一水四見の王
飢饉と疫病により国民の百人に一人が死亡したとまで言われる未曾有の大事件「ソルグレスの悲劇」から二十年。
ようやく平和を取り戻したソルグレス王国の民を新たなる悲劇が襲った。
平等を愛し、弱者救済に力を入れたリューレン女王に代わって息子であるウェルセスが王として即位した。
しかしリューレン女王は自分の意思で退位した訳ではない。彼女は幽閉され、ウェルセスが地位を簒奪したのだ。
王子時代からウェルセスの人気は低かった。数年前に勃発した隣国との戦争で活躍した将軍を嫉んで謀殺した狭量な人物だったからだ。
彼が王になってからソルグレスは一変。
即位して間もなく複数の貴族が処刑され、資産を王に奪われた。
王宮に勤めていた多くの官僚も追放された。
その魔手は国民にも及び、大幅な増税が行われた。
街から笑顔が消え、明日の見えない日々に国民は暗く沈んでいった。
王宮内を一人の男が足早に進む。
名をエルクト。ソルグレスの宰相を務める俊英である。
平時なら女性を見惚れさせる美貌は今は険しい。
なにせ、処刑覚悟で王を問い質すつもりだからだ。
ノックして王の執務室に入ると、机でペンを動かす若い男がエルクトを迎える。
精悍な顔つきだが、どこか陰鬱な気配を漂わせた男こそソルグレスの王、ウェルセスである。
「何の用だ?」
ウェルセスはエルクトを一瞥し、関心のない声で尋ねる。
「王都は陛下に対する非難や不満の声で満ちています」
「暇な連中だ。いや、まだ余裕があると受け取るべきか?」
「民を慈しむ事を忘れれば、いずれ陛下は……」
「民を慈しむ、か」
エルクトの言葉をウェルセスが遮った。
「それをした先々代が「ソルグレスの悲劇」でどんな末路を辿ったか、知らないお前ではないだろう」
王族やそれに近しい者が「ソルグレスの悲劇」という言葉を使用する場合、それは別の意味を持つ。
ウェルセスが言ったのは先々代国王の殺害事件である。
二十年前。
ソルグレスの東のゼイオン王国との会談を終えた王が宿泊の為に訪れた都市で事件は起こった。
友人や家族を失い、一向に改善の兆しの見えない現状に不満を溜め込んでいた市民が爆発。
暴徒となった市民は王の乗る馬車を襲撃。王は殺害され装飾品などを奪われた。
暴徒は遺体から剥ぎ取った豪華な衣装を掲げ、今の国王は民を蔑ろにしていると宣言したが、それは暴論だろう。
国のトップである王が貧しい身なりをしていれば他国に侮られ、付け入る隙を与える。
国土のほぼ全てが災厄に侵されていたソルグレスにとって外交での失敗は国家の死に直結する。
「危うくこの国が歴史から消えるところだった」
折しもソルグレスの西側に位置し、周囲の小国を併合して拡大中だったシェルサディールとの関係が拗れていた時期だった。
彼の国も飢饉の被害を受けていなければとっくに属国にされていたに違いない(国王の死亡はシェルサディールの策謀ではないかと疑われたほどだ)
「母は優しかったが、同時に甘く、弱かった。王の器ではなかった」
母の事を語る時でもウェルセスの声は淡々としていて感情が籠っていない。
「二十年。国が腐るには十分だった」
王の死後、後を継いだのは娘のリューレン王女。
だが若い女性であり、父を殺された彼女にまともな政治が出来る筈もなく、その治世は民のご機嫌取りに終始したものだった。
臣下の顔色さえ窺う有様だったので官僚や貴族の間でも不正が蔓延した。
彼等は狡猾で保身に長け、同時に自分達の事しか考えていなかった。
自身が権力を握っている間さえソルグレスが無事ならそれで良かったのだ。国庫を食い荒らし、後の世代の事などまるで考えていない。
即位したウェルセスが彼等を取り除こうとしたのは当然の事であった。
汚職を行った官僚は追放され、それ以外も軒並み降格となった。
