救われたもの
辺りは真っ暗で何も見えない。狭くて息がつまりそうだ。
クローゼットへ押し込まれる前にお父さんとお母さんが見せた真剣な顔。
とても、怖かった。
またこの小さな空間でじっとしていると、カタカタ小さく揺れ続け、何時まで経っても止みそうにない。
外での戦いがそんなに激しいのか、怖さのあまり自分の体が震えているのか。恐らくその両方だと思う。
でも……このままじゃだめ。いつまでもお父さんとお母さんの足手まといでいるわけにはいかない。
助けに行こう。まだ力には慣れてないけど、私だってもう戦える――!
そう意気込んだ瞬間、バタンという扉の音と共にこの部屋へ忍び寄る大勢の気配。影のようにうっすらとしながらも、ねっとりとした嫌悪感を抱かせる。
「見つけたぞ、プリンセス」
「――っ!」
あっという間に開かれるクローゼット。目的の人物を見つけた喜びか、男たちの邪悪な笑みが、呆然とする少女の瞳に映しだされた。
◆◆◆
小奇麗にまとめられたメルディナ魔法学院の学長室。
奥に構えた立派な机の周りには大小様々なパネルが宙に浮かんでおり、その一つ一つに文字やグラフがぎっしり埋まり、表示されている。
学院の予算・運営に関する資料に、外出中に行われた会議の議事録等、椅子に座りながら彼女は内容を頭に入れていく。
高速で流れる文章の波。読み終わった後は両手でパネルを次々と消し、新たなパネルを表示させる。いつもであればとっくに終わっていたはずなのだが、集中力が足りていないせいか閲覧速度がだいぶ遅い。
原因は分かっている。ラシーヌが帰り際に何気なく放った一言だ。
――この騒ぎ、もしかしてあの人が起きたんじゃないですか?
ふう、と息を吐いて目を閉じ、蘇る過去の情景。忘れたことなど一度も無い。
もし、もしも彼が本当に目覚めたのなら、その時私は何をするのだろうか。
……セランを呼び出してしまおうか? アルカディアに流れている噂の真相を含め、色々と聞きたいこともある。
彼女はゆっくりと目を開け、一枚のパネルを使って彼を呼び出そうとする。
とそのとき、
「こんにちはリリス。元気にしていましたか?」
学長室の扉が無造作に開かれ、当の本人がやってきた。
「丁度良い所に来たわね。私、貴方に訊きたいことがあったの」
耳元で直接囁かれているような、涼やかではっきりとした少女の声音。この悪魔は無自覚の内にこちらの行動を読むことがあって大変困る。そう思いながらもリリスは早速用件を切り出した。
「どうせ例の件でしょう? 程々にしておきなさい。ラシーヌに当たらないように」
「あら、会ったの?」
「ええ」
「そう。彼女も気の毒ね」
軽く肩を竦め、机の周りのパネルを一斉に消すリリス。
「なら話は早い。噂に尾ひれがつく前、その元となった話に心当たりはない?」
「そんなことよりもリリス、一つ私から頼みごとを引き受けてくれませんかねえ」
「……ちょっと、今私が話してるんだけど」
自身の疑問をそんなことと一蹴され、話が噛み合わない。リリスが睨みつけるが、セランはまるで意に介さず話を続ける。
「私の知り合いがちょっとした悩みを抱えていましてねえ、相談に乗って欲しいのですよ」
「相談……私に?」
リリスの表情が曇る。
「……どういう風の吹き回し? 悩み相談なんて貴方らしくもない。他にたくさん当てがあるでしょう」
「貴方が一番適任だからですよ。でなければこんなこと、わざわざ言うはずがない」
「相変わらず、人の話を全然聞かないのね」
彼との会話は疲れる。いつもこうして自分の用件を優先し、こちらのことなど全く気にする様子が無い。
リリスは大きくため息をつき、機能的な回転椅子から立ち上がる。そして、豪奢な机を間に挟む形で彼女はセランに詰め寄った。
「いい加減にして。まず私からの質問に答えてから――」
「おいセラン。今思ったんだが、どうして俺が外で待つ必要があるんだ」
「――っ」
その時、扉から現れた男にリリスは言葉を無くした。
