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氷れる花園 作者:黒崎伊音
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 額から流れ出た汗を拭わずに、かがんでいた姿勢から身を起こす。空気はうすら冷たくても、雲間から差し込む陽光は意外にも強かった。
 空気を切り裂く鎌の音。木々のさざなり。あらゆる音の隙間から、月の欠片と氷で作ったような鈴の音が響いてきたのだ。麦を刈る手を止めて、セルジュはゆっくりとその音が鳴ったと思われる方に顔を向けた。今は秋の農繁期(のうはんき)で、鎌を握る村人は黙々と仕事を続けている。黄金色の海は半分しか沈んでいないからだ。
 誰も、この音が気にならないのだろうか。この世のものとは思えないほど透き通っていているのに。
 そんな思いに囚われた先は、鬱蒼(うっそう)とした森が広がっていた。水気を含んだねっとりとした空気を生み出していそうだ。あの森は、この村人の間では死地の森と呼ばれているのだと司祭から聞いた。深緑というより確かに闇に近い色だ。昼でも暗そうだ。陽が射すことがあるのだろうか。誰かが住むことがあるのだろうか。
「おい」
 甲高い声が届いて、思考が浮かび上がる。
「手を止めるなよ、よそもん。そんな調子だと日が暮れちまう」
 セルジュを非難したのは、隣で仕事をする幼い少年だ。柔らかい栗色の髪。声変わりもしていない。少年というより、子どもに近い。肩甲骨が浮いたほっそりとした体。小さな手で、セルジュよりもはるかに器用に鎌を使う。その証拠たるものが、子どもの後ろに高く積まれていた。農繁期は子どもも貴重な労働力になる。
「……ごめん」
「しっかりしろよ。そんな様子じゃいつまでも終わらない。祭りが始められないんだよ」
 文句を言うだけ言って、彼は再び作業に戻る。横一列になって刈り入れを行うから、誰の作業が遅いのかが目に見えて分かる。
 夢想を頭から追い払って、再び鎌を強く握る。鈴の音は、日々の糧を求める音に紛れてわからなくなってしまった。

