春矢
「春矢……」
辛うじて発することができた声に春矢が反応して、一本しかない指が俺の頬に触れた。
俺がその手を掴むと、人形の様に感情が皆無の顔が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
焦点の定まっていない瞳が虚空を見つめていたのだが、その瞼が閉じられ眠りに落ちたようだ。
「土屋さんは、春矢さんの知り合いだったのですね」
「ああ」
強力なスキル『奪取』を所有する自信満々の少年。それが俺の知る春矢だ。
いつか、再会した時は力を合わせて島を脱出する。その約束が叶えられることは、もうないのか。
あれ程、脅威に感じ、圧倒的な強者であった春矢が今は見る影もない。
「るいちゃんと春矢との関係は?」
これ以上、彼の姿を見続けることが辛くなり、視線を逸らして、るいに話しかけた。
「私が森で彷徨っているところを助けてもらいました。それから、ずっと一緒に行動しています」
能力も奪わずに、一緒に行動をしていた? あの春矢を知っている身としては、意外すぎる行動だが。
「春矢の能力は知っているのかい」
「はい、知っています。奪取ですよね。でも、春矢さんは私に奪取は使いませんでした。正確には使う必要がなかったのだと思います」
「必要が無い?」
目ぼしいスキルではなかったということなのか。
「私のスキルは『治癒』です。相手の怪我や病気を治すことができます――」
治癒!? 怪我を治せるなら桜の腕……は無理か。春矢の姿を見る限り。
「といっても、欠損した部位は治すことができません」
だろうな。淡い期待を抱きそうになったが、春矢の失われた指を見ればわかることだ。
それにしても『治癒』は、かなり魅力的なスキルだと思う。春矢なら迷わず手に入れそうなものなのだが。
「春矢さんが奪わなかった理由。『治癒』は自分に使うことができないからです。相手にのみ効力を発揮することができるスキル。それが『治癒』なのです」
その説明で全て納得がいった。彼女を保護して守れば、自分が傷ついたときや病気になった際も安心できる。
この能力が重宝されて、オークに捕まった後も無事生き延びる事が可能だったのか。
彼女を痛めつけて、その結果、殺してしまえば利用できなくなるから。
「話を戻しますね。暫く、一緒に島を探索していると、石の壁に囲まれた町を発見しました。春矢さんが忍び込んでから、二日待ち続けていると、オークに見つかってオークキングの前に連れて行かれました。オークキングは何故か体中が傷だらけで、私の能力を見抜き、治癒するように脅されました」
傷だらけということは、春矢とやりあって怪我したというのか。
「春矢さんと戦った怪我なのかと思ったのですが、それも少しはあるが殆どは別の男にやられた傷だとオークキングは言っていました」
それって――蓬莱さんのことか。あの死闘の後に春矢はオークキングと遭遇し、チャンスだと思い襲い掛かったが返り討ちに遭った。そう考えると、辻褄が合うな。
「拒否した私の前にボロボロになった春矢さんを連れて来て、言うことを聞かないとこいつを殺すと脅され……」
俯き膝に置いた手をぎゅっと握りしめ、言葉に詰まり肩を震わせている。
その肩にそっと手を添えると――『精神感応』を発動させた。
この場面で発動は我ながらどうかとは思うが、念には念を入れるのが癖になっている。
『ごめんなさい、春矢さん。私がもっと、もっと能力が高ければ、体と心の傷を癒してあげられるのに……役立たずで、ごめんなさい、ごめんなさい』
心でずっと謝罪の声が繰り返されている。
利用されていると分かっていながら、助けてもらっていた恩を返そうと必死に頑張っている。純粋で健気な性格のようだ。
そんな子の心を無断で覗き込んだことの罪悪感に、ほんの少しだけ心が痛む。
「ううう、ああっ! 通じな……あああああ!」
「あっ、春矢さんっ! 大丈夫、大丈夫ですから」
突如、胸を抑え苦しみ出した春矢の体を抱きかかえるようにして、るいちゃんが覆い被さった。
「どうしたんだ!?」
「いつもの発作です! たぶん、怖かったことを夢見ているとっ」
暴れている春矢を懸命に抑え込んでいる。そんな春矢の頭に手を添えると「悪いが覗かせてもらうよ」と言い『精神感応』を発動させた。
だだっ広い部屋がある。
床は大理石のように磨き上げられた石床。そんな部屋の奥に一人の男が巨大な椅子に座っている。
椅子の背もたれが無駄に高く、その色は全て黒。頬杖を突き、半眼で俺を見ている。その目は眠たそうで、大欠伸をしながら腕を振るった。
その瞬間俺の体は後方へ吹き飛び、視界がぐるぐると回り続ける。
床、壁、天井、床、壁、天井。
