男性は顔がバッタなので年齢の区別がつかなかったが、人間に近い女性を見る限り、老人と呼ばれる高齢のバッタ族がいないようだ。それどころか、子供も存在していない。
奴隷として使えないと、老人子供は処分されたのか。
疑問が残るが、そこを問う必要はないか。彼らにとってそっとしておいて欲しい話題かもしれないからな。
「俺たちは見捨てていってくれ」
「お前たちだけなら、逃げ延びることができる」
「そうだ。足止めぐらいは何とかしてみせる」
走ることができない衰弱したバッタ族の男性が口々に声を揃えて、自分たちを置いていくように懇願している。だが、仲間たちは誰一人としてそれを認めなかった――俺も含めて。
どうやら彼らは同族との絆が強い種族のようだ。そこを利用して、男性を人質に取られたわけだが。
俺が置いていくのを認めなかったのには別の想いがある……オーガたちを置いて逃げた、あの逃亡戦が頭を過ぎってしまったからだ。
もう少し手はあったのではないか。
もっと、上手くやれたのではないか。
何度も悩み、悔やんできた。頭で過去の映像を思い出しては、同じ場面に出くわした場合、どう立ち回るか何度もシミュレーションしてきた。
後悔は今も胸の奥にこびりついている……だからと言って、自分の命を捨ててまで他人を助けたいという崇高な思いは無い。俺には桜を助け出すという目的があるから。
命を懸ける気はないが、全力を尽くして助けたい。甘い考えだとはわかっているが、昔と違い、今の俺なら選択肢は増えている筈だ。
最良の道を選び出し、実行に移す。それに集中すればいい。
いざとなれば――切り捨てればいい。それだけのこと。
「そう割り切れたら、人生もっと楽に生きられるよな……」
心の声と口から零れた声。どちらも間違いなく本音だ。
「何度も言わせるな。全員そろってセグバクトインまで辿り着く。これは長としての命令だ!」
ジョブブが一族を代表して大声を張り上げ断言する。それを聞いた荷台に乗っているバッタ族が涙ぐんでいる。
「まあ、荷台を引くのは私らだけどね!」
胸を張っていたジョブブが、女性からの突っ込みに肩を落としている。
肉体能力の差を考えると、この方式が一番効率的だから仕方がない。ジョブブ、発言は格好良かったぞ。だから……いじけて、肩を落とすな。
「ジョブブ、準備が整いましたよ。そろそろ、出発しないと」
俺が提供した食料で腹を満たした女性陣は、まだまだ余裕があるようで、ほんの十分程度の休憩だったのだが、問題ないようだ。
荷台に乗っている人数は20名。
全員が落ちないように荷台の上へ縄を張り巡らし、シートベルト代わりにしてもらっている。
「じゃあ、平原を突っ切るぞ! 皆、出発だ!」
大八車を引く者、後ろから押す者が陣取る。
他の者は周りを囲むようにして警戒をしながら、引く役を交代で受け持つようだ。
「出来るだけ穏便に事が運べばいいのだが」
「お兄ちゃんそれは無理だと思うよ」
妹であるショミミの言う通りだろう。
かなり頑丈に作られている大八車に糸を繋ぎ、俺が気を通して強化しているとはいえ、高低差がありすぎる場所を走るのは無理がある。木々が並ぶ空間は大八車が通らず、出来るだけ平坦な道を走るしか手が無い。
それは視界の開けた場所を行くということだ。つまり、追手や魔物の目につきやすく、遭遇戦の覚悟はしておくべきだろう。
「ここら辺に住み着いている魔物の情報を教えてもらってもいいか」
殿を務めるジョブブ兄妹と並び、出来るだけ情報収集をしておくことにする。
「お、そうだな。まず――」
「ダークゴブリンは当たり前ですが、彼らは城壁で囲まれた都市から基本出てきませんので、周辺を偵察している十名程度の兵士の一団が点在しているぐらいです」
ジョブブに訊ねたつもりだったのだが、ショミミが割り込んできて代わりに答えてくれている。
