桜
「あっ! ど、どうなった!?」
瞳が瞼を通して光を感じ取り、目を開けると上から覗き込んでいる桜の顔が直ぐ近くにあった。
後頭部に柔らかく程よい弾力を感じる。もしかして、膝枕をされているのか。
「目が覚めたのですね! 安心してください。みんな無事です」
その言葉を聞き、安堵の息を吐くと、立ち上がろうと上半身に力を込めるのだが――ぴくりとも動かないな。それどころか、指一本すら微動だにしない。
「そうか良かった……ごめん、体が全く動かない。暫くこのままでいいかな」
「はい、もちろんですよ」
何が楽しいのか、嬉しそうに顔をほころばせ俺の髪を細い指先で梳いている。
静かだな……大木に囲まれ、草木の香りが肺に浸透していく。疲労感と癒し効果に眠りそうになるが、何とか意識を覚醒させる。
「あれから、どれくらいの時間が?」
「30分程度ですよ。オークキングは完全に消滅しています。その証拠に大量の経験値を得たので、かなりレベルアップしましたよ」
桜の義手だからこそ掴むことができたゲイボルグでダメージの大半を与えたことにより、桜へ大量の経験値が流れ込んだのだろう。
俺たちも経験値を幾らかは貰っているだろうが、一番活躍した桜とは比べるまでもない。
「その経験値で転移スキル上げて、全員をここまで運んできました」
そう言われて初めて気づいたのだが、周辺の景色が逃げていた場所とは違う。あれ程の衝撃を受け木々や土砂が舞い上がっていた筈なのに、この場所は荒れた場所など何処にもなく、大木が立ち並んでいる。
ここ、見覚えがあるな。
「北の森か」
「はい、そうです。聖樹があった場所の近くに転移しました」
肯定する桜の顔をぼーっと見つめながら、奇妙な違和感が胸を過ぎる。
この場所に、桜が来たことがあったか?
「紅さん、そしてみんな。オークキングを倒した後に代償について話すって約束したのを覚えている?」
権蔵とサウワも近くにいたようで、桜の声に反応して二人が歩み寄り、俺の近くに座り込んだ。
「ああ、覚えている」
「おう、ちゃんと記憶しているぜ」
「うん、桜言ってた」
俺たちが答えると、桜は小さく頷き、その瞳が俺の瞳を覗き込んでいる。
今、光の加減なのだろうか、桜の瞳が緑に輝いたように見えたのだが……。
「代償の説明をする前に、聖樹がどういう存在だったのかを説明しないといけません」
何故、そんな話が必要なのかと思いはしたが、静かながらも強い意思の感じられる口調と雰囲気に俺たちは黙り込んでいた。
「この島の奥底に眠る邪悪な存在を封印監視する為に、神が植えた若木。それが聖樹でした。本来の役割は、地中深く眠る邪悪な存在の力を根から吸い取り養分とし、吸収しきれなかった闇の力は放出する。そうやって、邪悪な存在を復活させない役目を担っていました」
この島にとって重要な存在だったのか。だが、それが何故、魔物や人を無秩序に襲い、吸収するような存在に。
「ですが、長い年月、邪悪なる存在から吹き出す力に触れていた影響なのでしょう、聖樹の性質が変貌し、いつしか何も寄せ付けず、己が生き延びる為だけの存在と化してしまいました」
俺の心に湧いた疑問に答えるかのようなタイミングで、桜が答えてくれた。
あれは、元々聖なる存在だったのか。聖樹とは名ばかりの魔物だと思っていたが、そうではないのだな。
俺たちが出会った聖樹は既に狂わされた後だったのか。
「そんな存在だった聖樹が土屋さんに倒され。その命が途絶える寸前、聖樹は本来の使命を思い出しました。そして、いつか自分の力を受け継ぐ苗木となるものが現れることを願い、木片となり眠りにつきました」
あの木片がそれだったと。
語る桜の表情は今も少し微笑んでいて、口調も柔らかい。
だというのに、俺の心は騒めき、これ以上、彼女に語らせてはいけないと、この世界で磨き上げられた勘が叫んでいる。
「桜その話はまた今度――」
「紅さん。お願いです、もう少しだけ語らせてください……時間がもう、残されていないのです」
桜の懇願する表情と言葉に、心臓が大きく跳ね上がった。
