死力
迎田の体から黒い湯気のような物が立ち昇り、全身を覆う。
速度は落ちているが、未だに体は落下し続けている。迎田を覆う黒い何かは風圧の影響も全く感じさせず、体に纏わりついている。
「邪魔だ……全てが邪魔で鬱陶しい……破壊しろ、壊セ、コワセ、コワセ、コワセ」
同じことを繰り返し口にする迎田の声が徐々に低く、聞き取り難い声へと変わっていく。まるで、人ではない何かが無理に言葉を話しているかのような、ノイズ交じりの耳障りな声へと。
「紅さん。あ、あ、あ、あれ、何ですか! あの人、元々、人間ですよね!?」
俺にしがみ付いていた桜が取り乱した様子で、俺の体を激しく揺さぶるが、返事をする余裕はなかった。
おいおいおいおい。嘘だろ。
我が目を疑う光景が、現在進行形で繰り広げられている。
闇に包まれた迎田の頭から、捻じれ尖った角のような物が伸び始めている。背中からは巨大な蝙蝠の羽のような物が飛び出し、体表は沸騰した水のようにブクブクと泡立ち、膨張していく。
ズタズタに切り裂かれていた腕は瞬時にして再生したようで、元の形へと修復されていた。
体中の関節が本来可動域ではない方向へ曲がっては元に戻り、を繰り返しながら歪に変形していく。
元に戻った腕が再び裂けはじめると、何匹もの蛇が生えたような姿へ変貌し、それが集まり、辛うじて腕の形を保っているが、元々人間の手だったと誰が信じてくれるだろうか。
足は太股の筋肉が際立って膨張し、まるで猫やウサギといった脚が発達した獣のようだ。
体が一回り、二回りと、巨大化を続け、その体は今も大きくなり続けている。
そのフォルムはまるで――悪魔のようだった。
「肉体変化のスキルが暴走しているのか……」
考えられることは『狂化』によりスキルの制御が不可能になり、常軌を逸した心の有様が肉体変化のスキルを通して表面上に浮かんできた。そう思わなければ、この現象を説明できない。
能力が格段に跳ね上がったことで、ゲイボルグを掴むだけの力は得たのだろう。腹から飛び出た穂先を掴むと、強引に引き抜き投げ捨てる。
もう、槍を自分で使うという発想すら浮かばないのか。
「グルウアアアアアアアアアアアアッ!」
穴の上空に向かい吠える姿も声も、既に人間ではないナニかだ。
迎田だったモノの周囲の空間が軋み、透明の球体に包まれているのがわかる。
驚きのあまり対応することを忘れていたが、このまま変身経過を見守る義務はないと、俺は丸太を投げつけ、桜は黒い霧で出来た槍を飛ばす――が丸太は周囲の球体に触れると、ぴたりと動きを止めたかと思えば、飛んできた軌道をなぞるように、俺を目掛け射出された。
「反射されたのかっ!」
片腕は桜の腰に回し、もう片方の手でアイテムボックスから取り出した斧を振るう。
自ら放った丸太の処理をしながら、黒い霧で出来た槍の行方を目で追うと、迎田だったモノの蛇のような指が伸び、槍に触れると同時に爆発し、魔法を吹き飛ばしている。
『狂化』の能力である所有しているスキルのレベルを一気に向上させたことにより『反重力』の威力も爆発系スキルの威力も桁違いになっているようだ。
迎田は頭を片手で押さえ、口から唸り声を漏らし、赤い瞳は何かを探す様に彷徨っている。
力に翻弄され、精神がふれているのかもしれない。
「紅さん……これは、もう、人の手に負えるレベルじゃ。ただでさえ凶悪な相手だったのに、狂化で能力が跳ね上がったら勝てるわけが……みんなを連れて転移で逃げましょう!」
顔から生気が失せていた桜だったが、妙案が浮かんだと手を打ち鳴らし、俺の顔を覗き込んでいる。
