北の森
問題はここからだな。
あれから真っ直ぐに北へと進み、前回俺たちを迷わせた森の入り口へと到達した。
俺たちが住んでいる森とは空気がまるで違う。膝下辺りまで漂う黒い霧のようなものに触れているだけで、全身から力が抜けていく感覚に襲われる。
この霧から逃れる為に周辺の木の枝に糸を伸ばし、木の上に陣取ってみた。
だが、木にもその霧が纏わりついているので、結局は体が触れてしまう。
「これが上手くいかなかったら、出直しだな」
あれだけ大見得きって出てきておいて、日帰りは流石に恥ずかしいので、効果を発揮して欲しいところだ。
精神を集中して『気』を発動させる。体を覆う気をいつもとは違う感じで発動させる。イメージとしては雨を弾くような膜を体に貼り付けるといった感じだろうか。
脳内で描いたイメージを具現化する。気が以前よりも暖かくなったような感じがする。どうやら成功したようだ。
俺に纏わりついていた黒い霧も弾かれているので、何とか北の森を進めそうだ。
仲間には話さなかったが、北の森への探索で最も重要視しているのが、大規模な勢力との接触だ。理想はオークと敵対する立ち位置。好戦的でない種族であれば、尚、望ましいのだが。
木から降り立ち、全速力ではないが駆け足気味に森を進む。
魔法の地図と『捜索』スキルを併用しながら進んでいるが、今のところ道に迷うこともない。やはり、この黒い霧が方向感覚を狂わせていた源だったようだ。
人を迷わす北の森。漂う黒い霧。
それがどういう意味を持つのか、俺なりに考えてはみた。
一番ありうるのは外敵から身を守る為のものだろう。自分より能力が上回る相手へとの対抗策として、戦わずに敗走させられるのであれば、それに越したことはない。
もしくは、方向感覚を狂わせ統率が乱れた相手を各個撃破というのもありだろう。
なら、この深い森にはどのような魔物が住んでいるのか?
人を迷わす森として、まず頭に浮かんだのはエルフという種族だ。
人嫌いで森に住み、入ったら二度と出てこられない迷いの森というのはよく聞く話だ。この異世界は地球のファンタジーと似た設定が多いので、あり得ない話ではないだろう。
他には魔女が人払いの結界を張っている。
ドリアードという木の精霊が己の欲望の為に木を伐採し、自然を破壊する人間を惑わせ、木に取り込むというのも、お馴染みの展開だろう。
そういった魔物が存在する確率は高いと見ている。
そして、できることなら、そういった魔物とコミュニケーションを取りたいところだ。
今までなら、桜がいれば『精神感応』が大活躍する場面なのだが、今の桜にそれを頼むことは出来ない。安心して帰ることができる拠点を切り盛りする。それが、今の彼女のすべきことだ。
あれこれと考えながら腕時計で時間を確認する。森に足を踏み入れてから、約三時間か。もう少ししたら昼食を取ろう。
周囲の警戒は怠らずに進んでいると、俺の耳に草を踏みしめる微かな足音が届いてきた。
右手の方向から何かが近づいてくる。気で探知する感じでは一体。それも、足音を立てる一定のリズムから二足歩行の生物だろう。
さて、どうする。木の上に身を潜めるか、木陰に隠れるか。それとも、堂々と正面から遭遇するか。
敵が何者か分からない現状では相手の確認が優先か。
俺は木の上に登ると、太めの枝の上に寝そべり、眼下を見下ろす。
木々の間を抜けて出てきたのは、長い黒髪をひも状の何かで縛った人間の女性だった。辺りをキョロキョロと見回し、忙しなく頭が動いているのが良く見える。
「あれ、誰か居た気がしたのに、変ですね」
今のは共通語か? 声から生真面目な感じが伝わってくる。武器を所有していないようだ。アイテムボックスらしき物も、この位置からは見えない。
「あの、申し訳ありませんが、誰かいらっしゃりませんか。いたら返事してください」
無理して畏まった言葉を使おうとして失敗している言葉遣いだな。
見た目と口調から判断するなら、好戦的でもなく話し合いが通じる感じの相手なのだが。
今までなら、このまま相手の動向を見守りつつ跡をつけ、相手の本拠地を探っていたのだが、今回に限ってその方法は使いたくない。
その場合、探知能力に優れた相手側の誰かに見つかり、捕まった時に言い訳ができない。
警戒は解かずに、対話してみるか。今回は協力関係を結べる勢力を探しているのだ。印象を悪くしない為にも、普通にいこう。
音を立てずに大木の裏に降り立つ。
「ええと、キョウツウゴですか?」
聞き取るのはほぼ完ぺきなのだが、自分が話すとなると、まだたどたどしい。
片言ながらもちゃんと話せた筈だ。言葉を発するのと同時に木から姿を現し、相手の反応を見る。
「ああ、いらっしゃったのですね。初めまして」
手を打ち鳴らすと、そう言って相手が深々と頭を下げた。束ねられた長い後ろ髪が前に垂れ下がっている。
