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氷れる花園 作者:黒崎伊音
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 夢をみたその後も、セルジュは変わらずに森に通い続けた。話しては訪れた静寂を楽しみ。話しては、少女のきらめく魅力に囚われてしまう。
冬の足音が近づくにつれ、彼女が陰を見せることが多くなった。その度にセルジュの心臓が騒いだ。
 ――その日は秋でいちばんの冷え込みで、朝から何をしても寒気が収まらなかった。
 ミサの途中で、セルジュが咳をしながら会衆を眺めると、やはり青い顔を浮かべている人が多かった。聖歌を歌う声にも張りがない。司祭の説教にも耐えられないようだった。
「心配ですね」
 シモンの妻の葬儀以来、病が村に蔓延(まんえん)しているらしかった。シモンも葬儀以来、体調が悪く臥せっているらしい。ゆっくりと、だが確実に冬が近づく足音が大きくなっていくのをセルジュは感じていた。
 ミサの後、ラドルファスは教会の門に出て一人一人に一言を添えて送り出す。静かに説教を聞いていた子どもの頭を撫で、青白い顔をした老女に対してはお大事に、というように。
 あの子供――ハルと、その母親もミサに参加していた。ハルはこちらを向いて何かを言いたげにしていたが、彼が近づく前に母親が手を引いて歩いて行った。家とは逆に歩いていたから、帰る前に水を汲みにいったのだろう。……母親の顔が色素の抜けた衣服の色をしていて、ひときわ大きく咳をしていたのが、セルジュのこころに残っている。
「君もだいぶ具合が悪そうですが。大丈夫ですか」
「……何ともありません。ただ、最近寒いので、風邪を引きかけているのかもしれません」
 同じように声をかけてくれたラドルファスに、今日は早く休みますと言葉を返した。
 村人との距離は前と変わらないどころかひどくなっている。最低限の話しかしないし、目を合わせない。朴訥(ぼくとつ)と受け答えして用が終わったらさっさと部屋か教会に戻る。ますます村で友人というものが出来なくなったし、村の輪の中に入れなくなった。
 ただ前ほど他人が怖いとか、うまく話せない自分に対して嫌悪感を抱くことがなくなった。
 そう思えてきたのも、彼女に出会えたからだ。
 ミサの時も、ラドルファスの手伝いをしている時も、ふと顔を上げればあの少女について考えてしまっている。今度は何の話を聞かせてくれるのだろう。自分は彼女に、何の話をしたらいいだろう。今、何をして、どんな顔をしているのか。それを想像して一人で笑ってしまう。
「そうか。……前よりも君の顔は明るくなったね。何か困った事があったら、すぐに言いなさい。出来る限り、力になろう」
 たまにラドルファスは優しい言葉をくれる。善良な人だ。あまり話せない事情のセルジュを、何も言わずに引き取ってくれた人なのだ。
 その司祭に、たった一人で白い花園の中で静かに暮らす少女の事を話そうかと悩んだこともある。他の人はともかく、事情を深く知ればラドルファスなら何かしてくれるかもしれない。何があったかは知らないが、彼女は明るくて快活で、きっと他の人とも仲良くなれる。その場面を想像したくはないが、少なくとも、あんなうつくしい異界のような場所に一人でいるべきではないように思えた。
 だけど話そうと決意をするたびに、彼女との約束が言葉を遮った。
 彼女が望んでいないなら何も言うべきではない。老司祭の言葉に、セルジュは曖昧に頷いた。
 この日の夜も抜け出して、最早慣れた森を歩いた。
 しかし今日は、白い花揺らめく泉のほとりに彼女がいない。いつもだったらこの鈴蘭の園に、静かに佇んでいるのに。あの少女のいない花園は、何か不完全なものだと思う。それだけ彼女がこの空間この場所と一体化しているのだ。
 他に思いつく場所もなく、セルジュは廃墟に足を向けた。誰がいつつくったのか分からない聖堂へ、おそれをもって踏み入れた。ここに通い始めて少し経つけれど、聖堂の中に入るのは初めてだ。
 中は静謐(せいひつ)で、廃れた清らかさで満ちていた。人が入ることの無くなった聖堂は、石造りの地面には苔が侵食し、悠久(ゆうきゅう)の間放置されていたのが伺える。会衆(かいしゅう)が座る木の長椅子も、腐りかけて脆くなっていた。だが、神の像や祭壇はそのままのかたちを保っている。硝子の無い窓から月光が差し込み、それのみが神を称えていた。
 彼女は祭壇の前で、祈りの姿勢で跪いていた。
 音を立てないように注意を払いながら、彼女に近づいた。この静謐さを壊したくなかった。細い後ろ姿を見ていたら、心臓が騒ぎ出す。彼女の陰が、一層濃く見えたから。