「な、なに言ってんだよ桜姉さん。時間が無いって……」
「桜ちょっと変だよ……」
二人も同様の気配を感じ取っているようで、落ち着かない様子で桜へ声を掛けている。
「どういうことなんだ桜……どういうっ!」
「みんなごめん。きっともう感づいていると思うけど、その苗木になるというのが、願いの義手の代償なの」
そう言って悲しげに笑う桜の姿に、俺たちはただ見入っていた。
瞳は完全に緑へと変色し、長い黒髪も同様に翡翠のような輝く緑へと変わっていく。
その姿はまるで――ドリアードのミトコンドリアのようだ。
「場所を変えるね」
風景がまたも一変した。
荒れ果てた大地の中心に俺たちは移動したようだ。地面に穿たれた幾つもの穴と大地を掘り起こしたかのような地面。
ここにも見覚えがある。
俺が死力を尽くして聖樹と戦った場所だ。
背が触れている場所がちょうど、聖樹が大地に根を張り巡らせていた地点か。
「この遥か下の地中に邪悪な存在が眠っているの。今までは聖樹の力があったから、ソレは眠りについたまま、力を蓄えることも叶わなかった。でも、聖樹がなくなった今。島で死んでいった魔物や人間から少しずつ力を吸い取り、急速に力を付けてきている。早急に手を打たないと、ソレが目覚めてしまうの。この島どころか、世界を滅ぼしかねない存在が」
ここまで聞けば嫌でも理解できる。
その役割を代償として彼女が押し付けられ、それを彼女は受け入れた。とでも、言いたいのか。
「まて、だからと言って何で、桜がっ!」
「そうだ! 桜姉さんが犠牲になる必要はない!」
「断ったらいい!」
恥も外聞も捨て、全員で桜に詰め寄るが、彼女は嬉しそうに笑うだけだ。
「それが力を貸す条件だったから。今更、やめた、ってわけにはいかないよ。でも、みんな私の為に泣いてくれて、ありがとう」
そこで初めて自分が泣いていることを知った。
目頭が熱く、何かが頬を伝っているが、そんなことは今どうでもいいことだ!
「義手を捨てることはできないのか!?」
「もう、どうにもなりません……義手は私の血肉と化していますから。ごめんね、みんな。そろそろ時間みたい」
俺は全身が軋みを上げているが辛うじて動く体を奮い立たせ、桜に抱き付くと、逃がさないように強く抱きしめる。
「ダメだ、ダメだ桜!」
腕に伝わってくる桜の感触は硬く硬質化していて、女性特有の柔らかい抱き心地は消えていたが、それでも俺は離す気はない。
「紅さん、私は本当に幸せでした。素敵な仲間に出会えて、貴方に会えて。辛いこともいっぱいあったけど、本当に、本当に幸せでした。権蔵君、もっともっと強くなって、弱い人を守ってあげてね」
「あたり……当たり前だ! 俺は異世界一の剣豪になる男だぜっ」
権蔵は自分を奮い立たせ大声を張り上げると、親指を立てて桜に突きつけた。
涙で濡れた顔を無理やり笑顔に変え、権蔵は歯を見せて笑う。
「サウワちゃん。権蔵君と仲良くね。今は無頓着みたいだけど、もう少し女の子らしく生きてくれたら、私は嬉しいな」
「うんうん! 難しいけど、頑張ってみる! 約束する!」
いつもは無表情に近い顔が崩壊し、溢れ出した涙が顔を濡らし、滅多なことでは出さない大きな声で、素直に返事をして何度も大きく頷いている。
すがりついて泣き続けるサウワの背を、桜はそっと撫でていた。
「紅さん。今まで本当にありがとうございました。貴方がいてくれたおかげで、私は今日まで生きてこれました。日本でも味わったことのない、幸せな時間を与えてもらって……それなのに、私は、貴方に何も返せずに……こうやって……ご、めん、な、さい」
緑の瞳から大量の涙が溢れ出し、桜の両腕が俺の背に回される。
嗚咽で話すことができなくなった桜の背に回した手で、背中をさすり、ゆっくりと顔を上げた桜と見つめ合うと、唇を重ねた。
どれだけの時間をそうしていたのだろうか。このままずっとこうしていたかったが、どちらからともなく唇を離す。
お互いの呼吸を感じる距離で見つめ合ったまま、俺は口を開いた。
