英雄に憧れた少年 2
悲鳴はまだ続いている。
僕は雑草をかき分け、邪魔な枝を振り払い、その声の元へと全力で走った。
「やめてっ! やめてえええっ!」
「うるさい! 黙れこのアマがっ!」
泣き叫ぶ女の声に紛れて、男の怒声も響いている。
その声が僕をいつも殴っていたあの人と重なり、心臓が大きく跳ねた。
身に染み付いた仮の従順さが顔を出そうとして、足が止まりそうにな……らない!
この世界で僕は生まれ変わるんだ!
英雄への一歩はここから始まる!
かなり大きくなってきた声から、この付近だと確信すると耳をそばだてる。
「やめて……お願いだから……」
嗚咽が混じり、さっきまでの悲鳴とは比較にもならない、小さな囁く声が聞こえた方向へ飛び込んだ。
そこは、膝下までの雑草が生い茂った場所で、草の上に腕を掴まれ押し倒されている女性がいる。チェック柄の制服を着ているので僕と同じ中学生か高校生だろう。
その上には呼吸が荒く、図体のでかいスーツ姿の40前後に見えるオッサンがいて、女性の服を脱がそうと必死になっているようだ。
「あんた、どうせ生産系のスキルしか持ってないだろ! ステータスを上げた俺の力に敵う訳がないっ!」
この二人も転移者か!
って、今はそんなことどうでもいい、助けないと!
僕は意を決して男の背後に飛び付き、止めようとした。
「や、やめろおおっ!」
「な、何だ!? 誰だ邪魔しやがるのは!」
男が振り払おうと体を左右に動かすだけで、僕の体が左右に大きく揺れる。
筋力の差なのだろう、しがみついている僕の手がその威力に負けて、今にも振りほどかれそうになるが、全身全霊の力を込めて辛うじて耐えていた。
「ちっ、邪魔だ!」
僕が背中に貼り付いたままだというのに、軽々と無造作に立ち上がると、今まで以上の力を込め男が体を大きく横に振る。
「う、うわあああっ」
僕はそれに抵抗できず指が離れると、宙を舞い背中から大木の幹に叩きつけられた。
「ちっ、いいところで邪魔しやがって。何だこのガキ。ガリガリじゃねえか。おいおい、制服から見て転移者みたいだが、それ以上、俺の邪魔をするようなら殺すぞ」
男が僕の足元まで歩み寄り、見下ろすと唾を頭に吐きかける。
背中を強く打ったせいで、呼吸すら困難になった僕は、朦朧とする意識の中、男の侮蔑する声と視線をただ浴びていた。
「っておいおい。あんなので気絶したのか。たー、まいったな。ステータス上げ過ぎちまったか。柔道で鍛えたこの体が二倍に跳ね上がれば、こんなもんか……おい、女。この隙に逃げようなんて考えるなよ」
「ひいいっ!」
釘を刺す男の声と、怯えた女性の声。
ああ、僕は無力だ……日本でも、この世界でも、僕はなんて無力なのだろう。
掠れる視界の中、しゃがみ込んだ男の背が見える。その先には胸元のボタンを引き千切られ、何とか抵抗を続ける女性がいる。
駄目だよ見知らぬ女の人。抵抗すると相手は余計に怒るだけだ。
諦めて、大人しく従った方が楽だよ。痛い目を見るだけだから。
ほら、頬を殴られた。だから言ったじゃないか、声を潜め感情を殺し、ただ黙って奪われるのを待つ――
奪われる?
僕の心臓が大きく鼓動した。
胸の奥から熱い何かが全身に広がるのを感じる。
違う……違う。僕は生まれ変わったんだ。英雄になる為に! この転移で、奪われる者から奪う側に!
何かに背中を押されるかのように、僕は立ち上がると視界の隅に転がっていた大きな石を拾い上げた。
「へっ、やっと大人しくなったか。この世界で日本の法や秩序は何の意味もない。この力で好き勝手やってやる。街についたら、もっと見た目のいい奴隷でも買い漁ってやるか。転移物の醍醐味だからなぁ」
そんなことを呟きながら、自分のズボンを下ろそうとした男の頭頂部に石を叩きつける。
「ごふゅっ!」
男の口から息を吹きだした変な音が漏れるが、俺は躊躇うことなく二撃目を頭に叩き込む。そして、三度、四度……男が完全に動かなくなったのを確かめると、ようやくそこで手を止めた。
石の大半が血で赤く染まり、僕自身も同様に返り血を浴びて、真っ赤に染まっていることだろう。
石を脇に投げ捨て、女性の上に倒れ込んだ男を引き剥がし、その下で震えていた女性と顔を合わせた。
上半身の服は引き裂かれボロボロだが、下着もつけたままだし、下半身の方には手を付けられていないようだ。何とか間に合ったと考えて良いだろう。
勝ち方は情けないけど、襲われている女性を助ける。英雄として相応しい行動だったと思う。
「だ、大丈夫ですか?」
僕が女性に手を差し伸べたのだが、パチンと乾いた音がして、手を払われてしまった。
「ひ、人殺し! こ、こないで!」
女はそう言うと、腕の力だけで僕から距離を取り、木の幹に手を当て何とか立ち上がると、わき目も振らず逃げ去っていく。
「なん……だよ。なん、なんだよ……僕は助けてやったんだぞ! 人を殺してまで、あんたを助けたんだぞ! 感謝もせずに逃げるってどういうことだよ!」
あの女の為に僕は勇気を振り絞って、このオッサンを倒したのに。何で、逃げるんだ。僕のしたことは余計だったのか?