 ぱきっと無機(むき)(しつ)な音が無遠慮に響く。それを生み出したのは静かに跪いた少女ではなく、彼女に近づこうとしたセルジュ。地面に散らばった硝子(がらす)を踏んでしまったのだ。音に気付いて、少女は顔を上げる。そしてゆっくりと振り向いた。
 背筋が凍った。彼女の瞳は色を保ったまま枯れ果てて、何も写していなかった。何も望まない、諦めきった平坦な顔が浮かんでいた。
「ああセルジュ、来ていたのね」
 その暗さを見せていたのは一瞬だけ。少女はセルジュを確認すると、顔を崩して走り寄ってきた。
勢い余って前のめりに倒れそうになる彼女を、慌てて抱き留める。
「会いたかった」
 彼女の言葉はあまりにも直線的だった。セルジュは、自分にそう言ってもらえるだけの価値があるとは思えない。
だけど、喜びを感じてしまうのも事実だった。
「雪の匂いがしたの。だから、外にいたくなくて」
 支えている彼女のからだは小刻みに震えている。それもその筈で、カミーユはいつもの格好だったからだ。薄絹の単衣と、目の粗いストールしか身につけていない。単衣は膝までしか丈がなくて、足に至ってはやはり裸足だ。不自然なほどつるりとした綺麗な爪がむき出しになっている。
 祭壇に背を預け、隣り合って座ると、セルジュは着ていた上着をカミーユの肩に被せた。彼女はセルジュの上着を、極上(ごくじょう)の宝物を手に入れたかのように大切に羽織った。上着はさほど大きくはないけれど、小さい彼女のからだの大体を覆い隠した。
「……ありがとう」
 それきり彼女は押し黙ってしまった。
 同じように大気を揺るがすものは黙している。何も揺れず、外は死した空間の中、気温だけが低くなった。
 指先は冷たいままなのだろう。擦り合わせていた彼女の両手を、セルジュは自分の両手で包み込んだ。こうすれば少しは温まるだろうから。
 少女の指は少年の手のひらによって、少しずつぬくもりを取り戻す。それが信じられないというように、カミーユはセルジュの瞳を見返した。植物を生やす肥沃な土壌の色と、土から養分を受けて瑞々しい葉脈を作る若葉の色が交錯(こうさく)する。
 先に瞳を逸らしたのは少女の方だった。長い睫毛が伏せられて、白い顔に陰を落とした。そこにはいつもの明るさがなかった。すっとセルジュの両手から逃れて、上着の中に隠してしまう。
「……どうしたの?」
 落とした瞳は石造りの床だけを見つめていた。それはさっきみたいに枯れ果ててはいないけれど、今にも朽ちてしまいそうな程弱々しかった。
 震えているのは寒さだけが原因ではない。その理由をセルジュは知りたかった。
「あなたがいて嬉しい。だけどちょっと怖いから」
「怖い?」
「こんな雪の降りそうな日に、わたしの隣に誰かがいることに奇跡を感じるの」
 目の前に自分にとっての宝物があって、だけど自分が触れるのは不相応だと手を引っ込めてしまう。
そう言ってセルジュに向けた顔は、そんな諦めた人の顔をしていた。
「……何を祈っていたの?」
 この顔は祈りを捧げていた人の顔じゃない。そんな顔で、一体何を願っていたのだろうか。
「このまま雪が降りませんようにって。ねえ、セルジュは雪は好き?」
「あんまり。静かになるのはいいけど、何だか悲しくなる」
 セルジュは生まれた街の冬を思い出す。ネムの街の冬はそれなりに雪が降る。全ての音が雪に吸いこまれ、真っ白に染まる町並みは、普段の姿とは違う。静かになるのは好きだ。だけど寒さは気力を奪う。だから、自分の薄暗い気分がより深くなる気がする。
「わたしはきらい」
 きらい、とはっきりと答えた。それを言ったとき、少しだけ舌足らずな響きを持っていた。
「どうして?」
「だって、いやな気持ちになるんだもの。……わたしはずっとここにいて、わたし以外は誰もいないでしょ? でも秋までは気にしないで暮らせるわ。季節の花は咲いているし、少ないけど動物も元気だもの」
「……家族はいないの?」
 滑り出たのは、初めての、彼女の家族についての問いだった。踏み入れることのなかった領域に、セルジュは初めて足をつけた。彼女の秘密に触りだすのだと思うと、こころがおののいた。
 薄霧を纏わせて、カミーユは語りだす。
「母の顔は知らない。わたしを産んですぐに亡くなってしまったから。父は……父さんは、立派よ。わたしの家はね、あんまり人に言えないような仕事をしていて、でも父さんはそんな仕事も眉ひとつ動かさないで堂々と行っていたわ。そんな人だから、わたしの顔なんて見たくないの」
「どうして」
 わたしが愚かな出来損ないだから、とカミーユは答える。
「父さんは男の子がほしかったの。だって男の子なら、立派な跡継ぎになれるから。だけど、生まれたのは女の子のわたしだった。わたしに強い子どもになってほしいから、こんな名前をくれたの。でも」