「桜、必ず、キミを戻してみせる! どんな手段であろうが、どれだけ時間が掛かろうが、必ずだ。だから、別れの挨拶はしない……桜、愛しているよ」
桜は涙で濡れた顔に満面の笑みを浮かべ「私も愛しています」と返してくれた。
最後にもう一度、唇を合わせると、俺は権蔵に支えてもらいながら立ち上がり、桜から距離を取る。
緑の目と髪が光を受け、宝石のように輝く姿は幻想的で、思わず見とれてしまう。
その桜が着ているジャージの裾から伸びた腕や脚がメキメキと音を立て肥大化していく。
足は地面に突き刺さりジャージを引き裂くと、右と左の脚が融合し、一本の巨大な根元となる。体も同様に太く大きく変化し、笑顔を浮かべた桜の顔を呑み込むと幹となった。
腕は天に向け広げられ、そのまま伸びると幾重にも別れ、無数の枝となり花の蕾が連なる。
目の前で桜が変貌していくのを一瞬たりとも見逃すまいと、桜の姿を忘れないように、目に焼き付けるように、ただ黙って見つめていた。
成長が止まり、完全な大樹へと変化を遂げた桜の姿を見て、俺は大きく息を吐く。
「桜らしいな」
その姿は俺が倒した聖樹とは異なっていた。
暗褐色の樹皮に太い幹。大きく広がる枝には、五枚の花弁を備えた淡い紅色の花が咲き誇っている。
桜花はとても鮮やかで美しく、それでいて温かみがあった。
根元の周辺から若い草が顔を出し、荒れ地だった地面に若い草が生い茂り、一面が緑の野となる。
桜の大樹の脇には樹高6メートル程度の白い樹皮の木が一本生え、真っ赤な花を咲かせている。
「これは、椿か。そうか……ありがとう桜姉さん」
一時期、権蔵が想いを寄せ、憧れの存在であり、俺と死闘を繰り広げた転移者、椿。
その椿を弔う意味を込めて、桜が咲かせてくれたであろう椿の花を見て、権蔵が呟いた。
きっと、この緑の野も桜の花も、死んでいった彼女たちになぞらえているのだろう。
皆を心配し、気遣い、優しかった桜らしい配慮だな。
桜の花を見上げているだけで、心の奥がじんわりと温かくなっていくのがわかる。
「綺麗……」
初めて桜の花を見たサウワが感嘆の声を漏らしている。
俺もその美しさに圧倒されながらも、変わってしまった桜に思いを馳せ、素直にその美しさを堪能する気にはなれなかった。
「土屋さん。これって山桜だよな」
隣に並び、桜の花を見上げている権蔵が問いかけてくる。
「そうなのか。生憎、花には疎くて、違いがわからないな」
桜の品種があるのは知っているが、これがどの品種なのかは見当もつかない。
「うちの姉貴が、花とか大好きでさ、色々うんちくを語るから、俺も結構詳しくなってな。特に桜が好きだったな姉貴」
権蔵は遠い目をしている。あの視線の先には日本に残してきた姉の姿が映っているのかもしれない。
俺も母を残してきたが、しっかり者の兄弟がいるので、心配はしていない。むしろ、俺の事を過剰に心配していないかと、不安になるぐらいだ。
この世界に来て、何度か残してきた親兄弟を思い出すことはあったが……桜を見て、故郷を思い出すのは日本人の遺伝子に組み込まれた、本能なのか。
「山桜の花言葉って知っているか、土屋さん」
「花言葉か。全くわからない」
そういうのとは無縁の人生だったからな。
「幾つかあるんだけど、純潔、淡泊とかな。そして、俺が一番好きな花言葉があってそれが――あなたに微笑む」
その瞬間、桜の大樹に彼女の微笑みが見えた気がして――ずっと無理をして押し留めていた感情が、堰を切って溢れ出した。
「何で、桜が聖樹にならなければならない! どうして、俺はもっとうまく立ち回れなかった! もっと強ければ、ゴルホだって死なずに済んだ! 俺が俺が……皆を、彼女を追い詰めたんだっ!」
全身から力が抜け、不甲斐なさと怒りに体を震わせ、地面に何度も拳を叩きつける。
そんな俺の手に一枚の桜の花が、舞い降りてきた。
それは桜が『自分を責めないで』と言っているように思えて、俺は桜の花びらを握りしめると、涙が枯れるまで泣き続けることしかできなかった。