顔立ちは整っていながらも、無愛想な表情のせいで覆い隠され、平凡な印象を受ける黒髪の青年。雰囲気が少し変化したが、その青年はかつて見た姿と全く同じ。見間違いなどありはしない。
一方ヴァラルもまた、セランの隣にいる彼女を見て黙り込む。
雪のように白い肌、穢れを知らない少女のような外見でありながらも、その体つきはアイシスと同じ艶やかな大人のもの。
吸血鬼の真祖、リリス・ハイデルリンク。
二つに分けた白金色の長髪が微かに揺れ、ヴァラルを見た瞬間、彼女の紅い瞳が大きく見開かれた。
「……で、彼の相談には乗ってくれるのですか?」
ニヤニヤと笑みを浮かべたセランの言葉など、全く耳に入らないリリスだった。
◆◆◆
「これは凄い」
「流石は真祖、この状態でまだ息があるとは」
空は世界の終わりを予感させるかのように真っ赤に染まり、地面にはどす黒い血が大量に流れている。
仄暗い外套をまとった男たちが倒れ伏す血まみれの男を興味深く見下ろし、口々に驚きをあらわにする。
「良いのか? こやつを使い潰しても」
「問題ない。目的は既に達している」
「この者によって、我らの同志も大勢命を落とした。手向けにもなろうて」
男の一人が少女とその母親である女に目を向ける。父親の無残な姿に泣き叫ぶ少女は取り押さえられ、母親は手足を拘束され、顔を強引に瀕死の男へ向けられていた。
「プリンセスと女は、我らの実験の礎となる」
「光栄に思うが良い」
「……どうして」
こらえるようにして吐き出される少女の言葉。怒りと悲しみが混じったか細い声に、他の男たちは一斉に振り向いた。
「どうして、こんな酷いことするの……!」
「リリス! やめなさいっ!」
母親の制止を聞かずに、少女は思いの丈をぶつける。
「私たち、何もしてない!誰にも迷惑なんてかけてない!」
「迷惑とは、これ如何に」
「汝らの存在そのものが既に異質。故に、大いに価値あり」
「これこそ我らが生き延びる唯一の道。その運命、受け入れるのだ」
ぺろりと舌なめずりをして、男は仲間たちに目配せをする。父親を殺し、この場から速やかに撤収するとの非情なる命令。
「い、いや……」
ゆっくりと振り上げられる男の右腕、その手刀は父親の頭上目掛け、今にも降りかかろうとしていた。
「やめ、て……」
どうしてこんなことになったのか。一体何が悪かったのか。少女と母親の顔が見る見るうちに青ざめる。
「お願い、誰か……誰か助けて――――ッ!」
少女の悲痛な叫びが森の中に響き渡る。しかし辺りからは何の反応も無い。
それはそうだ、ここは真祖たちが隠れ住まう場所。人払いの結界が施されており、見つけ出すために相当の労力を要していた。
……そもそも、
この大災厄の中で、他者を気にする余裕など誰にもありはしない。
振りかざされるとどめの一撃、捕えられた彼女たちに止める術は一切無い。無慈悲なる凶刃が、彼女たちにとってかけがえのない男の命を奪おうとして――
ドサリと、唖然とした顔つきの仲間の遺体が彼らの前に落ちてきた。
「……何奴」
低い声で背後を振り向く男たち。するとそこには、
空虚で物憂げな雰囲気を持つ黒髪の青年が、彼らの前に現れていた。
血に濡れた黒髪の男の手から光が迸り、溢れ出す光の粒子によって木の陰に横たわる男の傷を癒していく。
襲撃者達と繰り広げられた、苛烈で悲壮に満ちた死闘。まるで命を投げ捨てるかのような戦いによって襲撃者の大半を葬り去った後、息つく間もなく青年はこうして治療を施している。
これで大丈夫だと、父親を見守っていた少女とその母親に青年は告げる。彼にひとしきり黒髪の青年に母親が礼を述べる中、少女は黙って彼を眺めていた。
命を奪おうと相対する者は容赦なく、傷つき倒れた者は手を差し伸べる。その本人の顔はいつも晴れず、どこか物悲しげな表情を見せるだけ。
聖者の行動としてはあまりに不自然。何がそこまで駆り立てているのか、少女には分からなかった。
青年は森の一点を差し、あの方角に進むことでまだ安全な土地が残っていると伝える。そして、全身にまみれた返り血を拭おうともせず、三人の前から立ち去ろうとしていた。