貴族に対する処置はもっと厳しく、処刑された貴族も少なくない。
処刑された貴族にはある共通点があった。
二十年前の災厄時、王は食糧の買い占めを禁じる特命を出していた。
破った者には厳罰を下すと明言されていたにも関わらず、法外な値段で売りつけて私腹を肥やす貴族や富豪は後を絶たなかった。
そのくせ、王が殺された後は溜めこんだ食料を提供して民の歓心を買ったのだ。
事態を悪化させた彼等にウェルセスは並々ならぬ怒りを抱いていた。
王命を無視した者は全員処断したかったようだが、それでは国家運営が成り立たなくなる。
見せしめ的に大貴族を処刑し、その他を恐怖で縛った。もっとも不正の証拠は握っているのでいずれ何らかの刑に処するつもりだろう。
エルクトの実家は王命を順守しており、だからこそ大粛清の後でも領地を安堵され、エルクト自身も宰相という地位に抜擢されたのだ。
「増税は戦費調達の為ですか?」
リューレン女王の時代、国軍は維持に多大な費用がかかる割に何も生み出さないとして規模が縮小されていた(もっとも削られた予算は官僚の懐に入っていたのだが)
「そうだ。三年前に辺境伯がその身を盾にして守り抜いたのだ。余はそれに報いなければならない」
この時、初めてウェルセスは感情を表に出した。
握り締めた拳は血の気を失い、表情には怒りと後悔が生まれる。
今から三年前、ソルグレスの弱体化を察知したシェルサディールは軍を率いて進攻。
それに対し、国境を接していた辺境伯は常備軍だけでなく家財や屋敷そのものを抵当に入れて資金を工面。傭兵を雇い入れて必死の防衛線を展開した。
シェルサディールは数度に渡って攻め寄せたが、防衛線を突破する事は叶わなかった。
そんな中、度重なる敗戦によってシェルサディール各地で不穏な動きが活発化。
シェルサディール側は慌てて講和を申し込み、その条件として辺境伯の首を要求。
そして辺境伯はそれを呑んだ。
辺境伯側はシェルサディール以上に苦しかったのだ。連戦によって軍は疲弊し、傭兵の逃亡が相次いでいた。
あと一戦が限界。自軍の状況を冷静に鑑みた辺境伯はまだ兵力が残っているうちに停戦すべきと判断し、自らの命を差し出した。
ウェルセスが嫉んで辺境伯を売ったというのはソルグレスを内部から崩そうとしたシェルサディールの流言である。
むしろ義勇兵を纏めて援軍として参戦していたウェルセスは最後まで辺境伯の引き渡しに反対していたという。
「シェルサディールに対する軍備増強なら、そう説明しても」
講和の際に不可侵条約が結ばれたが、それも七年の間だけだ。条約が失効すれば攻めてくる公算が高い。
民も自分の命が大事なのだ。私利私欲の為ではなく、国防の為に費やされるなら国民とて納得するだろう。
「納得するものか。あれこれ理由を付けて不平を漏らすに決まっている。リューレン女王が無思慮に下げた税を元に戻しただけだというのにな」
「……」
仕方ない面もあるのだが、ウェルセスの心の内には強い猜疑心が渦巻いている。民は愚かで自分の意に沿わないと決めてかかっている。
しかし、それでは民の心は離れていってしまう。
「このままでは先々代と同じ道を辿ります」
「もしそうなったなら、この国はどうしようもないと地獄で笑うのみ」
民の一部は今の王は人の心を持たぬ悪魔だと言っている。
狂気を持っているという意味では間違っていないだろう。
「なんならお前が革命を起こして即位してもいいぞ。余に全ての不満を押し付ければしばらくは安泰だろう。余が国を持ち直した後で、だが」
「陛下……!」
「冗談だ」
とても冗談には聞こえなかった。
本気だと思わせる剣呑さがあった。
「陛下、私は……」
「そこまでにしていただきたい。宰相閣下」
