決断
日の光が照らし出し、晴れやかな天気が広がるアルカディア。
ヴァラルが目覚めたことをセランは大々的に喧伝したその数日後、かつてない熱気に包まれるローレン城。玉座の間ではユグドラシル、ウトガルド、ビフレストの名だたる有力者たちが大勢詰め寄っており、この後に行われるアルカディアとしての初めての催しに、彼らは心を躍らせていた。
そして、その中にはヴァラルの見知った顔も当然あった。
「……アイシスとヴァラルはまだ来ないのか」
低く、深海の奥底まで響き渡るような深い声。壁際に寄り添って腕を組んでいるリヴァイアサンのフィリス。彼もまたローレン城へ招待されていたのだのだが、何時まで経っても現れない二人にとてもイライラしていた。
「フィリスさん、彼らが来るまでもう少し時間がある。焦らなくても、彼らはきっと来るはずだ」
「……うむ、そうだな。すまなかったマルサス」
フィリスを諭した人の良さそうな声の持ち主は、仰々しい騎士の格好をした黒龍のマルサス。彼の言葉により、フィリスは落ち着きを取り戻す。
その一方、マルサスはしょんぼりと肩を落とした。
こうして一人だけ待っているのは心細い。誰か話し相手になってもらえないかと思い、マルサスは勇気を振り絞って声をかけたが、あっさりと会話が無くなってしまった。
この場の厳かな雰囲気もあって、マルサスは内心かなり緊張していたのだった。
「お主も肩に力が入っておるぞ、マルサス」
すると、落ち着かない様子を見せるマルサスの下にエドが歩み寄ってきた。
「エド……やはり君から見てもわかるか」
「そりゃそうじゃ。お主とは長年の付き合いでもあるし、わしだって同じ気持ちじゃからな」
そう言ってひげを撫でまわし、周囲を見渡すエド。マルサス以外に人の姿となった古代龍や年若いドワーフが見えたが、彼らもまたどこかそわそわとした様子であった。
「……アルカディアは千年の歴史を持ちながらも、三区画に住まうわしらを束ねる者は誰もおらんかった。それにユグドラシル、ウトガルド、ビフレストに存在する住人が一同に介しているのじゃ、緊張しないほうがおかしい」
ハイエルフと昔から親交関係にある妖精王セイラムに、誇り高き幻狼たちの頭目、幻狼フェンリル。また、ビフレストで巨万の富を手にした吸血鬼の真祖や、セランに付き従う魔の者達。
「……本当にここにいても良いのか不安になってきた」
だれだらと冷や汗を流しながらマルサスは呟く。
ここに来る前ガルムからは気楽にやれと言われたが、彼らとどうやって付き合っていけば良いのかとマルサスは人知れず悩んでいた。
「あ……」
そのとき、妖精王セイラムと幻狼の長フェンリルと思いきり目が合ってしまった。
どうしようと思っている間に、一対の緑薄羽を広げた妖精と、頭上に特徴的な耳を持った幻狼は互いに目を合わせ、こちらへやってくる。
「匠貴エド、それに守護者マルサス。やはりあなた方も招待されていましたか」
「……当然だろうな」
丁寧に語りかけるセイラムに、物静かな様子でマルサスをじっと見据えるフェンリル。
「しゅ、守護者……?」
「二人とも、お主と話したがっているみたいじゃぞ?」
「えっ、私と!?」
『守護者』という仰々しい呼び名がついたことを疑問に思う間もなく、マルサスは素っ頓狂な声を上げる。
注目されるようなことをした覚えは何一つない。それなのに何故か、セイラムやフェンリルといった大物達の興味を引いてしまっていることに彼は困惑していた。
「理想郷を守護する孤高の覇者。あのメクビリスの山々を遥か高みから見下ろし、ウトガルドの秩序を担う者だと我々の間で言われてますよ」
「……その本人が現れるとなれば、気にかけない者など誰もいない」
「い、いやっ! 私のしていることなど大したことではないっ! あまりにも誇張されすぎている!」
彼らは知らないだろうが、ウトガルドはガルムやエドたちがいれば何とかなる。魔鉱石の採掘や加工はドワーフお得意の作業であるし、ガルムのおかげでビフレストやユグドラシルとの関係が平穏に保たれているのだ。
大規模な開拓となれば自分たちにも出番があるが、それまでは気ままに飛び回っているだけだ。噂に尾ひれがつきすぎていると、マルサスは慌てて首を横に振る。
「……そうなのか?」
