届けられた論文
「……もう一回、言ってくれないかな?」
フィオナの落ち込んだような朝の第一声。
それは、日常茶飯事となっていた長身の青年に対しての明るい朝の挨拶などではなく、同級生からの一言によって彼女の気分は急転直下で変化する。
「だからさあ、ヴァラルからの言伝だ。フィオナ嬢」
「今日から活動、休ませてもらうってさ」
クライヴとロベルタは彼女の表情の変化に驚きながら、昨夜のうちに冒険者の彼が自分たちに伝言を頼んできた内容を、一字一句そのまま伝える。
「何で?昨日まではそんなこと、全然言って無かったのに……」
「俺達に分かるもんか。ただ、やることができた~て言って、どっか行っちまったからなあ」
「真夜中に尋ねてくるのも問題だけど」
朝食を食べるために集まった、学生たちで賑わう大広間。
クライヴとロベルタの二人は立ち上がり、目を皿にして辺りを見回す。
がやがやと喧騒が止まない中、ミドル、ハイと視線を動かしていく。
「……もう食べ終わったのか?兄弟は」
「分からない。ただ、ここにいないことだけは確かなようだ」
しかし、いくら探しても彼の姿は見受けられなかった。
「授業もサボる気なのか……って、今更気にする必要なかったな」
二人の青年はやれやれと、元いた位置に座る。
ハイクラスの講義はミドルの授業形態とは異なり、必ずしも出席しなければならない、ということはない。元々ハイクラスに進学すること自体、ミドルからすれば結構稀なことで、各々の目指す目標は異なってくる。
それがクライヴやロベルタのようなしょうもない理由の者もいれば、フィオナのように研究に明け暮れたりする者もいる。
「この時期にねえ……よくやるよ」
また、ハイクラスはミドルよりも規則が緩やかだ。
授業に出席するも自由であり、ハイの生徒一人一人に独特の裁量権が持たされている。
そんなわけで、サボるのも無論結構である。
その分、学期末の試験で泣きを見ることになるが、ヴァラルの場合は冒険者。
傍若無人な彼にとって、試験という学生特有の悩みなぞ露も気にしないだろうし、態度は悪いものの、ハイクラスの授業も問題なくこなしている。
「冒険者ってのも将来の選択肢として良いかもねえ。俺たちのように勉強にあくせくすることなく、自由気ままでいられるんだから」
彼の自由奔放さを羨ましそうに語り、クライヴは香ばしい焼きたてのパンに果物のジャムを大量に塗り付け、ぱくりと口の中に放り込んだ。
「おいおい相棒、やっこさんを俺達と一緒にするなよ。自由の代価にはそれなりの責任が付いて回るんだ」
「んむんむ――ぷはっ!……なんだって?」
「冒険者の鉄則として、生きるのも死ぬのも自己責任。登録するのに高い金払って、食い扶持も住居も自分で探さなくちゃいけないし、緊急時にはギルドの招集にも応じなきゃいけない。今すぐやれと言われて、できるか?そんなこと」
「あ~えと~……それは確かに面倒だ」
コーンシリアルをバリボリと頬張るロベルタの言葉に、クライヴの反応が鈍る。
トレマルク、ライレン、バルヘリオン、アルン。
この四か国中、一番住み心地の良い国はどこかと問われれば、十中八九ライレンと答えるだろう。
魔法技術を高く評価され、他国にも繁栄をもたらす産業立国として位置づけられているライレン。
治安は安定し、教育水準も高い。
突発的な魔物の発生を差し引いても、これ以上ない平和な国だった。
「ヴァラルは別。あれは例外中の例外、ってことを忘れかけてるぞクライヴ。俺たちはこうして頭を働かせて、試験に悩んでいる方が性に合っているんだよ」
薬草や魔法薬の知識豊富で、繊細な作業をとことん要求されるポーション調合を難なくこなす冒険者。
ああいうのは本当にごく一部、トップレベルの連中だけであるとロベルタは念を押す。
「ああそうでしたそうでした……なら、俺たちは魔法の力に感謝してせっせと学業に励むしかないようだな」
色黒の顔のロベルタを正面に見据え、諦め調子でクライヴは残りの朝食にありついた。
そんな中、フィオナは肩を落とすようにして下を向いたままで、朝食には一切手を付けていない。
ふんわりとしたパンの香りも、大粒の果肉が入ったジャムも、新鮮なジュースも彼女の食欲をそそることはなかった。
「……時にフィオナ嬢。研究会の方はどうだい?」