「それはダメだ。狂化のレベルが想像以上に高ければ、何時間も奴を放置することになる。破壊衝動の塊と化した奴が暴れたら、この島は下手したら壊滅するかもしれない」
そう遠くない距離にオーガの村だってある。そちらに流れでもしたら、地獄絵図と化すのは間違いない。それにこの展開は――
「予想通りだ」
蓬莱さんがいなくなり数日後に改めて生徒手帳を確認した時に、『狂化』の文字は消えていた。つまり、スキルをオークキングである迎田に奪われたということだ。
俺は戦闘前から左手首に繋いでいた一本の糸に『精神感応』を通し、糸の先にいる人物へ心の声を届ける。
『春矢、すまない!』
正直、この手段だけは使いたくなかったのだが、最悪のシナリオ通りに事が進んでしまっている。相手が奪取で得た『狂化』を使った時の対策。
「気にしないでいい。英雄は危機的状況でこそ輝くものだから」
俺がプレゼントした『破魔の糸』を縫い込んだ毛糸のセーターを着た春矢が、突如、俺の直ぐ脇に現れた。
顔色は相変わらず優れないが、オーガの村で初めて会った時よりかは幾分ましだろう。
少しだが頬に肉もついている。桜の『治癒』スキルの効果と、俺の手渡したセーターに編み込まれた破魔の糸により、精神の異常が緩和され、春矢はこうやって動くことができる。
破魔の糸入りセーターの効果はそれだけではない。『契約』スキルにより見聞きしたものが、迎田へ筒抜けなのだが、その効果すら防ぐ可能性があると考えていた。
それは確証がなかったので、念には念を入れて夜だけセーターを着こむように、るいへ頼み、寝ている間なら情報が遮断されても疑われないことを祈り、彼と会うのは深夜と決めていた。
かなり回復した春矢だが、完全復帰には程遠い。弱々しい姿を晒す彼に全てを託すのは心が痛むが、手段を選ぶ余裕はこちら側にはない。
「状況は理解しているよな。やれるか?」
「任せてくれ。精神感応のおかげで現状はばっちり把握できている……緩やかに時を刻め」
春矢が囁くようにその言葉を口にした刹那、視界に映るすべての光景がスローモーションで流れだす。
「えーーこーーれーーはーーいーーたーーいーー」
桜の間延びした声が聞こえる。緩慢な動作で口を開き、一言一言を冗談のように間延びしながら話してきた。
別に桜がふざけているわけじゃない。
俺は数日前の深夜、春矢にこの力を見せてもらっているので、今は特に驚いていないが、初めて体験した時は、桜以上に驚愕し声が出なかったのを覚えている。
『桜落ち着いて、これは春矢の時空魔法の一つだよ。周囲の時間が通常よりも5倍遅く流れている。と言っても肉体にのみ作用する力だから、こうやって精神感応で会話する分には普通に話せるけどね』
『え、でも、確か時空魔法って条件が厳しかったですよね。スキルがかなりの種類必要で、発動させることがほぼ不可能な……』
確かに、時空魔法は前提条件が厳しく、俺もあの魔法を発動させる者は出てこないと考えていた。
時空魔法を操るのに必要なスキルは、『計算』『精密』『火属性魔法』『水属性魔法』『土属性魔法』『氷属性魔法』『風属性魔法』『光属性魔法』の計、九つ。
それこそ高名な魔法使いでもない限り、本来は習得不可能な魔法なのだろう。
だが、春矢は時空魔法をずっと狙っていたようで、俺と別れてからも発動条件のスキル集めに執心していたようだ。
そして、オーガの村で再会し、るいに見せてもらった生徒手帳のスキル欄を見た時、俺は思わず息を呑んだ。条件の七つまでスキルを揃えていたからだ。
そして、足りなかったスキルが『火属性魔法』と『水属性魔法』と知り、俺は運命の悪戯を感じずにはいられなかった。