 カミーユは顔を上げて天井を仰ぎ見る。そこには神がいた。人に作られ、人に忘れられ、二人を見下ろすことしか出来ない神がいる。ここに聖堂がある理由なんて、セルジュはおろか、カミーユも知らないだろう。
「父さんのことは嫌いじゃないの。でも、わたしは父さんの望むような、強い子どもにはなれなかった。村のみんなはわたしの事が嫌い。だからわたしは、ここでしか生きていけないの。わたしを見たら、わたしが何者か知ったら、みんな絶対に逃げ出してしまうから。でも、全部わたしが悪いの。それに誰かを憎んでも結局わたしが惨めなだけだから」
 乱雑な髪。歪な手のかたち。あの時に彼女の裸同然のからだの線を見てしまったが、今頭に残っているのは、汚染のような傷痕だけだった。
 そんな少女は、この森にたった一人で暮らしている。
 初めてその陰に触れたときは、風に揺れた木々のように心臓がざわついた。さっき聖堂で見たときは、落ち着きのない馬になって騒ぎ出した。
 そして今は痛いほど暴れている。小さくこぼしだす彼女を見ているうちに、その痛みはどんどん強くなる。熱くて、でも抱え込まずにはいられない。
「冬になると……初雪が降るといやな気持になるわ。全てのいのちが凍るでしょ。だからわたしは一人になる。わたしみたいな出来損ないには誰もいないって思わされるの」
 陰が完全に月を覆った。光彩は消え失せ、少女の輪郭だけが残された。そこには誰よりも大切な少女がいるという意識だけがセルジュの中に残る。
 ――心臓に、一滴の水が落ちる。その水は衝動という名前を持っていた。
 耐える必要はない。セルジュは少女に両手を伸ばし、その腕の中に強く閉じ込めた。
 カミーユは唐突のことにからだを固くさせる。驚かせて悪いと思いつつ、このまま手放したくはなかった。右の手のひらで柔らかい髪を撫で、みずからの胸に少女の顔を押し付ける。背中に手を回すと、(けん)甲骨(こうこつ)の細さが伝わってきた。彼女のからだから発せられる澄んだ芳香が、セルジュのからだにまとわりつく。甘くて清涼な、鈴蘭の芳香。
「聞いて。僕はこの街に来る前、たったひとりの家族を亡くしてきた。僕がこんなのでも穏やかに受け止めてくれていた人だった。優しくて、大好きだった。だけど、処刑台の上で、首を斬られて死んだんだ」
 処刑台、と聞いて少女のからだが大きく跳ねた。どんな顔をしているかわからないけれど、怖がらせる話をしてしまった自覚はある。だから、抱きしめる腕の力をより強めた。
 セルジュはあまり背が高くない。からだもそこまで頑丈ではないし大きくない。その年の少年にしては華奢だった。そんなセルジュの中に綺麗に収まってしまうほど、カミーユは小さくて細くて、氷みたいに冷たい。
「その人が死んでから、余計僕は息苦しくなった。人の輪に入れなくて、人を疑ってしまう。そんな時に、君は僕を見つけてくれた」
 この初めての感情がなんていうのか、セルジュは自分でもわからなかった。たった一人で生きてきた哀れな少女に対して抱いた同情ではないし、初めて出会えた友と呼べる存在へ向ける親愛でもない。
「僕は君に何も、気の利いたことひとつしてあげられない。それでも隣にいて君の手を温めていたい。……こんな僕でもそれぐらいなら出来るから」
 ただ、腕の中の少女を、一人にはさせない。させたくない。心臓から湧き上がってきた熱は、喉を通り、音になって姿をあらわした。
「カミーユ?」
 服ごしに感じる荒い呼吸。顔が当たっている部分だけが湿り気を帯びてくる。
「ごめん! 変なこと話してごめん! 本当にごめん!」
 知ってほしかったとはいえ、話すべきではなかった。処刑台の上で人が死んだ話なんて、彼女には恐ろしかったに違いない。
 違うの、と言って彼女は首を振る。
「謝らないで。こんな幸せ、わたしにはぜったいにないと思っていたから、頭がおかしくなりそうなの」
 顔を上げて、若葉色の瞳から溢れてきたものは青白い頬に流れた。光合成を覚えた植物のように、あとからあとから水が滑り出てくる。セルジュは涙を止めてあげたくて、それを丁寧に拭った。
「本当に、本当に一緒にいてくれるの?」
 彼女は同じ問いを繰り返す。何度も聞いても心配だというように。その度にセルジュは同じ言葉を返した。
 それでも涙は止まらない。
「怖いの。あなたはわたしと一緒にいてくれるって言ってくれた。信じたいけど、わたしが何者か知ってしまったらあなたはきっと背中を向けてしまうわ。だけどわたしは愚かな出来損ないだから、願わずにはいられないの」
 カミーユの手が、ぎゅっとセルジュの服を掴む。
「お願い。わたしを一人にしないで」
 壊れそうな思いがこぼれた。今度は少女の方から、セルジュの胸に顔を埋めてきた。
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