「そうそう忘れてた!魔法薬研究会はレスレックの誇る由緒正しい研究会だからな、内容も当然、凄いものなんだろう?」
噂によると、ポーションに代わる新しい魔法薬を作っているとかなんとか。
そんな大層なものが世に出れば、益々レスレック魔法学院の、魔法薬研究会の名声が高まるだろう。
彼女の様子が少し変だったため、目を互いに合わせた後、つとめて明るくロベルタとクライヴが訊ねる。
「う、ううん。そんな大したものじゃないよ」
だって完成してないし。
残りは十日ほどで、何から手を付けていいのかわからない。
さらにはヴァラルまでいなくなる始末。
フィオナは二人に愛想笑いを浮かべ、心の中で冷静に返事をした。
「またまた謙遜して。俺はとてもそうは思えないな、だろう?ロベルタ」
「当たり前だ。俺達なんて、いつの間にか子供向けの玩具作る羽目になったんだぞ……それに比べたら、本当にやってることが大人だよ」
“そんなこと、ないよ……”
ロベルタが自分たちの研究会を自虐し、魔法薬研究会のやっていることにつくづく感心する。
が、今のフィオナにとってはそれが何よりも心に来た。
「うん?どうした?」
「体調でも悪いのか?」
「ごめん、本当に何でもないから……伝言、わざわざありがとう。先に失礼するね」
全く手を付けていない皿を片付け終えた彼女は、研究会があるからとそのままパタパタと駆け出していった。
「思いっきり何でもありそうだったな」
「クライヴ……お前、なんか変なこと言っただろう」
「そりゃお前の方じゃないのか?……はあ、それにしてもフィオナ嬢も欠席か。俺もサボろうかな」
「相棒。忠告しておくが、そろそろ卒業自体が危ないことに気づけ」
レスレックのアイドルがいなくなった途端、声のトーンが一つ下がった大広間にクライヴとロベルタのやりとりが空しく宙をさまよった。
◆◆◆
「はぁ……」
今日になって何度目になるかわからない溜め息が、せいぜい四人くらいしか入らない小狭い特別研究室に漏れる。
外を眺めれば木枯らしが吹き荒れ、その中を学生たちが寒そうに肩を震わせて教室へ移動している。
窓越しに手をかけた後、彼女は踵を返し、気落ちしたように準備を始めた。
「やっぱり痛い子だとか、馬鹿な子だと思われたのかな……」
独特の形状をした透明な容器を、ひんやりと冷たい作業机の上に置く。
フィオナは、周囲の人間から大人だと、持てはやされてきた。
年齢や外見、誰にでも優しく接するその態度からなのか、自身に想いを伝えてくる学生たちは皆、口々に優しい所や大人びた姿を誉めてくる。
「そんなことないのに……」
が、フィオナは己のことを理解していた。
誰よりも諦めが悪く、上手くいかないなら子供のようにふてくされ、むきになる所を嫌というほど。
羨望の眼差しを向けられても困る。
どうしたら良いかわからないし、幻滅されることは間違いない。
フィオナは彼らの告白を断るしかなかった。
ふと何かの気配がして、材料棚から入口の方を振り返る。
「……気にしすぎ」
けれど勘違いだったのか、そこには誰もいない。
彼が来たと思ったのか、フィオナはさらに落ち込んだ。
カミラやヴァラルがいない中、フィオナ一人での作業は続く。
が、思うように進まない。
分量の図り間違え、調合手順のミス。
カミラがいなくなった直後の、絶対に考えられないような失敗の連続がフィオナの調子を崩す。
「一人って嫌だな……」
容体も知らずに実験に付き合わせ、カミラを辛い目に合わせてしまった。
フィオナのせいではないと言われたものの、一番近くにいたのに全く気づくことが出来なかった不甲斐なさに、彼女の心に今も尚、重石のようにのしかかる。
「私のせい、だよね」
そして、ヴァラル。
自分のわがままに付き合わせた挙句、離れていってしまった。
……彼はどこまでも、他の人と違っていた。
異性だから、冒険者だからという点もあるだろうが、ヴァラルはリヴィアと同様に、決してフィオナを特別視することはなく、誰に対しても同じような態度をとった。
魔法薬研究会に入ってからも彼は姿勢を崩すことはなかった。
フィオナに対し過度な期待をすることなく、無遠慮に文句や小言を言いつつも、なんだかんだで付き合ってくれていた。
そして、何か月もの月日が経つことにより、彼の個性というものを深く知り、フィオナは逆に親しみ以上の感情を徐々に募らせることとなった。
