一年
迷宮の75階層に飛ばされ一年以上が過ぎた。
精神と体が休まる日々のない過酷な毎日。
昼夜構わず襲い掛かる魔物に体力と睡眠を削られるが、信念を胸に刻み何とか乗り越えてきた。
階層ごとに敵のレパートリーも違い、飽きさせない仕組みは余計なお世話だと言わざるを得ない。
各階層を守る門番はどれも強敵だった。
腕が六本もある魚人や、巨大な馬の体に魚のカジキの頭が付いたような敵。見た目は普通の海魚だというのに、鉄よりも硬い鱗を飛ばしてくる等、何故か魚関連の魔物が門番として三階層も続いたのは意外だったが。
後で聞いた話だと、魚との合成にこだわりのあった研究員がいたらしく、たぶん、その人の実験体らしいとのことだ。
「さあ、この階層のボスを倒せば31階層へ突入ですよ! 上手くいけば、その次の30階層から地上に行ける筈です!」
元気よく声を上げると、いつもの笑顔をこちらに向けるロッディ。
長い髪を無造作に細い鎖で縛っただけの髪型だというのに、ロッディの美形と重なるとそれだけで高レベルな絵画のように目を惹きつけられる。
良くある物語だと男女が二人っきりで長い年月を共に過ごすと、相手の事を意識して無くても恋が生まれたりするものらしいが――俺とロッディにはその傾向が全くなかった。
一番の理由は、手を出すとフォールがやってくるということだろう。あれは冗談ではなく本気の目だった。勝てない相手を呼び出す理由はどこにもない。
そして更に加えるなら、俺が初対面の際に彼女がいてロッディに興味が無いと断言したのが大きな要因だとは思う。
そもそも、ロッディも俺は好みのタイプではないらしく、その気が全くなかったのも幸いしたようだ。
それに、白のタキシードという女性らしさを感じさせない格好。それに加え、胸部が桜以上に慎ましやかで、膨らみが一切ないので異性を感じさせなかった。
だとしても、性別的には男女。間違いが起こっても仕方のない状況。だというのに、何故、その一線を越えなかったのか。それにはもう一つの――
「土屋! 主様が優しいからってつけあがるなよ! お前と主様は全く釣り合わない。ゴキブリ族と神ぐらいの差があるのを忘れるなよっ!」
口の悪い子供の様な性格のこいつがいたからだろう。
「何だ土屋。その反抗的な目は……そ、そんな風に睨まれたって、こ、怖くないんだからなっ」
口は威勢がいいが、行動が一致していないぞ。ロッディの後ろに隠れながら意気込んでも説得力が皆無だ。子犬のような大きさのくせして、俺にはいつも反抗的で小さな体で威嚇してくる。
「こらっ。いつも、そんな口をきいたら駄目だって言っているでしょ」
「だってぇ、主様ぁ」
ロッディに怒られているというのに、構ってもらえていることが嬉しいらしく、そいつは獅子の目を輝かせ、蛇の尻尾を激しく左右に振っている。
首裏辺りに生えている黒ヤギの顔が大きくため息を吐いているな。
態度がデカく、主様と呼ぶロッディには猫なで声で甘えているこの生き物は、キマイラという。
ライオンの頭と体を持ち、尻尾代わりに蛇が生え、首の付け根辺りからもう一本黒ヤギの頭が生えている生き物――それが、こいつキマイラだ。
ロッディが実験の最中に生み出した魔物の一体らしく、途中の階層でロッディを泣きながら捜し歩いていたところを合流した。
キマイラも作られた生物なのだが、全てをロッディが手掛けていたので、フォールからの命令に準じることもなく、自分の意思で動けるこの迷宮では珍しい魔物だった。
まだまだ子供らしく、口は達者だが発言や行動に精神年齢の幼さが時折垣間見える。
「あまり責めないでやってくれ。キマイラがそんな調子だからこそ、俺も助かっているよ。どんな状況でも暗い空気も吹き飛ばしてくれる大事な存在。キマイラがいてくれたから、ここまでやってこられたようなもんだしね」
「よ、よせやい。褒められたって、別に嬉しくないんだからなっ」
褒められて恥ずかしいのか、前足で獅子の顔を隠している。
相変わらず、直接的な褒め言葉に弱い……ちょろいな。
しかし、可愛い。正直可愛らし過ぎる……小型犬程度の大きさで子供のように見えるが、鬣の生えた立派な雄の外見はしている。だが、全体のフォルムもずんぐりむっくりで、目も大きくとても愛らしい。
尻尾の蛇ともう一つの頭である黒ヤギもディフォルメされていて、まるで子供向けにつくられたヌイグルミのようだ。
女性なら一発で墜とされかねない。
「なんだよぉ。ニヤニヤしながら見るなよぉ」
ちょっと反抗的な態度ですら可愛らしさを増すスパイスとなっている。
このお喋り合成小動物がいる状況で変な関係になるわけがない。
「二人とも仲いいわね」
「良くない」「良くないです!」
くっ、声がハモってしまった。