フェンリルは訝しげな表情で黒龍を見返し、セイラムはもしやと思ったのか、こそこそエドと話し込み始めた。
「私はウトガルドから数えるほどしか出たことがないし、ここへ来るのも相当悩んだ上でのことだ……友と呼ぶ者が他にいなかったから、な」
住んでいる場所がメクビリス山脈の頂上付近ということもあり、滅多なことで訪問者が来ない。古代龍たちからは慕われ、エド以外のドワーフ達からは敬られている。ヴァラルやガルムを友と呼ぶにはあまりにも畏れ多いし、友人と言えるのはエドだけと言っても過言ではない。
「……私は世間知らずなドラゴンなんだ、そんなに気を使わないでくれ」
語り終えた途端、マルサスはやってしまったと大いに後悔した。
こんな自身を卑下するような話を一方的に聞かされて、良い顔をする者など誰がいるだろう。仮にも古代龍を率いる立場なのだ、彼らの名誉を守る必要があること位わかっていたはずなのに。
幻滅させてしまっただろうかとマルサスは恐る恐る、フェンリルの顔を覗き見た。
「……こいつは参った。セイラム、聞いていたか? どうやら彼もまた――」
だが、意外にも幻狼の頭目は呆気にとられたような表情をした後、
「私たちと同じ悩みを抱えているみたいだ」
面白そうな顔をするセイラムと互いに目を合わせた。
「お、同じ悩み……? フェンリル、それにセイラム。君たちの言っていることをもう少し分かりやすく頼む」
「単純な事じゃ。こやつらもまた、お主の今の境遇とそっくりだと言いたいのであろうよ」
「エドの言う通りだとも、マルサス」
セイラムは大きく頷き、改まった口調で言う。
「私もね、妖精王だのと持ち上げられているがそれは昔の話のことだ。今は彼女に頭が上がらないでいるよ」
「……お前はまだ良い方だ。俺なんぞ、今日は若い連中から顔を出して来いと追い出されてきたんだからな」
全く、最近の若い奴は本当になってない。フェンリルは大きく鼻を鳴らし、セイラムは君はずっと森に引きこもっているからだろうと突っ込みを入れている。
二人の自虐する姿が別の意味で痛々しい。これが噂に聞いた妖精王と幻狼の長の本来の姿なのか。セイラムとフェンリルのやり取りを間近に見て、マルサスは目を丸くした。
「ほら、何をぼさっとしておる。さっさと声をかけるんじゃ」
「きゅ、急にどうしたんだ……」
肘をぐいぐい押し付けるエドに戸惑うマルサス。まるで言い合っている二人の輪に入ってこい。そんな風に感じられる仕草だった。
「行って来い。互いに悩みを打ち明けた者同士、親交を深める良い機会じゃ」
「……迷惑になったりしないだろうか?」
「迷惑? はっ、あるわけないじゃろう」
マルサスの自信の無い言葉に反応して、エドは鼻で笑う。
「自信を持つのじゃ、聖龍と並び称される黒龍よ。この先のウトガルドはお主にかかっておるぞ」
彼はガルムという存在と比較し常に己を下に見てきたが、身近に接してきたからこそ理解することもある。
力は既にガルムに匹敵し、それを彼は十分に理解している。だからこそ、マルサスが他の区画でどう思われているのかを認識させ、自信をつけさせようとしているのだと。
「……分かった、エド」
初老のドワーフが投げかける真剣な言葉に、マルサスの瞳に力が宿る。
先日の小屋倒壊に関して大変責められはしたものの、変わらない付き合いをしてくれる小さき親友に、マルサスは大きな感謝の気持ちを抱く。
ウトガルドで孤立せずにいられたのも彼のおかげ。そして今も自分の事を第一に考えている。
一念発起して、マルサスは白熱するセイラムとフェンリルの間に入っていくのだった。
◆◆◆
「あちらは随分と盛り上がっているようだな」
「行かなくても良いのかしら? 大事な話かもしれないわよ」
「構わない。彼らと話す機会はこれから先いくらでもあるのだ、焦る必要はどこにもない」
黒龍や妖精王、幻狼の長が集まっている場所を遠巻きに眺めていたヘスターは、妻であるエイミアに答えた後、するりと視界から外す。
「それに、あの光景を見られただけでも実感させられてしまう。私たちがこの場に参列出来ることが、いかに奇跡的な出来事だということを」
「アルカディア。ユグドラシル・ウトガルド・ビフレストで構成された理想郷……私も同感よ」
夫であるヘスターに同意したエイミアは、玉座の間全体を見渡す。