何度何度も視界に広がる映像が変わり、動きが止まった時、俺はゆっくりと歩み寄る、男の足をただ眺めていた。
「つまらんな。奪取使いだと聞いて期待していたのだが、あの男と比べるまでもない。だが、これからに期待するとしようか」
そう言って男が俺の額に手を当てると、口角が異様なほどに吊り上がり、邪悪な笑みを浮かべた。
「これから、キサマは死んだ方がましな、死を懇願する生活が始まる。楽しみにしておくのだな」
俺は薄れゆく意識をどうにか留め続け、「やめろ! 放せ! やめろおおおおっ!」と叫ぶことしかできなかった。
頭に何か冷たいモノが流し込まれ、俺は全身に広がる苦痛に耐えきれず意識を手放した。
目が覚めると、俺は石床の上に寝転ばされていた。
といっても、あのオークキングと戦った王の間とは違い、血と汗が染み込みどす黒く汚れた、悪臭漂う床の上だが。
「ようやく、お目覚めか。今日は待ちに待った、お前のデビュー戦だぜ。早く支度しな」
緑の豚が何かを喚いている。豚の癖に共通語を話せるのか。
そうか、今日、闘技場デビューとなるのか。本当に待ちくたびれた。
ここで、多くの敵を殺し尽くして力を蓄え、オークキングの野郎に一泡吹かせてやる。
強くなる事が目的の俺には丁度いい場所だ。さあ、糞どもを驚愕させてやろう。
ニヤニヤとムカつく笑みを絶やさない、緑の豚に連れて行かれたのは円形の闘技場だった。サイコロ状に切り出した石を並べて作られた、四角いリング。
空は黒く、リングから少し離れた場所に置かれている四本の巨大な松明が、周辺を照らしている。
その端に立たされた俺は、腕を拘束していた手錠を外される。ついでに足枷も外してくれるようだ。久々の解放感に俺は目の前の豚の顔面を握り潰したくなったが、ここで暴れるのは得策ではないと自重した。
石のリングを取り囲むようすり鉢状に観客席が作られていて、その席はほぼ満席だ。観客は全員、薄汚い緑の豚だが。
「皆様お待たせしました! オーク闘技場へようこそ! 今宵は血の宴を心ゆくまでお楽しみください」
魔法の道具か何かなのだろう、マイクのような物を握りしめ、赤い衣装を身に纏った豚が、声を張り上げ楽しそうに喚いている。
「皆様は運がいい! 今日の挑戦者は新たなる転移者である人間です! 無謀にもオークキングに挑み、指先一つでダウンさせられた愚か者ですが!」
何が楽しいのか。会場から豚の嘶くような笑い声が響いてくる。
「さあ、そんな滑稽な挑戦者が本日戦う相手は――ヘルハウンドです!」
歓声を上げる観客を俺は冷めた目で眺めていた。
ヘルハウンド如き、俺の相手ではないのに馬鹿な奴らだ。
「といっても、普通のヘルハウンドではございません。この闘技場をしぶとく生き延びた10戦10勝の闘犬ですよー。では、張り切ってご入場ください!」
司会者らしき男が大きく手を振ると、俺の対面側の壁際にあった巨大な鉄製の扉が開かれた。そこから現れたのは、上半身剥き出しで体に太い鎖を巻き付けた、オークたちだった。
そいつらが、全身の力を込めて引っ張ってきたのが、胴体に鎖を何重にも巻きつけられた、巨大すぎるヘルハウンドだった。
全長4メートルはあるだろう。俺が今まで戦ってきたことのあるヘルハウンドの倍はある。全身に無数の傷跡が残り、片耳も失われている。どれ程の激戦を生き抜いてきたのか、一目でわかる姿だった。
だが、それでも、俺には届かない。スキルを上手く使えば、体に触れさせることもなく完封できるだろう。
「昨日の晩からご飯抜きなので、少々ハングリーですが、やる気は充分なようです! では、試合開始前にルールの確認をします! え、わかっているって? いえいえ、決まり事なので、これを言わないと給料もらえないのですよっ」
ふざけた物言いで、会場を沸かしている司会者を無視して俺は、開始直後にどう動くか頭の中でシミュレーションを始めていた。
「今回のルールは特別仕様、肉体と肉体のぶつかり合いです! ということで、両者のスキルを完全に封じさせてもらっています!」
はっ!? 今、何て言った! スキルを封じただと! 馬鹿なそんなことが可能なわけが――
風属性魔法を発動しようと意識を集中し、いつものように真空の鎌を放つ――が、突き出した手からは、そよ風すら吹き出ていない。
「はーい、焦っていますね? 残念! でもこれが現実なのです! ということで、試合開始です!」
「ちょっと待てっ!」
俺が止める言葉に耳を傾けるわけもなく、鎖から解き放たれたヘルハウンドの咢が大きく開き、俺の右手に喰らいついてきた。
再び目が覚めると、俺は粗末なベッドの上だった。
「春矢さん! 目が覚めたのですね!」
るいなのか?