相手が誰かもわからないのに、警戒心がなさすぎるな。この殺伐とした島で、この態度はあからさまに異質だ。
体勢を戻した相手の顔を正面から観察する。これといって際立った美人ではないが、厳しそうな表情をしていながらも、何処か無理をして表情を作っている感がある。声は静かでありながらも、聞き取りやすい澄んだ声質をしている。
「はじめまして。聞くのはだいじょうぶですが、キョウツウゴはなすのは、すこしへんです。このしまのげんちじんですか?」
「ああ、そうなのですね。はい、そうです。この島の北にある町に住んでいる者です。共通語が苦手ということは転移者の方ですか?」
「ええ、そうです。てんいしゃをしってますか?」
ちゃんと共通語が伝わっているようで、内心ほっとしている。言葉が通じなければ、また拠点に戻って対策の練り直しになるところだった。
ここまでの会話で幾つかの重要な情報が手に入っている。
北に町があり、現地人が住んでいるということ。これが事実なら今後の生活に希望の光が射すのだが。
「数十年に一度、どこからともなく島に現れる異世界の住民ですよね。私たちの町にも以前転移者が住んでいました。残念なことに高齢で、もう亡くなりましたが」
転移者の存在を知り、そういった人も住んでいた街か。理想的過ぎる展開だな。
理想的と言えば、この女性、物腰、話し方、雰囲気、服装。どれも、俺の好みと一致する――あり得ないことに。
「ええと、しつもんいいですか」
「はい、どうぞ」
少しきつめの表情に浮かぶ、微かな笑み。
さっきまでとのギャップに俺の心が高鳴りそうになる。一見、冷たそうに見える人が笑うと可愛いというのは、卑怯だろ。
「あんた、なにものだ」
俺はその言葉と同時に周囲に伸ばしていた糸を、女性の手と足に巻きつけ手足を引っ張り自由を奪い、その場に張りつける。
「い、痛い! 何をするのですかっ!」
眼鏡のレンズ越しに彼女の涙目が見える。驚きと痛み、そして恐怖に引きつった顔に罪悪感が芽生えそうになるが、ぐっと押し殺した。
「あんた、げんちじんじゃない」
相手を問い詰める場面で、片言の発音というのが間抜けだが諦めるしかない。
「何でそんなことを言うのですか!」
「そのかっこう、ちきゅうのふく」
ポニーテールに黒縁の眼鏡。眼鏡はまあこの世界でもあるかもしれないが、問題は服装にある。
目の前の自称現地人の女は、どう見ても地球産の地味な事務服を着ているのだ。
サウワやゴルホとの会話で、ある程度、この世界の常識や生活の情報を得ているが、服装は日本人が思い描くファンタジーなゲームでありがちな、素朴な格好が殆どだそうだ。着飾るのは身分の高い者か、大都会の住民ぐらいらしい。
「こ、これは、転移者の一人が服飾関係のスキルを持っていて、服屋をやっているので私たちの町では普通の格好です!」
なるほど、確かにそう言われると、転移者が地球の文化を異世界で浸透させ、大儲けするなんて話はよくある。
だけど、これは幻惑系の魔法か肉体変化スキルのどちらかだろう。相手の理想とする姿になり相手を騙し取り込むと言った感じか。気が肉体に沿って放出されているので、服装ごと肉体を変化させている可能性が高そうだ。
つまり、目の前の女性は本来の姿ではない。断言できる。
「うそだ」
「なんで、そんなことが言えるのですか!」
それを口に出すのは少々辛いものがあるが、仕方ないか。
「おれのこのみは、ちょっと、とくしゅだから」
目の前の女性は、下は事務服のスカートで、上はワイシャツにスカートと同色のベスト。そして腕には――事務仕事の人がする紺色の腕抜きがあった。
昔、近所に郵便局があって、用事もないのにそこに行くと、良くしてくれた事務のお姉さんがいた。その人はいつもその格好をしていて……その影響だろう。
相手の顔はおぼろげで良く思い出せないのだが、髪形や格好だけは頭にこびり付いていて、好みのタイプは? と聞かれると頭にこの姿が浮かんでしまう。
転移者が町にいて服飾関係の仕事をしているとしても、ここまで俺の好みに合わせた格好を流行らすとは思えない。それも、街中で見かけるならまだしも、森の中を歩くのに相応しい格好ではない。
「へーっ、まさか特殊性癖の持ち主だったなんて。折角、相手の理想に変化してあげたのに、失敗したなぁ」
失敬なことを口にした女性が、口元を歪めた。小馬鹿にしているようだが、そんな余裕があるのかね。
俺は巻き付けた糸を少し強める。
「いったっ! ちょっと女性には優しくするって学ばなかったの!?」
「そのすがたが、ほんものじゃない。おんなかどうかわからない」
変化しているなら、元は男性ということもあり得る。まあ、女性であっても糸を緩める気はないが。
「あ、なるほど。それもそうだ……ねっ!」
くそっ、しまったっ!