――自身の我が儘に付き合いつつ、包容力のある異性を感じさせない男
それが追い求める男性像であることを理解したとき、何とも面倒な性格だなとフィオナは思った。
「ヴァラルの……馬鹿」
彼が離れたのも、自分のせいであることは十分に理解している。
が、フィオナはそれでもやりきれない思いを抱く。
精一杯、彼に対して背伸びをしてきたつもりだった呼び名をうっかり言い間違えたが、フィオナは今更訂正する気も起きずにいる。
窓の外では、段々と冬景色に移りつつあった。
一週間経った今でも、ヴァラルは魔法薬研究会に顔を出すことはなかった。
マチルダの指定した期限まで、あと三日もない。
「……あれ?」
日が照る時間がゆっくりと確実に減り、夜といっても問題ない位、薄暗くなった夕方のイシュテリア寮。
フィオナが一旦休息を取ろうと女子寮の自室に戻った際、分厚い資料のような何かが置かれているのを見つけた。
差出人は不明。
宛名はフィオナ・スノウとなっている。
誰だろうと思いながら、彼女は包みを剥がし中身を確認する。
「――――えっ」
こぼれるような呟きの後、彼女は言葉を失った。
◆◆◆
「……よし」
ここ最近、ずっと通い詰めることですっかりお馴染みとなった特別研究室。
実験用の作業机の上にはいくつもの奇怪な実験器具が――ということはなく、ライレンの魔法道具屋ならばどこでもあるようなガラス瓶や、比較的安価で買うことができる数種類の魔法薬の材料が並んでいる。
また、その中にはネイルから分けてもらった『月光草』と呼ばれる野草が新たに加わっており、それを
一瞥した後、彼女は気合の掛け声をかけて調合を開始した。
フィオナの下に送られた分厚い紙の束。その中身は大きく三つの題に分かれた数百枚にも及ぶ論文だった。
そのうちの二つは、つい最近ネイルが授業で紹介した『月光草』に関する詳細な記述。
第一章は『月光草の特性』と題されたもので、第二章は『月光草の栽培方法』というもの。
『月光草』
月明かりの光を浴びて魔力を宿すそれは、『調合に用いる薬草の効力を限界まで高める』と記されていたそれは、常識では考えられない効力を持つものだった。
薬草の効力を高めるためには単一の材料での濃縮や還元作業が必須といえる。魔法薬で例えると『再結晶化』という作業が代表的だが、この月光草はそんな面倒な手順を踏まずとも抽出したエキスを用いるだけで良い。
書かれている内容が突飛すぎて見間違いかと思った。
しかもレスレック城という片隅で見つかるなど信じられない。
けれども薬草学の専門家であるネイルがそれを見た瞬間、あまりの完成度の高さゆえに目の色を大きく変えていたことから、その可能性はすぐに否定されてしまった。
彼が驚いたのはそれだけではない。
新種の野草を発見した際、それがどの国で発見された場合でも一度は必ずライレンの研究所に通される。
そこで綿密に野草の効力を調べていくのだが、かかる時間はおおよそ見積もって数か月程。有力な効果があると見込まれれば、数年がかりで分析が継続される。
ネイルが月光草を見つけたのはつい最近のことだ。
言い換えれば、このレポートが存在すること自体ありえないことだとフィオナに語りかけた。
一方、彼女はそのときのネイルの言葉を苛立たしげに、急かすようにして聞いていた。
そんなことはいいから、早く月光草を分けてくれないかと。
フィオナにとって何よりも衝撃的だったのが、第三章。
『月光草を用いた魔法薬の調合』
月光草を用いることで、調合の常識を根本から覆す新たな魔法薬。
書かれていた材料の配分や調合方法から、フィオナが以前カミラと共に発見したポーション系統の魔法薬であることは間違いない。
はやる気持ちを抑え、彼女は調合に取り掛かる。
杖を用いた簡単な魔力操作と数種類の薬草をすり潰し、手順通りに事を進めるだけ。
誰でも簡単に行える作業だ。
しかし、何の苦も無く作業を行うはずが時折手先が震えるフィオナ。
フィオナが読むことを想定したかのような、簡潔で無駄のない文章。それを見ただけで、彼女はこの魔法薬が何を指しているのかを理解していたのだ。
そして、あっという間に最終段階の調合。
採取した月光草のエキスをガラス小瓶の中に数滴たらすと、
「出来た……」
清流を流れる水のように透き通った、紅紫色の魔法薬が完成するのだった。
“素晴らしい!”