俺のアイテムボックスの中には、その条件を満たす、モナリナ、モナリサ姉妹の心臓が納められていたからだ。
彼女たちが死んだあの日以来、悲しみながらも冷静な自分がいた。
いつか、春矢ではなくとも奪取を習得した仲間を得た時に、力になってくれるのではないかと、墓穴に埋める際に心臓を取り出すと、密かに持ち続けていたのだ。
今思えば、凄惨な状況が続き、何処か心が壊れかけ感覚が麻痺していたのだろう。
打算はあったが、こうすれば彼女たちといつまでも一緒だという考えが、心の隅にあったのは否定できない。
『紅さん! でも、春矢さんも、何かまったりしてますよ!』
桜の声に過去へ飛んでいた意識が戻される。
『ああ、この魔法自分も影響下に入るんだよ。だから、春矢自身も動きが鈍くなる』
『え、それって、どうしようもないじゃないですか! 意味あるんですか、この魔法!?』
普通そう思うよな。確かに、無意味に思える魔法だが時空魔法の使い手だからこその、使い道がある。
『春矢が急に現れたのを覚えているだろ? この魔法を発動中に使える他の時空魔法が存在する。それが転移魔法だ』
縁野が所有していた『転移』スキルと違い自分のみだが、一瞬でその身を目視できる範囲か覚えた場所へ飛ぶことが可能になる。ここまで時空魔法でこられたのは、『同調』を使い視力を共有していたからだ。
俺の言葉に従うかのように春矢の姿が消え失せ、瞬時に変貌した迎田の背中に貼り付いた。
転移したおかげで迎田の周囲を覆う反重力の壁を無視して、内部に入り込むことに成功する春矢。
『わ、凄い! ……でも、そこからどうすれば……?』
そう、貼り付いたところで、次の手が無い。
『狂化』で元のスキルレベルが跳ね上がった迎田の硬化を貫く一撃を、本調子ではない春矢が放てるわけがない。ましてや、時がゆっくりと流れる世界で、上手く体を動かすことすら困難になっている。
『手はあるよ……相手が狂化を発動させているからこそ、通用する次の手がね』
それは、事前の打ち合わせで春矢も理解している。だからこそ、相手の背中に貼り付いたのだ。
『この状況で通用する手?』
『それはね――』
俺はそこで言葉を切ると視線を春矢に向ける。
俺と視線があった春矢がニヤリと笑うと同時に、化け物と化した迎田の全身が震えるのをこの目で確認した。
「グルガアアアアッ! ゴウアアアイイイイイッ!」
例えようのない奇妙な叫び声を上げ、迎田が全身を両手で掻き毟りだす。
球状の反重力の壁も完全に消えさり、全身を痙攣させ身悶えしている。
それを切っ掛けに、下降速度が元に戻り、体にかかる違和感が消え、時間が正常に流れ始めた。
『え、何もしてないのに苦しんでいる?』
『桜、縁野に譲渡スキルを移してから、譲渡スキルが今、誰の手にあるか知っているかい』
俺を見つめながら小首を傾げる姿に、思わず微笑んでしまう。
二人して落下する迎田を追いかけているという状況だというのに、桜と一緒にいるだけで恐怖は掻き消え、心に余裕が生まれる。桜の存在が俺の中で大きくなっているのを、改めて自覚させられたよ。
『縁野から譲渡スキルを受け取ったのは――春矢だ』
俺の解説を聞き、桜の眉根が寄りしかめ面になる。
『な、なるほど。だからですね! そ、そっかー』
絶対にわかってない。瞳が俺の顔から逸れ、忙しなく彷徨っている。
『譲渡スキルを使い春矢は迎田に渡したんだよ。自分の体に残るマイナス要素のスキルをね』
春矢には新たに追加された負のスキル『衰弱』『恐怖』『錯乱』『記憶喪失』『痙攣』『活力』が存在する。