助けてくれって言ったじゃないか!
何だよ、なら、助けずに眺めとけばよかった。
あまりの馬鹿馬鹿しさに足の力が抜け、大地に膝を突くと視線が下がり、オッサンの死体と目が合ってしまった。
陥没した頭に虚ろな瞳。微動だにしない体。
死体だな。ああ、生きていない存在だ。
何故だろう、ちっとも怖くない。罪悪感すら殆どない。
魂の抜けたただの肉だ。まるで、昔の自分みたいな。
「あれ、こういうとき罪の意識に苛まれる筈じゃ?」
人を殺したというのに、後悔するどころかすっきりとした清々しい気分。
何で自分は日本に住んでいた時に、気に食わない相手を、こうしなかったのだろうかと後悔しているぐらいだ。
そういや、両親が事故死して以来、僕は涙を流したことがあっただろうか。
まあ、どうでもいい。英雄になる僕にしてみれば些細なことだ。
元から壊れていた僕が今更、何を気にしているんだろう。
オッサン、あんたが言っていた通り、この世界で法や秩序を気にしたらダメなんだよな。
「何か、どうでもよくなって……え?」
死んだオッサンの体から漏れ出た光の粒子のようなものが、僕の胸元へと集まり体内へ吸い込まれていく。
「えっ、何!? 何かのスキル!?」
慌てて胸元を払うが、光の粒子は揺らぐこともなく手をすり抜け、体の中へと消えていった。
「今のは何だったんだろう……あ、もしかして!」
思い当たる節があったので、胸元に入れておいた生徒手帳を取り出し、中を確認する。
この異世界に飛ばされる直前、あの女教師はある程度の知識を僕たちに与えてくれた。
情報の一つに、この特製の生徒手帳には自分のレベルやスキル、ステータスが記載されるということがある。
今の現象はゲームでよくある表現なら、相手の経験値を得た時の感じに似ている。つまり、このオッサンを倒したことにより、経験値が与えられた可能性が高い!
「やっぱり! それも、いきなりレベルが10も上がっているよ! うわ、スキルポイントも1650も増えてる!」
こんなに簡単にレベルが10も上がってポイントも1650増えるなんて。ってことは、レベル1上がるごとに100以上ポイントが増えるということか。
どちらにしろ、こんなにポイントもレベルも上がりやすいなら、スキルポイントを節約する必要もないな。
あ、ステータスポイントも20増えてる。これは1レベルごとに2もらえるのか。わかりやすくていい。11以下のステータスを11まで上げておこうか。
「スキルどうしようかな……って、奪取スキル!」
状況の変化が目まぐるしくて、すっかり忘れていたよ。このオッサンから、スキルを奪ったらいいじゃないか。
じゃあ、『奪取』スキルの条件である『窃盗』を3まで上げて、ステータスの器用度と精神力が30いるのだったか。となると、うん、ポイントも大量にゲットしたし、ステータスレベル3まで全部上げよう。
これだけで1000近くのポイント消費したけど、まあいいか。
「あああああっ!」
いざ、男の胸にナイフを突き刺し心臓を取り出そうとしたところで、僕は重大なミスを犯したことに気づいてしまった。
「レベルが越えちゃったよ……」
『奪取』の条件の一つ。相手のレベルが自分より下でなければならない。
このオッサンの体を探って取り出した生徒手帳を確認すると、やはりレベルは1だった。
スキルをざっと見てみるが『魔法耐性』『共通語』『怪力』ぐらいだろうか目ぼしいスキルは。
『奪取』レベル1の今だと一つしかスキルが奪えない。それに、相手がレベル下だから条件に一致していないとなると、奪える可能性が殆どないのか。
「なら、いっか」
死体からもスキルを奪えるなら、奪取レベルを上げてから手に入れたらいいし。
オッサンの死体をそのままにして、これからどうするか思案する。
ステータスは素で平均を超え、レベル3まで上げたことにより常人の三倍の力が手に入った。ポイントも結構余っているから、スキルを強化したいけど……やっぱり『奪取』2を最優先にしたいな。
だったら、もう少し溜めて1000ポイントまで増やさないと駄目か。
方針は決まった。まあ、レベル上げするにしろ、何にしろ、この血どうにかしないとな。全身にへばりついた血の臭さが鼻につく。何処か体を洗えるような場所は。
僕は大きく息を吐くと、耳を澄ました。風に揺らされ葉が擦りあう音が耳に届く。他にはこれといって音は――ん。これは水の流れる音?