マチルダの喜びの声が今でも蘇る。
かの魔法薬が完成した後、フィオナはすぐさまマチルダの下に向かい、論文に書かれていた魔法薬、そして月光草の効力の検証作業をネイルと共に行った。
マチルダ・アディンセルとネイル・ベジム。
レスレックの教授たちが限られた時間の中で、様々な角度から照らし合わせた検証作業の結果、現段階において全く不備が見当たらないことが分かった。
それが分かった瞬間、フィオナが完成させるのを信じていてくれたのか、マチルダはすぐに知り合いの研究者に連絡を取り、詳細な分析を行うよう手はずを整えはじめるのだった。
フィオナは長年の夢を叶えた。
若干二十歳そこそこにして調合士として名を馳せることとなる彼女は、ネイルやマチルダを始めとした、様々な人たちが彼女のことを称えるだろう。
――ポーションに代わる、新たな魔法薬の開発者として
……ふと気になることが、フィオナの意識の片隅に疑問を投げかける。
“……誰が書いたの?”
フィオナは当初、この調合方法を自身の成果とは思わなかった。
基になった調合方法は、フィオナが以前発見したものだ。とはいえ、月光草を用いた方法など彼女は全く知らない。
そんな義理堅い、と言うよりも、頑固な彼女の意志を見抜いていたように、最後のページに書かれていた一文が彼女を後押しした。
――ここに書かれてある全ての情報を、フィオナ・スノウに託す
彼女のことを信頼していると思われる一文が添えられていたと思ったら、いつの間にかその部分だけ消え去っていたのだった。
“……どうして、彼の名前が無かったの?”
確かに、今の魔法薬研究会はフィオナだけだ。
ただしそれを知っているのは、ほんの一部の人達だけ。
違和感はさらに増し、水面の波紋のように広がっていく。
“……どうして皆、気が付かないの?”
論文を読みふけっている最中、差出人の正体について誰も考えることはしなかった。
マチルダとネイル。この二人が論文を読み終えた後、暗示にかけられたようにフィオナを称賛するばかりで、フィオナもまた、本当に自ら書き記したかのような気持ちに囚われた。
“変だよ、絶対に”
ふわふわと幸せな気持ちに浸っていたが、何かを振り払うようにしてフィオナは夢から覚めた。
そのまま彼女はベッドを飛び出し、自然と足が動いた。
イシュテリアの男子寮へ。
「ねえ、いる?」
早朝の誰もいないイシュテリアの男子寮。
そろそろ一枚多めに着込んでも良い、肌寒く感じるようになってきた季節の変わり目。
ヴァラルの部屋の前に、コン、コン、とフィオナは軽くノックをする。
あの論文におかしな点がいくつもあった。
差出人が正体不明。発見されて間もない月光草の特性や栽培方法等の解説、魔法薬研究会の事情を事細かに把握している事等、数え上げるだけでもきりがない。
「……いないのかな?」
――ヴァラル
これらの所業を為し得る人物が一人だけいる。
方法はさっぱりわからない。
しかし、そんなことはどうでも良い。
杖を手元に引き寄せ、部屋のドアノブの前に向ける。
もし、もしも彼が人知れず助けてくれていたのなら――
「おい、人の部屋の前で何やってんだ」
「ひゃっ!?」
不意に後ろから声をかけられる。
一週間以上も聞いてない、不躾で遠慮がない頼もしい声色。
フィオナが後ろを振り向くと、ふてくされたようなヴァラルの姿があった。
◆◆◆
「ここは男子寮だぞ。それなのに監督生が何してるんだ」
「……その前に、言うことがあるんじゃない。今まで何してたの?」
彼と出会ったことで、わきあがる気持ちを無理やり抑えつけ、とりあえず表面上は不満げにヴァラルを追及するフィオナ。
因みに、校則では男子生徒が女子寮に入ることは許されないが、女子生徒が男子寮に入ることが許されていることは承知済みだった。