彼女の表情は、ようやくここまで来たのだと非常に感慨深いものだった。
「周りの皆は理想郷だなんて生易しい言葉を使ってるけどとんでもない。それぞれの区画だけで国が造れるわ。しかもそれぞれがただの国では済まないわよ、絶対に」
緑豊かな自然に覆われ、安寧の日々を過ごすことのできるユグドラシル。
荒涼な大地が広がり、無尽蔵の鉱物資源を生み出すウトガルド。
幻想的で近代的な街並みの、常に活気溢れるビフレスト。
ヴァルズリンクを率いるエイミアから見ても底の知れない理想郷。平穏なイメージからはかけ離れすぎていると彼女は思った。
「結構な現実主義者だな、君は」
「そうかしら? 至って普通の感覚だと思うわ」
「ふむ……」
これは参った。愛しの妻と考えがまるで違う。
自分が真逆の考えを持っていることにヘスターは唸る。
「どうにも意見が合わないみたいね。あなたはふさわしいと思っているの?」
「ああ。勿論だとも。これ以上ない位、合っている」
「……どういうことか、聞かせてくれない?」
だが、意見が異なるからと言ってエイミアは怒ることはない。
彼女は気にすることなく、むしろ興味津々といった具合で、ヘスターの顔をまじまじと見つめた。
「ユグドラシル・ウトガルド・ビフレスト。その一つ一つが超大国だとする考えも分からなくもない。しかし、ここで重要なのは現在のアルカディアの在り方。三つの区画を統合し、共同体とみなすことで新しい考えが生まれる」
ヘスターは続けざまに言う。
「アルカディアは国という言葉では収まらない。これはもう、世界そのものだと私は認識している」
自信満々に言い放つ自分の夫に、エイミアの口元が思わず緩んでしまった。
「……世界として認識しているなんてスケールの大きいこと。案外あなたって、理想主義者なのね」
「褒められても困るな……それでは余計私が恰好悪くなってしまう」
皮肉交じりに苦笑する吸血鬼の真祖。いくら綺麗な言葉を並べても、これから現れる男の偉業には露と消えてしまう。
何故ならその男こそ、世界を救うという壮大な理想を叶えてしまったのだから。
◆◆◆
「さて。いよいよ近づいてきましたよ、主のお目見えの時間が」
「覚悟は決まったか?」
ローレン城の玉座の間に比較的近くに存在する控室のような一室にて、セランとガルムは言う。
「……覚悟も何も、人を見せものか何かと勘違いしてないか?」
「あながち間違っていないと思うけど」
「主様を一目見たいという方は、まだまだたくさんいらっしゃいますから」
ヴァラルの言葉に当たり前だと指摘するリリスとアイシス。ビフレストでの騒動を経験した者ならではの感想である。
「全く……ここの住人達は人が良すぎる。俺の手に余る連中ばかりだよ」
「お前が言っても説得力に欠けるぜ、このお人よし野郎」
こちらから見れば、どう考えても彼の方が色々とおかしい。
世界を救った黒髪の青年にガルムはせせら笑った。
しかしガルムとは対照的に、いつもふざけた態度を取るセランは今日ばかりは真面目なものであり、
「まさかとは思いますが、今更怖気づいた訳じゃないでしょうねえ?」
目を細め、真剣に問いただした。
それを受け、じっとソファに座っているアイシスやリリスへ目を動かすヴァラル。二人を含め、ガルムやセランも何も言わずに黙って佇んでいる。
ヴァラルは視線を戻して何かを考えた後、改めて言葉を口にした。
「お前たちは身勝手だ。俺に何の相談も無しにこんなものを造って……今でも夢だと思いたい気分だ」
アルカディアは単なる国ではない。理想郷と言う名が示すように、最早一つの世界だ。住人達は互いに手を取り合い、関係も良好。各区画の異種族同士の交流が本格的に始まろうとしており、更なる発展を遂げようとしている。
「主導者になれ、だなんてよく言えたな。俺にとっても、お前たちにとっても、それがどんな意味を持つか分かっているはずだろう?」
アルカディアの主導者として君臨すること。それはこの先彼らと同じ道を歩み、いざという時は彼らと運命を共にするのと同義。
地位が高ければ高い程、伴う責任が増していく。アルカディアならば殊更であり、生半可な覚悟では絶対に務まらない。
ヴァラルは今、決して後には引けない選択を迫られようとしていた。
「でもな……それでも俺しか出来ないのなら」
そう言って一旦目を閉じた後、