「この面子だとダークゴブリンの部隊と遭遇しても、大丈夫そうだが」
「ええ、普通のダークゴブリンであれば何の問題もないです。ただ、ダークゴブリンジェネラルが部隊長でいる場合、覚悟が必要です」
ジェネラルもいるのか。ダークとはいえ、やはり基本はゴブリンと同じ一族なのだな。
「そういや、ダークホブゴブリンはいないのかい?」
ジェネラルがいるぐらいだ、ホブゴブリンのダークシリーズも居そうだが。
「はい、いますよ。ですが、ダークホブゴブリンなら、男性のバッタ族と同等程度なので、女性が当たれば圧勝できます」
つい視線をジョブブへ向けてしまったが……あ、目を逸らした。
そこまで力の差があるのか。
「後は、ヘルハウンド。ダークオーク。ダークコボルト、ハーピー」
ダークが頭に着く法則は何か有るのだろうか。今のところ、二足歩行できる魔物にはダークが付いているようだが。
「他には、昆虫人、獣人のはぐれ者でしょうか。盗賊や人殺しを生業としている者も少なくありませんから。ゴブリンたちに雇われる傭兵集団もいます」
そういった相手が追手として現れる可能性もあるのか。注意しておこう。
ガタガタと車輪が奏でる大きな音に思わず視線を、そちらに向けた。
巨大な荷台を引いているにもかかわらず、かなりの速度が出ている。普通の日本人男性なら本気の全力疾走並の速さだが、バッタ族が本気で走った場合と比較すると、半分以下、三分の一がいいところか。
本来なら、バッタ族の跳躍力を生かし、山を越える手もあるのだが、大八車があるのでそうはいかない。平坦な道を選ぶしかないので、昆虫の国の境目にあるらしい関所まで山を迂回するルートを取るしかなかった。
ゴブリンと昆虫の国の境目には巨大な川があり、そこに一本の頑丈な橋が架かっているそうだ。その橋の手前と奥に砦が建設され関所となっている。
結構な数の昆虫族の兵士が駐留しているので、そこまで辿り着けば安心できると、いうのがバッタ族との会話でわかったことだ。
そして、その川の近くまで行くと道幅の狭い、両脇に切り立った崖がある一本道があるらしく、そこが最後の難所らしい。
道幅が狭いと言っても、この大八車が通るぐらいの余裕はあるそうだが、そこからかなりの上り坂になるそうで、負傷者を乗せている彼らは、そこで追いつかれる可能性がある。
その関所までは、この速度をキープできるなら三日といったところらしい――といっても今の状況で、そこに到達できるかも怪しいが。
「ジョブブ……あ、いや、ショミミ。この脚元に無数に生えている雑草って何?」
さっきから、平原一面に緑の絨毯のように生えている雑草が目についている。側面がギザギザしているタンポポの葉っぱと似た形なのだが、花や茎が存在しない。
それに、もっと気になる点は、その雑草以外が全く見当たらないのだ。
「これですか、ポルタですね。何故か平らな地面の上にしか生息しない雑草で、台車が走れる場所を探すときは、これを目印にしています。ポルタは今の時期はこうやって地面に横たわるように葉を広げているのですが、冬が近くなると伸びた葉を天に向けます」
流石、異世界というべきか、面白い習性の植物だな。
「ちなみに、どれぐらいの高さに達するんだい?」
「ええとですね。1メートルはいきませんけど、それに近い高さまで伸びます」
結構な高さだな。それぐらいの長さがあれば身を潜めて、追手をやり過ごすことも可能かもしれない。罠もかなり仕込みやすそうだし。
だが、こうやって大八車を走らすことは困難になっていたか。運が良かったとも悪かったとも言い難いな。
今のところは順調だ。ダークゴブリンが捜索範囲に引っかかっていない。
このまま、穏便に逃避行が続くのがベストだが……だが……異世界に来てからの二年にも満たない人生だが思い返すと――ただでは済まないだろうな。というのが正直な感想だ。
四話程度になりますが、毎日投稿となります。