そんな俺たちを見てロッディは屈託のない笑顔を見せている。
迷宮での日々が一年を超えた今だから言えるが、正直、ロッディは途中でリタイアすると思っていた。
敵と戦い続ける日々に、風呂やトイレといった設備もない野外での活動。軟禁生活とはいえ下手したら何百年も不自由ない環境で生きてきた女性が、まともに過ごせる訳がないと。
しかし、そんな俺の考えを彼女は一蹴した。
そもそも、魔族はトイレを滅多にしなくていいらしく、エネルギー効率が非常にいい。ここは闇属性が溢れているので、食事の必要もないらしい。
それに睡眠時間も二三日の徹夜は余裕で、眠るときも短時間で済むので冒険者として向いている。
魔族が人を超えた存在だと自慢したくなる気持ちが少しだけわかった気がした。
おまけに彼女が着ている白のタキシードは古代人の技術がふんだんに盛り込まれている逸品らしく、闇属性と化した魔族が苦手とする聖属性に対する耐性がかなり高い。
それだけではなく、汚れを弾き、永続的な消臭効果対策もしてあるそうだ。もちろん、強度もかなり有り、全身鎧を着込むより防具としての質が高い。至れり尽せりだ。
「ここさえ乗り切ったら、あと一息です! 頑張りましょう!」
「はい、主様!」
「……そうだな」
「土屋。また暗い顔をしているぞ! お前はいつも無駄に考え過ぎだっ!」
お気楽極楽のキマイラに指摘されるとは屈辱だ。
考え過ぎなのは否定しないが、今回ばかりは気楽に喜んでいられる状況ではない。
「正直、次か、その次の階層に罠……もしくは、何かしらの仕掛けがあると思う。フォールは俺たちの行動を見張っている。その上で今日まで何のアクションも見せずに放置してきた」
敵を操作したりはしてそうだが、直接本人がやってくることはなかった。
「そんなやつが逃げられる可能性のある30階層に素直に進ませてくれるだろうか?」
「そう……ですよね」
「主様のお兄様はひねくれているからなぁ……」
ロッディはその事を危惧していたようだが、キマイラは全く考えていなかったようだ。三つの頭が小首を傾げる姿が愛らしい。猫好きの本能が疼いてしまう。
「何かしらの対応をしてくると考えていた方がいい。みんなもその覚悟をしておいてくれ。決して油断だけはしないように」
事の重大さが理解できたのだろう。一人と一匹が真剣な面持ちで頷いている。
迷宮での日々で俺たちの腕は上がっている。
ロッディは特にその進歩が目覚ましい。いや、あれは進歩というより昔の能力を思い出していると表現した方がいいか。
長年の軟禁生活により魔法の扱いを忘れている部分が多々あったようで、最近では全盛期よりも魔法の扱いに長けていると自己評価をしていた。
実際、彼女の闇属性魔法はサウワとは全く違い、一つ一つが強力で、闇を鎖状に具現化した魔法は攻防共に優れている。
俺も迷宮暮らしで、ベースの身体能力を鍛えることに重点を置いていたので、身体能力の向上が目覚ましい。
それに加え、あらゆるスキル上げも実施していたのでスキルが軒並み上がっている。
それだけなら万事が滞りなく進んでいるようなのだが、大きな問題があった。
ベースのレベルが――1しか上がっていないのだ。戦いに明け暮れる毎日に身を置いていたというのに……レベルは99に上がってから微動だにしない。
「一応確認するか」
生徒手帳を取り出し、レベルの記載に目を通すが、やはり99のままだ。
せめて次のレベルに必要な経験値でも書いてあれば、モチベーションを維持できるのだが『説明』スキルが上がっても必須経験値が現れることは無かった。
今の状態でフォールとまともに戦えば勝ち目はない。女神もどきに勝つなんて夢のまた夢だ。
――圧倒的に足りない力。
どうすればいい。この迷宮を脱し、女神もどきに手が届くには……どうすればいいんだ。
見つからない答えを探し、暗闇の中をもがいているが、今のままでは指先に触れることすら叶わないだろう。
「だーかーらー暗い顔をするなっ! 主様も不安になるだろっ」
至近距離から俺の顔を覗き込んでいるキマイラをじっと見つめる。
俺を叱咤激励しているようだが、キマイラの瞳の奥には不安の色がある。そうだよな、こんなマスコットキャラでも強がっているんだ、弱気になっている場合じゃない。
今できることをやる。一つずつ成し遂げ、処理していくしかないだろう。
「そうだな。ありがとうよ」
キマイラの頭をわしゃわしゃと撫でまわすと、大きく深呼吸をした。
「今は門番に集中しよう! ロッディ準備は万端かい?」
「もちのろんですよ! 私の黒鎖で縛り上げてやります」
ロッディが多用する闇魔法で作り上げた鎖を黒鎖と呼んでいるようで、両手から伸びた黒鎖の先端が頭上でくるくる回っている。