微かなのだが川のせせらぎが聞こえてきた。方向は、たぶんこっちか。少しでも早く血を洗い流したかったので、黙々と歩を進める。
ステータスが上がったことにより、聴覚や視力も上がっているのだろうか。いつもより遠くまで見通せるし、この音だって普通は聞こえない距離だろう。
音は徐々に大きくなり、川があることが確信に変わると僕は駆け出した。
雑草を掻き分け、木々の間を抜け飛び出すと、そこには小川があった。深さもそんなになく、川面を覗き込むと底が見える程度だ。
たぶん、一番深いところでも膝上程度の水量だろう。
「丁度いいや」
服を着たまま、仰向けに川へと飛び込んだ。
異世界は転移する前と気温が同じぐらいなので少々肌寒い。そんな状況で水の中に飛び込むなんて無謀極まりない行為なのだが、水の冷たさは凍える程ではなかった。
むしろ、その冷たさに頭が覚醒して、異世界に来てからの怒涛の展開で麻痺しかけていた精神に漂う靄が、すっと晴れた気がする。
「人殺しか……あの女性も気が動転していただけかな」
暫く川面に浮かび頭が冷えた僕は、立ち上がると水面に映る自分の顔を確認した。
ステータスを上げたおかげだろうか、以前よりも血色のいい顔をしている。
だが、何かを企んでいそうな鋭い目つきは相変わらずで、以前の顔が血に染まっていたら、そりゃ普通怖くて怯えるよな。
あの時は興奮して気づかなかったが、あの対応に腹を立てるのは筋違いか。
今は、女の子を助けられたことだけでも良しとしよう。
でも、あの子と再び出会ったら、また怯えられることになりそうだ。何か対策はないか。
「あっ」
そうか、僕には『身体変化』のスキルがあった!
自分の容姿に不満があったので、スキルポイントも少なかった『身体変化』のスキルを迷うことなく選んだのだった。色々あると、大事なことを忘れてしまうな。
ここで、スキルの確認をしておこう。
水面に映る顔を確認しながらスキルを発動させる。
脳内に半透明の映像と文字が浮かぶ。
『レベル1なので顔の変化のみとなります。宜しいでしょうか』
その文字が脳内に浮かぶ自分の顔の映像の上に表示された。
成程、レベルを上げると顔以外の肉体変化も可能となるのか。面白いスキルだな。
顔の操作はゲームでキャラを作る時と似ていて、顔の輪郭や細かい部位の拡大縮小。配置場所の移動。まつ毛や髪の毛の増量や無くすことも可能で、好き勝手にいじることができた。
「これは夢中になるな」
どれぐらいの時間が過ぎたのだろうか。時計も何もないので正確な時間はわからないが、二、三時間は没頭していた気がする。
それだけの時間をかけた甲斐もあって、理想的な顔が水面に移っている。
顎が細く、切れ長の目。全体的に整い過ぎて中性的な感じがする美少年。
試しに微笑んでみると、自分の顔だというのに背筋がぞくっとする美しさがあった。
「完璧だ」
よっし、そろそろ川から出て動こう。頑強が上がったおかげで丈夫になったとはいえ、いい加減風邪ひきそうだ。
川岸に移動すると腰を掛けられる大きさの岩を見つけ、その上に陣取った。
濡れた靴と靴下を脱ぎ、岩の上で干しておく。天気がいいので、乾くまでにそんなに時間はかからないだろう。
岩の上に寝そべり、空を見上げると大きな白い雲が漂っていた。
「平和だな、お腹空いた……」
人を殺して、罵倒された僕が呟いていい言葉ではないが、思わず口から零れる。
日本で心が死んでいた僕にとって、死という概念はそれ程大きな影響を与えないようだ。異世界に来て平気で魔物や人を殺せる主人公は多い。
ということは、僕も主人公向きだということか。英雄なんて殺すのが仕事みたいなものだし、こんな性格で助かったよ。
死が身近に存在する世界だというのに、僕は不自然なぐらい心が落ち着いている。
「食べ物確保しようか」
あまり動いていないというのに異様なまでに空腹だ。これは筋力が上がるとエネルギーの消費量が上がるという副作用の影響っぽいな。大したことは無いと甘く見ていたけど、一気に3レベルはやりすぎたか。
考え事をしていると、川のせせらぎと吹き抜ける風の音に混じって、誰かがこちらに歩み寄る足音が流れてきた。
「あ、あの、貴方も転移者ですか?」
木に半身を隠しながら、恐る恐る声を掛けてきたのは、僕を「人殺し」と罵倒した、あの女学生だった。