今にも泣きだしそうな声が流れてきた方へ顔を向けると、そこには手を握り締め、目に溢れる寸前の涙を溜め込んだ、るいがいた。
「よかった、本当によかった……」
「こ、ここわ」
「まだ、話さないでください! 戦いの後、一日眠りっぱなしだったのですから」
戦い? そ、そうか。俺はあのヘルハウンドとスキルを封じられた状態で戦い……辛うじて勝利した。ステータスレベルを上げていたことにより、肉体の能力が微かに相手を上回っていたことが、生き延びられた理由。
その代価は決して安くなかったが。
人差し指しか存在しない右手をぼーっと眺め、俺は何も感じることができなかった。
「すみません! 私の力では失われた指を元には……」
そうか。奪取を得て、圧倒的なスキルで相手を蹂躙していたつけが回ってきたのか。強力なスキルに頼り切り、戦闘の技能を磨かなかったつけが……。
「るいは、大丈夫かい?」
「はい! 私のスキルが貴重なものだと思ったみたいで、変なことはされていません!」
そう言って気丈に笑う、るいの頭に手を置いた。
「ならいいんだ。二人で生き延びて、この場所から逃げ出そう」
「は、はい。春矢さんならきっとできます!」
治癒のスキル目当てで助け匿った少女。きっかけはそうだったが、今は俺の唯一心休まる相手だ。指ぐらいで落ち込んでいる場合じゃない。
俺は生きている、なら、まだチャンスはある。
それにこの世界ならば、肉体の再生をする手段も何処かにあるだろう。
スキルが使えなくても手はある筈だ。相手の実力が上でも勝つことは可能だ。
それを、あの人が教えてくれた。
そして、約束もある。この島を一緒に出るという大切な約束が。
生き延びてやる。泥をすすり、情けない姿を晒しても……オークキング待っていろよ。その首、いつか必ず叩き落としてやる。
そんな俺の決意は――数日で砕かれた。
スキルの使えない俺は、身体能力が高いだけの凡人だ。
日本で身につけた格闘系の技能なんてあるわけもない。全身を切られ、時には死ぬ寸前までなぶられ、観客の前で肉体的にも精神的にも玩具にされ続けた。
日に日に心が死んでいくのがわかる。
ああ、俺は異世界に来て……何がしたかった?
栄光? 勇者?
この隣で泣いている少女は誰だ?
約束……約束……糸……お兄さん?
わからない。もう、何もわからない。寝たい、眠らせてくれ。眠いんだ、本当に。
ああ、学校に行かないと、でも眠いや……。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
「ど、どうしたんだ土屋さん! 急に黙り込んだと思ったら、顔面蒼白で」
相手の意識に深く潜りすぎたのか。まるで自分が体験したかのように春矢の意識と同調していた。夢の中なので痛みは共有しなかったが、その憤りや恐怖が俺にも伝わってきた。
「すまない。春矢がどんな経験をしてきたのか、それを見させてもらっていた」
何度も深呼吸を繰り返し、鼓動が平常時に近くなったのを自覚すると、最後にもう一度大きく息を吸った。
「るいちゃん。春矢のこと、よろしく頼めるかな」
「はい、もちろんです」
彼女は春矢に救われ、春矢も彼女の存在に救われていた。
壊れる前の春矢となら仲間になれた未来もあっただろう。
「もう、ゆっくり休んでくれ、春矢。るいちゃんも安心していいからね。オーガは結構いい人? ばかりだから。オークと違って。直ぐには信用できないかもしれないけど、少ししたら俺たちの仲間もこっちへ来る。オーガが怖いなら一緒に住むかい?」
「あ、はい。お願いします!」
椅子から勢いよく立ち上がり深々と頭を下げる。
「ん、わかった。仲間がこっちに着いたら紹介するから。じゃあ、また後で」
そう言って、俺たちは部屋を後にした。