自ら考えることも動くこともできなかった寝たきりの春矢に『精神感応』と『同調』を併用して負のスキルレベルを緩和させておいた。春矢のスキルポイントなら一つや二つは完治させられたのだが、あえて残してもらっておいたのだ――この時の為に。
今、迎田の体の中に譲渡で無理やり押し付けられた、負のスキルが入り込み『狂化』の力によりそのレベルが一気に上がっている筈だ。
我を失っている状況では負のスキルにポイントを注いで無くす、という発想すら浮かばないだろう。
彼の心で暴れるスキルの数々により、彼の精神は発狂寸前に追い込まれている。
「ゴギャアアアアッ! アガガガガガガ! ナンダアアアッ! ゴルウウウウォォ! アダバガアアッ!」
獣のような咆哮に交じり、まともな言葉も時折、聞こえてくる。
屈強な体であってもその内部は変わらない。ステータスポイントが上がり、精神力が上がっているとはいえ、下手したらレベル10近くまで上がった状態異常を防げはしないだろう。
「春矢!」
俺の呼び声に春矢は満足げな笑みを浮かべ、顔をこっちへと向ける。その瞳は虚ろで、光が全く感じられない。
暴れ狂う迎田の背に何とかしがみ付いているようだが、病み上がりの万全ではない体調で、精神力を使い果たしたのだろう。もう、逃げる気力もないようで、じっと空虚な瞳が俺を見据えている。
糸を操作し、その背にいる春矢に結び付けようとするのだが、精神異常により肉体変化スキルが暴走し、様々な形に変わりながら暴れる迎田の動きのせいで、糸を結びつけるのが困難になっている。
「春矢、糸を掴め!」
何本も糸や太めの紐を飛ばし、春矢に掴ませようとするが、春矢は静かに頭を横に振ると糸を手で払った。
春矢が糸に触れた瞬間、その心が流れ込んでくる。
『英雄は生き恥を晒さない……さよなら、僕の勇者。死に場所を与えてくれて、ありがとう』
片腕を上げ、小さく手を振る春矢が閃光に呑み込まれた。
わかっていた……わかっていたことだ。手を欠損し心が衰弱した春矢が、縁野とは違った意味での死に場所を求めていたことは。
回復したとはいえ、粉々に砕かれたプライドと引き裂かれた精神は完治することが無かった。
俺は閃光を放ち爆発を続ける迎田を見つめ、目を閉じ、彼の冥福を祈る。
触れ合った時間は短く、そもそも命を狙われる関係から始まった、奇妙な縁だった。けれど、不思議と春矢のことが最後まで嫌いにはなれなかった。
彼の歪んではいるが、英雄になりたいという、純粋で強い思いに惹かれるものがあったのかもしれない。
「英雄らしい、かっこいい最後だったぞ、春矢」
手向けの言葉が爆音に吹き飛ばされる。
感慨にふける時間も与えてくれないか。迎田から流れてくる爆風に体が揺さぶられ、体勢が崩れる。
迎田のあらゆるスキルが制御不能となり、暴発している。爆発音と爆風が穴の中に吹き荒れ、反重力スキルの影響なのか、迎田の周辺の空気が歪んで見える。
俺たちの体も穴の側面近くまで吹き飛ばされ何とか制御したが、これ以上、近くにいるのは危険すぎるようだ。爆発系のスキルが完全に制御不能になり、全ての力を凝縮して爆発させれば、ここ一帯が吹き飛んでも、何ら不思議ではない。
肉体と気が縮小と膨張を繰り返している。最後を見届けたいところだが、不安定な力の高まりを迎田に感じる。
格上の強敵と戦い続け、命の危機を何度も乗り越えてきた、俺の危険察知能力が脳内で警報を鳴らしていた。
「桜、穴の縁まで飛んで欲しい!」
「わかりました!」
必要はないと思うが、念の為に周辺に漂わせていた武器を全て迎田に投げつけ。俺と桜は二人して、その場から姿を消した。