「やるしかないだろ、もう」
目を見開き、ヴァラルは決断した。
「主様っ!」
そんな彼の承諾の言葉を聞くと、アイシスの顔が満面の笑顔を見せ、彼の隣に駆け寄った。
「ヴァラル、大好き」
リリスもまた顔をほころばせ、彼にすり寄った。
「何だ何だっ、結局やるんじゃないか! ったく、もったいぶらせやがって」
「流石ですよ、主」
口ぶりが明るくガルムは悪態をつき、セランは満足そうに目を閉じる。
「……ここまで俺のためにしてくれたんだ、今更断るのも変な話だからな」
結局、この決心を下すまでは時間の問題であった。過去の行いを整理し、己の気持ちに一区切りつけるまでの期間が案外、早かっただけのこと。
左右に陣取ったアイシスとリリスに抱きつかれながらヴァラルは言った。
「その言葉を聞けただけでも私は満足ですよ。ま、この先の事はまた改めて相談しましょう、時間も迫っている事ですし」
「俺達は先に行ってるぜ、ラル」
「また後で会いましょうね、主様」
「じゃあね」
セランとガルムが入口の方へ向かい、アイシスやリリスもほんの少し残念そうにしながら退出していった。
そして、控室にはヴァラルが一人残された。
ソファから立ち上がり、彼は窓の外を眺める。
外に広がるは晴れやかな青空に、様々な形をした雲が次々と流れている。
それを仰ぎ見て、ヴァラルは考える。
己の決断に悔いはない。四人がこれほどまで自分に手を尽くしてくれたのだ。自分もまた、彼らの期待に応えるのが筋だ。
だが、この先何をすれば良いのか判然としない。ただ何もせずアルカディアにのさばっている訳にはいかないため、一体自分に何が出来るかヴァラルは改めて考える必要があった。
そんな中、ヴァラルの中で一つの疑問が浮かんだ。
「そういえば……一体どうなったんだ」
なぜ今まで意識しなかったのだろう。アルカディアという場所があまりにも規格外すぎて、まるで気付なかった。
……いや。それ以上に、自身が思ったことについて誰も口にしなかったのが気になる。
どうして彼らは口を閉ざすのだろう。それほどまでにまずい問題でもあるのか。
視線を落とし、ビフレストにそびえるいくつもの高層建物に、ヴァラルは目を移した。
「ヴァラル様、お迎えに上がりました」
「我が主、準備の程はよろしいか」
「……ああ、大丈夫だ」
もしも、己の想像が正しかったのならそのときは――
全身が黒い鎧と兜に覆われている二人の騎士が控室の入り口に立つ。その二人に返事をして、ヴァラルは歩き出した。
そして、彼の姿は瞬く間に今日この日のために用意された荘厳な衣装へと変わっていくのだった。
玉座の間へ赴くと、そこは誰一人騒ぎ立てる者はいない厳かな雰囲気に包まれていた。ヴァラルに注がれる無数の視線。好意八割・興味二割といったそれらを浴びながら、ヴァラルは黒騎士たちが整然と並んだ赤い絨毯の上を歩き、玉座へ近づいていった。
玉座の左右にはさっきの四人がいた。左にいるガルムは白銀のマントを纏った豪奢な出で立ちであり、その隣にいるアイシスは白と金を織り交ぜた優美な礼装をしている。玉座の右にはセランが黒と金の法衣を纏い、赤と黒を合わせた艶やかな格好のリリスがいる。
彼らもまたこの式典に合わせた服を身に纏い、かなり違った雰囲気だった。
そして、そんな彼らを目に収め、黒と白を基調とした荘厳な装いのヴァラルは玉座に座った。
セランが議事を務め、式典は滞りなく進行する。アルカディアの成り立ちを交えながら、ユグドラシル・ウトガルド・ビフレストの三区画の掟や制度を説明を改めて行っていた。
その間、四人が綿密に計画していたおかげなのか、アクシデントの一つも起こらなかった。
そして、ついにその時が来る。ドワーフたちの持ちうる全ての技術を投入した王冠を持ったエドが現れ、黒髪の青年の前に差し出された。
その美しさに言葉を無くしたヴァラル。すると本能的に彼は、
「ありがとう。この国の一人一人に、そう言わせてくれ」
頭を下げ、心から感謝の礼を述べた。
アルカディアのために尽くすとのヴァラルの決意。それを聞いた彼らは静寂の後、割れんばかりの歓声と拍手が沸き起こった。
さらに、この光景を見たヴァラルは己の為すべきことを理解した。
彼らのために、かの時代を取り戻すと。