この黒鎖は、鎖と糸の違いはあるが糸使いと似たような性質がある。自由自在に操ることができ、相手を縛り上げることも可能だ。
ただ、相手は魔法なので魔力が尽きない限り際限なく伸ばすことが可能だし、その形状も変化させることができる。利便性で言うならロッディの圧倒的な勝利。
仲間としては頼もしい限りだが、少し羨ましく思ってしまうのは仕方のないことだと思う。
「ここの門番がどんな相手かわかるかい?」
「前に配置したままなら、巨大な牛の体に人の頭がくっついた実験体……スロウタノミでしょうか」
ロッディは兄が狂うまではこの研究所のかなり重要なポジションにいたらしく、門番の配置も完全に記憶していたのだが、フォールが何か所か配置を変えていたようで、何回かは全く別の魔物が鎮座していた。
彼女の発言から姿形を想像してみるが……あれだな、日本の妖怪にいる、くだんにそっくりだ。確か不吉な予言をする妖怪だったか。
牛の体に人の顔だと正直強そうには思えない。むしろ若干コミカルですらある。
「強いのかい、それは?」
「人の頭脳でありながら魔獣の強さを保有していますからね。力強さもそうですが、口から発せられる声には相手を束縛する力があるので、精神を強く持ってください」
冗談で言っているわけではなさそうだ。
どんな見た目であろうと、気を引き締めて対処しないとな。
「あと少しで門番のテリトリーに侵入します、準備は大丈夫ですか?」
「もちろん」
「はい、主様!」
俺の隣で元気よく答えるキマイラをロッディは笑顔を浮かべ抱きかかえる。
「貴方は呼ぶまで避難していてね」
そう言って、目の前に発生させた闇の渦に放り込んだ。
この魔法は見た目が闇渦とほぼ同じなのだが、異空間に放り込むのではなく特定の場所に転移させる魔法らしい。
ただし、事前に契約した者同士でなければならないので、俺が渦に触れたところで何の変化も生じない、とのことだ。
「では、踏み込みます」
門番は扉にある程度近づいたら湧いて出てくるようで、一年もの戦いの日々でその距離もばっちり掴めている。
ロッディが一歩、大きく踏み出すと、いつもの魔法陣が地面に描かれ光が浮かび上がる。
そして、魔法陣の中から一際大きな身体つきの牛もどきが現れた。
事前に聞いていた通り、5メートルはある巨大な牛の体。脂肪が一切ない筋肉の浮かび上がった肢体は、否が応でも力強さを感じさせてくれる。
そして、本来なら牛の頭があるべき箇所には、無数の人間の顔で作られた肉団子が取りつけられていた。
その姿に、村人たちの最後が脳裏をよぎるが、鋭く呼気を吐くことで一掃する。
「フォールは人間を団子にする性癖でもあるのかね」
よっし、軽口を叩ける程度には平静を保てている。
「何でも、あの状態の実験体を作り上げるのはとても簡単で、つい多用してしまうと以前話していました……」
どうりで村人が連れ去られてから、それ程時間も経っていないのに、あんな姿に改造させられてしまったわけだ。手際が良すぎるとは思っていたが、そういう理由だったのか。
「あの人たちも救ってやらないとな」
「はい……いきます!」
兄の愚行に心を痛めながらも、ロッディは黒鎖を操り牛もどきに襲い掛かる。
左右の手の平から飛び出た黒い鎖が、敵の両前足に絡みつこうと伸びていく。
それを察知した牛もどきは、その巨体に似つかない機敏な動きで横に跳んで躱すと、着地と同時にこちらへ頭から突っ込んでくる。
階層を上るごとに敵が強化されていたので、この動きはある意味予想済み。
呪いの言葉を吐きながら迫りくる人の顔の塊に、俺は10本の鋼糸を交差する様に叩きつけた。
オーガの村で作ってもらった特注の鋼糸は、ただの鋼製の糸ではない。近くで見ると良くわかるのだが、その糸の断面図は丸ではなく平たい両刃となっている。
本来なら鋭い刃を備えていたとしても、所詮は細い鋼。あのような強力な魔物であれば、弾かれ引き千切られるのがオチだが、俺には『気』がある。
この迷宮生活で鍛え上げられた気を通した鋼糸の強度と切れ味は――牛もどきを細切れにするには充分すぎた。
「相変わらず、見事な糸捌きですね」
俺の前に転がるひき肉から目を逸らしながら、ロッディが称賛している。
迷宮に落ちる前でも勝ちはしただろうが、少し苦戦するレベルの相手。それが、こうも簡単に一方的に倒すことが可能となった。
だが、強くなればなるほど、フォールや悪魔、そして女神との力の差を実感してしまう。自分の力量が上がったことにより、相手の強さが現実味を増してしまうのだ。
「これぐらいなら。それじゃあ、次の階層へ行こうか」
「はい、もう一息ですね!」
扉が目の前でゆっくり開いていく。
さて、鬼が出るか蛇が出るか……それとも悪魔が出るかフォールが出るか。
俺は沸き立つ心を抑えながら、扉を潜り31階層に足を踏み入れた。