言葉が途中で遮られた。エルクトは声の主に視線を向ける。
部屋の中にはウェルセスと自分以外にももう一人いたのだ。
今までウェルセスの背後で物置のように無言、直立不動だったから気に留めていなかっただけだ。
親衛隊長、ロディール。リューレン女王幽閉の際にも行動を共にし、ウェルセスの信頼も厚い。
ロディールの伯父はソルグレスの悲劇で先々代と共に死亡している。
彼だけでなく親衛隊には殉職者の親族が多い。ウェルセスの猜疑心が同じ境遇の人間を選んだのだ。
「陛下もお暇ではないのです。くだらない問答するなら退室願います。閣下にも仕事があると思いますが」
「そうだな。ゼイオンとの交渉を任せているが、どうだ」
「……それに関してはご心配なく。万事滞りなく進めています」
「結構。しかし、失敗は許されん。万全の状態で臨め」
ゼイオンにとってシェルサディールの盾になっているソルグレスはなくてはならない国だ。
こちらが余程無茶な要求さえしなければ友好国でいられる。
だからこそ新米宰相に経験を積ませる意味でウェルセスは自分に任せたのだろう。
そこまで考えてエルクトはロディールだけでなくウェルセスから退室を促されていると気付いた。
「……お邪魔しました」
歯痒い気持ちもあったが、今の自分ではウェルセスを説得出来ないと判断したエルクトは一礼して退室する。
気落ちしたエルクトが通路を歩いていると二人の男と会った。
無精髭を生やした三十代半ばの男と人懐っこい笑みを浮かべた中年の男だ。
「苦労してるみたいだな、坊ちゃん」
「ジェイディン殿……」
無精髭の男がエルクトの肩を叩きながら笑う。
傭兵団長、ジェイディン。
金で動く傭兵を下賤だとする風潮があるが、ウェルセスは親衛隊に匹敵する信を置いている。
「私も貴方のように陛下の信頼が欲しいものです」
「そんな事はねえよ。俺が重用されているのは傭兵の間で顔が広いからだ。陛下は本音では常備軍を持ちたいと思っているが、時間も金もない。だから傭兵で妥協している。俺なら即座に数千の募兵が可能。俺一人を手元に置く事でシェルサディールへの牽制にもなる。それだけ。ただの雇用者と雇用主の関係さ」
「むしろそれが大事なんですよ。貴方は金が払われている間は敵に回る事はない。今の陛下はそういう打算的な関係の方が信頼出来るのです」
一見粗野に見えるジェイディンは教養もあり、義理堅い。
それにウェルセスとは三年前に生死を共にした間柄でもある。契約期間中は裏切らないとウェルセスは理解しているのだ。
「そんなもんかねぇ? まあ、俺としても未払いしない陛下は雇い主としては有り難いがな。なあ、旦那」
ジェイディンは一緒にいたもう一人に話しかける。
名はハロルド。ここ数年で台頭してきた商人で、最近は頻繁に王宮に訪れている。
彼の商会の交易路はシェルサディールにも及び、密偵染みた真似もしているらしい。
「ええ、そうですな。陛下は苛烈ですが、その一方で公正です。先代のような誰でも等しく扱う平等ではない。能力のある者がきちんと評価される公正。私どもにとってはやりやすい世の中になりました」
「……たくましいな」
リューレン女王は弱者の為の保障制度などを整えたが、それを悪用し、弱者として振る舞って特権を享受する者も少なくなかった。
二人と別れたエルクトは溜息を洩らす。
歴史的に見て評価が分かれる為政者という少なからずいる。
ウェルセスも将来的には歴史家の議論を呼ぶ王だろう。これだけ身近な人間と民の間で評価が隔絶しているのだから。
その状態が破滅的な結末を導く予感を感じつつ、どうにも出来ない自分の無力さをエルクトは悔やむのだった。
無能な王様が出てくる小説を連続で読んだ後、ちょっと天の邪鬼な気持ちが湧いてきて書いた話。