女性の体から大量の煙が吹き出し、瞬きをしている間に視界が煙で塞がれてしまう。
糸から伝わってくる誰かを捕まえている感覚が、一瞬にして消え失せる。
肉体変化の能力を解いたのか?
アイテムボックスから両刃の斧を取り出し、刃の部分を団扇に見立てて、全力で振るうことにより風を巻き起こし、煙幕のようなものを吹き散らす。
煙が消えた先には、シースルーのワンピースを着た、足元まで伸びた緑色の髪をした、全長15センチ程の人型の何かがいた。
顔は中性的で女性っぽい気がするが、透明なワンピースから透けて見える体は凹凸がなく男性にも見える。大事な部分には生殖器が存在しないので、性別の判断がつかない。
『特殊性癖で転移者のお兄さん。彷徨いの森になんの用かな?』
声も中性的だな。アニメで女性声優が男の子の声を演じている時の声に似ている。
頭に直接響いてくるということは、会話のやり方はこうか。
失礼なことを言うな。特定の格好を人より、ほんの少し好むだけだ。
『へえー、精神感応を持つ相手との対話方法も心得ているんだ』
自分の心を隠しながら、話しかける方法は桜との対話でマスターしている。
俺に触れていないのに心が読めるということは『精神感応』がレベル5といったところか。
『でも、お兄さんかなりの変人だね。このスキルは相手が一番好む姿に化ける能力だから、普通は顔や胸とかお尻とか、肉体的好みが現れるのに服装って……』
緑の何かが腕を組み、蔑んだ目でこっちを見ている。
ほっといてくれ。それで、お前は何者だ。
『ん、ドリアードだよ。木の精霊ってやつだね』
予想の内の一つが的中か。正直エルフを期待していたのだが、まあ、会話が成立するので、まだマシな方だろう。
ドリアードか。木々を傷つける人間を騙し、木の養分にするというのが定番か。だが、友好的に描かれている物語も少なくない。この、ちっこいのはどっちだろう。
『今、何か失礼な事を考えなかった?』
気にしないでくれ。ドリアードはここにいっぱいいるのか?
『うん、贄の島は魔力が豊富だからね。樹齢が千年を超えた樹木からドリアードは産まれるんだよ。僕の仲間は100ぐらいかなー。昔は、もっと、もっと、いたんだけどね』
そう言って少し寂しそうにドリアードが笑う。
千歳か。一応俺の大先輩なのだろうが、この島で年功序列を気にする必要はない。さて、今のところ会話も成立している。このまま、話を進められるか?
ええと、唐突だが。キミたちドリアードと共存することは可能か。
『うーん、どうかな。僕はただの下っ端だから、そういうの良くわかんないし。迷い込んだ人が悪人なら木の養分にして、危害を与えない人なら森の出口まで導くのが、僕の仕事だからね。そういや、お兄さんどうやって森を抜けてここまでこれたの? 偶然? たまに、辿り着く人いるんだけどさ』
スキルの一つを使ったとだけ、言っておくよ。キミが下っ端なら上の人に会わせてもらえないかな。
『会わせるだけなら、たぶんいけるけど……お兄さん下手したら死んじゃうよ? 命が惜しいなら、このまま帰った方がいいと思うけど』
物騒な事を言ってくれる。
あれは脅しの言葉ではないようだ。どちらかと言えば、こちらの身を心配しての発言に見える。
その忠告に対する返答は決まっている。
頼む。連れていってくれ。