「まっ、待ってっ!」
淡い金の髪を持つ少女は、慌てて黒髪の青年を呼び止める。
しかし、こうして家族が無事でいられるのは彼がいたから。どんなに薄汚れた格好でも、その姿はとても崇高なものとして少女の胸を強く打った。
「名前……名前を教えて!」
他にもっと言うべきことがあるはずなのだが、咄嗟に少女は問う。
「私、絶対に忘れないからっ!」
彼との繋がり、いつか再び彼と出会う唯一の手がかりを求めて。
……ヴァラル。
今その名を思いついたように短く口にする青年。そしてほんの一瞬少女の方へ向いた後、静かに歩き出していく。
少女は青年が見えなくなるまで立ちつくし、彼の名前を深く心に刻み付けるのだった。
◆◆◆
「そう、貴方だったの……」
来客用に設けられた学長室にあるソファーに座りながら、リリスはヴァラルと対面する。
無言の圧力をかけて邪魔者を追い払い、かつての少女と黒髪の青年は二人きりとなった。
アルカディアで流れる謎の噂の正体や、セランの知り合いとはヴァラルの事。
思わぬ形でヴァラルと再会したリリスは、どこか納得した落ち着いた口ぶりだった。
「こんにちはヴァラル。久しぶり、私の事覚えてる?」
「……実を言えば、今思い出したばかりだ」
「そうだったの? ……って、大分昔になるものね、仕方ないかも」
最悪忘れられていたらどうしようと思っていたが、とりあえず彼の記憶の片隅には残っていたらしく、リリスはほっと一安心した。
「リリス、お前の両親はどうしてるんだ……?」
「気になるの?」
「……感動の再会を望むわけじゃないが、気になるものは気になる」
苦々しく心中を吐露するヴァラル。セランはきっと、リリスと自分が以前出会っていたことを理解した上でこのような性質の悪すぎる悪戯を仕組んだのだ。
「本当、お互いに大変な目にあったものね」
あの悪魔にほとほとしてやられていたのは、自分だけではなく彼も同じ。
「安心して。お父様もお母様もここにいる、とっても元気よ」
「そうかっ、それは良かったな」
「そこまで驚かなくても、私は毎日会ってるんだけど……」
「……そういえばそうだな」
「あっ……ごめんなさい。今のは気にしないで、考えが足りなかった」
感情の起伏に乏しい、ヴァラルの冷静な声音が急に弾むのを見てリリスは戸惑う。が、彼の異様な喜び様について彼女は直ぐに理解し、訂正した。
ヴァラルからすると自分たちの安否を今知ったばかり。ここに至るまでの経緯を何一つ知らなかったのだ。
「ヴァラルはいつ起きたの?」
「三日前。毎日が驚きっぱなしで、かなり参ってる所だ……」
ばつが悪そうにして、リリスから視線を逸らすヴァラル。
「それで私の所に来たわけね……」
その様子を見て、セランが彼をここへ寄越した理由がリリスには何となくわかった気がした。
「まだ実感が薄いの? 皆が貴方に感謝しているけれど、自覚は無い。世界を救ったという認識は無くて、あくまでも別。ただの償いだと」
「……セランと似たようなことを言うんだな」
「考え方が彼と似ているのは否定しない。多分、これが私の性格だから」
ぴしゃりとリリスが突っ込みを入れる。
「ヴァラルの事はアイシスやガルムからも聞いてる。だからこそ、貴方のその考えは決して贅沢な悩みだと思わない」
「……」
ヴァラルは黙ったまま、リリスの話を聞き入れている。
彼の背負う深い業。それについて生半可な覚悟で話題に出すべきものではないこと位、彼女はよく分かっている。
「ねえヴァラル。どうして助けてくれたの?」
しかし、リリスはあえて踏み込んだ。
「貴方からすれば、私達は何の関係も無い赤の他人。わざわざあんなことをする必要も無かったはずよ」
それが、彼の苦悩を取り除くための唯一の道だと信じて。
曇りの無いリリスの真紅の眼が、ヴァラルをしっかり見据える。
すると彼女の真摯な気持ちに感化されたのか、
「そんなはっきりとした理由じゃない……ただ嫌だった。これ以上、誰かが傷つくのが」
ヴァラルの口から、あの頃の想いが零れ落ちた。