失ったものは取り戻せば良い。そう結論付け、彼は四人を穏やかな表情で眺める。
四人もまたヴァラルの言葉に感化され、静かに頭を下げた。
そして、静かになった所でアルカディアの基本的な理念である共存共栄を彼らは誓い、式典は幕を閉じる。
このときをもって、アルカディアに新たな主導者が誕生した瞬間だった。
日は沈み、空は真っ暗になりながらも、幻想的な光が灯るアルカディア。
ユグドラシルにいる彼らはフィリスの住む湖畔で静かに星を眺め、ウトガルドの住人は古代龍の秘境にて大宴会が開かれている。ビフレストでは様々なイベントが催され、どこもかしこもお祭り騒ぎの状態である。
「良い眺めですねえここは。花火が良く見える」
ビフレストの一等地に構える宮殿のような広さを持つヘスターの屋敷。
そのバルコニーにて、打ちあがる花火を満足げに眺めるセラン。腹の底から響き渡るような迫力を彼は楽しんでいた。
「でも少しうるさい」
そう言ってリリスは手元にパネルを呼び出し、手際よく何かを打ち込む。すると宙に打ちあがっていた花火は一斉に消え、静寂に満ちる夜空が広がった。
「消すことはないでしょう」
「だったら屋敷の外で見てくることね、セラン。一歩外に出ればすぐに見られるわ」
彼女は屋敷に張り巡らされた結界を部分的に起動させ、花火の光と音を遮断させたようだった。
そして、そんな二人のやり取りをヴァラルがテーブル越しに眺めていると、隣のアイシスが話しかけてきた。
「それで主様。この先はどのように過ごされるのですか?」
「お、そりゃあ確かに気になるな。教えてくれよ、ラル」
ガルムも彼女に同調し、興味津々に訊ねてくる。
「……セラン。今のアルカディアで、何か俺に出来ることはあるのか?」
「やるべき事は何もありません。しかし主が望むのならば何でも可能かと」
「何でも……?」
「そ、何でも。常識的な範囲で、だけどね」
「……嘘だと言ってくれ」
「ふふっ。残念だけど本当なの」
その常識的な範囲とやらが、アルカディアでは一体どこまでを示しているのか。これまでの三区画の訪問により、ヴァラルは無意識の内に理解してしまう。
思わずヴァラルは二度聞き返すが、その答えは変わらない。頬杖をついたリリスの悪戯っぽい微笑みに黒髪の青年は確信を得てしまい、大いに困惑した。
「それはつまり、俺にしか出来ないことは何も無いなのか?」
「主はアルカディアの象徴的存在ですからねえ。本音を言えば、ただそこにいるだけで十分なんですよ」
ヴァラルの役割は理想郷を見守り続ける事、それだけでこの世界は機能する。
実質的な運営はこれまで通り、ユグドラシル・ウトガルド・ビフレストを受け持つ自分たちが行えば良い。何か問題が起こればまずはその区画だけで対処し、それでも駄目ならば他の区画にも適宜協力を要請すれば良い。
「……ああそうだった。ここはそういう場所だったんだよな。今更ながら思い出したよ」
「何かしらのトラブルは毎日起こってるみたいだけどね」
「ただそれが、私たちの予想していたより全然小規模で」
それが取決めであったのだが、実はこの千年間、これといって大きな問題は起こっていない。
リリスとセランの、感心と呆れが半分ずつ混ざった愚痴がこぼれる。
尤も、それを可能にしているのはアルカディアの住人一人一人の倫理道徳意識が異様に高いこと。それをここにいる全員が十分に理解していた。
「ほんっと、贅沢な奴だよな。羨ましいぜ」
「何かをやりたいと言うのなら最大限協力しますよ、主」
「……分かった」
彼らの厚意が伝わる分、これを口にするのはかなり躊躇われる。
ヴァラルは気持ちを改めるようにして大きく息を吐いた。
「何かあるみたいね」
「聞かせてください、主様」
しかし、それを見たリリスとアイシスが言葉を促す。
今朝の天候のような晴れやかな安寧の日々が続くと信じて。
「その前に一つ聞かせてくれ」
ヴァラルはそう前置きした上で、
――アルカディアの外は、どうなっているんだ?
至って真面目に、四人へ問いかけた。
その彼の言葉は、彼らにとってかなり予想外のようだった。
アイシスは気まずそうに目を落とし、そわそわと足を揺らしそっぽを向くガルム。セランは目を閉じて何かを考えるそぶりを見せ、リリスは悲しげにヴァラルの顔を見つめる。
ヴァラルの疑問に四人は口を閉ざし、沈黙が下りた。