「……研究会のことは悪かった。オーランドの手伝いに出かけてたんだ」
「ふ~ん。リヴィアさんにも何も言わないで行くんだから、さぞや大切な用事だったんだね。彼女にもいろいろ言われたよ」
「その疑わしげな目は何だ。本当のことだぞ」
ヴァラルの言ったことは勿論違う。
これまでの間、ヴァラルはアーガルタにこもってアイリスとイリス、二人の仲間と共に論文を書き上げたばかりであった。
さらにオーランドは事情を説明済みで、彼がアリバイの証人という名の盾になってくれる。
“むぅ、中々尻尾を出さないなあ……”
フィオナに疑わしげな目線を向けられたヴァラルは不審に思い、いったん話を切り替えた。
「にしても、その恰好はここではまずいぞ」
「……それくらい早く言いたいことがあったんだよ」
フィオナの姿は、白く肌触りが良さそうな薄手のパジャマ。
スタイルの良い、年の割にやや小柄な彼女の見慣れない姿は、寝ぼけ眼の男子生徒達が見たら卒倒するくらい目の毒だった。
「校則を破って、こんな朝早くにわざわざ言いたいことか……何だよ」
内容は既に把握していた。
大方、例の魔法薬が完成したとの報告だろう。
論文を書き上げつつ、アイリスとイリスが最後まで実験を行っていたので実証性は確かである。
「破ってません、ちゃんと校則をよく読むように……それよりもね」
――あの論文書いたの、あなたでしょう?
「……何?」
一瞬、ヴァラルは戸惑った。
“なんでフィオナには効いてない……”
フィオナの部屋に置いた論文にはヴァラルを意識しないよう、フィオナが作者であるとの暗示がかけられていた。
それは本人にも有効で、フィオナが目を通しただけでふさわしい知識を、無意識のうちに得る。
普通だったらヴァラルのことなど考えもしない、完璧な手筈であった。
「っ!やっぱり!」
その動きを彼女は見逃さない。
フィオナは事情を説明するよう一気に詰め寄った。
「……何のことだ」
しまったと舌打ちしたくなった。
“勘づかれたか?……いや、まだだ”
まだ何とかなるはずだ。
打ち切るようにしてヴァラルは自身の部屋に転がり込もうとした。
「ねえっ、本当なんだよねっ!?」
言葉は伝わらない。
彼は最初から嫌ってなどいなかった。
己の我が儘を受け入れ、その知識によって願いをかなえてくれた。
「急にいなくなったのも、全部私のためなんだよね!?」
核心をついたフィオナにヴァラルの声は届かない。
「騒ぎすぎだ、フィオナ……少し落ち着け」
こんな朝から大声を出されてはかなりの問題がある。
なだめるようにして、声のトーンを抑える。
しかし、こんな時に限ってヴァラルの誤算は続く。
その大声を聞きつけ、何事だと他の男子生徒の扉が開きだしたのだ。
「……くそっ」
「きゃっ!」
その時、ヴァラルは即座にフィオナの手を握り、素早く自らの部屋へ入れた。
「声を出すなよ」
「……」
フィオナは無言だった。
というのも、彼女はそれどころではなかった。
――フィオナは鼻が利く
調合士ということもあるのか、魔法薬の嗅ぎ分けを日常的に行うことで、品質の優れた材料を選びだすための特技を彼女は持っている。
そして、ヴァラルと密着することでわかってしまった。
――彼の体からほんの微かに、先程までフィオナが調合していた魔法薬の香りがする。
あの論文の作成者は、
――彼だ
すぐ傍にいる、ヴァラルを見上げる。
扉越しに外の様子を伺っているようで、フィオナを意識していない。
彼の顔がいつもと違って見える。
トクントクンと、早鐘を打つように鼓動が高鳴る。
様々な思いが彼女の中を駆け巡り、今にも溢れ出しそうだった。
“――っ!”
彼の腕に抱きとめられることで、熱に当てられたかのように体が温かくなるのを感じる。
フィオナは今、自分がどんな表情をしているのか、分からなくなっていた。