 *

 ()肉刺(まめ)と切り傷で赤く染めあがったセルジュの手を、皺が多くなった慈愛の手が丁寧に包帯を巻いている。(かま)(くわ)は握り慣れていないと簡単に肉刺が出来てしまい、扱い慣れていないと簡単に手を切ってしまうのだと初めて知った。今日、セルジュがこなした仕事量は、隣の少年の半分にも満たない。
「慣れない仕事を預けて悪かったね。この時期は忙しいから、大変だっただろう」
 初老の男の労りに、セルジュは弱々しい笑みを返す。男の言うとおり、慣れていないのは事実だから。
 手当をしているのは、この村の司祭で、村長も兼任(けんにん)しているラドルファスという男で、セルジュの母の兄夫婦の知り合いだ。
 セルジュの両親は既に亡くなっている。物心ついた時には母の影はなかった。父も二年前に亡くなり、彼には他に兄弟もいなかった。母方に唯一兄夫婦がいて、父の死後は彼らに引き取られた。しかし、追い出されるようにこの村にやってきた。
 それも仕方のないことだとセルジュは諦めていた。兄夫婦にとって一番大切なものは、彼らに連なる子どもだから。親戚とはいえ、心を開かない暗い子どもに裂く時間はないのだ。司祭に引き取られた今は、彼の手伝いをして日々過ごしている。秋の忙しい時期は村人と同じように収穫の手伝いもするが、ミサの時の簡単な手伝いや清掃が、セルジュの主な仕事だった。
「大丈夫です。あの、本当にすみません」
 目を伏せたまま、理由なくセルジュは謝罪を口にした。否、理由はあった。彼が手当してくれるのはただの親切心なのだと分かっている。だけど、自分の不慣れから余計な作業をさせてしまっているのだ。
「何も悪いことはしていないだろう。意味もなく謝るのはやめなさい」
 司祭の顔を見ずに、小さくセルジュは頷いた。セルジュは人と目を合わせて話すのが苦手だった。それは父が亡くなる前からで、今も変わらない。むしろ、父が亡くなってから、余計酷くなっている。それは父が死んだという事実より、父が何によって命が絶たれたのかが関係している。
 理由なく人が怖い。人の顔を見ると、悪意ばかりが浮かんでいる気がしてならない。この司祭のことを信頼したいのに素直に信頼できない。そんな薄暗い性格の自分が嫌になる。
「さあ、これでもう大丈夫。今日は早く寝なさい」
「あの……」
 休むように促すラドルファスを止める。ただ一言呼び止めただけなのに、汗が吹き出しそうになった。その行為が相手に対して不快を与えていないかと心配になる。
「祭りって、何ですか?」
 昼間、仕事の止まったセルジュに少年が言っていた。早くしないと祭りが始まらない、と。彼の口ぶりから、この村の人にとっては一年に一度の大切なことであると伺える。秋に行う祭りと言えば豊饒(ほうじょう)に感謝を捧げる収穫(しゅうかく)(さい)が連想されるが、少年の言葉の裏にはセルジュの知らない何かが隠されていそうな気がした。
「そうか。君は知らないのだったね。覚えておくといい。昔むかしから続く、伝統的な祭りだ」
 蝋燭の火が弱く震えた。薄暗く、司祭の顔が浮かび上がる。その火の様子にふわさしく、ラドルファスはその祭りについて語った。
「あの森には、死に神がいるのだ」
 曰く、その仕事人は彼岸(ひがん)の国から遣わされた死に神で、あらゆる生き物のいのちを刈りとる。音もなく村を歩き、気が付かないうちに肩を叩いて、命だけ奪っていく。それに命を取られたものは、傷一つなく、眠るように息を止めるのだ。
 その死に神がいるから、あの森には人が住めない。森にいれば、生の気配が漂って死に神に肩を叩かれるから。
 死に神は冬に活動が活発になると言われている。それから身を守るための儀式を、秋の刈り入れが終わったら、祭りというかたちで行うのだ。
 祭りの日は、朝から広場に火をくべる。一日中絶やさないようにもやし続ける。昼ごろに村で一番若い牛を屠畜(とちく)し、その牛の血を家の柱に塗り付ける。
「牛の血は新鮮であればあるほどいい」
 そのことから、牛が絶息して間もなく家の柱に血を塗り付ける。血は人々を守る結界になる。死に神は生き物のにおいを嫌い、村へと寄りつかなくなる。特に生まれて間もない、若い牛の血だとよいとされている。生の気配がより濃厚(のうこう)だからだ。逆に老いた牛だと死期が近いから死に神が近寄りやすくなると信じられているのだ。
 すべての家の柱に血を塗ったのちに、パンと葡萄(ぶどう)(しゅ)と伝統料理で今年の実りを感謝する宴を始める。
 家の柱に血を塗るというこの行為を、初雪が降るまで七日に一度、続けていく。血を塗れば塗るほど結界は強くなるから、死に神は村に寄りつけず、森から出られなくなる。初雪が降るのは、血の結界が完成したという証だ。春になり雪が溶けたら、冬の間の無事を祝った祭りが開かれる。
 静かに語られたその話から、セルジュの頭に一つの存在が思い出された。
「その死に神は、処刑人とは何か違うの?」
 この国の中心のネムの街にはある異質な存在がいる。あの街で罪を犯した人間は、彼の手によって裁かれる。どんな刑罰も眉一つ動かさずに行う恐怖の対象。
 ネムの街の処刑人。
 この国すべての処刑人を統べる、もっとも巨大な死刑執行人だ。曰く、彼と目があっただけで常世の国へと引きずり込まれる、斬首されたものがいる家族はその子供も呪われるというのが、ネムの街での常識だった。
 処刑人たちは常に音のない鈴と剣の紋章を身に付けている。見ただけで、身分が分かるように。それは街の人が、不用意に死に神に近づかないための目印だった。
「何も違わない。私には死に神も処刑人も、同じように恐ろしい。それだけは変わらない。そのことを思い出すのはやめなさい。……刈り入れは明日も続く。さあ、今度こそ、もう寝なさい」
 包帯だらけのセルジュの手を、ラドルファスは優しく包み込む。その行為は、見えない傷をそっと癒すような仕草に感じられた。司祭に促されてセルジュは席を立った。慣れない畑仕事をした疲労から、泥のように眠った。

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